あとがきたちよみ 本たちの周辺

あとがきたちよみ
『サイバーパンク・アメリカ 増補新版』

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
巽 孝之 著
『サイバーパンク・アメリカ 増補新版』

「ボヘミアン・ラプソディ電脳篇──増補新版へのあとがき」(pdfファイルへのリンク)〉
〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
 

*サンプル画像はクリックで拡大します。「ボヘミアン・ラプソディ電脳篇──増補新版へのあとがき」の本文はサンプル画像の下に続いています。


 


ボヘミアン・ラプソディ電脳篇──増補新版へのあとがき
 
 いまでも二つの瞬間を、つい昨日のように思い出す。
 ひとつは一九八五年夏のテキサス州オースティンで、初めてのサイバーパンク・パネルが終わった直後、初対面を遂げたブルース・スターリングが「おれたちの時代が来たのさ!」と満面の笑みを浮かべ自信たっぷりに豪語した時だ。雲ひとつない晴天だった。ただでさえ暑いテキサスがますます熱くなった。
 もうひとつは一九八六年春のワシントンDCで、初めてのウィリアム・ギブスンとのインタビューを終えたあと、サイバーパンク批評誌〈SFアイ〉創刊準備中のスティーヴ・ブラウン編集長が「一緒にやろうぜ!」と誘ってくれた時だ。夕暮れのホテルのプールサイドで、傾けていたシャンパンで乾杯した。
 それから五年を経た一九九一年。
 ギブスンとスターリングはその前年九〇年に「両者にとっての最高傑作」とすら絶賛された共作長編『ディファレンス・エンジン』を発表し、サイバーパンクの評価は一つの文学的頂点を極めた。その翌年にはポストモダン文学者ラリイ・マキャフリイ編纂になるサイバーパンク必携『現実スタジオの急襲』Storming the Reality Studio(デューク大学出版局、一九九一年)が刊行され、現代アメリカ文学研究という文脈にもこの運動はしっかりと根を下ろす。
 ところがまったく同じこの九一年に、運動の中枢だったルイス・シャイナーが「元サイバーパンク作家の告白」“Confessions of an Ex-Cyberpunk” を〈ニューヨーク・タイムズ〉一月七日付に、スターリングが「九十年代のサイバーパンク」“Cyberpunk in the Nineties” と題する事実上の「サイバーパンク運動終結宣言」を英国SF誌〈インターゾーン〉六月号に、相次いで発表する。
 シャイナーは同論考で、サイバーパンクが得意としたウェットウェア埋め込みや多国籍企業支配、ストリート文化、革ジャン&アンフェタミン中毒患者、それに荒廃した軌道上コロニーといった設定がもはや多くの作家たちの乱用する紋切り型(クリシエ)に堕してしまったがゆえに、運動としての意味はなくなってしまったこと、にもかかわらず皮肉にも、形骸化したサイバーパンクという記号はコンピュータ犯罪を話題にする主流文化へ逃げ延び、インターネット以後の世界を描くノンフィクション作家たちが好んで取り上げるところとなったことを説く。
 それを承けたスターリングはこの終結宣言で、サイバーパンクの本質を一九八〇年代における「ボヘミアからの声」に求め、それが現代社会に解き放たれたハイテクやそれに伴う社会的変化が対抗文化(カウンターカルチユア)に影響するようになった現象の文学的化身だったことを再確認した上で、こう断言する。「だが、サイバーパンクたち──辛抱強く技術を磨いて印税の小切手を現金に換えている四十歳前後になったベテランSF作家たち──は、もはやアンダーグラウンドのボヘミアンではない」(「80年代サイバーパンク終結宣言」、山岸真編『90年代SF傑作選』[早川書房、二〇〇二年]上巻所収、金子浩訳、489頁)。
 スターリングのいうボヘミアンは、その起源を辿れば古く十五世紀ごろ、現在のチェコにあたるボヘミア地方からフランスに流入したジプシーにまで行き着くが、それは十九世紀になると、伝統や習慣にこだわることなく自由奔放、世間に背を向け定住を嫌う芸術家気質一般の意味に転じている。その要因はフランス作家アンリ・ムルジェールがパリの芸術家たちとその恋人たちの無軌道な暮らしを生き生きと描き出した小説『ボヘミアン生活の情景』(一八五一年)にある。同書に啓発されたイタリアの作曲家ジャコモ・プッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』(一八九六年)も人気を博したが、昨今ではイギリスのロックバンド・クイーンが歌った「ボヘミアン・ラプソディ」(一九七五年)を想起すればよい。ボヘミアンのサイバーパンク版がアウトロー・テクノロジストであり、サイバースペース・カウボーイなのだ。スターリングはそうしたサイバネティック・ボヘミアンの精神を表現するべく、荒涼たるヨーロッパで文明を建て直そうとするペイザージ市の一派と荒野でハイテク魑魅魍魎を創造しては文明社会へ送り込み撹乱しようとする〈コンヴェンション〉の一派の対立を描く傑作短篇「ボヘミアの岸辺」(一九九〇年、嶋田洋一訳『グローバル・ヘッド』[原著一九九二年、ジャストシステム、一九九七年]所収)を発表したほどである。ところが、運動の成果か悪影響なのか、予想以上にサイバーパンクが現代文化全体に浸透し通俗化してしまったために、中心的作家たちは早々と看板を降ろす羽目になったというわけだ。
