本たちの周辺

サンスティーン『入門・行動科学と公共政策』訳者と読者の対話(後編)

 

前編にひきつづき、2021年8月8日に行われたキャス・サンスティーン(吉良貴之訳)『入門・行動科学と公共政策』(https://www.keisoshobo.co.jp/book/b584353.html)の読書会の様子をお送りします。「ナッジ」という仕組みのどういうところにひっかかるのか、どういう側面を重視するのか、読者それぞれにちがいそうです。「一人で読む」ことを超えていく読書会での議論、最後までお楽しみください。[編集部]

 

 
 
■行動バイアスとナッジの失敗
 
レガスピ: ナッジに従う人の多さも重要な気がします。電車の駅のホームの階段に貼ってある矢印がそうなんですが、柵の左側に上向きの矢印があること自体ナッジなんだけども、そこを電車から降りた人が進むというのも強力なナッジとしてあるんじゃないかと思います。もう一点、心理学の実験例をたくさん持ってきて「人間の選択は合理的ではない、なぜならバイアスがかかっているからだ」という言い方をしてるんですが、どこまでがバイアスとしてあつかわれているのか。一番の問題はバイアスを脳科学的な条件に限るのか、文化的・社会的な影響はバイアスとはいえないか。
 
吉良貴之: ナッジにはもちろん、失敗するナッジもあります。ある程度は失敗することでデータが蓄積されていって、もっとよいナッジに作り変えられていくと。駅の階段の矢印とは逆方向に進んじゃう人もいるわけですね。そういう人って、他の人とぶつかって舌打ちされてつらい気持ちになったりする。そういう失敗の経験が積み重なって、もっと矢印を見やすくしろという声になって、それがナッジの改善につながるんです。だからある程度、従わない人がいてくれたほうがナッジにとってありがたいというのはあります。だれも従わない、気づかないナッジだったら効果もないし、改善のしようがないので、そういうものはもはやナッジとはいえないでしょう。改善の可能性があるかどうかがひとつ、ポイントになります。
 
 二点目ですが、ナッジは無意識のバイアスから逃れて(または利用して)もっとよい選択をしようという工夫なんですが、バイアスというときにどんなものがあるのか。無意識というと、人間が生物として持っているいろんな制約、たとえば食事のメニューだったらどうしても手前のものから先に見えてしまうとか、そういうものは当然あるんだけれども、それ以外にも文化的・社会的なナッジもあります。たとえば日本では歩道は右側通行ということになっているので、右側を歩くとそうそう人とぶつからないだろうという思い込みがある、これは文化的・社会的なバイアスですよね。でも、右側を歩いてるから大丈夫だろうと歩きスマホしてたら、前から来た人にぶつかっちゃった、ということはありうるわけです。それをどうにかするには、たとえば歩道に気になる模様を描くとか、ところどころ鏡のようになっているとか、歩きスマホをしにくくした歩道のナッジがあります。そういう文化・社会に応じたナッジのカスタマイズは当然あるし、実際やられていますね。極端なこといえばバイアスなんてのは個人個人で違うので、その人向けにカスタマイズした「パーソナル・ナッジ」みたいな方向もあり、本書でも好意的に触れられています(59頁)。ナッジはある程度の大雑把さが魅力だと思うんですが、こういう精緻化の方向はまあ、どうなんでしょうかね。
 
幸村燕: 以前読んだ本に「『バイアス』という言葉のバイアス」という話があって、バイアスという概念があることで、われわれにはバイアスをとったあとの純粋な認識が存在するようなバイアスがはたらいているという話が面白かったです。もう一点、さっき環原さんが言ってた話からの派生で、ずっと読んでて思ったのは、けっきょく人の動きを行政的に誘導させたくて、でも自由をある程度保障したいから、選択してる感、幸福を選んでる感を主体にどれだけ感じさせるかがこの本のテーマなんですけど、フィクションのほうまで行ってしまうと伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫、2010年)みたいな、主体が選択していることさえ考えなくなったら行政にとって一番都合がいいということになってしまうのかなと思って。結局、選択している感というのも建前で、われわれをひとつのコントロールされるものとしてあつかったほうが一番都合がいいんだろうなと思います。もう一つ、ナッジ同士が相反しあうということがあるかなと思いました。たとえばレジ袋に五円かけてレジ袋の排出を減らすというのがあると思うんですけど、クレジットや電子決済は小銭の認識をバグらせて消費行動をうながすものだから、行政の電子決済の推進とレジ袋の有料化は最終的に効果をおたがいに中和させる。そういうナッジ同士の相反は単純に面白いというか、あるのかなと思いました。
 
