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あとがきたちよみ
『老いと死をめぐる現代の習俗』

 
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佐々木陽子 著
『老いと死をめぐる現代の習俗 棄老・ぽっくり信仰・お供え・墓参り』

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序章 老いと死をめぐる習俗から現代社会を問う
 
 本書では、老いから死への道程を受容することの葛藤や困難、および死後も続くとされる生者と死者のかかわりなど、老いと死をめぐる問題を、習俗に依拠して考える。序章では、まず、習俗を用いることの意義を問題意識として提示する。続いて、本書で扱う四つの習俗に関わるテーマ(「棄老」「ぽっくり信仰」「お供え」「墓参り」)の概要を示したうえで、なぜこれらに光をあてるのかにふれる。さらに、習俗の定義づけを試みたうえで、これら四つのテーマが「あの世」の存在を内在させた習俗行為である点に着目する。ここでの「あの世」は、宗教性を帯びたものというよりはむしろ世俗的なものである。その後、四つのテーマの研究方法を示し、最後に習俗に含まれる俗信・迷信にもふれることで、習俗の孕む負の面を提示する。
 
1 科学が扱わない老いと死
 
 老いや死を考察するに際し、「老いや死の接近を予知する己とどう折り合いをつけ生きていくか」「あの世に旅立ったとされる死者にのこされた生者はどう折り合いをつけ生きていくか」などは、医療などの近代科学にかかわる領域から抜け落ちてしまう問題として放たれたままである。習俗に着目するのは、この部分を照らし出すのに非科学的で非合理とされる習俗が思いの外、力を発揮すると考えるからである。
 
実感や本音をすくい上げる習俗
 近代科学の医療は、ゆるやかな死の到来を前提に、死を遠くへと追いやるための治療を行い、人間の寿命を延ばしてきた。だが、老いて労働生産性から脱落し、己が老いから死へ歩みだしたことを自覚する時、多様な思いが交錯するであろう。一方には「死にたくはない」「生きていたい」との切なる思いが、他方には死ぬことを甘受しながらも死の直前まで元気でいて、死ぬときには「ぽっくり逝きたい」との思いが生じることもありえよう。こうした人々の実感や本音をすくい上げるのは、医療にとっては領域外であり、この部分をすくい上げるのが習俗である。また、近代科学の医療は死の手前までの領域を担い、死後世界にはかかわらない。こうした死後世界にかかわるものとしても、死者供養などの習俗が位置づけられる。人は誰かが死後に自分のことを記憶していてくれ、時に思い出してくれることをおそらく喜びとするであろう。だからこそ、墓で死者に合掌する「墓参り」の行為を目にしたとき、己への死後の扱いを重ねて思い安堵する人がいることも想定できよう。墓は生者による死者の記憶の証であり、墓をめぐる習俗は連綿と続いてきた。死後世界を扱い死者に祈りをささげるのに宗教がかかわるが、本書が扱う習俗は、厳格に宗教に結びつくわけではない。詳しくは後述するが、本書が扱う死者供養などの習俗は、宗教の教典や教義によらず、地域社会の中で生き延びた世俗的なものである。習俗からは、一貫した理念や思想ではなく、日常生活に根を張るところから見えてくる人間の感情の揺らぎや弱さをも含む人間の本音が透けて見えてくるといえまいか。習俗は老いや死を前にしての矛盾や葛藤を抱え込んだ人々の実感や本音をすくいあげるものと捉える。
 
