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『ミクロデータからみる現代中国の社会と経済』

 
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厳 善平 著
『ミクロデータからみる現代中国の社会と経済』

「序章 問題意識,課題と方法」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 問題意識,課題と方法
 
第1 節 問題意識と課題
 
 1980 年代末以降の中国では,大規模な家計調査や社会調査が大学等の研究機関を中心に継続的に行われ,蓄積されたミクロデータの一般公開も進んでいる。本書は,こうした二次データの解析を通して体制移行期の中国における社会経済の基礎構造を明らかにすることを主な課題とする。具体的には,教育,階層,格差,就業といった現代中国の抱える基本問題に焦点を当て,戸籍,共産党員,民族,ジェンダー,地域など中国社会の固有要素がそうした基本問題にどのような影響を与え,また,その影響が時間の経過とともにどのように変化したかについて実証分析し,その結果を諸制度に絡めて検討する。
 
1.本研究の背景
 2019 年は,中華人民共和国が成立して70 周年を迎える年に当たる。その国慶節の前後に,官製メディア等で「輝かしい70 年,壮麗な70 年」というキャッチフレーズが声高に宣伝され,中国共産党による国家統治の正統性と連続性が強調された。
 しかし,毛沢東の時代(1950-70 年代)には,生産手段の公有制を前提とし,共産党と行政と経済の三位一体が制度化された計画経済システムが築き上げられた。一方,日米欧など西側先進国との経済関係が限られ,投資や貿易,人的交流などで鎖国状態が続いた。市場による資源配分の有効性が否定され,独裁政治に起因する社会的混乱も影響して,国民経済はある程度成長したものの,同時代の東アジアのパフォーマンスには遠く及ばなかった。1970 年代末に,鄧小平が毛沢東の路線を転換させ改革開放を決意したのは,まさに計画経済の30 年に対する全面的否定があってこそのことである。
 ここ40 年間,農村人民公社の解体,国有企業の私有化・民営化,民間企業の生成と拡大,外資企業の急増などに現れたように,公有制から多元的所有制へ,計画から市場への体制移行が進み(呉敬璉2003,2006),党政分離,政経分離を主内容とする体制改革も2010 年代初めまで推し進められた。この間の高度経済成長は,市場原理の導入,国際市場への参加の賜物だといって過言ではない。
 中国は今も社会主義市場経済と自認するが,改革開放時代を毛沢東時代の単なる延長に位置付けるのにはやはり無理があろう。社会経済の基礎構造を決定づける以下の3 点で質的な変化が起きたからである。
 第1 に,社会経済の構成原理は,国・集団中心から個人・家族中心にシフトしつつある。計画経済期には,モノ,カネはいうまでもなく,ヒトの教育,就職,給与,医療,住宅に対しても,国は指令計画に基づいて厳格な管理を強行した(厳1992)。ところが,改革開放が進むにつれ,不十分ながら,人々は地域間移動や職業選択の自由を手にすることができるようになっている(厳2005a,2009,2010)。
 第2 に,経済運営の基本理念は,平等重視から効率優先に重心が移り,分配制度における平等主義が競争原理に取って代わられている。市場競争が是とされるなか,勝負が分かれ,個人間,階層間,地域間における経済格差は,改革開放とともに急速に拡大した。1990 年代末以降の中国は,国際的にみても格差の非常に大きい社会となっている(趙人偉ほか1999;李実ほか2008,2013;Liet al. 2013;王小魯2013)。
 第3 に,社会構造に対する認識は,政治的な階級社会から経済的な階層社会に変わっている。所得,職業,学歴などで性質の異なる社会階層が形成される一方,階層間における上方移動の競争も激化している。背景に,経済成長とともに産業構造が高度化し,収入が高く,働く環境もよいとされる職業と,そうでないものが分化していることがある(陸学芸2002,2004,2010,2013)。親世代と子ども世代がそれぞれ従事する職業,あるいは,1 人の人間の生涯における職歴が大きく変化し,世代間,世代内における階層移動が広く観測されている(李春玲2004,2005,2006;張翼2004)。
 
