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『幕末開港と日本の近代経済成長』

 
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浅沼信爾・小浜裕久 著
『幕末開港と日本の近代経済成長』

「まえがき」「序章 知りたいこと」「あとがき:開発経済学における日本の経済発展」(pdfファイルへのリンク)〉
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まえがき
 
 明治維新は「もっとも成功した革命である」と言う歴史家もいる.単に「革命」の定義のよるのかもしれないが,われわれは江戸時代のさまざまな蓄積が明治維新と相俟って明治日本の近代化,近代経済成長をもたらしたと考えている.明治維新は,うまくいった構造改革だと考えている.そのことがこの本の英文タイトルにも反映されている.
 われわれはクズネツィアンである.十数年前,二人で初めて『近代経済成長を求めて』(浅沼・小浜 2007)という本を書いた.サイモン・クズネッツは,長期的経済発展の実証研究の功績で,1971 年,ノーベル経済学賞を受賞した.彼の経済学のキー概念は「近代経済成長(Modern Economic Growth)」だが,彼の経済発展へのアプローチは,統計による実証,長期展望,経済社会の構造変化を重視した包括的アプローチだ.後の制度経済学の発展にも道を開いた.
 突然だが,われわれは葉室麟のファンでもある.彼の膨大な著書を読むと,学者より小説家の方が偉いなあとよく思う.歴史の展開は往々にして指導者たちの性格や性癖の影響を大きく受ける.それを書けるのは学者ではなく,小説家だ.葉室麟の本はたくさん出ているが,われわれは,かなり,8 割方か,読んでいると思う.本書でも葉室麟の小説を引用している.学者・研究者の中には,「小説を引用するのは邪道だ」と考える人も多いかもしれない.しかし学者より小説家の方が偉いなあとよく思う.
 構造改革は,人間が主役だ.幕末の政治の中で一番大きな出来事は,対立していた薩摩と長州が手を握ったことだと思う.第一次長州戦争のあと,西郷隆盛を信頼していた高杉晋作ら長州との交渉が始まった(坂野 2012, 65 頁).坂本龍馬が,薩摩と長州の欲しいものを供給しあうという経済の利で結び付けたことも大きい.幕末四賢候の一人福井藩の松平春嶽が,一介の土佐浪人の坂本龍馬に会うのも,春嶽が信頼する勝海舟の弟子だからだ.人間を知り,理解するには,学者の研究だけでは不十分だ.そう考えて,われわれは多くの小説を読む.
 複数の小説家が書いているエピソードには「真実」が多く含まれていると思う.たとえば,一橋慶喜の天狗党に対する対応を見て,勝海舟と大久保利通が「これで徳川幕府瓦解が早まった」と言っているというのは,本当だと思う.西郷隆盛が島津久光に「じごろ(田舎者)」と言ったのも記録が残っているのだろう.
 江戸時代のハードインフラ,ソフトインフラの整備,緩かった身分制度(士分はともかく,農工商の身分はそれほど固定的ではなかった),元気で経済人ともいうべき農民たち,この本を書くのにだいぶ時間がかかったが,勉強していて楽しかった.現在の経済問題を実証的に考えようとすれば,各国政府,国際機関がさまざまなデータを公表していて,多くの場合,エクセルなど分析のために便利なかたちでデータをとることができる.でも,江戸時代初めの日本の人口推計も,1,200 万人から1,800 万人もあると知って,経済史家は大変だなあと思った.
 幕末日本で大きな構造改革ができたのは,「危機仮説」が当てはまると思う.「インドや中国のように列強の植民地にされるかもしれない」という危機感だ.1840 年から1842 年のアヘン戦争の情報は,公式非公式に日本に入って来ていた.公式には「オランダ風説書」で幕府に伝えられていた.鎖国といっても長崎だけでなく4 つの窓が開かれていて,薩摩藩は琉球との公式貿易以外に密貿易も噂されていた.貿易は,モノが動くだけでなく,情報も移動する.構造改革の最大の壁は,既得権益だ.幕末日本だけでなく,今も昔も,構造改革の敵は既得権益だ.たとえば,幕末の日本にとって,軍事力の増強は喫緊の政策課題だった.だが,高島秋帆の西欧流砲術の採用に対し,幕府の砲術家たちは,「自分たちの伝統的砲術が日本の伝統である」と反対したといわれている.鉄砲であれ砲術であれヨーロッパから入っていた軍事技術のくせに,既得権益を守るためには「自分たちの伝統的砲術」などと平然と言い放つ.
 危機に対する認識が厳しければ厳しいほどドラスティックな構造改革が可能となる.幕末の四賢候といわれる藩主たちは,能力主義で人材を登用した.薩摩の西郷隆盛や大久保利通といった維新の立役者も登用された下級武士だ.土佐の坂本龍馬も,武士ともいえない身分だった.幕府側でも,勝海舟など天下泰平時代のなら軍艦奉行などにつくことなど想像もできないような小身の旗本であった.
 『大獄 西郷青嵐賦』で葉室麟は,細かいところはフィクションだが,島津斉彬と西郷隆盛の会話を書いている(葉室 2020c,80-85 頁).

