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『生殖する人間の哲学』

 
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中 真生 著
『生殖する人間の哲学 「母性」と血縁を問い直す』

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序文
 
 私が中学生の頃だっただろうか、母親が、子育てに夢中で、自分のやりたいことを中断してしまったことが悔やまれるともらしたことがある。もしあのとき手放していなかったら、今頃はもう少し……というようなことも。否定的なこと、後悔のような言葉は一切言わない母だっただけに、軽い衝撃を受けたのを覚えている。そんなに大事なものを犠牲にしてしまったのか、自分のことのように悔しいな、もったいないなとも思った。自分もその子育ての渦中に巻き込まれるという実感はそのときは少しもなく。
 大きくなってから別の人に、今度は、子育ての一番大事なとき、子どもが一番親を必要としているときに子どもに十分にかかわってやれず、放ったらかしにしてしまった。今になっていくらかかわろうとしても取り返せないという後悔を聞いた。今からでももう一度味わいながらやり直したいくらいだとも。その人は教師をしていて、その時代は産後四週間しか産休がなく、子どもに母乳をあげたくて母親にタクシーで通ってもらったけれど、あげる回数が十分でなかったのか、途中で母乳が出なくなってしまったとも嘆く。
 子どもの存在、そして子育ては、自分の人生を曲げ、ときに壊してしまうほどの負担にもなれば、自分を変え、生きる理由を与えてくれる生きがいにもなりうる。おそらくその両方であって、その配分は人それぞれで、程度の差はあれ、皆このふたつのあいだで揺れ動いているのだろう。
 私自身も振り返ってみれば、その両面の想いをもっている。子どもがいながら、サポートしてくれる人が家や近くにいて、自分の仕事にも十分に力を注げる人がうらやましいとか、いらいらすることも、怒鳴りつけることもなく、気持ちに余裕をもって子どもに接することができればいいのにと思ったことは数え切れないが、同時に、夫が単身赴任で週日は家にいないからこそ、アンテナがすべて子どもに向いて、子どもたちとじかに、濃くつながることができている、これは他に代えがたいという感じも秘かにしていた。現に、夫がいる週末などは、体力と気力を取り戻すつかの間の休息になっている反面、子どもとのつながりがどこか緩み、じかにつながっている感覚が多少鈍くなるようにも感じている。一方、週日いない分、週末や休みの日に子どもたちを外に連れ出すのはもっぱら夫の役割だった。子どもが増えるにつれ、私もついていくことが多くなったが、私ひとりで子どもたちを連れ出すことは、夫が例外的にいないときに限られていた。その分、送り迎えを除く外出先での苦労は、自分はほとんどしていないから、振り返ると、何かその部分の(苦労と切り離せない)味わいを逸してしまったのではと感じている面も、正直なところある。ぜいたくで矛盾した気持ちで、すべてを十分に味わうことはできないと、理屈では分かるのだけれど。じっさい、自分のことを振り返ると、母親と遠出はしなかったけれど、電車に乗って用事について行ったり、病院に付き添ってもらったりというちょっとした、でも体に染み込んだ外出先での記憶がけっこうある。
 部分的にでもそうなのだから、仕事や、自分のそのときの意識で、十分に、あるいはほとんど子育ての核心部分にかかわることなく過ぎてしまった人が後悔するときの(しないで済む人もいるだろうけれど)想いはどれほどだろうと思う。定年退職して、そうした後悔の念から孫育てに積極的にかかわろうとする人も多いという。逆に、あとで見るリッチのように、赤ちゃんはかわいいけれど、もう二度とあの時代に戻りたくないと拒否反応を覚えるほど、また、もっと味わいたかったという多少美化された郷愁の余地さえないほど子育ての苦労を一身に引き受け、喜びもあるが、十分すぎるほど苦しんだ人もいる。それどころか、本書の補章で見るように、「この子さえいなければ」と思い詰め、子どもの存在を疎み、ときに子どもを手放し、あるいは害してしまう環境や心境にある人たちもいる。「この子さえいなければ」という想いと、「この子さえいてくれれば」という想いは、真逆のようでじつは紙一重でもある。ひとりの人が短期間に、ときには同時に両方の気持ちをもつことも稀ではない。2章で見るように、たとえば妊娠の喜びが、パートナーの拒絶にあって、一瞬で疎ましさや重荷に変わることもあれば、その逆もある。子育て中に、パートナーと離婚や別居をしたり、失業したり、新しい恋人ができるといった環境の変化で、子どもへの想いや接し方に急激な変化が起こることもあるだろう。
 