2.先行研究と本書の目的
 かくして市場化,国際化が進む現代中国の社会と経済で大きな地殻変動が起きているが,それをミクロデータに対する計量分析を通して解明することは,本書の主な目的である。各章を貫く仮説として,改革開放が深化するにつれ,階層間の向上移動や収入増に対する,戸籍や党員身分,家庭環境の役割が弱まり,代わって,個人の努力,能力(教育)の影響が強まり,したがって,計画から市場への体制移行が果たされつつある,ということである。
 諸課題に関わる先行研究の詳しいサーベイは各章で行われるが,以下,国内外で数多くの先行研究から本書と類似・関連する代表的なものを取り上げ,それぞれの主な特徴を述べながら本書の位置づけを明らかにする。
 第1 に,社会階層と移動に関する研究である。改革開放後の中国で,階級闘争というイデオロギーが放棄され,職業等による階層社会が徐々に姿を現した。それを背景に,中国では社会階層理論に基づく社会調査と実証分析が2000 年代に入って本格化され,中国社会科学院の研究チームから多くの成果が公刊されている(陸学芸2002,2004;李春玲2004,2005,2006)。以来,本書でも利用される「中国総合社会調査(CGSS:Chinese General Social Survey)」等のデータ蓄積に伴い,階層移動およびその決定要因に関する実証研究は,大きな進展を遂げている(例えば,呉暁剛2007;呉癒暁・黄超2015;謝桂華2014;郭末・魯佳瑩2018)。
 第2 に,家計調査に基づく所得格差の実証研究も国内外で盛んに行われた。趙人偉ほか(1999),李実・佐藤宏(2004),李実ほか(2008),李実ほか(2013),Li et al.(2013),Ma(2018)は,「中国世帯収入調査(CHIP:China Household Income Project)」を用いた研究成果であり,その中から所得格差の推計,収入の決定要因等に関して示唆に富む多くの知見が得られている。例えば,就業選択や賃金決定に際し,人的資本を表す教育の重要性が高まった一方,戸籍,ジェンダー,所有形態,地域の相違に起因した差別も依然として残っている,としている。
 第3 に,日本の中国研究では,類似する研究成果も少なからず公刊されたものの,サンプルが比較的少ない独自の調査データによるものが多い(例えば,園田2001;丸川2002;佐藤2003;厳2005a,2009,2010)。近年,CHIP,CGSSのミクロデータの一般公開に伴い,それらを利用する研究成果も増えつつあるが,単年度のデータによる断片的で特定の専門分野に留まるものが多い(馬2011;石塚2010,2019)。
 広く知られるように,ミクロデータに基づく実証研究は,労働経済学や開発経済学の分野だけでなく,欧米等の地域研究でも大きな潮流となっている。中国でも欧米から帰国した留学生を中心に,社会経済問題に対するミクロ計量分析は学術研究の主流となっている。ところが,日本の中国研究では,中兼(2010,2012),毛里(2012),加藤(2016),天児(2018),田原(2019)のような優れた著作はあるものの,いずれもマクロデータに基づく記述的または統計的分析か,事例分析の積み重ねから一般的な要素または共通点の抽出に重点が置かれているという特徴を持ち,ミクロデータに基づいた計量分析が少ない。中国社会に潜む普遍的なものを見出すというより,中国固有のものまたは特殊的なものを探し出す傾向が強い。地域研究の視点から中国を眺めるのだから当然の帰結かもしれない。
 このような国内外のギャップを埋めるべく,著者はこの間,CHIP やCGSSのミクロデータを可能な限り収集し,また,膨大で煩雑なミクロデータを結合し,さらに,それらに対する計量分析を通して,体制移行期の中国における社会経済の基礎構造の変化,およびそのメカニズムをダイナミックに捉えようとしてきた。それと併行して,多くの現地調査を実施し,データ分析結果の解釈に必要な一次情報の収集にも心がけた。
 こうしてできあがった本書は,日本の中国研究に類をみない内容を誇ると思われる。比較的長いタイムスパンで,一貫した問題意識のもとでミクロデータに基づく実証分析を行い,体制移行期の中国における社会経済の構造変化を明らかにするところに大きな特徴と独自性がある。また,中国や欧米の関連する先行研究の多くでCHIP,CGSS のどちらだけか,ある年の調査データのみが用いられるのとは異なり,研究課題の性質に応じ,両データセットから適宜なものを選び,しかもできるだけ複数回のものを利用することも本書の重要な特徴である。
 本書は日本の中国研究に一定の学術的貢献を果たせるだけでなく,実証分析から得られた多くのエビデンスは既存の事例研究等の知見を補完し,変化する,あるいは変わらぬ中国に対する多面的理解にも大いに寄与するであろう。
 