安政二年(一八五五)三月になって江戸湾に姿を見せた長さ十七間,幅四間の三本マストの帆船で大砲十門を備えた軍艦,
──昇平丸
である.斉彬は,まだ幕府が大船建造禁止令を廃するまえに琉球を防衛する
──琉球大砲船
と称して建造の許可を得た.着工したのはペリーの浦和来航の前月にあたる嘉永六年(一八五三)五月だった.
 日本人だけの手で作った西洋式帆船で,船印として〈日の丸〉の旗を掲げていた.
 斉彬は「どうじゃ,西郷,百の攘夷論より,一艘の西洋式軍艦の方が役に立つと思わぬか」

 薩英戦争が起きると,城下を焼き払われたものの,イギリス艦隊に大きな損害を与えて撤退させている.西欧諸国は当時,世界でも最強と見られていたイギリス艦隊が日本の一候国である薩摩藩と戦いながら勝利をあきらめて退いたことに驚き,日本への認識を改めるのである.
 文芸ジャーナリストの内藤麻里子は,『草笛物語』(葉室 2020b)の解説で,葉室麟が「デマゴーグ(扇動政治家)と暴言がはびこっている現代社会の根本を問い直したい」,そのためには「明治維新から見なければならない」と言って,「明治維新の総括に乗り出していたのだ」と書いていている.そのさきがけが2017 年11 月の『大獄 西郷青嵐賦』,2017 年12 月に亡くなったあとに発売された『天翔ける』だと言っている.葉室がもう少し元気だったら,あと何冊か明治維新について書いただろうし,そうすれば,われわれはもっと楽しめただけでなく,この本の分析も,もう少し深まっただろう.
 それにしても,幕末から明治に生きた政治家たちは,剛胆というか乱暴というか,明治4 年(1871 年)7 月14 日の廃藩置県から4 か月後に,維新の三傑(西郷隆盛,大久保利通,木戸孝允)のうち大久保,木戸の二人が,岩倉使節団の全権副使として一年以上も欧米視察に出てしまったのである.廃藩置県は,日本が封建制の国から近代国家に移行するのにきわめて重要な構造改革政策だったと思う.それだけ剛胆無謀な海外視察で,大久保は明治5 年(1872 年)10 月,イギリスから西郷隆盛,吉井友実に送った手紙で,イギリスの近代工場について書き送っている.そこではリバプール造船所,マンチェスター木綿器械場,ニューカッスル製鉄所など多くの近代工場について書くだけでなく,「もっとも感ずべきは,いずれの僻遠に至り候ても,道路橋梁に手を尽し,便利を先にする馬車は勿論,汽車の至らざるところなし」と書いているという(坂野 2012, 113-114 頁).
 浅沼さんとは,はじめに書いた2007 年の『近代経済成長を求めて』,2013年に『途上国の旅』,2017 年に『ODA の終焉』を書いて,この本が4 冊目だ.編集はすべて勁草書房の宮本詳三さん.僕も70 歳を超えて,ちょっと激しい運動をすると,翌日は筋肉痛.威張っちゃいけないけど昔から原稿は遅いし,締切を守れなかったことも多い.浅沼・小浜の本も,4 冊で終わりかなと思わないでもなかったが,朝からモーニング・ステーキ(ちょっと日本語がおかしいか)食ってる元気老人の浅沼「大」先生,しらっと,次の本の序章の原稿を送ってきたりする.悪人ですねえ.
2021 年8 月
小浜 裕久
(脚注は割愛しました。Pdfでご覧ください)
 