 子どもを産んだり(生んだり)育てたりすることは負担にも喜びにもなり、その両方でもあるのだとすれば、本当は、「親」と呼びうるだれもが十分に子どもにかかわり、負担が過ぎるとき、辛いときは自由にそのかかわりから、部分的であれ全面的にであれ、あるいは一時的にであれ長期的にであれ、身を退くことができるようになるのが理想である。母親でも父親でも、そのほかの「親」でも。どの程度子どもとかかわるか、その意味で、どの程度「親」であるかは、本来流動的なはずである。一日のうちでも、時期や状況によっても。のちに見るように、その流動性は、そもそも親になるかならないか(産むか産まないか、生むか生まないか)、どのようなかたちで「親」になるかならないか(養親や里親その他も含め)にも及びうると本書は考えている。
 それでは、流動的であるはずの子どもとのかかわり、言いかえれば「親」のあり方を固定してしまうものは何だろうか。社会経済的な要因はもちろん大きいだろうが、本書がとくに注目するのは、「母性」という見方あるいはイメージであり、またそれと連動した、母親と父親のあいだに、また生みの親と育ての親のあいだに、はっきり境界線を引いて見る見方である。では、その「母性」の核にあるもの、あるいは母親と父親、生みの親と育ての親のあいだに決定的な境界線を引くその根拠となるものは何なのだろうか。それを、母親が「産むこと」、「産んだこと」であると本書は考える。子どもを「産んだ」という事実は一見すると、その後の、育児を含めた子どもとの関係を考える上で決定的な、動かしがたい出来事のように思われる。ときに神聖な、すべての原点であるかのように。しかし本当にそうだろうか。この疑問が本書を貫いている。「母性」の核、広い意味での「生殖」の核を、産むことからほかへと移して考えることが可能なのではないか。具体的には、育てることとそれを通じた子どもとの結びつきへと、「生殖」の核を移して考えることが可能であり、また必要なのではないか。そう考えることで何が変わりうるのだろうか。産んだ親と産んでいない親とのあいだの差異が決定的なものではなくなるだろう。それはひとつには、母親と父親のあいだの差異である。そしてもうひとつには、産んだ親に加え生物学的親である生みの親たちと、産んだ親でも生物学的親でもない育ての親たちのあいだの差異である。もちろん多様な差異は残るが、どこかにはっきりした境界線を引けるような差異ではなく、グラデーション様の、濃淡の差があるのみとなるだろう。
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 ここで、言葉の使い方についてあらかじめ断らせていただきたい。本書では、「生む」という言葉と「産む」という言葉を便宜的に使い分けている。後者の「産む」を、出産するという意味に、前者の「生む」を、生物学的につながりのあるという意味で、自分の子どもをもつこととして用いている。これに従えば、いわゆる母親は、産みもし、生みもする。一方、いわゆる父親は、産まないが、生む、のだと言える。養親や里親、場合によってはその他のもっとも近しい実質の養育者は、産んでも生んでもいないが、自分の子どもを「もち」、育てているのだと言える。