老いや死と折り合いをつける手立てとしての習俗
 死は不可視で不可解で不条理ゆえにストレートなアプローチが困難で、その周辺現象に想像力を働かせることになる。本書が扱う周辺現象は、死を例にとれば、死の周辺に渦巻く人間の行為のうちの日常的な習俗である。「死んだらどこへ行くのか」との素朴な問いにさえ応答できない我々にとって、己の死は経験知にはなりえず、わからなさや余剰、すなわち「絶対的不可知性」を背負い込んでいる。一方では死の「絶対的不可知性」を了解しながらも、他方では想像力によって多様な他界観(天上他界、地下他界、山中他界、海上他界など)が生み出され伝承され続けている。死後については語れないと言いつつ、饒舌に他界観は語られてきた。本書では、老いから死への道程を受容することの葛藤や困難、および死者と生者とのかかわりを習俗に依拠して考えたい。生命体としての死後も、通常、生者の記憶の中に死者は生き続け、想像力によって呼び出された死者は習俗行為を通じて生者と交流したりする。習俗は、非科学的で非合理とのマイナスの烙印を捺されがちながら、今日も連綿と生きのびている。それは人間もまた科学的・合理的に思考しているようでありながら、非科学的・非合理的なものと無縁とはいえないことの証左であろう。
 老い以上に死の考察が困難なのは、老いは己の経験となりうるが、己の死は経験知になりえないからである。他者の死を外在的に見ることはありえるが、己の死を見ることはない。多くの人間にとって、己の老いや死は考えたくない問題であろう。我々は無意識に己の死を直視することを回避し、自分は死なないような錯覚、いわば「不死性の幻想」の中で日常を生きているといえよう。考察の対象としての老いや死の問題を抉り出すことで、いつか老いて死す身としての自画像が鮮明になり、虚無的な思いが湧き上がってこないともかぎるまい。逃れられない老いや死に折り合いをつけ日常を生きている人間にとって、この折り合いをつける手立てとして習俗が位置づけられるのではなかろうか。例えば、仏壇の死者に水やお茶を「お供え」する習俗行為は、行為者にとって習慣化しているためにルーティンワークにすぎないかもしれないが、それでも「お供え」によって、一瞬でも死者の安寧や己の無事を祈るのであれば、その日を生きる力の一端を受容することに結びつくであろう。
 
非科学的で非合理的でも延命している習俗
 本書で扱う習俗から見えてくるものは、理知的なものではなく非科学的で愚鈍とさえ言えるものかもしれない。だが、日常生活に根を張った習俗が、理知や合理から乖離するために、かえって人間生活のなかで、思考対象とならずに見逃されがちな人々の本音や実感といったものを想起させる力をもちえるのではないか。その力を習俗的想像力と言い換えることもできよう。
 老いや死を前にしての不安や恐怖という本音としての人間の弱さを隠蔽してしまうのではなく、こうした人間の弱さの受容こそが、習俗の延命の基盤となっていると考える。「ぽっくり信仰」(祈願した下着を身に着ければ安楽往生できるとの信仰)にみる「すがる心性」は、安楽往生の願いを聞いてくれるのであれば、すがる対象が神でも仏でも人神でも気にしない。こうしたすがりつかずにいられない心性から見えてくるのは、自己の弱さを受容したあり様であろう。
 戦時の流行習俗として広まった「蔭膳」は、戦地に向かった夫や息子が無事に生還するように祈って茶碗にご飯を盛り供える習俗だが、ご飯茶碗に蓋がされ、それを開けたときに蓋の裏側に水滴がついていれば、無事に生きているとみなされた。調査では、水滴が茶碗の蓋につくことを「汗をかく」という言い方がなされていた。温かいご飯を入れ茶碗に蓋をすれば湯気が蓋の裏に水滴になってつくのは当たり前ゆえに、「あまりに非科学的」と一蹴されるかもしれない。「非科学的」には違いない習俗が盛んになされたのは、自宅にいる家人には、夫や息子の生死を操ることができず、生きていてほしいとの思いをこうした習俗に託すしかなかったのであろう。生死を操ることができないのであれば、どうやって生きていることの確信が得られるであろうか。水滴は必ずつくと予想できるため、この習俗行為は行う以前に「無事に生きている」との答えが出ているという意味で、占いの内実を伴わない。しかし、こうした「思い込み」や「信じ込み」によって、戦地にかりだされている夫や息子が無事に違いないとの確信を得ることで、この習俗は留守家族に生きる力を与えたのであろう。非科学的ではあるが、息づいている習俗から人々の実感や本音が見えてくる。
 不在の生者への「蔭膳」も不在の死者への「お供え」も、調査から連綿と生き延びていることを知った。食物を「お供え」しても死者が食することはありえないのだが、「お供え」することでその対象の死者が、「あの世」できっと安寧でいてくれると思うことで、のこされた生者は癒されるであろう。老いや死にかかわる習俗が連綿と生き延びてきたのは、こうした習俗行為によって老いや死と接しながらも不安や恐怖の淵に沈みこまずに、日常を生きることを習俗が可能にするからであろう。非合理を孕む習俗だからこそ、合理だけでは割り切れない老いや死を考える素材が埋もれていると考える。すなわち、習俗は理知的なるものとは縁遠く非科学・非合理を孕むとみなされ、深淵な眼差しを自己の内面にむけ思考を深めるといったものとかかわりが薄く、日常生活に根差した世俗的なものに思われよう。しかし例えば、死者は飲食しないため「お供え」の非科学性は明らかながら、この習俗行為によって死者の安寧を信じることで、情愛の対象の死による喪失感に折り合いをつけながらのこされた者が生きられるのであれば、「お供え」という習俗に、非科学的であろうが合理的な機能も見て取れる。
 