 
序 章  知りたいこと
 
序-1 この本のストーリー
 
 書名からわかるように,この本でわれわれが考えているのは,明治日本の「近代経済成長」である.われわれは多くの発展途上国の現場に足を運び,開発政策を考えてきた.明治日本の経験から現在の途上国の開発に何らかの教訓が得られるかという視点は,常に潜在意識の底にある.経済分析は,マクロの分析も,セクターも,ミクロも同じように大切だ.貧しい国の庶民が豊かになることは,絶対的に善だ.所得の高い国(今で言えば,たとえば一人当たり所得が5 万ドルを超えるような国)で所得が上がることが人々の幸せに結び付くかどうかは議論の余地があるだろう.でも,きわめて貧しい国,たとえば,明日食べるものがないような国,子どもが病気になっても医者に診せることができないような国では,所得の上昇は,間違いなく人々の幸せにつながる.Dollar and Kraay( 2002) が言うように,“Growth Is Good for the Poor” なのだ.
 この本でわれわれが考えている主な筋道を,3 つにまとめて書こうと思う.まずは,経済発展過程として考えると,江戸時代と明治時代が断絶したものではないということ.第2 は,危機に直面して紆余曲折しながら日本社会の構造改革が幕末に向けて進んだということ.第3 は,江戸時代,百姓は元気な経済人で,士農工商といわれた身分制度が幕末に向けて流動化したこと.そしてこの身分制度の縛りから自由になった経済人たちが日本の近代経済成長の担い手になった.
 
1.明治維新は断絶した革命ではない
 この本でわれわれが考えているのは,日本の近代経済成長であり,日本の長期的経済発展だ.明治元年(1868 年)の明治維新で幕藩体制という封建国家が崩壊し,明治政府が頑張ったので日本社会の近代化が進んだという人がいる.彼らは,江戸時代は前近代社会で,明治政府ができたことによって,日本は近代化が進んだと主張するのかもしれない.しかし,われわれはそうは思わない.
 江戸時代に建設されたハードインフラ,ソフトインフラが明治以降の日本経済近代化に役に立たなかったということは考えがたい.江戸時代に進んだ通信システムや金融システムが,明治以降の日本経済に用をなさなかったということはないだろう.人材もそうだ.幕臣であれ,薩長の藩士であれ,有能な人材を活用することなく,近代化を進める余裕は,明治日本にはなかった.もちろん,「会津」が冷遇されたこともあっただろう.第5 章5-2 節「明治政府の近代化政策」でも書くように,函館郊外の五稜郭で最後まで「官軍」と戦った榎本武揚も明治2 年(1969 年)5 月に降伏し,「官軍」の中でもいろいろ議論があったが,最終的には薩摩の黒田清隆らの助命嘆願が通り,明治政府に仕えた.爵位も受け,いくつかの大臣も経験した.
 明治元年(1868 年)3 月,江戸城総攻撃の直前,勝海舟(幕府陸軍総裁)と西郷隆盛の会談によって江戸城無血開城が実現し,江戸の町が火の海になることが避けられた.その会談の交渉に幕臣山岡鉄舟は単身駿府の西郷の下に行った.当然,明治に入っても勝海舟は爵位も受け,山岡鉄舟はいくつかの要職を経て明治天皇の侍従として働いた.次節で書くように,「百才あって一誠なし」と言われた最後の将軍慶喜も,フランス革命のように断頭台の露に消えることはなく,大正2 年(1913 年)に77 歳で没している.
 