 スターリングの回想によれば、最初のサイバーパンク宣言は、彼がヴィンセント・オムニアヴェリタス名義で一九八五年、〈インターゾーン〉十四号に発表した論考「新しいSF」(New Science Fiction)だったという。したがって、その時点から一九九一年のサイバーパンク終結宣言まで足掛け六年が、本来ならば本書がカバーすべき範囲であったことは、ここに明記しておきたい。その意味において、八八年刊行の本書は、明らかに中間報告にすぎない。
     *
 とはいえ一九八七年の夏、三年間のアメリカ留学から帰国したばかりの三十二歳の私に、将来の展開など予測しようもなかった。サイバーパンク運動の興奮冷めやらぬまま、人生最初の単著をどうすべきか、決定的とも言える分岐点を前に立ち尽くしていた。
 ひとつの選択肢は、本来の専門である十九世紀アメリカ・ロマン派文学研究の分野で、コーネル大学大学院で完成させた博士号請求論文を何らかの形で出版すること。
 そしてもうひとつの選択肢は、長年愛してやまぬSFの分野で、一九八〇年代アメリカ最大の台風の眼サイバーパンク運動をめぐるドキュメンタリーを出版すること。
 この分岐点の感覚は、二十世紀末を彩ったサイバーパンク映画の傑作『マトリックス』(一九九九年)で、モーフィアスが主人公ネオに迫る二者択一に近い。彼は言う。
「青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう」。
 ウォシャウスキー兄弟(当時。現在は姉妹)は同作品を監督するのに十九世紀英国作家ルイス・キャロルが一八六五年、少女アリスを主役に描いた地底の「不思議の国」を念頭に置いたが、北米が舞台となれば、さしずめアメリカ初の童話作家ライマン・フランク・ボウムが世紀転換期に少女ドロシーを主役に据えた天空の「オズの国」ということになるだろうか。げんに、ギブスンが崇拝するポストモダン作家トマス・ピンチョンや北米マジック・リアリズム作家スティーヴ・エリクソンなど『オズの不思議な魔法使い』(一九〇〇年)に傾倒するアメリカ作家は数多い。
 そのひそみに倣えば、さあ懐かしの古き良きカンザスに帰るのか、まだまだ何が起こるかわからないオズの国に留まるのか?
 俗に最初の一冊というのは、のちのちまで書き手のキャリアへ影響すると言われるだけに、この選択には、慎重に慎重を期さねばならなかった。日本における英米文学研究のアカデミズムでデビューしたばかりの大学講師(現在でいう助教)にとって、コーネル大学大学院における三年間の留学の成果は、何をおいても優先すべきものである。それを真っ先に発表することこそ、勤務先に対してもフルブライト奨学金に対しても一番の礼儀だろう。ふつうなら正統的な研究の方を「青い薬」として、迷うことなく飲み込むべきなのである。
 にもかかわらず、さんざん迷った末に、私は現在進行形でまだ収束してもいないSF運動を追いかけたジャーナリズムの集積を、人生最初の単著とする決断を下した。あえて「赤い薬」を飲み、もうしばらくの間だけ、「不思議の国」ならぬ「オズの国」に留まろうとしたのだ。
 十九世紀アメリカ文学研究はすでに基礎的な方法論の確立した古典研究であるから、青二才がそう焦らなくても、いずれじっくり時間をかけ膨大な先行研究を読みこなし調査を尽くせば、練り上げることができる。断言するなら、時間と労力さえかければいつかは書ける。ところが、今日のようなインターネットもスマートフォンもSNSもアマゾン・ドットコムすらも存在しない八十年代中葉、まさに留学期間と一致する形で私個人がたまたま具体的に目撃し取材し証言することになったサイバーパンク運動はといえば、それを語る方法論も未知数で先行研究など一切存在しなかったからこそ、絶大な勢いがあった。ロナルド・レーガン政権下で「戦略防衛構想(ストラテジツク・デイフエンス・イニシアテイヴ)」略称SDI、いわゆるスターウォーズ構想が樹立されセンセーションを巻き起こしていた米ソ冷戦末期の時代、『SFアイ』編集委員としてサイバーパンクスと伴走することで残してきたジャーナリスティックな仕事には、最もフレッシュな八〇年代的瞬間がそっくりそのまま記録されており、その集大成はそれ自体が以後の第一次資料になるものと思われた。当事者のみが持つ活力はその時期、その場所でなければ絶対につかまえられない。