2 老いと死をめぐる四つの習俗
 
 本書では、習俗の中でも四つのテーマに着眼する。これら四つの習俗の相互の関連を二つの軸を使って図式化して示し、次に、各習俗の概略を紹介する。
 
四つのテーマ
 習俗の中でも老いや死について考えるに際し、多くの示唆を与えてくれると考える四つの習俗(「棄老」「ぽっくり信仰」「お供え」「墓参り」)を本書では取り上げる。前半の「棄老」と「ぽっくり信仰」は「老いとの折り合い」、後半の「お供え」と「墓参り」は「死との折り合い」に関わる。さらに四つの習俗は死者の赴くところとされる「あの世」を内在させていると捉える。
 まず、「棄老」と「ぽっくり信仰」では、老いから死への道程を照射する。すなわち、点としての老いや死ではなく、線としての老いから死に着目することで、老いて死へ向かう道程の孕む問題を考える。老いをある一点に象徴させた習俗としては、「年祝」(還暦・古稀・喜寿など)などが、死をある一点に象徴させた習俗としては、「葬送儀礼」(枕飯・死装束・納骨など)などが浮かぶであろう。老いから死への道程に合致するテーマとして、「棄老」「ぽっくり信仰」を見出しえたが、この二つのテーマは、老いから死の孕む問題を問いかける深淵なテーマだと考える。
 次に、すでに「あの世」に向かった死者を対象とした死者供養の習俗に着目する。その代表的なものとして「お供え」と「墓参り」を取り上げ、この二つの習俗を通して死者と生者の関係を問いかける。「お供え」「墓参り」は、今日の社会において最も日常的に行われている死者供養の習俗である。したがって、死者と生者の関係を問いかけるにふさわしいテーマであると考える。
 
四つの習俗の関係
 図表序章─1にあるように、二つの軸を用いて四象限を生み出し、各習俗をそれぞれの象限に割り振っている。
 一つの軸は、習俗の管理主体が個人かあるいは集団かで分けている。「ぽっくり信仰」と「お供え」は、習俗行為をするか否かは個人が選択できるという意味で、個人的行為とみなせよう。それに対し、「棄老」と「墓参り」は、集団により管理されている。棄老物語における「棄老」では、共同体の約定に沿って実施され、逆らう者には制裁がくわえられる。「墓参り」では、墓地の共同性に鑑みルールが決められ、ルールを守らず周囲に迷惑をかけるなどの場合は、管理規則違反として墓地から排除されることもありえる。したがって、行為主体が個人か集団かを示す横軸には、後に述べるW・G・サムナー(Sumner)の習俗の定義にある「社会的な力」としての拘束力が働く度合いの強弱が見て取れる。四象限の横軸は、右に行くほど拘束力は強まり、左に行くほど弱まる。つまり、横軸はこの意味で、習俗の社会的拘束力を示すものとして見ることもできる。
 いま一つの軸は、習俗行為が生者の領域に関わるか死者の領域に関わるかで分けている。「棄老」と「ぽっくり信仰」は、老いから死への道程、すなわち生者の領域の問題である。だが生者の領域の中でも老いの域に関わる問題を扱うため、「生(老)」としている。他方、「お供え」と「墓参り」は、行為主体は生者だが、その行為対象は死者であり、死者の領域に関わる死者供養である。この二つの習俗では、想像力によって死者が呼び出され生者と死者の交流がイメージされる。
 こうして二つの軸を用いて四つの象限をつくり、これら四つの習俗を各象限に割り振ることで位置づけの差異を視覚化している。
 