2.日本という概念:危機仮説
 泰平の世が続くと,江戸時代でも人々は,将軍・大名から村の人々も,町の商人職人まで,大きな変化は望まない.しかし,18 世紀末になると鎖国下の日本に多くの外国船が現れるようになる(第3 章表3-1 参照).人々にとって,世界は自分の村だったり,自分の町だったり,二百数十あった藩が「世界」で,19 世紀になるまで「日本」という意識は薄かっただろう.
 意識を変えた最大の出来事はアヘン戦争(1840-42 年)だろう.列強の植民地主義はすさまじい.16 世紀のインド貿易はポルトガルの独壇場だったが,17 世紀にはポルトガルに代わってイギリス,オランダ,フランスが進出した.イギリス東インド会社は,1757 年のプラッシーの戦いに勝ってインド植民化を進めた.インドでは昔から在来的綿工業が盛んで綿布(手織り綿布)は主要輸出品であった.イギリスは,インドを産業革命による自国の機械製綿布の市場とすべく非人道的手段も含めさまざまな手段をとってインドの在来的綿工業を衰退させ,インドは原綿供給国となった8).ベンガル地方のダッカは高品質の綿布産地として知られていたが,イギリスの機械製綿布の流入によって壊滅的打撃を受け,人口は15 万人から2 万人に激減したといわれる(「世界の歴史」編集委員会2009, 186-187 頁).
 イギリス東インド会社による中国貿易は17 世紀に始まったが,イギリスで紅茶を楽しむ習慣が広まるにつれて中国茶の輸入が激増した.イギリスは,機械制の綿糸・綿布を中国に輸出しようとしたが,中国は広大な国土にさまざまな産業があって,綿糸・綿布の輸出は激増した中国茶の輸入を賄うほどには増えなかった.そのためイギリスの対中貿易は大幅な入超となり,それをファイナンスするために,18 世紀末頃からインド産のアヘンを中国に輸出することを思いついた.アヘン禁令などイギリスにとって屁でもなく,植民地主義者の関心は重商主義的利益だけだった.清国は業を煮やして1839 年林則徐を広州に派遣し,イギリス商人のアヘンを海に投棄し,一般的通商も禁止した.この貿易上・外交上の問題を,イギリスは武力で解決しようとしてアヘン戦争が起こったのである.圧倒的海軍力・軍事力に清は対抗することができなかった.その結果,清は香港の割譲と上海をはじめとする5 港の開放を迫られ,貿易の中心は広州から上海に移り,上海は発展したものの,中国は半植民地化されてしまったのである(「世界の歴史」編集委員会 2009, 191-192 頁).
 アヘン戦争の実態は,「オランダ風説書」などを通じて日本にもたらされた.欧米列強は自国の利益のためには,強大な武力で植民地化をも辞さないというのが,アヘン戦争の教訓だった.イギリスなど列強が日本を虎視眈々狙っているだろうこと,列強の軍事力が清の軍事力を圧倒していたことを,心ある庶民,多くの大名たち,幕臣たちはよく知っていた.心ある大名たち,たとえば幕末の四賢候といわれる大名たちは,富国を図り,強兵を目指して行動していた.幕臣でも,勝海舟は現実的に世界情勢を分析しており,江川太郎左右衛門英龍は韮山に反射炉などを建設している.彼らは,強大な欧米列強に対抗するには,勤王だ,佐幕だといった旧態依然とした発想では日本を守れない,オールジャパンで一致団結することが必要であることを理解していた.
 もう一つ幕末日本で忘れてはならないことは,門閥でなく能力による人材の活用である.危機に際して必要な能力を持った人材が活躍できた.薩摩の西郷吉之助(隆盛),大久保一蔵(利通)は下級藩士であり,勝麟太郞(海舟)も小身の旗本であった.勝の弟子の坂本龍馬は薩長同盟斡旋でよく知られているが,侍と商人の中間のような土佐脱藩浪人であった.福井藩の三岡八郎(由利公正)は,百石取りの藩士の家の嫡男だから下級武士とはいえないが,横井小楠の殖産興業策を学んで福井藩の財政再建を果たした.大村益次郎は,戊辰戦争(1868-69 年)を官軍の勝利に導き,上野寛永寺に立てこもった彰義隊を一日(1868 年7 月4 日)で鎮圧した軍学者で,日本陸軍の祖ともいわれるが長州の医者の出身である.
 
3.百姓は元気な経済人
 「士農工商」は江戸時代の身分序列をよく表していると日本史の教科書にも書かれていたが,近年では江戸時代の実態とはずれているとの理解も広まったらしい.農民は,町人(「工商」)よりも上にあるように見えるが,実際は「農・工・商」の3 身分の間に上下関係はなく,江戸時代の身分制度は流動的だったようだ(五味・鳥海 2017, 171-175 頁).
 幕末に近づくと身分はあまり固定的ではなくなったということは,多くの専門家の認識だったようだ.Lockwood (1993, p. 10)は,1850 年頃までには町人と侍の境界は,社会的にも経済的にも曖昧になっていったと書いている.アメリカの専門家がそう書いているということは,日本の専門家の多くがそう考えていたということだろう.
 「士農工商」という単純な分類ではさまざまな職と身分が対応しないこともあるだろう.たとえば,第2 章2-2-6 項で書く北前船の船頭は,船乗りではなくビジネスマン,今で言えば総合商社の社長のような存在だったと考えられる.北前船のビジネスはヴェネツィアに通じるだろう.塩野七生は,「ヴェネツィア共和国は,海外との交易で生きる国である」「自由経済は,活気があればあるほど繁栄するものである.また,一六世紀に入ってもヴェネツィアには,敗者復活の機会はいくらでもあった.昨日までの物乞いが,明日になれば再び,交易商人として活躍しはじめるかもしれないのだ」と書いている(塩野 2020, 23,
25-26 頁).
 江戸時代も時代が下がるにつれ,都市の町人はもちろん,村の農民も,自分の住む都市だけでなく,自分の村だけでなく,広く領国の境の向うまで何が起こっているか知っていた.稲作農民にとって米は自分の生産物だから,税率が一定なら,米価の低下は所得減につながる.中長期的に見て米価の見通しが芳しくなければ,稲作をやめて商品作物に転換したり,別の国の鉱山労働者になるという選択肢もあった.
 