 現存する作家たちである限り、やがて彼らは、先行するさまざまな文学運動と同様、運動自体を卒業し、それに囚われることなく成熟して、個々のスタイルを確立していくだろう。彼らの業績は、やがて個々の作家研究において評価されるであろう。その時、若き日に加担していた運動のことは、とうに忘れられているかもしれない。だが、サイバーパンク運動がなかったら彼らの文学的文化的意義も半減していたであろうこともまた、事実なのである。
 だからこそ、たとえ短命に終わろうとも、サイバーパンクという名の運動によって才能ある作家たちが脚光を浴び、インタビューやシンポジウムなどで残したさまざまな足跡を記録しておきたかった。あれらの日々、あれらの場所で、あふれんばかりに発揮された彼らの才気煥発も自己粉飾も傲岸不遜も乱暴狼藉も、今となっては気恥ずかしいかもしれぬ若気の至りだったからこそ、時代を動かす圧倒的なパワーの源泉を成していた。
 かつて二十世紀前半、不世出の学者批評家マルカム・カウリーがF・スコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイ、ハート・クレインら若き北米作家たちとニューヨークやパリで過ごした記録『ロスト・ジェネレーション──異郷からの帰還』Exile’s Return: A Literary Odyssey of the 1920s(初版一九三四年、改訂版五一年、吉田朋正他訳、みすず書房)は、今日では誰もが知るノーベル賞作家を含む俊才たちが一九二〇年代にモダニズム文学運動の中でいかに頭角を表していったかを生き生きと伝えた名著として、広く知られる。カウリーはグリニッジ・ヴィレッジに集ったこの世代の恐るべき作家芸術家たちのことを「ニューヨークのボヘミアン」と呼んでいるので、ひょっとしたらブルース・スターリングが自分たちを新時代のボヘミアンと定義した背景には、同書の影響があったかもしれない。かくして本書は、カウリーの偉業には到底及ばずとも、一九八〇年代の北米でサイバーパンク作家たちと過ごした日々の息吹をなんとか紙面に定着させておくことはできないものかと悪戦苦闘した結果となった。そのような作業は、まだ運動の熱が冷めやらぬ八〇年代後半だったからこそ可能であり、断じて先延ばしにはできなかったのである。
 その意味で、私は本書を一種の青春小説のように綴ったかもしれない。それ自体がサイバーパンクの走りとして再評価が求められる日本SF第一世代の代表格・小松左京による青春SFの傑作『継ぐのは誰か?』(一九六八年)を、〈SFマガジン〉連載当時から愛読していたせいだろうか。とはいえ、具体的に本書を書き進める際にモデルとなったのは、留学中に何度読み返したからわからないフォト・ジャーナリスト吉田ルイ子氏によるニューヨーク黒人文化の克明なドキュメンタリー『ハーレムの熱い日々』(講談社文庫、一九七九年)と東京都立大学名誉教授・金関寿夫氏によるホットな現代作家&芸術家たちへのインタビュー集『アメリカは語る──第一線の芸術家たち』(講談社現代新書、一九八三年)の二冊だったことも、今だからこそ明かしておこう。
 帰国の翌年八八年の二月と四月にはギブスンとスターリングが相次いで来日し、私は彼らと再び対話する機会を得た(その時のインタビュー二篇が本書の実質的な増補部分である)。サイバーパンク運動を通して知り合ったサンディエゴ州立大学教授ラリイ・マキャフリイも八九年春に来日し、ともに岩元巌筑波大学教授の主催する国際会議「日米文化間の認識・誤認・対抗認識」に出演してサイバーパンクを語り、以後は日米現代文学の最先端を探る共同研究の相棒となった。本書が八八年十二月、すなわち昭和最後の月に刊行されたのは、そうした流れの中の必然であった。
 だから、あえてアカデミックな手法を意図的に抑圧したはずの本書が、一九八九年五月には日本アメリカ文学会の重鎮たちを審査員とする日米友好基金賞アメリカ研究図書賞を受賞するに至ったことは、望外の喜びというほかない。八〇年代には依然としてSFは文学的傍流にすぎず、そのような文学サブジャンルを対象とする学問研究は我が国では確立していなかった。その意味で、審査に当たってくださった老練なるアメリカ文学者のお歴々と主催者である日米友好基金が、ありがちな偏見にまったく囚われることなく、本書が孕む未来の可能性に賭けてくださったことは興味深い。それは具体的には、アメリカ文学史に付け加えるべき最新の一ページを提案したことに対する評価であったろう。事実、本書とまったく同じ一九八八年には、第十一章でも述べたとおり、カリフォルニア大学リバーサイド校教授エモリー・エリオットが編集代表を務めた『コロンビア大学版アメリカ合衆国文学史』が刊行されたが、その「現在小説」の項目で早々とウィリアム・ギブスンの作品とともに初めて「サイバーパンク」が記銘されたのは、まさに奇遇であった。
     *
 それでは、本書は一九八八年十二月の初版刊行以降、どんなかたちで受け止められたのか。
 幸運なことに、以後二年間ほどの間に発表された書評は、長短合わせ五十編を超えている。
 そのすべてをご紹介するわけにはいかないが、昭和末期から平成初期へ至る時代の雰囲気を伝えるナマの声として、いくつか精選してお目にかけよう。