 そして本書は、「生殖」という言葉を、広義にまた独自の仕方で用いていることも重ねて断っておきたい。具体的な現象あるいは経験としては、妊娠や出産はもちろん、不妊や避妊、流産・死産、中絶、養育、親子関係などを広く念頭におき、さいごの親子関係には、養子縁組、里親なども含めている。また「母性」とか「母であること」、「父親であること」、あるいは「親であること」などの、人々の考え方をも、「生殖」に含まれるものとして本書の考察の対象にしている。さらに、そもそも人間が生まれることは、成長し、老いて、ときに病気になり、世代を継承して、いずれ死ぬという連続するひとつの事象の一側面に過ぎないと言えるが、このような背景があるものとして「生殖」という語を用いている。
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 たしかに母親と父親のあいだの境界は徐々になくなってきているとも言える。欧米はもとより、日本でも、最近では父親も育児により深くかかわっており、その意味では、母親と父親のあいだにそれほど決定的な差異があるとはもはや言えないだろう。しかし、育児へのかかわり具合ではなく、親であることの質というその次の段階で見てみると、やはり差異は残っているように見える。それは、子どもにとっての「第一の親」はだれか、という観点である。「第一の親」というのは、本書では次のような意味で用いている。それは、子どもにとって心身ともにもっとも緊密に結びついている「親」という意味である。その結びつきは、多くは育てることによって形成されるだろうが、必ずそうであるわけでもない。その意味での「第一の親」は、現段階では、母親であることが圧倒的に多いが、父親であることもある。また、「第一の親」が生みの親でなく、育ての親であることも、さらに法律上の親でさえないこともありうる。本書の考えでは、「第一の親」が複数の人から成ることもあるし、またそのあり方は時間とともに(一日のうちでもまた成長に伴っても)流動的に変化しうる。とはいえ、「第一の親」が母親であることが圧倒的に多く、この点では、母親と父親との差異、あるいは境界がいまだに強固に残っているように見える。
 本書は、母親と父親とのこの境界、そして生みの親たちと育ての親たちとのあいだの境界は絶対的なものではなく、じつは流動的なものであることを示そうとする。たとえ現段階ではそこに差異があっても、それは動かしがたいものではなく、細かく見ればじっさいに、(一日のうちでも、時期や状況によっても)微妙に変化していることを示そうとする。母親と父親のあいだに絶対的な差異がないことを示すとは言っても、母親を母親であることから解放するという方向、つまり母親を母親でない人のあり方に近づけるという方向に本書は向かおうとするのではない。逆に、母親のあり方に、父親や育ての親を含むそのほかの親を近づけて考えるということを試みる。誤解を恐れずに言えば、「母であること」の意味を拡大し、産んだ女親という狭義の母親だけでなく、ほかのすべての「親」もそこに含み込んで考えようとする。しかしそのとき、「母」が出産した女親に限らないのならば、なぜそれを母と呼び続けるのかという疑問が投げかけられうる。そこで本書では、この「母」を、4章四節以降は、「第一の親」と呼び換えて考えている。ただ先に述べたように、この「第一の親」には、生みの親や育ての親だけでなく、法律上の親でさえない人々も含まれうる。だとすれば今度は、なぜそれを「親」と呼び続けるのかという疑問が投げかけられうるだろう。もっともな疑問ではあるが、ほかに適切な語が浮かばないため、本書では、育児を中心として形成されることが多いものの、必ずしもそうとは限らない、子どもとのもっとも緊密な結びつきをもつ人(あるいは人々)を、便宜的に「第一の親」と、相変わらず「親」という言葉を用いて比喩的に呼ぶことにする[1]。
 