序-2 近代化について
 
1.経済近代化と江戸時代の遺産
 われわれの専門からして,この本で言う「近代化」は「経済近代化」を中心に考えていく.尾高(2008)は「経済近代化」を「科学や技術の成果を自覚的に利用して,工業生産・農業生産のために合理的に計算して,一人当たり生産,すなわち平均生産性をできるだけ高めるような努力をする行為」と定義している(110 頁).上のように「経済近代化」を定義して,簡単に言うと「工業化」と大体同じと言っていいと思うと書いている.
 この本では,江戸時代の経済・社会的遺産(良い遺産も悪い遺産も)が明治期の産業革命,近代経済成長にどのように関係しているかについて,「分析的な物語(Analytic Narratives あるいはAnalytic Growth Narrative)」を書きたいと思う.われわれが考えている「分析的な物語」に関する手に入りやすい参考文献としては,Bates et al. (1998),Rodrik (2003) などがある.われわれの『途上国の旅』(浅沼・小浜 2013)も「分析的な物語」を目指して書いた.世界の諸国の多様な経済成長・発展の軌跡は,皮相的な計量経済学的な国際比較ではとうてい捉えきれない.それぞれの国の資源賦与や近隣における輸出・輸入市場の存在等の「地理」や技術や資本の源泉としての先進国との関係のような「歴史」が大きく影響するからだ.そこで,経済成長の理論や実証研究に裏付けされた,しかし同時に「計測を超えた」経済発展の歴史(ナラティブ)が必要となる.
 慶長8 年(1603 年)徳川家康は江戸幕府を開き,慶長20 年(1615 年)豊臣氏を亡ぼして幕藩体制を確立した.幕末になるまで,日本国という概念は希薄だった.その頃,多くの知識人は,天保11 年(1840 年)のアヘン戦争のことを知っていて,ヨーロッパ列強の植民地主義を知っていた.
 
2.江戸時代の身分制度
 上で書いたように,農村に住む百姓と都市に住む町人(工・商)の間に身分上の上下関係はなかった「士農工商」という身分制度が人口に膾炙しているが,必ずしもこの身分は固定的なものではなかったようだ(五味・鳥海 2017, 173-174 頁).
 もちろん現代の感覚からすると,身分制度は固定的で,福澤諭吉は,『福翁自伝』で,以下のように「門閥は親の敵」と書いている.「門閥制度は親の敵 如斯なことを思えば,父の生涯,四十五年のその間,封建制度に束縛せられて何事もできず,空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ.又初生児の行末を謀り,之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ,その愛情の深さ,私は毎度このことを思出し,封建の門閥制度を憤ると共に,亡父の心事を察して独り泣くことがあります.私の為めに門閥制度は親の敵で御座る.」
 門閥は,個々の人間の能力の評価ではなく,どの家に生まれたかで石高・地位などが決まる制度で,侍の世界の話だ.旗本と御家人の違いも,各藩の上士・下士の区別も,門閥で決められていた.商人は,無能な長男に家を継がせると店が潰れてしまう.今から思えば不思議だが,侍の石高・地位は,大旨,戦国時代から関ヶ原の戦い,大坂冬の陣・夏の陣での働きで決まっていた.大坂夏の陣は慶長20 年(1615 年)だから,寛永2 年(1625 年)とか寛永7 年(1630 年)までその石高・地位を引っ張るならわかるが,幕末まで200 年余もそのシステムを引っ張ろうというのだから,恐れ入る.もちろん高い地位の家に生まれた侍たちは,大変居心地のいい既得権益だったろう.
 大名も,御家騒動はあっただろうが,基本的に長子相続だから,運が良ければ,名君が生まれ,不運だと,暗愚な藩主が生まれる.幕末の四賢候が出た藩は幸運だったが,無能な藩主が出た藩は悲劇だった.
 暗愚ではないが,幕末の困った殿様として水戸の二人を挙げたい.一人は,水戸藩第10 代藩主,徳川慶篤.家臣たちからの献策を何でもかんでも「よかろう」と裁可したために「よかろう様」と陰口を叩かれたことから,優柔不断な者に対して「よかろさん」と言われるようになったという.元治元年(1864年),筑波山で尊皇攘夷派の天狗党の乱が起こると,初め尊皇攘夷を支持したが,幕府が討伐に動くと支藩の宍戸藩主松平頼徳を派遣して天狗党討伐にあたらせ,まさに「よかろう様」であった.
 徳川慶篤よりひどいのが一橋慶喜.15 代将軍になる慶喜は,頭脳明晰だったかもしれないが,自分勝手で無責任であることは間違いない.先にも書いたように,加賀藩に投降した天狗党800 余名のうち352 名が慶応元年(1865 年)3 月に処刑された.天狗党が頼りにした慶喜は維新後の史談会で,「どうせ何といっても助からぬのだ.助からぬ者を救おうと言い出しても何もならぬ.それをやると自分がやられる.……降伏した者は今日受け取ります.お渡しします.さようなら,それっきりだ.それですぐに首を切った」と語ったという.その思いやりのなさや保身しか考えない無責任さは,この時代,逆に希有なものだった,と伊東(2014, 538 頁)は書いている.この虐殺を聞いた大久保利通は日記に「これをもって幕府滅亡のしるし」と記し,勝海舟は「これがため志士一層憤慨の心を激動し」と,この後の動乱を予見している(伊東 2014, 552 頁).
 