四つの習俗の概略
 第1章のテーマ「棄老」では、老いることと労働生産性からの脱落を等置させ、年齢を変数に赤貧の村落共同体から老人を死に追いやるアンチヒューマンな棄老物語を取り上げる。「棄老」の考察では、民俗学と文学の二つのアプローチを用いるが、民俗学では、洞窟などで遺骨が発見されても、それは「棄老」ではなく葬制(両墓制や風葬など)にかかわるとして、習俗としての「棄老」を否定する。これに対し、文学では「棄老」が習俗であることを前提に舞台装置が組まれている。民俗学の視点からすると、「棄老」を習俗の一つに組み入れることに違和感がもたれるであろう。だが、世界に目を向ければ、移住を余儀なくされる極寒の地や砂漠の地において、老人連れの移動が困難ゆえに、「棄老」に近いものが存在したとの見解もある。この類の「棄老」が日本に存在したか否かは不明だが、詳細は後で触れるが、船水清の『新津軽風土記』(一九八一)や、水上勉の『じじばばの記』(一九七八)などには、「棄老」ともいいうる老人に対する扱いが記されている。こうした扱いを地域社会が見て見ぬふりをしているとしたら、作為・不作為の違いがあるとしても、習俗としての「棄老」に近いものと言えなくもない。民俗学の「棄老」への否定的スタンスを考えると、「棄老」を習俗としては「グレーゾーン」あるいは「習俗的なるもの」に位置づけるものの、習俗であることを前提としている文学作品から「棄老」を照射することで、色彩の異なる多様な「棄老」に想像力を働かせることが可能になろう。本書では戦後の三つの文学作品(深沢七郎の『楢山節考』、村田喜代子の『蕨わらびのこう野行』、佐藤友哉の『デンデラ』)を用いて、その舞台装置、主人公の死生観などを比較検討し、老いや死をめぐる名状しがたい心象風景を言語化する文学の表現力・描写力を借りることで、「棄老」から老いと死を考える。
 第2章のテーマ「ぽっくり信仰」とは、祈祷を受けた下着などを身につけたり枕の下に置いたりして寝れば、長患いして寝込むことなく安楽に往生できるとする信仰である。「ぽっくり信仰」は、西日本では「嫁いらず信仰」とも言われる。「ぽっくり信仰」の祈願者は自分が長患いすれば「家族に迷惑がかかる」と考え、介護されずに逝くことを願い、下着祈祷などを希望する。寝たきりになれば介護者に依存せねばならず、長患いすることなく逝きたいとの願望を具現させた「ぽっくり信仰」にすがりたいと思っても不思議はあるまい。この意味で、「ぽっくり信仰」は安楽往生祈願といわれながらも、介護忌避祈願とも捉えられる。第1章の「棄老」が介護放棄そのものであるなら、「ぽっくり信仰」は介護から逃れたいという意味で、介護忌避といえよう。「ぽっくり信仰」の祈願動機に「介護で家族に迷惑をかけたくない」との思いが指摘されているが、「迷惑をかけたくない」との謙虚にも響く言葉は、屈折した不安や恐怖の言い回しともいえる。というのは、死の到来まで思いやりある介護を受けられる保証はなく、介護にまつわる不安や恐怖が見え隠れするのであれば、「棄老」の潜在型と捉えることもできよう。なお、西日本での呼称「嫁いらず信仰」から、介護を嫁役割とみなしていたことが明らかである。かつて「介護嫁」「孝行嫁」「模範嫁」などの名称で介護を担った嫁を公的に自治体などが表彰あるいは顕彰してきたが、その背後には介護労働の無償性や、嫁がどんなに親身に介護にあたっても法定相続人にはなれない問題などが存在している。
 第3章のテーマは「お供え」だが、この習俗行為の経験者への調査を通じて、この習俗が今日も生き続けていることを知った。「お供え」とは、食されることがないとわかっていながら、水やお茶にとどまらず、死者の好物、時には略膳一式や生者と同じ食事一式を死者に供える行為を指す。「お供え」という習俗に、死後も死者を思い続ける生者の有り様が見て取れる。生と死を越境不可能な絶対的断絶と捉えるのであれば、生命体の死は、完全なる生の終焉であり、生者と死者の関係性は無に帰す。だが、生命体としての死後も、死者は生者によって記憶され想像力によって生者の世界に呼び出されることは、「お供え」などに見て取れる。調査協力者の三分の一もの方々が、「お供え」に際し死者に声かけし死者と共に食すると回答している。こうした有り様は、「死者は飲食しない」との合理ではわり切ることができないものが、我々の日常の世界に存在していることを語っている。緩やかな時間の流れの中で、生者が「お供え」を通して死者と交流している有り様にも映ろう。不在者に食を用意する行為は、対象が生者の場合は「蔭膳」、死者の場合は「お供え」と呼ばれるが、戦時など戦地にかりだされた家人がどうか無事に生還しますようにとの願いをこめて「蔭膳」がなされても、戦死した場合「蔭膳」は「お供え」へ移行したため、戦時においてはことに両者の境界が曖昧化したとされる。
 第4章のテーマは「墓参り」だが、屋内の仏壇などへの「お供え」が屋外の公的領域にある墓地へ外部化したものと捉えると、「墓参り」と「お供え」には、習俗行為としての共通点を見いだせる。より長いスパンで時間を捉えれば、やがて墓守など死者の世話をしてきた生者もいつしか亡くなり、墓は無縁墓と化す。墓については多様な問題、また新しい動きが看取される。例えば、無縁墓の増加がすさまじく、その対策としての改葬の必要に迫られている。この無縁墓問題は昨今メディアで取り上げられているため近年の問題と思いきや、実は江戸時代からの問題でありその歴史は古い。死者の権利を生者(家人)の権利の延長上に捉える考えがあると思えば、逆に葬式仏教批判などを踏まえ、焼き場に遺骨を廃棄することをよしとする考えもあり、死者の位置づけは多様である。第4章では、第一に、死者は誰のものかとの問いのもと、対立する考え方を提示する。第二に、日本の南北の一部の地域に残る墓前飲食に光をあて、家族のみならず地域社会が死者を彼岸に送り出す習俗を提示する。第三に、墓地の現地調査から、無縁墓の増大、脱墓石化、墓地の公園化の三点を特に取り上げる。墓を家族など有縁で括るのではなく、有縁・無縁を問わずに死者が一緒に眠る合葬墓へのシフトなどにも新しい時代の動きが見て取れる。合葬墓のみならず、散骨や樹木葬など脱墓石化の動きもある。後述するように、先祖代々の墓に入ることに否定的な女性の比率が男性の比率より高いのは、裏を返せば、合葬に対する受容度が女性の方が男性より高いことにも結びつく。墓を通して家族や地域社会の変容が見て取れる。
 