ギブスンをはじめ、ブルース・スターリング、ジョン・シャーリイ等十一人の作家、編集者の仕事やその知的背景を追ってインタビューも含めて構成されたのが本書である。小型の本であり、よくある手軽な紹介と思って手にとったら、とんでもない。完璧にとは言えないが、かなりの濃い密度で、今の時代がなぜこの分野を必要としているかが描き出されている。
栗本慎一郎『朝日新聞』02/05/1989
 
B6判二七〇ページの本書を最初に手にとったとき、一七〇〇円はちょっと高いかな、という気がした。しかし読み進んで内容の豊富さに感心し、巻末の三〇ページにも及ぶ細かい活字の「サイバーパンク書誌目録」と「サイバーパンク年表」まできて、むしろ安いという印象にかわった。2月の『朝日新聞』書評欄で栗本慎一郎がいみじくも述べていたように、お手軽なサイバーパンク紹介書ではなく、立派な研究書である。
平山洋『パピルス』05/15/1989
 
この本で巽はフィールドワークに徹する。肉声を集め、コンベンションの「のり」を再現し、ギブスン、スターリング、シャーリイ、ディレイニーとゴキゲンな談義を展開する。俊足のフィールダーの、大リーガー的ハッスルプレイ。いいじゃないか、こういうのって。
佐藤良明『翻訳の世界』03/1989
 
かくして最後に本書は、SFの現実を建設的な言説に再構成してみせたという点において、「SF批評の体裁をとったSF」でもあり、以上述べた存立の構造ゆえにまた、新しい文芸批評のひとつの方向性を示唆するものであると言っても、おそらく過言ではない。
後藤将之『週刊読書人』02/27/1989
 