酒井泰斗: 人々が「選択している感」をまるで持てないような仕方で支配してしまうと上手く行かないよ、という話はこの本のなかでも書いてなかったでしょうか。

吉良貴之: 一点目はわりと大きな話で、人々に「選択している感」を与えるかどうかが統治者にとって重要かどうかですね。極論、選択してるかどうかは考えさせない、ただみんなハッピー♪という状態がいいのか。おそらくサンスティーンはそこまで突き抜けてはいないんです。というのは先程から繰り返していますが、ナッジは選択の結果として失敗してもらうことも重要で、それでナッジを改善する、効果的にしていくということがある。しかしもう一つ、ナッジしてはいけないところを見つけていこうというのもあるんですよね。たとえば重要な政治問題についての議論とか、そういうところで特定の方向に意見を誘導するのはよくなさそうです。そういう「ナッジしちゃいけない部分」では人間たちがちゃんと熟議をしてくれ、というのがサンスティーンの裏の主張といえるでしょう。まとめると、人々にある程度は成功や失敗を意識してもらって、ここはナッジされたくないな、というのを表明してもらうのが大事なんだろうなと。
 
 二つ目、ナッジどうしの衝突(レジ袋の有料化と電子決済の推進など)も重要で、国のナッジと民間のナッジは目的も違うので逆方向になったりするわけですよ。ナッジどうしで打ち消しあって効果がなくなる、失敗するというのはよくあることです。だからナッジは単体で成功・失敗を評価するのではなく、組み合わせた場合に効果がどうなるのかも見ていかなければならない。このあたりのことは那須耕介・橋本努編『ナッジ!?』(勁草書房、2020年)で、法哲学者の那須耕介さんや若松良樹さんが強調されています。那須さんは「相互ナッジの海」という印象的な表現を使われていますね。
 
環原望: 公共政策のナッジは、ある程度、国民の意見を反映したり、失敗によるフィードバックや、公共政策な以上ある程度は可視化しなければならないという圧があると思うんですけど、ナッジって方法論なわけで、どんな団体でもやろうと思えばできますよね。大きいデータを持ったIT企業なんかがやる民間ナッジの暴走(悪名高いものだとケンブリッジ・アナリティカ事件など)に歯止めを効かせて、民主主義的に防いでいく議論がどんなふうに進んでいるのか気になりました。
 
吉良貴之: この本でも出てきましたけど、特にGAFAはナッジを大々的に使っているわけですね。この読書会をやっているツール「Discord」にもたぶん、至るところにいろんなナッジがあるんでしょう。こういうところで人々がいやな方向に誘導されてないかというのは、民間のやることなので、少なくともいきなり憲法問題にはならない。法的な規制にもだいぶ慎重にならないといけません。だから難しいんだけど、でもこの本が売れて「あれ?これってナッジじゃね?」と人々が疑いの目をもつようになったら、民間ナッジにみんなが気づいて、わざと従わないでナッジを失敗させるという方向にいくこともあるかもしれない。まあ、失敗したらしたで改善のためのデータが蓄積されて逆にうれしい、というのはあるので、ナッジに対してうまい闘争ってありうるの?というのは難しいんですが、データにも何にもならないような純然たる失敗というのもあるかもしれませんね。
 
 悪い目的で使われるナッジをサンスティーンは「スラッジ(=ぬかるみ)」と表現しています(50頁)。たとえば、登録はすごく簡単だけど、解約は電話かけないといけなかったりしてとても難しいサブスクリプションサービスなどがわかりやすいですね。サンスティーンはつい最近『スラッジ』というそのものずばりの本も出しましたが(Sludge, The MIT Press, 2021)、みんながそういうのを通じてナッジへの感受性を強めていくと、悪いナッジへの効果的な対抗もできるようになるかもしれません。
 
環原望: ありがとうございます。ナッジは良くも悪くも使えるし、あまりにも概念の射程が広すぎると思ったんですが、ナッジが広く知られることと、どんなナッジが存在して、どんなナッジが悪い方向にはたらくのか周知されていくのも重要ですね。
 


■科学的行政、エリート主義の変容
 
酒井泰斗: 「今すぐ真理が提供できます」ではなく「継続的改善によって将来的にはよりよいものが提供できます」という未来への約束型のプレゼンをするのはもともとサイエンスの自己呈示の流儀であって、ナッジはそれを取り入れているように見えますね。これも「行政の科学化」の一形態だといえるかもしれません。
 
レガスピ: ナッジは途上にあるということが大前提なんですよね。修正されていく以上、完成された、完璧なナッジというのは自家撞着なんじゃないかと思って。
 

吉良貴之: たしかにナッジは今すぐ完璧な幸福が実現されますよという話ではなくて、「これは実験ですよー、みなさん参加してください!」というプレゼンをするので、サイエンスの手法に近いところはありますね。これはナッジだけでなく、20世紀の行政の科学化の大きな流れに位置づけるべき話なのでしょう。そのなかで新しいことというと、少なくともこの数十年、行政国家化というのがものすごく進んでいて、行政の担当者自身も全体像が見えない状態になっている。ナッジでちょこちょこ失敗しながら局所的な最適化を目指していくしかない、という行政活動の変化の典型的な表れがナッジなのかなと思いますね。
 