3.中国社会の主な構成要素
 中国の戸籍制度は,現代中国の社会構造を理解するうえできわめて重要な要素の1 つである(前田1993,1996;厳2002)。それに関しては,少なくとも4 つの事実が指摘できる。①「農業戸籍」,「非農業戸籍」という一国二制度が1950 年代末に作られた,② 2 種類の戸籍を持つ者に対し教育,就業,社会保障等で不平等な権利が付与される,③個々人の戸籍が母方の戸籍を引き継がなければならないこと(1998 年まで),④「農業」から「非農業」への戸籍転換が厳しく制限されるだけでなく,自己事由で戸籍を地域間,特に農村から都市に転出入することが不可能に近い。明らかなように,こうした内容を含む戸籍制度は,前近代的身分制の性質を帯び,現代的市民社会にあって当然の職業選択や移住の自由を完全に否定するものである。にもかかわらず,この制度が長らくとられ続けた背景に,毛沢東の計画経済時代にモノ,カネのみならず,労働,したがってそれを有する人間に対する徹底的な管理の必要性があった。また同じ理由で,市場経済化が目指される改革開放時代には,戸籍制度の影響は残りつつも,戸籍の果たす機能も本質的な変化を迫られるようになった。
 中国は共産党による絶対的支配を前提とする国家であり,共産党員は厳格なルールで選抜されたエリートとされる。そのため,国家機関はいうまでもなく,大学や研究機関といった事業体,国有企業,さらに民間企業等ありとあらゆる組織において,共産党の組織が設置され,党員は一般人に比べ,就職や昇任,給与で有利に扱われた。ところが,企業改革に伴い,国有部門が縮小し,代わって,私有制で利潤追求的な外資系企業や民間企業が拡大するにつれ,共産党員という身分もその優位性を失いつつあった。
 また,公正で開放的社会,あるいは競争的市場経済では,親の学歴,職業,収入等に反映される家庭環境は,間接的に本人の学歴に影響を及ぼすことがあっても,個々人の職業選択や所得は主として自らの努力や能力によって決定されなければならない。しかし実際,日本などの先進国でも家庭環境は世代間の階層移動に重要な影響を与え,それゆえの階層固定化という問題も指摘されて久しい(山田2007;石田ほか2011)。政治の世界では民主主義的な選挙制度があるにもかかわらず,結果的に政治家の世襲が多く,企業経営,芸能等でもそのような傾向が強い。また,伝統的農業社会から近代的産業社会への移行を経験した中国では,この間,職業で測る社会階層が全体として上方にシフトしていることは当然のことであるが,「官二代」,「紅二代」,「富二代」といった言葉が表すように,権力や財産を持つ者の子どもは,立身出世で有利な立場を獲得できるといわれる。家庭環境が個人の出世にどのような影響を及ぼすかについて注意深く検討する必要がある。
 もう1 つ重要な要素は教育である。具体的には,学校教育をどのレベルまで受けたか,どのような学校に通ったかという教育の量と質が問われる。学校教育は人々に教養や知識を与えるだけでなく,人々の進路を決定づける機能も併せ持つ。勉強が好きで,しかも好成績を収められた者は,上級の学校に進学し,より高度な知識や技能を身につけることができる。質量とも高い学歴を持つ者は普通,新しいことにチャレンジする潜在的能力を持つとみられる。また,このような能力の獲得は多大な努力を伴うものでもある。その意味で,学歴は不断の努力と能力の結晶といってよい。
 そうである以上,自由競争を特徴づける市場経済では,教育が重要視されるのも理に適っており,高い学歴ほど,職業選択,昇進,給与等で比較的有利な見返りがあって当然であろう。また,そうであるがゆえに,教育を受ける機会は制度上すべての人にとって平等でなければならない。勉強する意欲があり,才能もあるなら,少なくとも義務教育の機会平等が個々人の出自と関係なく保証されるべきである。もちろん,進学しない選択もあってよく,しかも,そういう人たちは,就職や収入でできる限りの社会的配慮を受ける権利を保証されなければならない。
 