3 習俗が現代社会へ問いかけるもの
 
 本書には二つのねらいがある。一つは、本書が取り上げる四つの習俗を用いて、老いや死の受容の葛藤や困難、および死者と生者の関係を考えることにある。いま一つは、四つの習俗が問いかける現代社会の問題を取り上げることにある。
 
「老いから死への道程」「生者と死者の関係」の考察
 本書のねらいは、四つの習俗(「棄老」「ぽっくり信仰」「お供え」「墓参り」)を用いて、老いて死を迎えることの受容や諦念や葛藤を考えることにある。さらに「あの世」にいると信じられている死者の供養を通じて、死者と生者の関係を考察することにある。これらの四つの習俗は、後述するように、「聖なるもの」としての「あの世」(浄土など)が存在しているとの「信念」を共有している。
 まず、「棄老」と「ぽっくり信仰」は老いから死への道程を照射する。老いから死への道程に合致するテーマとして、「棄老」「ぽっくり信仰」を見出したが、この二つのテーマは、老いから死の孕む問題を問いかけるものであると捉え、光をあてることにした。
 次に、すでに「あの世」に向かった死者を対象とした死者供養の習俗のうち、代表的なものとして「お供え」と「墓参り」を取り上げる。この二つの習俗は死後世界における死者と生者の関係性を問いかける。死者は「あの世」にいると信じられているのだが、声かけしたりすれば応答してくれる身近な死者像がこれらの習俗に垣間見られる。情愛の対象の死者が「あの世」で安寧でいることを願う習俗である「お供え」「墓参り」は、今日の社会において最も日常的に行われている習俗行為に位置づけられる。この二つに着目したのはこうした卑近さによる。死者供養をすることで「あの世」の死者の安寧が担保され、死者供養する生者は「あの世」での安らかな死者像をイメージし安堵するであろう。このように今日も生き延びている死者供養にまつわる習俗を通じて、「あの世」に行った不可視化した死者と生者の関係を考えたい。
 