酒井泰斗: 行政の改革・効率化・科学化というのは20世紀のあいだずっと唱えられ取り組まれてきたことであり、また「科学にもとづく上からの社会改良」というのも合衆国諸学の伝統的基調だといえます。それはそうなのですが、他方で、本書を読んで、アメリカにおけるエリート主義の変調というのも感じました。
 
 行動科学との関連で私がわりと厚めに読んでいるのは、行政分野だと1960年代の文献です。これはケネディとジョンソンが大統領をやっていた時期に相当するのですが、特にジョンソン時代には「偉大な社会」というスローガンのもと巨額の資金と大量の専門家を動員した社会改良が試みられました。これは成果も大きかったのですが、ジョンソン政権がもう一方の手でおこなっていた ベトナムにおける〈サイバネティクスに基づく戦争〉の失敗とあいまって、次の時代には「上からの改良」をおこなう専門家に対する不信を引き起こします。この時期の典型例とはいえないものの、象徴的でありかつ影響力が大きかったムーブメントに、ランド研究所による国家予算編成の合理化の試み(PPBS)があるのですが[1]、それに携わった人たちが書いたものを読むと、「科学的な手法に基づく理性的で計画的な介入によって世の中は良くなる」というシンプルなヴィジョンに貫かれていることに印象づけられます[2]。こうしたものと比べると、サンスティーンの書きぶりはまったく異なりますね。あいだに──さっき述べた──「エリート主義への不信」の時代が挟まっているからでもあるでしょうが、まず「一発で正解にたどり着ける」という発想がない。サンスティーンの書いたものだけを読んでいると、やはり「正しい科学的なやり方で衆庶を正解に導く」という発想は感じられるかもしれませんが、しかし1950-60年代のエリートたちに比べればその側面は遥かに弱く・マイルドに見えます。失敗も見込んだうえで政策を実験的に改善していくことを強調するのは、50〜60年代のエリートたちの理性主義が頓挫したあとにおけるエリート主義の新しい形にみえて、非常に面白いと思いました。

[1]予算編成にまつわる行政学における論争をうかがえるものとしてアーロン・ウィルダフスキー『予算編成の政治学』(小島 昭訳、勁草書房、1972年(原著は1964年))がある。
[2]ランド研究所を紹介した著作の一つは、いみじくも『理性の闘志たち(Soldiers of Reason)』と題されています。アレックス・アベラ『ランド:世界を支配した研究所』(文春文庫、2011年)。

 
吉良貴之: アメリカのエリート主義の転換というのは面白いですね。60年代やそれ以前だと、エリートたちの理性信仰が牽引していた実験も大きなものが多かったんでしょう。たとえばもっと昔になりますが、ニューディール政策は社会全体でガチの実験やっちゃってるわけです。その後もデカい実験がいろいろとあったと思いますが、それと比べて現在、ナッジをやっているアメリカのエリートたちはなんかショボい。社会全体での行政の実験が無理になって、仕方ないからローカルに自分の持ち場で改善をしていく。そこで理性信仰がなくなったわけではないんですけど、社会全体での実験という大それたことよりも、自分の持ち場をなんとか最適化していこう、という方向にエリートの仕事が小さくなっていったんだと思います。
 
酒井泰斗: 1930年代のニューディール政策も1960年代の「偉大な社会」構想も、合衆国における「上からの社会改良」という伝統の一コマですが、そうした基調的な動きからの ベトナム戦争後の転換というのはやはり大きかったのでしょうね。特に、ジョンソンからニクソンに切り替わった時点で予算の極端な削減があり、そのあとは行政を小さくする方向が基調になったことを考え合わせると、サンスティーンの書きぶりには「その前提のうえで、でももうちょっと頑張っていこうよ」という「新規巻き直し」のニュアンスも感じます。少し読み込みすぎかもしれませんが、ざっくりそんな印象をもちました。
 
