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河野桃子 著
『シュタイナーの思想とホリスティックな知』
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はしがき
2019 年に端を発し、2020 年から日本でも日々強く意識せざるを得なくなった新型コロナウイルスの感染拡大により、私達はこれまでにないほど「自由」と「倫理」の兼ね合いを実感をもって考えることとなった。外出を始めとする個人の行動の自由はどこまで制限される必要があるのか。また、制限されていない行動のうちどこまでが倫理的に許されるのか。無症状者を介した感染があり得るという情報がこの葛藤にさらに拍車をかけ、現在に至っている。
本書がテーマとするルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner 1861-1925)は、今からおよそ100 年前の1919 年、スペイン風邪の流行により世のなかが同様の不安と恐怖に苛まれていたさなかに、今では世界的に知られることとなった「シュタイナー学校」の第一校をドイツのシュトゥットガルトに開校した。シュタイナーにとって「自由」と「倫理」の関係は、生涯を通じての第一のテーマであったと言ってよい。シュタイナーは、「理念世界の一致性」への信頼から「自由」と「倫理」の両立を可能であるとし、皆がその状態へと到達できるよう導くことを、手法を変えながら終生試みた。
ただし、シュタイナーの教育思想に部分的に触れたことがあるという方のなかには、このことを訝る向きもあるかもしれない。シュタイナー教育には教師や保護者、子ども達が従うべきルールが数多くあるように紹介されることが多く、何より、その背景にある「エーテル体」や「アストラル体」等、「見えないもの」を語る“不思議な” 用語に縛られ、一見「不自由な」教育に見えるからである。
しかし本書では、この“不思議な” 用語による語り方こそが、人々を「自由」と「倫理」の両立に向け導く上で有効な役割を果たすものとして、シュタイナーによって意識的に採用されたとの見方をとる。「見えないもの」を語るから「非現実的」な教育だと早急に判断せず立ち止まり、「見えないもの」を語るからこそ、それがかえって現実全体に目配りしようとする人間観と、それに基づく教育を可能にするということを丁寧に追っていきたい。
またこの考察の過程で、シュタイナーにとっての「自由」の意味が「世界(宇宙)」との関係のもとに明らかになる。それを追求すればするほど「エゴイズム」を離れ「倫理的な状態」に近づくシュタイナーの「自由」観を見ることは、上述のような、個人の「自由」と人々の間の「倫理」をめぐって揺れる今の私達にも新しい視点をもたらしてくれるに違いない。
本書は、序章と終章を含め、全7 章で構成される。以下に、続く各章の概要とともに本書の構成を提示する。
まず序章では、シュタイナーの教育思想が(その教育実践とは対照的に)長く敬遠される傾向にあったこと、また、シュタイナー思想をシュタイナー学校の教育実践と切り離して考えようとする主張が、日本およびドイツの先行研究で提示されてきたことを確認する。本書ではその原因を、後期シュタイナーが通常の認識の外部に存在するとされるものを具象的・実体的に語ったことに見出し、シュタイナー自身の記述と先行研究に依りながら、そうした神秘主義的な後期思想を、哲学的で広く共有可能な前期思想との関係においてどのように捉えることができるか、さまざまな可能性を概観する。その上で、本書では新しい視点から、後期思想を前期思想との連続性のもとで考察することを示し、課題として、シュタイナーの後期思想がもつ教育的意義を「倫理的個人主義」と「ホリスティックな知」という二つの切り口から明らかにすることを挙げる。
