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あとがきたちよみ
『海洋の未来』

 
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アンドレス・シスネロス゠モンテマヨール、ウィリアム・チェン 編
太田義孝 編・訳
『海洋の未来 持続可能な海を求めて』

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序論 海の未来を予測する
 
本書の目的
 本書は,2011 年から2019 年まで8 年間継続して行った海洋科学研究プログラム「日本財団ネレウスプログラム」の成果の一部をまとめた編著である。原本となるPredicting Future Oceans は,2019 年の秋にエルゼビアから出版されており,気候変動が海におよぼす影響から,企業,市民社会,政府が中心となって進めているSDGs (持続可能な開発目標)まで,海に関する課題を48 章,500 ページにわたって述べている。原本の企画,編集,執筆を率いた立場からいえば,膨大な情報を含んだ書籍を出版することは,百科事典を作り出すようであり,また,分野横断的なアプローチによって多角的に海の未来を示すことであった。執筆者の多くは,調査の切り口からデータの収集・分析,そして結論まで,各自が行ったオリジナルの研究を基盤としており,未来の海において懸念される環境変化,なかでも気候変動,新たな海の開発や政策の批判的思考を伴った解説を展開している。特に,これまで十分な知見が蓄積されていない海の社会的な課題,沿岸域社会や島嶼国の食糧安全保障や主権についての論考は,海洋政策で国際的な注目を浴びているテーマである。
 本書は,その48 章の中から結論を含む17 章を選択して,特別に日本語版として再構成したものである。ネレウスプログラム統括であり,原本の編集責任者である筆者が,原本とは異なる内容で執筆した新たな序章(本章)を追加した。掲載する17 章については,その内容やオリジナリティーをふまえ,本書のテーマである「海の未来」についての直接的な情報と私たちが認識すべき課題に関する研究を扱った章を,筆者が選び収録した。直接的な情報とは,海の未来において,人々に知っておいてほしい科学的知見や国際的な議論に関わる研究を指している。今,環境や社会に悪影響を与えている問題は,未来では規模が拡大するのか? その影響が軽減する可能性はあるのか? 一般的に注目されている政策課題は何か? これらの問題や課題に対する解決策,学術的な考察はどんなものか? 最新の研究がこれらの質問の答えとなる。具体的なトピックとしては,気候変動(異常気象,季節変化,生物多様性,生物適応を含む),海洋汚染,水産資源の枯渇,海洋開発の影響,食糧安全保障,海洋紛争,企業的な責任,海洋所有権,SDGs,国際漁業管理に着目した。
 これらのトピックは,未来において,グローバルな海の問題として,深刻に,複雑に発展していくという共通項がある。特に気候変動,汚染,水産資源の枯渇は,環境保全団体によるメディア戦略とは裏腹に,その規模,根深い歴史,政治的な原因から「悪魔的な(解決できない)課題(Wicked Problem)」として解決の糸口が見えていない。「悪魔的」である仕組みとして,気候変動の研究者らが指摘するのは,地球規模の環境変化は「累積的」に生態系に影響を与えるという点である。累積的とは,単一の変化が与える影響だけでなく,多様な変化が累かさなって起こることで生じる相乗作用を指しており,特に気候変動が環境や社会に与える影響を理解する鍵となるコンセプトである。本書では,海水温の上昇,生息域の減少,生物分布の変化など多様な影響が,いかに海洋生態系に累積的な変化をもたらしているのかを取り上げ,気候変動が海に与える影響の「悪魔的」な複雑さを示す。また,これらの章には,モデル分析を駆使した研究内容が多く含まれるが,モデル分析に生じる不確実性にかかわらず,各章の結論においては,曖昧な表現を可能な限り避けることとした。
 また,「累積的」と並んで,気候変動が「悪魔的な課題」である理由は,「トレードオフ」と呼ばれる利点と負荷の二律背反が,気候変動への適応または緩和によってもたらされることにある。例えば,気候変動についていえば,パリ条約により温室効果ガス排出を軽減することが第一の解決策とされる一方で,動かない国際社会を傍観しているより,地域的な適応策の実施がより喫緊だとする声もある。国際的な取り組みも重要であり,問題が引き起こす深刻な環境的,経済的状況に対処して人々を守ることを重視する立場からの議論ではあるものの,適応するためには地域的影響の予測が必要であり,それを地球規模で起こる変化から導き出すことはあまりに難しい。特に,環境変化の影響が社会経済へ移行する時に,すでに存在する不平等や社会公正性の欠如によって,差別的に異なる社会階層,民族,職種グループに悪影響が及ぶ結果につながる。本書が扱う海の社会的な側面の研究は,未来の海において増殖された負荷が,政治的,人種差別的な理由から周辺化された人々(先住民や移民)の食糧安全保障,経済活動,文化に大きな影響を与える「顔の見える危機」を取り上げている。
 原本の目的は,未来の海についての百科事典的な機能を備えることであったが,日本版の本書は,海と人との伝統的な関わりを考え,より社会的な課題を前面に出したメッセージ性の高い内容にすることを新たな目的とした。海に関する社会的な課題とは,変化や危機を予測して来たるべき未来を描くのではなく,問題を解決するために必要な知見を吟味し,問題解決の過程を構築することを指す。つまり,未来の海をより豊かに,美しく(恣意的ではあるが),自由に(すべての人が平等にその恩恵を受ける)するために今私たちは何をすべきかという議論を行うことである。本書では,国際的な取り組みとして注目を浴びている「ブルーエコノミー」「企業の社会的責任」「持続可能な開発目標」を章として取り上げ,これらの取り組みやコンセプトが示す解決策に必要とされる視点,特に社会的公正を中心とした議論を紹介している。端的にいえば,海からの恩恵を誰が受けているのか,そして誰が受けるべきかという問いに,私たちはどう答えるのかという議論を展開しているのである。
 