第2 節 本書の理論的枠組みと構成
 
 本書では,図0-1 に示される理論的枠組みに即し,個人の教育や政治身分,職業の決定要因,および階層移動や就業選択・昇進,収入・経済格差の決定要因を実証的に分析する。それを通して本書全体の仮説を検証することにする。実証分析に通底するものは主として労働経済学や社会階層理論の考えであるが,各章の主な課題および各章の関係は以下の通りである。
 第1 章から第4 章では,個人の社会属性を表す教育,戸籍,政治身分,職業に対し,それぞれの実態と決定要因を分析する。教育は個人の人的資本として重要な意味を持つにもかかわらず,中国では国民の間,特に都市と農村の間に教育機会の不平等が大きな社会問題として注目されている。独特の戸籍制度も政治身分も,階層移動,就業選択,収入に対し重要な影響を及ぼす。
 第1 章では,CHIP 調査のミクロデータを用い,政府の教育統計からデータのとれない農村と都市の教育格差に焦点を当て,教育の発展と格差の実態,および格差の決定要因を多面的に分析する。第2 章も教育を扱う内容だが,CGSS から利用できる成人高等教育の実態と獲得メカニズム,およびその収入に及ぼす影響を明らかにすることを主な課題とするが,それによって党員や国家機関勤務といった要素と,制度上問題の多い成人高等教育の関係が抉り出される。第3 章では戸籍制度が漸進的に改革されたプロセスを考察し,戸籍の相違,および「農業」から「非農業」への戸籍転換が収入に及ぼす影響をCGSSに基づいて計量分析する。それを通して戸籍制度改革の内的メカニズムを明らかにする。第4 章では,共産党員という人間集団の特徴,身分獲得の決定要因,および党員身分の就業選択,昇進,給与に与える影響,さらに時間の経過とともにそうした影響がどのように変化するかについてCHIP 調査のミクロデータを基に計量分析する。
 第5 章から第7 章では,社会階層と階層移動,収入・経済格差,就業選択・昇進の実態とメカニズムを実証的に分析する。データの制約もあり,第5 章は他の章と異なり,天津市という大都市だけを分析対象としている。経済成長に伴い,職業による社会階層が分化し,階層間における世代間移動,および世代内における生涯移動も活発化するが,階層間移動の実態および階層移動を決定づける要因の計量的究明は本章の主な目的である。1997 年,2008 年の両時点調査のミクロデータを解析することで階層移動メカニズムの変化も明らかになる。続く第6 章では,経済格差の拡大過程を踏まえながら,格差拡大の要因を多面的に分析し,さらにCHIP 調査のミクロデータを用い格差の決定要因を明らかにする。最後の第7 章では,複数年のCHIP データを結合し就業率の推移,就業選択や就業率の決定要因を分析し,個人の自然属性・社会属性の影響の有無,強弱およびその変化傾向を明らかにする。補論ではCHIP2013 に基づく農家労働利用の定量分析であり,第7 章の扱う期間と対象を補完するものである。
 
第3 節 データに関する説明
 
 1980 年代以降の中国で,海外からの帰国留学生を中心に,農家や企業,個人を対象とする複数の全国抽出調査が継続的に実施され,それに基づく計量経済学または計量社会学の学術研究が盛んに行われている。今日,国内外で広く利用されるデータバンクとして以下の5 つが挙げられる。①中国人民大学/中国国家調査数据庫(http://www.cnsda.org/index.php),②北京師範大学/ 中国収入分配研究院(http://ciid.bnu.edu.cn/),③北京大学/ 中国健康与養老追跡調査(http://charls.pku.edu.cn/zh-CN)および中国家庭追跡調査(http://www.isss.pku.edu.cn/cfps/index.htm),④西南財経大学/ 中国家庭金融調査(https://chfs.swufe.edu.cn/),⑤礁南大学/ 経済与社会研究院(https://iesr.jnu.edu.cn/#/)。それぞれの調査目的や調査対象,サンプル数は異なるものの,オーソドックスな社会調査法に従い全国範囲で調査を実施し,ミクロデータを研究者などに公開するところに共通点がある。以下,本書で主に利用される,中国社会科学院・北京師範大学,および中国人民大学がそれぞれ開発した「中国世帯収入調査」,「中国総合社会調査」の概要および特徴について解説する。
 