サイバーパンクの熱気むんむんの中に入っている読者にこんな書評は必要ない。彼らはすでに著者の能力をよく知っている。私はこの機会に、一般的に現代文学に関心のあるひとに本書を勧めたいのだ。そうして本書で論じられ、インタビューされている作家(ギブスンをはじめ、ブルース・スターリング、ジョン・シャーリイ、それからサイバーパンク・プロパーではないがディレイニーなど)の邦訳作品を読んでいただきたい。現在の米国ミニマリズム小説に満足できない読者には特に。
志村正雄『週刊ポスト』04/21/1989
 
ディレイニーは言う、「サイバーパンクという私生児には当然『父』は存在しないが──あるいは、あまりにも父が多すぎて不在同然なのだが──厳然として『母』はいるんだ」と。たしかにこのディレイニーの言葉は、サイバーパンクのみならず本書『サイバーパンク・アメリカ』の陰画までも垣間見せてくれるほど示唆的だ。80年代を刻んだサイバーパンクを語る本書に、もし続編が書かれるとしたら、それは確実に母たちの物語をも綴るにちがいない。
宇沢美子『アメリカ学会会報』11/25/1989
 
そしてサイバーパンクが横断し、習合し、蹂躙したさまざまなクロスオーヴァー・メディアをも内包して、ますます巨大にふくれあがる情報体〈テクストラ・テレストリアル〉が、もし万一「サイバーパンク・ジャパン」について語りだしたとしたら、それこそ正に〈マトリックス〉の神経症、すなわち〈ニューロマンサー〉より他にないだろう。われわれは今、期待不安のように、巽孝之のその発病を待っているのである。
野阿梓『SF─Eye JAPAN』05/1989
 
SF界の動向や作品の紹介に、インタビューや会見記あるいは著者自身のサイバーパンクへの参加記録なども適宜盛りこみ、この流行現象の表舞台と楽屋裏を興味津々に綴ってみせる。ジャーナリスト巽孝之の面目躍如といったところだ。なによりも、気楽に読めるアメリカ80年代SFグラフィティとして歓迎したい。
牧眞司『週刊読書人』01/30/1989
 
特にインタビューというにはあまりにも著者の姿勢は“構成的”なものであって、対話はおうおうにしてスリリングな“誘導尋問”の様相を示す。「運動」の作家や編集者たちもいずれ劣らぬ論客ばかりなので、彼らの撃ち出す「手」もまた楽しめる。サイバーパンクの現状追認をはからずも逸脱してしまったいくつかのパッセージ、そこにこの本のいまひとつの魅力がある。
上野俊哉『図書新聞』03/04/1989
 
もちろん、数々の邦訳も書店に並んではいる。しかし一大ムーヴメントのわりには、その出生の地である米SF界で何が起きているのか、いまひとつ見えないまま、ここまで来てしまった感が強かったのだが、ようやく生々しい現場レポートとでも言うべき好著が出た。
松沢呉一『Crossbeat』04/1989
 
サイバーパンクというムーヴメントがSF界から拡大していく現在、その発生らの過程を至近距離で観察しつづけた著者。彼がW・ギブスン、B・スターリングなどサイバーパンク作家や運動に貢献した雑誌編集者や批評家たちとのインタビューを通じてその現代的な感覚美学を描写する。
無署名『Brutus』04/01/1989
 
本書はこの10年来、W・ギブスンやB・スターリングらを中心に、そんなお上品なSFに鋭くノンをつきつけているサイバー・パンク・ムーヴメントを、作家たちへのインタビューをまじえつつ走査する。
無署名『Elle Japon』02/20/1989
 
 わが友巽孝之はかつてコーネル大学大学院でサミュエル・ディレイニーのもとで学び、一九八七年には本誌『エクストラポレーション』Extrapolation にディレイニー論を寄稿してくれたが、一九八八年に勁草書房から刊行した『サイバーパンク・アメリカ』では、掲載された写真から判断する限り(私は日本語は読めないので)、ディレイニーのみならずギブスンやスターリング、デイヴィッド・ハートウェルまでを論じている。SFの世界はマルチプレックスだ。そこにはわれわれがまだ読みえない多くの兆候や才能がひしめいている。(ドナルド・ハスラー、『エクストラポレーション』一九九〇年春季号)