3.明治政府の近代化政策
 明治維新の大きな目的は,5-2 節で書くように,欧米先進国と対等に付き合うことができる近代国家を建設することであった.そのため欧米の知識・技術を輸入して近代化・工業化を進めなければならなかった.結果として,国の形を根本から変えるような大規模な,壮大な知識・技術・制度のトランスファーだった.
 紆余曲折はあったものの,明治維新後国家統一が実現し,政治的社会的安定も実現した.政治的社会的安定は,企業家が生産のために投資をする必要条件だ.経済活動の自由化も進んだ.株仲間も解散され,身分による職業区分も廃止され,職業選択の自由も確保され,土地の売買も自由化された.それに伴い,社会移動の自由も進んだ.さらに重要なことは,農業立国から商工業立国へと政策の基本原理が変化し,維新以前の身分による価値体系が,経済力を基準にした価値観に変わり,「町人」に代わって「実業家」の概念が生まれた(堀江1963, 131-132 頁).
 
序-3 「米」経済から工業化へ
 
1.「米」経済の構造
 「米」経済,あるいは「米穀」経済と言ってもいいが,江戸時代は米を基準とした経済構造だったということを象徴的に言っただけだ.江戸時代の経済活動が100 パーセント米,あるいは農林水産業で回っていたというわけではない.経済活動がすべて農林水産業では人は生きていけない.米を炊く釜や鍋も必要だし,農機具を作る鍛冶屋もいないと困るし,漁師は船も網も必要なのだ.これは,すべての人が大学教授だったら,人は生きていけないのと同じことだ.
 江戸時代から明治初期の産業構造変化を見てみよう.表序-1 は,第一次産業,第二次産業,第三次産業のシェアの変化を見たものである.慶長5 年(1600)年,関ヶ原の戦いの年,第一次産業の割合は72.2%.それが享保6 年(1721 年)には61% に低下したが,明治初めにかけて6 割程度であまり変化せず推移している.第三次産業のシェアは1721 年以降30% 程度で推移していて,第二次産業のシェアも10% 程度でほとんど変化していない.近代経済成長の重要な条件である構造変化は,あとで議論するように,江戸時代には起こっていなかったといえよう.
 