1.中国世帯収入調査
 中国世帯収入調査は,その英訳のChina Household Income Project からCHIP と略称されることが多い。1988 年,1995 年および2002 年調査は中国社会科学院経済研究所,2007 年,2010 年および2013 年調査は北京師範大学中国収入分配研究院,を中心とする国際共同チームによって実施された。CHIP 調査のミクロデータは,調査が完了して一定の時間が経過すると,順次国内外の研究者に公開されたが,いまは,中国収入分配研究院に所定の利用申請をすれば,データの入手は可能となっている。ただし,本書で利用されるデータの一部は,共同研究を通して一般公開の前に入手されたものである。
 調査対象の世帯は国家統計局の家計調査システムを利用して抽出されたものであり,調査票の記入は各地方の統計局スタッフによって行われた。そのため,データの質がある程度担保され,それに基づく分析結果から中国の全体状況を推測することが可能であるとされる。
 CHIP 調査の主たる目的は,家計の所得状況および経済格差に関わる基礎データの収集であるが,調査票には,対象世帯の家族構成と個人属性,16 歳以上人口の就業と収入,子どもの教育,世帯単位の収支構造などミクロ経済分析に必要な項目も多く盛り込まれている。したがって,所得分配のほか,教育,就業,賃金の実態,およびそれぞれの決定要因について計量分析することも可能である。
 表0-1 はCHIP 調査によるサンプルの分布状況を表すものである。同表からわかるように,各年の有効回答者は大きな規模に上っているだけでなく,本書の研究目的にとって欠かせない情報(都市・農村,ジェンダー,民族,戸籍,政治身分,学歴)が含まれている。
 四半世紀にわたる調査データの蓄積により,諸課題をダイナミックに捉えられるようになったのはCHIP 調査の優れたところである。一方,急激に変化してきた社会経済の実態を捉えるため,調査票の設問(アイテム)や選択肢(カテゴリー)を変えざるをえない実情もある。実際,一部の変数に関し時系列データがとれにくくなっている。例えば,戸籍,教育,就業,職業,業種に関する設問および選択肢は,各調査で微妙に異なり,それらを直接に結合することができない。表0-1 は個々の調査項目を精査したうえ,最大公約数でカテゴリーを統合してできたものである。各章の分析も同じ方法でデータ処理を行っている。
 各調査の対象地域(省,自治区,直轄市)も必ずしも同じではない。CHIP1988・1995・2002 では,調査の対象地域は,農村部がそれぞれ28,19,19,都市部がそれぞれ10,11,12 の省市を数える。また,CHIP2007・2010では,調査対象は農村と都市のどちらも8 省市に減らされたものの,対象の世帯員数は大きく,大標本調査という点では変わりがない。CHIP2013 の農村と都市はともに14 省市に増えた。このように,CHIP 調査のデータは調査対象の連続性という点では問題があり,諸問題の経時的変化を捉える分析のなか,比較対象の調整などに細心の注意を払う必要がある。
 