吉良貴之: たしかに予算少ないところで頑張っているのでつらい感じはあるんですけどね。
 


■エリート主義と左翼運動
 
環原望: 個人的に面白いのは、1960年代の社会全体をあつかうエリート主義的構想から個別な問題への動きの流れが、思想としては真逆なのに、時代的にも左翼運動史とパラレルなところがある点です。ある意味ではマルクス=レーニン主義の前衛党もエリート主義的ですが、60年代はフランスにしろ、日本にしろ、メインの共産党の権威がスターリン批判によった揺らいだことにより新左翼諸党派が出てきて、68年を契機に70年代以降どんどんマイノリティ闘争などの個別問題に向かっていく。ドゥルーズはガタリとともに、「ミクロ政治学」という、個々のミクロな権力に着目して政治を分析していくための概念を作り出していますが、これも同時期のマイノリティによる闘争に寄り添って生まれた概念でしょう。マイノリティ闘争がどんどんポリコレなどに吸収されていったり、ドゥルーズがみた管理社会の背景などが、結局、ビッグデータによる統治に収斂していってしまったということも左派的な文脈の議論ではよく言われていると思うのですが、アメリカのエリート主義とパラレルな結びつきがあるのは面白いですね。
 
酒井泰斗: 「68年の思想」には、1960年代の理性主義的で技術主義的なエリート主義に対する闘争という側面も含まれていたのではないでしょうか。「68年」の次の時代に・入れ替わりに前景化するのが1980-90年代の保守革命ですが、そこでは、60年代末から70年代にかけて左派・リベラルの影響が大きくなった大学に居づらくなった保守系の学者たちがシンクタンクに席を移し、1980年代には そこから新たな影響力をふるい始める──いわゆる「ネオコン」の出撃地になる──という事情がありました(横江公美『第五の権力:アメリカのシンクタンク』文藝春秋、2004年)。そして大学に残った左翼・リベラルたちの方は、同じ時期に、後に「文化左翼」として批判を受けることになる事態を準備することになります(リチャード・ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』晃洋書房、2000年)。
 
吉良貴之: 左翼運動からみていく場合、日本やヨーロッパを考えると課題がしょぼくなってきたというか、「資本主義打倒!」みたいな大きなことは言わなくなったというのはありますよね。日本ではSDGsに対する反発も流行してたりして(斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年)、まだそこまででもないんですが、ヨーロッパだとはっきり、エコロジーが左側の第一の課題になってます。緑の党が議席をどんどん取るようになった。ナッジとエコロジー実践って、ゴミをこんなふうに減らしましたとか、いろんな実験ができるのですごく相性がいいんですよ。ナッジみたいないかにもアメリカっぽいプラグマティックな手法が、アメリカ以外でも受け入れられているのはそういう運動の背景もあるのかなと思います。
 
環原望: ミクロな政治をやろうとした結果、逆に資本主義のど真ん中なところに簒奪されちゃったというのはよく聞くんですが、公共政策としてそういうのを実践していったりとか、エコロジーとナッジの関係はなるほどと思いました。
 


■ナッジとアナキズム、強制と階層化
 
レガスピ: アナキズムの話もしてみます。これはものすごく曖昧な仮定なんですが、もしプルードンがナッジを知ったらどんな反応をするのかというのは気になりますね。そもそもアナキズムは、まず資本家と労働者という相容れない存在があり、労働者の労働力が資本家にいいように食いつぶされているという資本主義社会の現状を改革しようという機運から出てきたもので、その中でプルードンは階層化というのを嫌ったんです。たとえばヘーゲルの弁証法もプルードンは否定してしまう(山下正男「プルードンと『正義』」河野健二編『プルードン研究』岩波書店、1974年)。というのも弁証法はテーゼとアンチテーゼが止揚してジンテーゼができる、という考え方なんですが、止揚したあとのジンテーゼとテーゼ・アンチテーゼの間には階層化がなされているわけですよね。ナッジは階層化の視点からみるとすごく捉えがたい概念だと思います。もしプルードンが現代によみがえってナッジを目にしたとき、それが対等な関係にあるものなのか、階層的関係にあるものなのか、いずれを取るのかは気になる点です。それこそエリート主義への批判も考えられるんですが。
 
吉良貴之: ナッジがアナキズムにとって敵か味方かというと、わりと使いやすい部分もあると思うんですよね。今回の本は公共政策をテーマにしているので、国家のエリートたちが上からナッジしてくるイメージなんだけれども、民間で勝手になされる草の根ナッジが国家の上からナッジを打ち消してしまう、そんなこともありうるわけです。それが「階層化」をなくす方法になるかどうかはわかりませんが、その可能性はありそうに思います。
 
 もう一点、そういう状況が国家権力にとってうれしいことかどうかも考えてみたいんですね。というのも最近、「自粛要請」という不思議な言葉が使われていますけど、これって国家権力が国民の行動を変えるオーソドックスなやり方では全然ないんですよね。国民の行動を変えたとしたら、国家権力側としては「俺たちがやったんだ!」と胸を張って言いたいところもあるんじゃないかと思うんですよ。でも、今の自粛要請はもうみなさんのほうでやってくださいと、社会規範というか、私的な秩序形成のほうに投げちゃっています。そういうことも踏まえると、民間でナッジがこれだけ流行っているのはアナキズム的な非階層的秩序形成につながる面もあるのかなと思いました。というか、国家権力の側ももうそれでいいっすよという感じになっている。
 