2.江戸経済の行き詰まり
 江戸や大坂の経済は栄え,文化が花開いたことは確かだ.しかし,江戸時代は徳川幕府が二百数十の藩を間接統治する封建制の社会だった.天領(幕府直轄領)は四百万石といわれ,「加賀百万石」といわれる大藩もあった.一万石以上が大名といわれ,一万石,二万石の小大名が数多くあったが,薩摩,陸奥,尾張,紀伊,肥後といった五十万石を超える大藩もあった.各藩は一種の「国」であり,「日本国」という概念はなく,往来・物流は制限されていたし,藩士たちの序列は,福澤諭吉が「親の敵」といったように門閥で決められていた.
 経済活動の自由がなく,人材が登用されない社会制度が江戸経済の限界であり,それが,経済社会が行き詰まる原因となった.そういったところに嘉永6年(1853 年)の黒船来航である.欧米列強は,必ずしも日本を植民地化しようとは思っていなかったと思われる.植民地主義者の経済原理は,当然のことながら比較優位原理に基づく自由貿易の利益を求めるというものではなく,軍事力を背景とした自国の重商主義に基づく利益を追求するものだった.だが,彼らは基本的に長期のコスト・ベネフィットを考えて行動していた.イギリスもフランスも軍事力を背景に,横浜とか神戸を自由に使って,「彼らの自由貿易」をしようとしていたことは確かだ.それが,欧米列強による開国圧力であり,不平等条約であった.
 
3.圧倒的格差と近代化
 尊皇攘夷の志士たちが開国に反対し,横浜などの鎖港を求めたが,彼らの行動が「日本国」の意識を醸成した.しかし,文久3 年(1863 年)の薩英戦争,文久3-4 年(1863-64 年)の四国艦隊下関砲撃事件で圧倒的軍事力の違いを痛感した.いかにして欧米列強に追いつくかが日本にとっての最大の課題となった.
 その意識が明治政府の「富国強兵」政策につながっている.「富国」は「強兵」の必要条件であり,「富国」のためには工業化が不可欠で,工業化を推進するには,技術を導入し機械を輸入するだけでは駄目で,制度の近代化,ものの考え方の近代化が必要であった.
(脚注と表は割愛しました。Pdfでご覧ください)
 