2.中国総合社会調査
 中国総合社会調査(CGSS:Chinese General Social Survey)は,中国人民大学社会学系と香港科技大学調査研究センターが2003 年に実施した全国調査に端を発したものである(中国人民大学中国調査与数据中心2009)。日本版General Social Surveys(JGSS)などを参考にしたCGSS は,日米など国際社会のやり方にならって国内外の研究者等にミクロデータを公開すると同時に,同データが利用された研究成果の共有にも力を入れている。第1 ラウンド調査(2003,2005,2006,2008 年)に続いて,第2 ラウンド調査(2010-13,2015 年)のミクロデータも,中国国家調査数据庫から所定の手続きを経て簡単にダウンロードすることができる。同調査がいまも継続されており,最新のCGSS2018 は2020 年に一般公開されている。
 この調査はその名称通り,非常に総合的な内容を含む。本書で利用する第2ラウンド調査では,調査項目は回答者の家族の基本状況のほか,本人の属性,健康,地域間移動,生活様式,階層移動,階層意識,政治参加,就業など多岐にわたる。CGSS も規範的な社会調査法に従って組織され,データの信ぴょう性が比較的高いとされる。
 表0-2 は,CHIP 調査の関係項目に併せる形で第2 ラウンド調査の概要をまとめたものである。CHIP 調査に比べ,CGSS のサンプル数が数分の1 と少ないが,ほとんどの省,自治区,直轄市がカバーされていることは重要な特徴である。
 ただ,社会階層と移動を扱う第5 章では,CGSS ではなく天津市民を対象とする2 時点の質問紙調査のミクロデータが利用されている。主たる理由は,同章の初出論文が執筆された際,社会階層と社会移動に関する全国調査がなかったことである。1950 年代以降の日本社会学界では,社会階層と社会移動(SSM)に関する全国調査が10 年ごとに実施され,膨大な研究蓄積はあるが,その経験者である園田茂人(当時は中央大学)は,同じような調査を1997 年に中国天津市で実施し,しかも,同じ対象を2008 年に再び調査した。著者はその研究チームの一員として2 つの調査に関わり,調査票の一部を作成しミクロデータをいち早く利用できる立場にあったのである。
 
3.本書のデータ利用の限界
 前述のように,CHIP,CGSS のほかに北京大学による「中国健康与養老追跡調査(CHARLS:China Health and Retirement Longitudinal Study)」も国内外で広く利用されている全国調査である。2011 年に開始されたこの調査はこれまで6 回行われ,2020 年9 月より2018 年調査のミクロデータも一般利用が可能となっている。ただ,この調査は45 歳以上の中高年を対象としており,解答者本人およびその家族の健康や暮らしに関する情報収集に重点が置かれている。高齢化問題の研究で最も活用されるものである。
 北京大学中国社会科学調査センターは,2010 年より全国25 省・自治区・直轄市の1 万6000 世帯を対象に「中国家庭追跡調査(CFPS:China Family Panel Studies)」を継続的に実施し,個人,家庭およびコミュニティーという3 つのレベルで社会,経済,人口,教育および健康の実態を反映するミクロデータを収集し,国内外の学術・公共政策研究に広く公開している。
 西南財経大学が2011 年に開始した「中国家庭金融調査(CHFS:China Household Finance Survey)」も内外から注目される重要な全国調査である。同調査は2 年ごとに実施され,2017 年まですでに4 回の調査データが蓄積されている。同調査の主たる目的は世帯の金融資産に関する情報収集であり,ミクロデータの研究者への公開も進んでいるようである。
 もう1 つ重要な全国調査は,礁南大学経済・社会研究院が2016 年に始めた「中国郷城人口流動調査(RUMiC:Rural-Urban Migration in China)」である。これは2008 年から2013 年までオーストラリア国立大学と北京師範大学が共同で実施したものの継続事業であり,2020 年10 月現在,2016-18 年の3 回調査のミクロデータは,共同研究の形で外部の研究者も利用可能となっている。ただし,同調査は,全国15 都市に滞在する5,000 世帯の流動人口を対象としており,いわゆる農民工(農村からの出稼ぎ労働者)研究に特化した専門的調査である。
 現代中国の社会と経済を研究対象とする本書は,本来なら2013 年以降の習近平時代をも視野に入れて分析しなければならない。ところが,上述のように,CHIP,CGSS のデータ公開が途絶えており,CHARLS 等のようなものは比較的新しいものの,CHIP,CGSS との連続性で難点が多い。本書でいう現代中国とは主として,2010 年代初めまでの四半世紀を指すことになるが,この間は,江沢民,胡錦濤が指導者を務めた20 余年をカバーし,体制改革と対外開放,つまり市場化と国際化が最も進んだ期間でもある。その意味で,本書は計画から市場への移行期間で,社会と経済の深層で何がどのように変化したかをミクロ的に検証するものであり,マクロ的,あるいは定性的な中国論を補完するものでもあるといえる。
(図表は割愛しました)
 