     *
 最初の一冊にはその書き手の全てがある、と言われる。それは批評家の場合、おそらく以後のキャリアのみならず「のちに花開く理論的可能性の全て」と言い換えることもできよう。もちろん、リアルタイムにおいて、彼または彼女がそんな将来をあらかじめ知るはずもない。
 しかし少なくとも、本書初版あとがきで公約した「サイバーパンク・ジャパン」に関する限り、スティーヴ・ブラウン編集長の勧めで『SFアイ』第12号(一九九三年)に掲載したラリイ・マキャフリイとの共著論文「メタフィクション、サイバーパンクからアヴァンポップへ」“Towards the Theoretical Frontiers of Fiction: From Metafiction and Cyberpunk through Avant-Pop”(マキャフリイ『アヴァン・ポップ』所収[筑摩書房、巽&越川芳明編訳、一九九五年、増補新版が北星堂書店、二〇〇七年])がアメリカSF学会(SFRA)が主催する第5回年間最優秀論文賞パイオニア賞を受賞したのちに、そのエッセンスを二〇〇六年に刊行する英語圏における初の単著『フルメタル・アパッチ──サイバーパンク・ジャパンとアヴァンポップ・アメリカの相互交渉』Full Metal Apache: Transactions between Cyberpunk Japan and Avant-Pop America(デューク大学出版局、二〇〇六年、国際幻想芸術学会[IAFA]学術賞)に取り込むことになった。
 加えて、本書第十章の主役でありサイバーパンクにとっての父型的存在(ファザー・フィギア)サミュエル・ディレイニーから紹介されたカリフォルニア大学サンタバーバラ校教授ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言──一九八〇年代の科学とテクノロジー、そして社会主義フェミニズムについて」(小谷真理訳)は、ディレイニー自身による批判「サイボーグ・フェミニズム──読むことの機能について」(巽訳)とともに月刊誌〈現代思想〉一九八九年九月号に訳載され、そののち、ジェシカ・アマンダ・サーモンスンのアン・マキャフリイ『歌う船』論と合わせた編訳書『サイボーグ・フェミニズム』(トレヴィル、一九九一年、増補新版が水声社、二〇〇一年)にまとまり、バベル・プレスの主催する第二回日本翻訳大賞思想部門賞を受賞するに至る。この時点では、のちにハラウェイの「サイボーグ宣言」が九十年代に勃興する文化研究(カルチュラル・スタディーズ)の聖典(バイブル)として仰ぎ見られ、フェミニスト・サイエンスが促進されるようになるとは、想像もしていなかった。
 さらに言うなら、本書を執筆したことにより、私の中に、北米のサイバーパンク運動に対応して、日本SFはいかなるヴィジョンを示すべきかという問題意識が芽生えたことも、確かなことである。第八章の主役ルイス・シャイナーは当時、この運動の一環としてSFをグローバルにしたいという高邁な志を抱いており、以後の彼はカズコ・ベアレンズの助力を得て、荒巻義雄の一九七〇年代の短編群「柔らかい時計」「緑の太陽」「トロピカル」の英訳にも手を貸したが、特に彼の編纂する反戦アンソロジーのために荒巻が書き下ろした九一年の「ポンラップ群島の平和」が後のベストセラー・シリーズ『紺碧の艦隊』『旭日の艦隊』(一九九〇~二〇〇〇年)の思想的原型を成した点は重要であろう(『定本 荒巻義雄メタSF全集』第二巻[彩流社、二〇一五年]所収)。
 日本SF英訳の前史には一九七〇年代に北米を代表する名伯楽ジュディス・メリルが計画した日本SF傑作選の試みがあるが、のちの一九八九年にはその精神を受け継いだジョン・アポストルーらを編者とするデンブナー社の傑作選(バリケード社より一九九七年に再刊)が、二〇〇七年以降はジーン・ヴァントロイヤー、グラニア・デイヴィスらを編者とする黒田藩プレスの『スペキュラティヴ・ジャパン』)シリーズが出るようになった。さらに二十一世紀に入ると私とマッギル大学教授トマス・ラマールを共同監修者とするミネソタ大学出版局の英訳シリーズ「並行未来(パラレル・フューチャーズ)」がスタート。二〇一七年にはその一環として荒巻SFを代表する長編『神聖代』(一九七八年)がバリオン・ポサダスの英訳でお目見えするばかりか、翌年一八年には和製サイバーパンクの代表格とも言うべき大原まり子の『ハイブリッド・チャイルド』(一九九三年)もジョディ・ベックの英訳でお目見えし、いずれも高い評価を受けている。