 さいごに、「生殖」を哲学から考えるとはどういうことだろうか。哲学は、具体的な事象を考える際も、同時に、人間に普遍的にかかわる次元でもそれを考えようとする。だから、人間は理性的に思考するものであるとか、死すべきものであるとか、社会的な動物であるとか、あらゆる人間に当てはまりうる側面を基軸にすることが多い。それに引きかえ、「生殖」については、だれもがこの世に生まれたことは事実だとしても、生むこと、また産むことは、個人や性別によって経験したりしなかったりするという差異がある。そのため、哲学が「生殖」を基軸にして人間を考えることは一見難しいように見えるが、ただ、人間はみな「生みうるもの」であるとは言える。女性でも男性でも身体に生殖機能を備え、それにときに翻弄されたり折り合いをつけたりしながら(生理や排精や、生殖機能にかかわる病気や不具合など)生きており、そもそも、人が生まれ、老いて、死んでいくこと自体が、広い視点から見れば、人が生むこと、正確には生みうることと深く関連している。個々人が生んだり(産んだり)生まなかったり(産まなかったり)することがその人にとって重要な意味をもつ次元と、個々の差を超えて人間が生みうる0 0 ことが重要な次元との両方を、私たち人間は、いわば同時に生きている。その両方の次元を考慮して人間を考えることができるのが、哲学のよさだと本書は考える。もちろん、だれにも共通しているように見える、たとえば生まれ、老い、死ぬという事象であっても、細かく見れば個々人による差異はあるから、ふたつの次元から見るというこの見方を採りうるのは、なにも「生殖」についてにとどまらないだろう。ただ生殖では、先に述べたように、性差や個人差という差異が、一見、個々人の経験を決定的に分けているように見えるほど大きいから、「生殖」という観点から人間を考えることは、ほかの事象についても、差異と普遍性という両方の次元から考えるための、よい実践例のひとつになりうるのではないか。
 本書が目指すのは、生みうるものとして人間を見ることが、人間を、そして人間が生きる世界を考える、ひとつの別の切り口になりうるその可能性である。決して、人間の生殖という領域を限定的に扱いたいわけではない。これまでの哲学が試みてきたことを、「生殖」という切り口から行ってみたいというのが出発点である。そうすることが、ふだんそうでない切り口から見ていた私たちに、新しい景色を見せてくれるのではと考えるからである。
 「生殖」から、言いかえれば、生みうるものとしての人間という切り口から見る見方は、したがって、さまざまな出来事や人々を切り分けて別々に説明し理解しようとするのとは反対に、その強弱、濃淡は異なるものの、どこかで連続しているのだと見ようとするものである。産む女性とそうでない男性、産んだ女性とそうでない女性、自分自身の生物学的な子どもを生んだ親とそうでない親、自分の子どもをもっている人とそうでない人、あるいは自分自身で自分が産んだ(生んだ)子どもを育てる人とそうでない人、子どもを育てている途中でほかの人に託す(託さざるをえない)人とそうでない人、悩んだ末に中絶を選ばざるをえなかった人と産む(生む)ことを選んだ人……そのような人々のあいだに、簡単に境界線を引いて見てしまわずに、じつは、濃淡をともないつつ連続してもいるのだと、そのつながっている基底あるいは根っこのところからも見ようとするのが、本書の一貫する視点である。「生殖」のような非常に具体的な事象を取り上げてなお、それが哲学でありうるとしたら、それはひとつには、差異の存在とその重大さを踏まえた上で、そのような地続きのところから見ようとする視点と考察の仕方にあるのではないかと考えている。
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 本書の構成は以下の通りであるが、興味のある章から読んでいただくことも十分可能である。1章では、「生みうるもの」としての人間の側面をふたつの視点――普遍的な視点と個々の視点から、レヴィナスの思想も参照して考えることを試みる。1章の考察は、それ以降の本書全体の基調になる見方となる。2章では、妊娠や中絶という生殖の身体的経験に焦点を当て、それに関して男女の境界、言いかえれば母親と父親の境界がじつは曖昧であることを見る。3章、4章では、「母性」あるいは「母であること」(motherhood)という見方を批判的に再考する。4章では、従来の「母性」の核を構成していると思われる、産むことと、育てること(また親であること)との分離可能性を考察する。続く補章では、いったん理論的な考察から離れて、新生児特別養子縁組や「赤ちゃんポスト」など、より具体的な問題をいくつか取り上げ、ときに事例に沿いながら、産む(生む)ことと育てること、あるいは産む(生む)ことと(第一の)親であることとが同じではなく、分離しうるのだと考えてみる。この補章は理論的な考察ではないが、それ以外の章の考察を具体的に補ってくれるものとなることを期待している。もちろん、ここで挙げているのは本書が想定している例のほんの一部であり、取り上げる例を、極端な分離の場合に限定せざるをえなかったことは述べておかなくてはならない。
 さて4章までは、批判的にではあるが、生殖の核心を成すとみなされてきた「産む」ことを基点に考え進めてきたが、5章、6章では視点を大きく変え、「産む」こととはある程度隔たったところにいるとみなされる、父親や養親の視点から――「産む」母親とはいわば反対側から――「生殖」を考察することを試みる。そして終章では、それまでの考察を受けて、「生殖」に関しては、産んだ者とそうでない者、生んだ者とそうでない者、母親と父親、生みの親と育ての親、その他、さまざまな「親」を隔てる境界線は、はっきりとは引けないこと、そしてそれらはグラデーション状にのみ、つまり濃淡によってのみ異なるのだと考えることになる。
(傍点は割愛しました)
 
注1 ほかに適切な語があれば「親」という呼び名にもこだわるわけではない。ただ現段階では、この言葉が人々に喚起するイメージを用いて議論することが、本書の主張を伝える上で有効だと考えている。また育児に携わることが、たいていの場合、「第一の親」であることにともなうが、必須であるわけではないから、「第一の親」を「養育者」あるいは「ケアラー」などと呼ぶことも本書の主張にとってはふさわしくない。
 
 
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