レガスピ: たしかに、ナッジされない人間はいないわけですよね。ナッジのことを考える人もコンビニの間隔のあいた線に従っちゃうこともあるわけで。
 

環原望: プルードンが考えていたアナキズムの元々の単位は職人的な労働者の小さな組合で、そのアソシエーションがゆるやかに連合していくイメージなので、個々のアソシエーションを統合するものとしての公共政策的なナッジはプルードンの構想からは出てこない気もします。2000年代のはじめに柄谷行人が組織したNAMは、資本主義の外部に交換や流通のシステムをつくって少しずつ移行していくためのアソシエーションの形成が理念として掲げられていたのですが、資本主義の外部の生産機構でつくられたものも、けっきょく既存の資本主義の市場に対して競争をしなければならないというときに、例えば農業生産におけるエコロジー的な試みをナッジ的にアピールしていくことができたりするとは思うんですよね。でもナッジと広告代理店的なものって相性がいいのでけっきょく広告合戦になるというか、それに広告勝負になっちゃうとアナキズムには分が悪いんじゃないかと思ったりして…脱線しまくったんですが、ナッジが広告というところまで行っちゃうとナッジの統治やそういうところの理念もなくなって、ただ行動経済学的なものとビジネスが結びついて一人歩きするだけになっちゃうんじゃないかと思いました。
 
吉良貴之: 「広告勝負」ですか、たしかにそういうところもありますよね。よくわからないけどナッジってキラキラしたものというイメージがあるみたいです。
 
 私はアナキズムの具体的な運動は知らないんですが、アナキズムにとって、アソシエーションする人々と国家が広告勝負になっちゃうのは分が悪いのかどうか。案外そうでもないんじゃないかと思ったんですよね。というのも、古典的にいえば国家を特徴づけるものは正統な暴力の独占です。でも暴力を背景とした強制は人もお金も必要で面倒だから、もうちょっとお手軽な行動変容の手段としてナッジが使われ始めた。といった具合に、国家がせっかくの自分の持ち味である暴力を手放して、広告勝負という同じ土俵に降りてくれているのはアナキズムとしては有利じゃないですか?
 
環原望: 広告というものが暴力から切り離されていて、かつ、ナッジが安価なツールという側面はあると思います。そもそも行動のデータを大規模に集めてその分析の結果を実行に移して、広告を出しまくって人々の行動変容に導くのは、たとえば国が大規模に補償してロックダウンするよりは自粛要請のほうが安上がりだという規模感では安上がりだと思うんです。でも、民間の弱小で分散的な運動と国家や大企業との闘争とではテクノロジーの面も含めて不均衡があるとは思いました。
 
吉良貴之: 話を面白くするためにさっきの話をひっくり返しますが、ナッジは安上がりかっていうとそうでもない部分もあるんですね。ナッジで人々の行動を変容させる実験をしていく、ということができるようになったのは、ビッグデータを集積してそれをAIで分析できるようになったから、という技術的な背景も大きいわけです。そういう手段を持っているのは国家や、GAFAなどの大きなIT企業に限られるので、そこの格差ははっきりあります。私たちの手元にあるスマホで計算できるくらいのナッジの実験で国家に対抗できるかというと、ある程度はできなくもないかなと思うんですけど、相手が大きすぎますね。
 
環原望: この前にやっていたハキム・ベイ『T.A.Z.』(インパクト出版会、1997年)読書会でも、インターネット黎明期のアナキズムの期待とその後の運動への幻滅については話題に上っていたんですが、そのへんはどうでしょう。
 

レガスピ: やっぱりナッジがゆるいものというのが一番肝なんじゃないかと思います。ゆるいからこそ表立って責められないことに気持ち悪さがある。僕は「ナッジは気持ち悪い」というよりは、ナッジを強権的なものと言いきれない歯痒さに気持ち悪さを感じます。
 

吉良貴之: ゴリゴリの暴力ではないので抵抗しにくいところはありますね。「嫌だったら従わなくていいですよ(ニコニコ)」って言われるだけなので、拳の持っていきようがない。
 


■ナッジと日本のコロナ対策
 
環原望: コロナ禍で要請されている自粛でも、国家が権力を振るうことを放棄したことが糾弾されているように思います。自粛要請・緊急事態宣言などのナッジ的な動きをしていることに対して、自粛要請をするんだったら補償しろとか、もっと強権的にロックダウンして補償を出せとか、国家が権力を発揮すべき場所で発揮しない、という文脈での批判をよく目にします。今の日本の対コロナ政策の状況を見てると、ナッジは失敗した場合、やってる感を出しても何もやってないように見えてしまうんだなというふうに思いますね。
 