習俗からの現代社会の問題への問いかけ
 いま一つのねらいは、これら習俗を用いることが、習俗そのものに閉塞してしまうのではなく、老いと死に関わる現代社会の問題を考えることに連結することを示すことにある。これら習俗においては、ジェンダーに関わる問題が多様に見いだされるため、本書ではジェンダーに関わる問題も扱う。ここではまず、習俗が社会問題に連結する例を、民俗学者の酒井正子の問題意識から提示したのち、本書で扱う習俗に関わるジェンダーに絡む問題の例を一つあげる。
 酒井は、日本の琉球弧(奄美・沖縄・八重山地域の総称)の葬送歌の研究者だが、かつてこれらの地域では、死者を前にして大声で泣き、葬送歌を歌って死を悼む習俗が存在したが、酒井の問題意識には、「人はなぜ泣かなくなったのか」との問いがあり、この習俗の衰退と近代とのかかわりを問いかけている(酒井2005b: 13)。酒井の着眼は、今日の社会が、死の悲しみを自分一人で囲い込み嘆き悲しむ態度に変容してきたことの問題に連結している。こうした問題意識は、死と孤独の問題に光をあてている社会学者・歴史学者のG・ゴーラーやP・アリエスやN・エリアスらの問題意識(Gorer 1965 =1986 ; Ariès 1975 =1983 ; Elias 1982 =199 0)に通じる。ゴーラーの死者への態度の変容の比喩によれば、「人々は、他人の心を害さないために、脱衣や排泄の時と同じように、一人きりで嘆き悲しむのである。そしてこれこそ、現在可能な最良の解決策なのであろう」(Gorer 1965 =1986 : 178 )とあり、こうした指摘にあるように、死の悲しみは隠れて悲しむことが現代社会においては「マナー」のごとく捉えられている。この意味で、酒井の研究も、「死の隠蔽」「死のタブー化」に連結する。習俗が現代社会の問題に連結する事例を酒井の研究から提示したが、次に本書が扱う習俗に関わる現代社会の問題、とりわけジェンダーに関わる問題の一例をあげる。
 「ぽっくり信仰」は、祈祷を受けた下着を身に付ければ安楽往生ができるとされ、知性からほど遠いもののように思われよう。だが、この習俗は連綿と生き続けている。「ぽっくり信仰」では寝込んで家族に迷惑をかけることなく自立を志向し、死出の旅に向かおうとし祈願するわけだが、この習俗が孕む「家族に迷惑かけずに逝きたい」との願いは、死を前にしての自立とか自己決定といった今日的問題に連結するとみなせる。また、「ぽっくり信仰」は、西日本ではジェンダーの色合いの濃い「嫁いらず信仰」などとも呼ばれる。もし舅姑が長患いすることなく介護の必要なく逝けば、介護役の嫁はいらないとされることが「嫁不要(いらず)」という名称の由来である。名称からもわかるように、介護を嫁の役目に割り振ることを自明視してきた歴史が存在してきた。また、嫁はどれだけ介護に力を注いでも法定相続人にはなれず、嫁によってなされる介護は文字通りの無償労働である。だからこそ、かつて自治体などが主体となって「介護嫁」「孝行嫁」「模範嫁」などの呼称で介護を担った嫁の顕彰・表彰が行われたのであり、嫁の介護労働の無償性と介護嫁表彰はいわば表裏の関係にある。
(注と図は割愛しました)
 
 
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