第1 章では、シュタイナーが、後期思想においては神秘主義的・超越的な人間観を展開した一方で、前期思想においては、そのような二元論を批判したシュティルナーの思想に共鳴していたという、一見したところ矛盾と映る二つの側面を出発点として論じる。前期シュタイナーは、各人がシュティルナー的「唯一者」として自由に行為し、しかも倫理的に問題の生じない境地の実現をめざしたが、そのためにはまず、不可知論の克服が必要であるとしていた。本章では、シュタイナーが不可知論を克服するため、あえて人々に二元論的な世界を語り、現段階では認識不可能な側についての「想像力」を高めようとしたという見立てを提示する。また、このための取り組みを〈教育〉と表記し、しばしば攻撃の対象とされる後期思想の神秘主義的な内容を、人々を導く〈教育〉のための、一つの手段とみなす可能性を指摘する。
第2 章では、シュタイナーが〈教育〉の手法としてなぜ神秘主義を採用したのか、その経緯を明らかにする。後期に入ってからの語り方の変更は、多くの支持者を見出すことにつながった一方で、多くの批判も招くこととなった。これを象徴的に表すのが、シュタイナーの後期思想を「神話」であるとする批判であるが、シュタイナー自身は神話の〈教育〉的機能に着目し、自身の思想を、かつての神話の役割を果たす、いわば現代版の〈神話〉にしようと試みていた。本章では、同時代の読者・聴衆が古代の神話に似た〈神話〉のもとで「想像力」を働かせ、時代に即した仕方で各自の認識を拡張させることを目指した、シュタイナーの〈教育〉的意図を明らかにする。
第3 章では、〈神話〉の〈教育〉的機能の一端を明らかにする。その際、〈神話〉の一要素としての再受肉論、およびキリスト論に焦点化する。またシュタイナーは、誰でも「修練」により認識の拡張を果たせるとしていた一方で、人々が実際に、認識の外部を「知覚を伴う形で」認識できるようになることにはこだわらず、「明視者」による認識内容を生活のなかで「活用する」ことを勧めた。本章では、そのことがどのように読者・聴衆の〈教育〉へとつながり得ると考えられるのかを示す。
第4 章では、感情の拡大という観点から、〈神話〉の〈教育〉的機能の別の側面を示す。それにあたり、「一体となって知ること」と呼び得る知の例を二つ挙げ、検討を行う。取り上げる二つの例はいずれも古代の事例だが、シュタイナーは、こうした知による感情の拡大が、同時代においても時代に合った仕方で取り戻されるべきであるとし、それを可能にするのが自身の思想であると考えていた。また本章では、こうした「一体となって知ること」が「ホリスティックな知」、「参加的な知」であると同時に、ホリスティックな〈教育〉を可能にする知であるということを見る。
第5 章では、〈神話〉のどのような特質がホリスティックな「参加的な知」を可能にし、読者・聴衆の感情の拡大を実現するのか、その条件を明らかにする。この検討にあたり、本章では「アナロジーの伝達機能」という観点に着目する。この検討の過程では、「一体となって知ること」に限らず、シュタイナーの後期思想が呼び起こす知全般を「ホリスティックな知」と形容し得ることがあわせて示されることになる。また、シュタイナーは、こうした仕組みのもとで〈神話〉によるエゴイズムの克服を意図しつつも、人間の「個」が失われることのないよう厳しく注意していた。本章では、〈神話〉による〈教育〉が、読者・聴衆に、ホリスティックな「ホロン的階層」構造をもつものとして「私」を捉える自己認識を可能にし得ることを確認する。
終章では、序章から第5 章までの歩みをまとめた上で、とくに「一体となって知ること」という「ホリスティックな知」について、その観点が、〈教育〉とは異なる教育一般においてどのような意味をもち得るかを日本の道徳教育の文脈で論じる。また、シュタイナーの教育思想研究の文脈では、シュタイナーの(教育思想を含む)後期思想が、「倫理的個人主義」への〈教育〉という観点を背景に置いた再評価を必要とすることを確認し、その地点から今後の研究の展望を示す。
このように本書の主軸は、シュタイナーの前期思想と後期思想を「自由」と「倫理」の両立に向けた〈教育〉と〈神話〉、そして「ホリスティックな知」をキーワードにつなぎ、そうすることで、シュタイナーの後期思想が神秘主義的な仕方で語られているからこそ可能になっている教育的意義を示すところにある。著者としてはこの作業が、シュタイナー教育の実践や研究に関心をもたれる方はもちろん、道徳教育全般について考える方や、自身の「自由」の限界に向き合う方にもリンクし、小さくとも何らかの反応を引き起こす触媒となることを心から願っている。