 
あとがき
 
 本書の出発点は1990 年代から2000 年代にかけての約20 年間,中国各地で実施した農家,農民工,企業経営者,労働者などのサンプリング調査である。科研費の助成を受け,中国側の共同研究者から協力を得て,膨大なミクロデータを入手し,データ分析の結果を論文や書物にまとめて発表してきた。農業経済学,労働経済学,社会階層理論等の枠組みを援用し,重回帰分析をはじめとする計量分析法を用い,社会経済の諸相および互いの相関関係あるいは因果関係を検討した。高度なメソッドを使ったわけではないが,見聞に基づく定性的描写,個別の事例に対する定量的記述に比べ,重回帰分析は,物事の全体像をより正確に捉えるうえで非常に有効なツールであると実感するようになった。
 ミクロデータを利用する際,無作為に抽出されたサンプルであるか(抽出方法),母集団の状況を推定するのに必要な観測数が確保されているか(規模)といった問題に細心の注意を払う必要がある。普通,この2 点がクリアされているのであれば,たとえ個々のデータに多少のムラがあっても,分析の結果がほとんど影響されない。
 ミクロデータを使って実証分析する一番のメリットは,分析目的に応じて原始データを加工し新たな変数を作成することで,さまざまな仮説を検証することができるという点である。統計ソフトの機能が向上し,昔のように自分でプログラムを組んでモデルを推定する作業はほとんど不要となっている。
 この間,著者が行った農民工の働きと暮らし,農家の人口と就業,農民工子弟学校に関する質問紙調査,そして,著者が参加したプロジェクトの行った農家調査や社会階層調査から,膨大なミクロデータが蓄積している。個々の調査は周到な準備下で実施され,一定の質も保たれているが,ある村,ある都市といった局地的な性格を持ち,しかも,一過性のものが多い。事例研究の積み重ねで全体像に迫るという方法もありうるが,やはり,全国的かつ継続的な抽出調査の有意性が高いといわなければならない。
 2010 年代に入ってから,複数の科研プロジェクトに参加する幸運に恵まれ,CHIP 調査のミクロデータをいち早く利用することができた。また,米国から帰国した留学生を中心に米国流の全国的社会調査も継続的に行われ,そして,何より重要なのは,ミクロデータが一定の条件付きながら,国内外の研究者に一般公開されることである。本書で利用するCGSS もその1 つである。それ以前の中国では,中国社会科学院や各大学の専門家は特定の研究目的で限られた範囲で質問紙調査を行い,学術論文や調査報告書を発表してきたが,プロジェクトのメンバーまたは関係者以外はデータの共有が少ない。その頃,データを取得できる者だけは研究成果の発表で優位な立場を確保できたのである。
 序章で述べたように,CHIP もCGSS も質の高いデータセットであり,それを利用できるようになったときの嬉しい気持ちはいまも覚えている。そして,そのときから心の中で温めた1 つの大きな研究構想を10 年位かけて実現しようと計画した。つまり,良質かつ全国をカバーするミクロデータを駆使し,現代中国の社会と経済の基礎構造,およびその変化メカニズムを多面的体系的に分析するということである。
 二次データを利用し社会経済の諸問題を分析することは,国際的にもよくみられる現象であり,中国のような大国のことを把握するのに小規模の研究チームの力だけでは限界が大きい。また,2010 年代以降の中国では,外国の研究者による質問紙調査はそもそも不可能に近いようになっている。行政による規制の強化があるだけでなく,中国側共同研究者の外国資金に対する欲しさも減退し,リスクを負うまで海外からの委託調査を引き受ける者が消えているといっても過言ではない。その意味で二次データの利用はやむをえない選択ともいえる。
 日本の中国研究は,地道な現地調査から得られた一次情報を吟味する事例研究に長け,米国流の計量分析に基づいた「普遍的」な事実やエビデンスの究明というよりも,中国固有の何かを析出しようとする指向をより強く持つように思われる。そのためもあり,CHIP やCGSS を積極的に利用しようとする傾向がみうけられない。もっというなら,かつて独自の質問紙調査等ができた時代に蓄積されたミクロデータの利用も必ずしも十分とはいえない。調査はするものの,集めてきたミクロデータはほとんど利用されず,時間の経過とともに腐ってしまう場合が多い。データ解析に不向きがあるというより,事例研究の指向が根強いというのが実態であろう。
 データに基づく実証研究は,データクリーニングから起算すれば,実に労力と時間を要する大変な営為であり,乾燥無味な作業も多く含まれるが,仮説をデータ解析で実証できた時の喜びもまた別格である。本書はここ10 年間,一貫した問題意識のもと,数多くのミクロデータの収集と解析を重ねてできた研究成果の集大成である。既刊論文を大幅に加筆修正する際,重複の部分を調整し,文章等の表記を整えただけでなく,新たに入手した後続データの分析をできるだけ追加した。各章の初出一覧は下記の通りである。