 
あとがき:開発経済学における日本の経済発展
 
 世界に開発経済学者は何人くらいいるのだろう.開発経済学を「主として開発途上国の抱える経済の諸問題を扱う」経済学の分野だと大まかに定義すると,今日では100 を超える途上国が存在し,それぞれの途上国が開発の問題を抱えている.そして,その問題を研究している人々がいる.また,今日の先進国もかつて途上国だったわけで,先進国になった歴史的な経験は今日の途上国にとっても重要な教訓を提供してくれるかもしれない.当然開発経済学者の興味の対象になる.開発経済学とはこのように広範な地域と領域をカバーするから,当然対象分野やアプローチも多様にならざるをえない.「開発経済学者は……」といった一般論は通用しそうにない.
 しかし,研究対象と領域によって多少の一般的な傾向が現れるようだ.よく指摘されるのは,開発経済学者は彼が最初に開発経済学の洗礼を受けた領域や地域,すなわち自分の研究フィールドの特性に強く影響されるということだ.東アジアを研究対象にした研究者は,経済成長と政治経済指導者やポリシーメーカー(政策担当者)の資質と力量を重視する.一方,ラテン・アメリカやカリブ海諸国を主たるフィールドに選んだ研究者は,経済社会の政治経済的(ポリティカル・エコノミー)な構造とその特性に注目する.さらにサブサハラ・アフリカを研究活動の「主戦場」とする研究者は,天然資源とそれをめぐる民族紛争や政府の腐敗に目を向ける.また,南アジアの研究者の場合は,絶対的な貧困の諸相を明らかにしようと努めてきたように思われる.印象論とはいえ乱暴な議論だが一面の真理だと思う.
 では,小浜さんの場合はどうか.小浜さんは,北極と南極大陸以外の世界中のあらゆるところに足を運び,顔を見せてきた.その彼に,「先生の開発経済学のフィールドはどの地域ですか?」と質問すると,「私は(というのはウソで,本当は「僕は」),日本をフィールドとする開発経済学者だ」という答えが返ってくる.小浜さんの初期の著書に,Lectures on Developing Economies: Japan’s Experience and Its Relevance(大川一司との共著)やその日本語版『経済発展論―日本の経験と発展途上国』(やはり大川一司との共著)があるから,小浜さんのフィールドが「明治以降の日本」なのは納得できる(Ohkawa and Kohama 1989;大川・小浜1993).
 本書は,日本の近代化,近代経済成長,そして産業革命の起源を幕末の開国から明治維新というレジーム・チェンジ(政治体制の変革)を通じての広い意味での産業政策に求めた日本経済発展論だ.もちろんバーチャル・リアリティーの世界の話だが,小浜さんは大阪堂島のコメ市場や長崎歓楽街や江戸深川の横丁を慣れ親しんだ様子で歩き回るような人だ.だから,小浜さんにとって本書は自分のなじみのフィールドへのホームカミング(帰郷)だと言ってよい.本書で試みられたのは,実は大川一司・ヘンリー・ロソフスキー『日本の経済成長―20 世紀における趨勢加速』の終章「計測を超えて:残された過去の課題と将来の観察」で残された課題とされた日本近代成長の制度・政策面の貢献を物語ることだと言える(大川・ロソフスキー 1973).一方,わたくしにとっては(この歳になっていまさらこんなことを告白するのは恥ずかしい限りだが)幕末から明治維新にかけての日本は,「聞いたことはあるが足を踏み入れたことのない未知の国」で,本書は遅まきながらのセルフ・エジュケーション(自己啓発)のプロセスだった.
 開発経済,特にアジアの諸国を中心に開発政策の現場で職業人としての大半を過ごしてきたわたくしにとって,「未知の国日本」の開発・発展経験を理解することは大変難しかった.開発政策現場での経験をベースにしてわれわれが書いた,前著『途上国の旅:開発政策のナラティブ』では,すべての途上国は特有の「地理と歴史」の制約の中で戦略を作り,政策を実践に移す努力を積み重ねながら開発への道を歩んでいる,だから発展のプロセスもまた普遍的ではなく,その国の特有の「地理と歴史」に大きく左右されると主張した.もちろん地理といい歴史といってもそれは広義の地理と歴史で,その国を取り巻く四次元の空間と時間のすべてだといってもよい.
 日本の近代経済成長の準備期間は,「ヨーロッパの世紀」とか「イギリスの世紀」と呼ばれていた19 世紀で,イギリスをはじめとするヨーロッパの列強は西から東に向かって植民地と商圏の拡大競争を続けていた.宗主国イギリスから独立したアメリカ(それを契機にイギリスの帝国主義的拡大は東に,すなわちインド,そして中国に向かった)もこの競争に参加していた.日本は極東の小国ではあったが,徳川幕府の鎖国政策の下で長い平和と安定を保ち,封建制度の枠組みを保ちながら自律的な経済発展を成し遂げていた.この日本に,19 世紀半ばになって欧米列国の開国要求がつきつけられたのが,われわれの日本近代成長物語の発端だ.結局,圧倒的な軍事力を有する欧米列強との軍事対決を避けて,日本は開国し,欧米先進国からの壮大な技術・文化の導入を図った.その過程でまた日本の近代化を推進するために必要なレジーム・チェンジを成し遂げた.そして,その結果として日本は近代経済成長のプロセスに入ることに成功した.これが極めて特異な「地理と歴史」を背負っての日本の近代経済成長のケースだった.
 われわれは歴史家ではないから歴史の一次資料を利用するのは能力外で二次資料に頼らざるをえないが,これも無数にあってわれわれが必要とするピンポイントの資料を簡単に探し出すのは難しい.計測については,過去百年,二百年を通して整合的な統計が創られているわけではないが,多くの先達が苦労して作り上げた資料がある.しかし,これにも多くの齟齬や穴がある.われわれの理解に一番適した二次資料の探索は,わたくしが勝手に半藤一利流の歴史探偵と呼んでいる小浜さんがしてくれた.
 われわれは,この資料をベースに,開発経済学の考え方,特にその中でも制度経済学,そして最近の流行りのグローバルヒストリーの視点から日本の江戸時代の経済,開国政策と明治維新と呼ばれる構造改革,そして明治になってからの欧米先進国からの技術・文化の導入・移転,産業革命と近代経済成長を検討して,日本のケースを理解しようとした.そしてその「理解」を書いたのが本書だ.
 小浜さんに誘われて辿ってきたわたくしにとっての未知の国「明治日本」への旅は面白かった.小浜さんとの共著書はこれで4 冊目になるが,本書もまた勁草書房の宮本詳三氏の協力と激励の賜物だ.コロナ禍で中絶を余儀なくされた数か月は別にして,月一回の「昼の部」と称する原稿の検討会にも,その後の「夜の部」と呼んでいる友人たちとの雑談と夕食の会にも必ず参加して下さった.特に「昼の部」のまさに「何でもあり」の「脱線は日常茶飯」の議論には積極的に参加して下さった.宮本さん,それに「夜の部」の友人たち,本当にありがとうございました.
2021 年7 月
浅沼 信爾
 
 
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