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あとがきたちよみ
『神と自然と憲法と』

 
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長谷部恭男 著
『神と自然と憲法と 憲法学の散歩道』

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あとがき
 
 勁草書房編集部の鈴木クニエさんのお誘いで、二〇一九年一二月以降、同社ホームページに「憲法学の散歩道」というタイトルで、エッセイを連載させていただいている。本書は、その連載の第二〇回までに「おまけ」の二篇を加えたものである。単行本化に際して、三つの部に区分した。連載された順序と本書の章の順序は異なっている。憲法学の本道を外れて、気の向くままにいろいろな杣道を歩いている。気軽にお読みいただければ幸いである。
 先人の思想を学ぶことで、同じ議論を先人より不器用に繰り返す愚を避けることもできる。また、散歩をしながら周辺から憲法学を見渡すとき、はじめて見えてくるものもある。たとえば「神の存在と措定」もその一つである。憲法学とは、関係がなさそうに見えるがそうでもない。
 ワイマール時代におけるカール・シュミットとハンス・ケルゼンの論争は広く知られている。両者の論争は、憲法の擁護者は大統領であるべきか、憲法裁判所であるべきかという権限配分論にとどまるものではないし、議会制民主主義を見限って人民の代表者と人民の同一性を突き詰めるべきか、それとも社会の多様な利害や見解を議会に直接に反映し、そこでの妥協を通じて社会内の平和を確保すべきかという民主主義観の対立にとどまるものでもない。
 両者の対立は、憲法学の領域とは何かに関わるものでもある。憲法学は、限られたこの世の、それも個々の国家の社会生活・政治生活の構成原理とその機能を分析するにとどまるのか、それとも、それを超える限りない、計り知れない力を意識しつつ、この世のあり方を見定めるべきなのかという対立である。
ケルゼンは、根本規範を措定する。この世の法のあり方を説明してみせるために。所与の法秩序を整合的に説明する理論として、ケルゼンの理論は終始する。シュミットは、誰が主権者である人民を代表するかを問う。人民を代表する者は、ただの国家機関として存在するわけではない。そこに立ち現れるのは公法理論によっては説明し尽くすことのできない、限りなく計り知れないものである。
 「神あるいは人民」は実在するのか、それとも説明の道具として措定されているだけなのか。この対立は、スピノザ、デカルト、カント、マルブランシュ、ライプニッツ等の哲学= 神学論争へと遡ることができる。
 従来の日本の憲法学において、措定なのか存在なのかという、この異なるレベルの対立は明確な形では意識されて来なかった。それは、戦後の日本の法学が(戦前の日本も)、その時々の先進諸国の学術の成果を輸入すれば足りるという、学問としては幸福な環境にいたせいでもあろう。同時に、そうした環境のために、憲法学は丸山眞男の言う「たこつぼ型」の学問にとどまり続けてきたように思われる。いわゆる経験科学へのこだわりは、たこつぼ化をさらに促進する。
 学問の根を深く広く伸ばすには、学問の思想的淵源へと遡るだけでは足りない。今まで意識されていなかった─そのため、憲法学では表立って議論されることのなかった─いくつかの意識の壁を突破する必要もある。根底的に対立する世界観をそれぞれの立場から内在的に理解するためには、そうする必要がある。たとえ、価値多元論へのコミットメントが、限りなく計り知れないものへの信仰を遮断しているとしても。本書が、そうした壁を乗り越えるための縁となれば幸いではあるが、なかなかそうはいかないように思われる。今まで意識されて来なかった壁である。そこにあると言われても、その存在に気付くことは難しいであろう。
 勁草書房編集部の鈴木クニエさんと関戸詳子さんには、単行本化にあたって、原稿の整理、各部の編成、小見出しの考案、校正、装丁の提案にいたるまで、行き届いたお世話をいただいた。篤く御礼申し上げる。
 
二〇二一年八月
Y・H
 
 
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