 加えて、サイバーパンク批評誌〈SFアイ〉九号(一九九一年十一月)に、「NOと言える日本SF」特集企画を持ち込んだことも記しておこう。そこへ当時、北米において批判が渦巻いていたオースン・スコット・カードの短編「消えた少年たち」(一九八九年)に対し積極的評価をものした名翻訳家・伊藤典夫氏の強力な論考やコニー・ウィリスの問題作「わが愛しの娘たちよ」(一九八四年)を大胆に解読したパンク・フェミニスト小谷真理氏の洞察力あふれる批評を投げ込んだことは、必ずしもアメリカ国内のSF評価のみがスタンダードではないことを示す国際的SF意識の発揚に貢献したはずだ。日本におけるSF批評が北米の言説を追認するだけでなく、時にそれに対して異を唱え応答責任(リスポンシビリティ)を果たそうとする瞬間があることは、もともと環太平洋的な交点を模索していたサイバーパンク詩学にとっても不可欠であった。かくして伊藤論文とともに、スターリングのジュール・ヴェルヌ論(一九八七年)の邦訳に加えその批判を行なった永瀬唯論文をも含めて、のちに私は『日本SF論争史』(勁草書房、二〇〇〇年、第二十一回日本SF大賞受賞作)を編纂したが、ふりかえってみれば同書は「世界SF論争史」への第一歩だったかもしれない。
     *
 何しろ三十三年ぶりの増補新版であるから、語りたいことは山ほどある。
 本来ならば、三十三年の経過においてサイバーパンクSFが以後どんなふうに展開したかを辿る系譜学や代表作分析を行う論考を用意すべきだったかもしれない。少なくともギブスン&スターリングの『ディファレンス・エンジン』の達成をさらに更新した伊藤計劃&円城塔の『屍者の帝国』(二〇一二年)や高野史緒の『カラマーゾフの妹』(二〇一二年)、樋口恭介の『構造素子』(二〇一七年)などは、いずれも二十一世紀の日本SFの収穫として、それぞれが緻密な分析に値しよう。
 だが、あえて言い訳をするなら、ひとつには本書初版刊行時にはまだ生まれてもおらず、にもかかわらず半ば伝説として漏れ聞く本書の復刊を望む若い世代がことのほか多いのをSNS経由で知ったがために、このあとがきでは何よりも初版刊行当時における一九八〇年代後半、すなわち米ソ冷戦末期にして昭和末期という特異な時代の息吹や雰囲気を忠実に復元するのが肝心ではないかと考えたのだ。
 そしてもうひとつには、サイバーパンクのSF史上の意義についてなら、すでに拙著『現代SFのレトリック』(岩波書店、一九九二年/二〇一六年)や編著『ウィリアム・ギブスン』(彩流社、一九九七年、増補改訂版、二〇一五年)において、たっぷりと語っている。さらにその先の国際的発展を見据えたサイバーパンク批評の最新の可能性については、筆者が監修を務めたスイスの学術誌『アーツ』ARTS 二〇一九年の特集号を参照されたい(https : //www.mdpi.com/journal/arts/special_issues/cyberpunk#)。
     *
 最初の単著であった本書の増補新版が刊行される今年二〇二一年は、奇しくも私が三八年間勤務した慶應義塾大学において定年退職記念に最終講義を行い、その内容もまた新たな単著として刊行される年に当たっている。それは、一つの起点から出発した路線が一つの円環を成すかのように一巡し、やがて、当時にはわからなかったその起点自体の意義を再確認する歩みに等しい。
 その結果、私はこの小さな書物が思いのほか、以後の仕事への萌芽を数多く秘めていたことを知った。そんな特権的な増補新版を企画し実現してくださった勁草書房編集部の山田政弘氏には、心から御礼申し上げる。
 末尾になったが、サイバーパンク運動当時、日本において共闘した二人のかけがえのない翻訳家、故・黒丸尚と故・小川隆の両氏に、謹んでこの増補新版を捧げたい。
 
二〇二一年十月四日
於・恵比寿
著者識
(傍点割愛しました)
 
 
banner_atogakitachiyomi