吉良貴之: 今の日本の左側の人々としては、国家に対する抵抗がやりにくくなってる面はあると思います。今の政府がやってることって、あんまり強権的じゃないんですよね。すごく頼りない感じで。やってないことを批判するのってけっこう難しいんですよ。例外としてはたとえば、自粛要請に従わない飲食店に融資をしないように金融機関に働きかけようかみたいな話がありましたけど、あれはかなり露骨に強権的だったので一斉に燃え上がった。でもそういうわかりやすいターゲットは正直少ない。それは狡猾なのか、単に積極的なことができなくなっているだけなのかはわかりにくいですね。
 
幸村燕: 権力を発揮しないことは責任を引き受けないことにつながりますよね。ナッジが失敗を許容して政策されているということであれば、ナッジ的なものを作って失敗した場合、それは設計されたものの中で選択したわれわれに責任が返ってきて、設計段階での責任性はどんどん分散される。ロックダウンとかだったら国が全面的に責任を引き受けるんですけど、単純な自粛は、自粛を守らない人の選択が批判されるだけで、国家規模の責任が不可視化される。責任をとらなくてもいい、そもそも責任がない。
 
酒井泰斗: いま話題になっている日本におけるコロナ「対策」の基調は、自分が手を下すナッジではなくて、自分自身の手は下さない「忖度」とか「相互監視」ではないですか。日本政府はナッジすらやってくれない、という問題のような。
 

吉良貴之: 日本政府がナッジすらやってくれないのかどうかというと、まあ、やってる部分もないわけじゃないんですよね。たとえば「GoToキャンペーン」とかあったじゃないですか。あれは経済的インセンティブを与えているので典型的なナッジではないんですが、まあ、本書の趣旨からすれば広義のナッジになります。あれは失敗だったとほとんどの人が思ってるでしょうが、やってみたけど評判が悪いのですぐ取り下げます、というのがこのコロナの一、二年、すごく多いんです。なのに政治責任に結びついていないのも問題だろうし、失敗を通した改善にもつながってなさそうなのも根深い問題のように思います。
 
■ナッジとゲーミフィケーション
 
レガスピ: 「手段パターナリズム」と「目的パターナリズム」(97-99頁)という分け方はずるいと思いましたね。つまり、人間の判断を直接的なものと間接的なものに分けて、前者が目的、後者が手段に相当するんですが、手段パターナリズムは要は「秋茄子は嫁に食わすな」ですよね(秋茄子は体を冷やすから大事な嫁に食わすな)。ナッジは手段と目的をかなり結びつけやすい側面もあって、その場合手段と目的の間には微差しかないだろうと思ったんですよね。手段を誘導したらそりゃ目的に見合うでしょうとは思ったところです。
 
吉良貴之: 手段パターナリズムといって、私たちがやってることはあくまでみなさんの目的をよりよく実現するための手助けですよと言っているけれども、実際には目的そのものを誘導していると。サンスティーンもそう簡単に分けられないと釘を刺しているので、それはそうなんでしょうね。
 
レガスピ: それとサンスティーンはFEAST(49頁)というナッジの五つの前提を出しているんですけど、F(=Fun、楽しい)は最近話題になっているゲーミフィケーション(gamification)に近いと思いました。Wii Fitみたいにエクササイズやヨガなどの運動そのものをゲームにして健康増進を促すことが一例としてあります。ナッジとゲーミフィケーションはわりと近いところにあると思います。ゲームで楽しく健康になればいいよねというのと、ナッジは似ている。
 
吉良貴之: ゲームというときにどんな要素を考えるかですよね。これまでのナッジだと従うか従わないかの二択しかないけど、ゲームは段階を踏みますよね。こうしたら相手はこうくる、とか。そういう読みの入った複雑な段階の入ったナッジが出てきているのかなと。この本でいえば年金の積立の例(59頁)などは人生全体のことで、時間的スパンのある事柄についてはゲームの知見がナッジに応用しやすそうかなと思います。
 
レガスピ: 道に落ちてるゴミを拾ってあるところに持っていくとスマホのアプリと連動してポイントが加算されて、そのポイントで自分の持っているキャラクターが育つ、みたいな感じですかね。
 
 さっき民間企業のナッジを法で規制するという話が出てきたと思うんですが、ナッジを法で規制する際、悪いナッジの区分をどこで設けるのか気になりました。
 
吉良貴之: たとえば企業のやりそうな悪いことについての知恵は労働法や消費者法に蓄積されてるので、ナッジという形で出てきてもわりと見つけやすいんじゃないかなあ?と思いますが、まあどうでしょうね。手段が新しくなっただけで、裏にある悪知恵はそんなに変わらない気がします。
 