序章 書き下ろし
第1 章:「現代中国における教育の発展と格差 ― CHIP 調査の個票データに基づいて」『中国経済研究』第11 巻第2 号,2014 年9 月,pp. 31-55。
第2 章:「中国の成人高等教育と労働市場におけるその増収効果 ― 普通高等教育との比較分析を中心に」『アジア経済』第60 巻第1 号,2019 年3 月,pp. 2-35。
第3 章:「中国における戸籍改革,『農転非』およびその社会経済的効果 ― 中国総合社会調査(CGSS2010-2015)に基づく実証分析」『中国21』第53 号,2020 年9 月,pp. 40-70。
第4 章:「中国における共産党員のプロフィールおよび党員身分の機能:1988-2002 年 ― 労働市場における就業,昇進と収入の決定要因の実証分析を通して」『アジア経済』第57 巻第2 号,2016 年6 月,pp. 2-34。
第5 章:「中国の大都市における階層形成と世代間階層移動の実証分析 ― 1997年・2008 年天津市民調査に基づいて」『アジア経済』第55 巻第3 号,2014 年9 月,pp. 2-32。
第6 章:「中国の格差」『国際問題』2016 年12 月号,pp. 36-46。
第7 章:「中国の農村と都市における就業率およびその決定要因:CHIP 調査1988︲2010 に基づく実証分析」『中国21』第34 号,2016 年3 月,pp. 81-104。
補論:「中国農村における労働力資源の利用状況と展望 ― 中国所得分配調査2013 に基づいて」『統計』2017 年2 月号,pp. 21-26。
終章 書き下ろし

 
謝辞
 本書の主要部分は,下記科学研究費による研究成果をベースにまとめられたものである。①「中国における戸籍制度改革,農民工の市民化と都市化の社会経済学的研究」(基盤研究C,2015-17 年度,代表者・厳善平),②「中国における経済大転換およびその国際経済への影響」(基盤研究A,2011-2015 年度,代表者・薛進軍),③「中国の経済システムの持続可能性に関する実証的研究:「二重の罠」を超えて」(基盤研究A,2013-2015 年度,代表者・加藤弘之),④「調和社会の政治学:調和的な発展政策の形成と執行の総合的研究」(基盤研究A,2010-2012 年度,代表者・高原明生),⑤「現代中国における腐敗パラドックスに関するシステム/制度論的アプローチ」(基盤研究A,2017-21 年度,代表者・菱田雅晴)。第5 章における「天津市民調査ミクロデータ」の利用を認めて頂いた園田茂人氏(東京大学),および早稲田大学現代中国研究所に感謝申し上げる。なお,本書の第2 章は薛進軍氏(名古屋大学名誉教授),第5 章は魏禕氏(中国・河南師範大学),との共著である。本書への収録に同意してくれた両氏に感謝の意を表する。
 本書の取り纏めは在外研究の2019 度後半に集中的に行った。その間,天津理工大学管理学院の王京濱院長,邸暁熠講師をはじめ,多くの方に一方ならぬお世話になった。ここに天津理工大学ならびに関係各位に深く感謝する。
 本書の出版を快く引き受けてくれた勁草書房の宮本詳三さんにも厚く御礼申し上げたい。最初にお世話になった博士論文の出版以来,30 年以上の付き合いのなか,いつも暖かく見守って下ったことを本当に嬉しく思っている。
 最後に,私事で恐縮ではあるが、日々の研究生活を献身的に支えてくれた妻に本書を捧げる。本書の元になる原稿の多くを最初に読んでくれただけでなく,参考になるコメントもたくさんもらったことに、感謝する次第である。
 本書の出版にあたって,日本学術振興会2021 年度研究成果公開促進費(学術図書,課題番号:21HP5123),および2021 年度同志社大学研究成果刊行助成の補助を受けた。記して感謝の意を表する。
 
2021 年5 月
厳 善平
 
 
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