環原望: ビッグデータを持ったIT企業のナッジにかんして、欧州のGDPR(一般データ保護規則)などのかたちで、ナッジをやるための個人情報データの収集を規制していくのもありますね。
 

吉良貴之: ヨーロッパはGDPRでGAFAと全面戦争してますね。GAFAはまだそこそこ言うことを聞いてくれているけれども、それ以外の新興企業がデータを蓄積していくのにどう対抗していくのかは大変な気がします。
 

レガスピ: この本を読んで思い出したんですけど、東浩紀『一般意志2.0』(講談社文庫、2015年)で無意識のアーキテクチャの話をしているんですよね。彼が言うのはあくまで民主主義の話なんですが、人々の無意識を可視化して政治に反映してよりよい政策決定に向かわせるということを話していて、これとナッジはパラレルな気がしました。ナッジの形成にかかわる人の数を増やすべきなのかなと考えていて、トライ&エラーといっても、ナッジの形成にもっと多様な意見があってしかるべきとは思うところです。
 
吉良貴之: 最近、サンスティーンとカーネマンとシボニーが『ノイズ』という本を出しまして、効果的なナッジを作るにはそれに従ったり従わなかったりする人の多様性が重要なんだけれども、その多様性が偏っていると困る。そこで多様性のデザインが重要なんだといったことが書かれてあります。これはそのうち翻訳も出るでしょうから、ご関心があればぜひ。
 
 といったところで、まだ話が尽きませんが、二時間を過ぎてきましたので、このあたりでお開きにしましょうか。今回のように学生の方が中心になって、こういった読書会が開かれることはたいへん意義深いことだと思います。刺激的な意見もたくさんで、私としても勉強になりましたし、本書を訳して本当によかったと思いました。
 
 こういう読書会はネットのおかげでやりやすくなりましたし、みなさんどんどんやってもらえればと思います。本を一人で読んではいけません(笑)。著者・訳者などともツイッターなどを通じて連絡が取りやすくなりましたし、私のようにほいほい出てくる人もけっこういますので、遠慮なしに呼びたい人をどんどん呼ぶとよいと思います。それではどうもありがとうございました。
 
全員: ありがとうございました!
 
 
 
[あとがき] 約二時間の短いあいだに多くのテーマが飛び交い、多くの視点が提示され、一参加者として大いに刺激を受けました。ナッジは使いようによっては非常に強力な武器にもなれば、非常に危険な道具にもなります。この文章を読み終えた今、外に出てみればありとあらゆるナッジが身の回りにあふれていることに気づくことかと思います。今一度、それらと自分自身がどんな関係をとり結んでいるか、あるいはとり結ぶことになるのか、考えてみるのもいいかもしれません。それはきっとナッジを私たちの手元に引き寄せるための、ひいては私たちとナッジの関係を更新するための契機となるからです。(レガスピ/主催者)
 


 
参照文献
東浩紀『一般意志2.0:ルソー、フロイト、グーグル』(講談社文庫、2015年)
アレックス・アベラ(牧野洋訳)『ランド: 世界を支配した研究所』(文春文庫、2011年)
アーロン・ウィルダフスキー(小島昭訳)『予算編成の政治学』(勁草書房、1972年)
伊藤計劃『ハーモニー』(ハヤカワ文庫、2010)
エイドリアン・ヴァーミュール(吉良貴之訳)『リスクの立憲主義』(勁草書房、2019年)
大窪一志『アナキズムの再生』(モナド新書、2010年)
梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』(NHK出版新書、2017年)
吉良貴之「行政国家と行政立憲主義の法原理」『法の理論 39』(成文堂、2021年)
ジョン・ギリン編(十時厳周ほか訳)『人間科学の展開:社会学・心理学・人類学の交流による』(早稲田大学出版部、1961年(原著は1949年))
國分功一郎・熊谷晋一郎『〈責任〉の生成:中動態と当事者研究』(新曜社、2020年)
小山虎編『信頼を考える:リヴァイアサンから人工知能まで』 (勁草書房、2018年)
斎藤幸平『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年
フランチェスカ・ジーノ(ハーバード・ビジネス・スクール教授)「あなたのちょっとした工夫が、不合理な人たちを合理的に動かす」(ハーバード・ビジネスレビュー、2015.12.16)(記事原文)
武邑光裕『さよなら、インターネット:GDPRはネットとデータをどう変えるのか』(ダイヤモンド社、2018年)
カート・ダンジガー(河野哲也ほか訳)『心を名づけること:心理学の社会的構成』(勁草書房、2005年)
道垣内弘人『リーガルベイシス民法入門』(日本経済新聞出版、2014年)
西井開『「非モテ」からはじめる男性学』(集英社新書、2021年)
西山真司『信頼の政治理論』(名古屋大学出版会、2019年)
那須耕介・橋本努 編『ナッジ!?:自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』(勁草書房、2020年)
那須耕介・橋本努・吉良貴之・瑞慶山広大『ナッジ!したいですか?されたいですか?:する側の勘定、される側の感情』(勁草書房、2020年)
タルコット・パーソンズ(佐藤勉訳)『社会体系論』(青木書店、1974年)
パーソンズ&シルス(永井道雄ほか訳)『行為の総合理論をめざして』(日本評論新社、1960年)
ハキム・ベイ(箕輪裕訳)『T.A.Z.:一時的自律ゾーン』(インパクト出版会、1997年)
松村真宏『仕掛学:人を動かすアイデアのつくり方』(東洋経済新報社、2016年)
山川雄巳『アメリカ政治学研究』(世界思想社、1977年/1982年)
山下正男「プルードンと『正義』」、河野健二編『プルードン研究』(岩波書店、1974年)
横江公美『第五の権力:アメリカのシンクタンク』(文藝春秋、2004年)
吉永剛志『NAM総括:運動の未来のために』(航思社、2021年)
ラルフ・リントン編(池島重信ほか訳)『世界危機における人間科学』(実業之日本社、1952年(原著は1945年)))
リチャード・ローティ(小沢照彦訳)『アメリカ 未完のプロジェクト:20世紀アメリカにおける左翼思想』(晃洋書房、2000年)
Daniel Kahneman, Olivier Sibony, Cass R. Sunstein, Noise: A Flaw in Human Judgment, Little, Brown Spark, 2021
Cass R. Sunstein, Sludge, The MIT Press, 2021
 
 
■参加者紹介■
 
野川真瑚(レガスピ): 本読書会の主催者。大阪大学外国語学部外国語学科スワヒリ語専攻3年(当時)。
 


吉良貴之(@tkira26): 法哲学専攻。東京大学法学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程満期退学。現在、宇都宮共和大学専任講師。主な研究テーマは世代間正義論、法の時間論、法と科学技術など。主な論文として「世代間正義論」(『国家学会雑誌』119 巻5-6号、2006 年)、「将来を適切に切り分けること」(『現代思想』2019 年8 月号)。翻訳にエイドリアン・ヴァーミュール『リスクの立憲主義』(勁草書房、2019 年)、シーラ・ジャサノフ『法廷に立つ科学』(監訳、勁草書房、2015 年)など。
★Website: https://jj57010.web.fc2.com
 


酒井泰斗(@contractio): 会社員。専門はインタフェース・デザイン。ルーマン・フォーラム管理人。学術的関心領域は道徳科学史、社会科学方法論争史、行動科学史。主な執筆物に「〈思想の管理マネジメント〉の部分課題としての研究支援」(荒木優太編著『在野研究ビギナーズ』、明石書店、2019年)、「キャラ化された実存主義:原田まりる『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』を読む」(『フィルカル』 4-1、ミュー、2019年)など。
★Website: http://socio-logic.jp
 


幸村燕(@welcome_to_neet):クマ財団クリエイター奨学金5期生(小説枠)。『「模範的社会人」になるための自己啓発読書会』(https://note.com/amour08/m/m88cbb8ffafa2)/早稲田大学闇のSF感傷マゾ研究会など複数の読書会(note公開)や座談会(youtube公開)を主催している。
 


環原望(@Man_with_a_MC):早稲田大学文学部卒。現在、会社員。文芸同人pabulum所属。「HEAVEN2020」や前衛批評集団「大失敗」等にも参加し、小説を寄稿。
 
 
 


2021年7月刊行!
キャス・サンスティーン 著/吉良貴之 訳
『入門・行動科学と公共政策 ナッジからはじまる自由論と幸福論』https://www.keisoshobo.co.jp/book/b584353.html
ISBN:978-4-326-55086-9 四六判・192ページ 価格1,980円(税込)
 
ナッジの使い方から思想まで、本家サンスティーンによるコンビニエンスストア開店! ポスト・コロナ時代の新たな公共政策へ!
※本書の「目次扉(要約)」「第1章 イントロダクション」「訳者あとがき」をたちよみ公開しています。→【こちらでご覧ください】
 


2020年12月刊行!
那須耕介・橋本努・吉良貴之・瑞慶山広大 著
『ナッジ! したいですか? されたいですか?  される側の感情、する側の勘定』https://www.keisoshobo.co.jp/book/b553349.html
ISBN: 978-4-326-99955-2 電子書籍のみ 価格550円(税込)
 
2020年8月に開催された『ナッジ!?』刊行記念のオンライン・トークイベントの内容を1冊にまとめました。法哲学と憲法の若手研究者二人が『ナッジ!?』編者二人と討議するとともに、イベント参加者からたくさんもらった質問にていねいに答えたやりとりは、巷間話題にのぼるナッジのさらなる理解に役立つ内容です。