本書の内容
 本書は,多岐にわたる課題を取り上げることで,未来の海を三つの側面から説明している。第一に,気候変動による海洋生態系への影響,第二に,環境変化への適応に際してのリスクとその負荷を担う対象,そして第三に,未来の海のための国際的な取り組みの再検討である。各章は,これら三つのテーマに沿って,単一的な海の未来図を描くことを目的とせずに,論考しているものもあれば,オリジナルのデータを基に議論しているものもある。すべての内容は,すでに査読付き学術論文として出版されているので,これらの論文を読むことにより,情報の根拠とさらに専門的な詳細を理解できる。研究の最前線に立つそれぞれの執筆者が,これらの詳細をできる限り反映させながらも,専門外の読者にも問題の原因,規模,トレードオフ,解決方法(とその問題点)が認識できるように,各章で背景,現在の知見,考察,結論を述べ,テーマとなる自然的,社会的,政策的な海に関する動きを解説した。
 すべての章は独立しているが,前半7 章までを読む際には,まず気候変動が海に与える影響をまとめている第1 章を読んでいただきたい。変化する海洋環境について,地球システムのメカニズムと今後の動向予測とともに解説するこの章は,その後章に登場する二次的な変化,温暖化や酸性化などの物理的な変化がいかに生態系に影響するのかを理解する際の助けとなるだろう。例えば,第2 章では,海水温の上昇によりいかに生物季節(季節をめどに反復される生物学的現象のサイクル,プランクトンの発生など)に不整合が現れるのか,また第3 章では,海洋熱波と呼ばれる極端な気象の発生が増加するのかなどを扱うため,これらの章の前段として海水温の上昇についての基礎的な仕組みと規模を学ぶことは有効であろう。また,海洋生物多様性や生物進化・適応への気候変動について述べている第5,6 章でも, 最も重要な誘因は,海水温の上昇によって受ける影響であると捉えられている。一方で,第7 章では,生物分布の変化,特に商業種として対象とされ,移動範囲が比較的に広い魚種について,海水温の上昇によって生息域を追われる(熱すぎる水から逃げるために)という傾向だけでなく,「魚の成体の運動」,あるいは「海流による幼生の分散」によって生息域を拡大することも可能であるとし,変化の連鎖が必ずしも直線的でないことを示している。その上で,これらの変化する海と海の生物の行動が,漁業への「長期的なリスク」となり,地域に根ざした漁業管理の手法が必要となる可能性を解説する。これは,第4 章で解説されている気候変動と海洋汚染(特に水銀汚染の拡張)についても同様で,海水温が上昇すると魚の体内での汚染濃度が高まる傾向があるものの,生態系の変化により,この傾向が一部では緩和されることも考えられる。前半の第1 章から第7 章では,地球システムから地域漁業まで,海洋から生態系,そして経済活動へと,気候変動が連鎖的に与える影響を説明している。そして,複雑な仕組みを伴って,現在の科学的知見によって示される未来の海は,これまでとは異なった「累積的」な変化に覆われていることが明らかにされているのである。
 海から社会へとつながる関係は,漁業という生業を通して,歴史的に,文化的に多様な形で,それぞれの沿岸域社会において適応・変化してきた。第8 章では,北極圏で暮らすイヌイットの食料システムを取り上げる。魚や海洋哺乳類を地域社会で分け合い,文化を守り,食料を確保しようとする人々は,今,気候変動の影響で彼らの狩猟文化の継続を困難にされている。その上,近年,北極圏で乱立する石油ガス採掘を目的とした開発による環境汚染物質(海運の拡大など,局地的な人為的汚染の影響も含む)が,地理的には離れたところで暮らしている生物相から検出されている。その環境汚染物質を含有する野生種を食料として摂取することにより,地域住民が汚染物質にばく露する懸念が高まっている。同時に,不備の多い流通・食料政策による食費の高騰,またイヌイットの伝統食に必要な自給自足に関する無理解が,イヌイットの人々に「累積的」な負担を課している。つまり,未来において,気候変動の影響でより一層汚染濃度が上がり,生息域を奪われた野生種が激減する時が来てしまったら,食糧安全保障とともに民族の文化と生業を支える食料主権(生きるために食べさせられるのではなく,自身の選択によって食べることができる権利)が脅かされる結果となる。未来の海が,差別的な負担を沿岸地域に課す例は,イヌイットに限らない。第9 章では,これまで地域レベルの懸念としてしか語られることのなかった先住民の「食料主権」について,世界83 カ国にまたがる2000 近い地域での水産消費の記録を積み上げ,グローバルな課題として紹介する。その上で,海とともに生きる人たちの声を政策に届ける必要性と,それを実現するためには,定量的なデータという「証拠」を国際的なレベルで作り上げる恣意的な取り組みが必要であると現状を厳しく指摘する。
 本書の後半第10 章から第15 章は,未来の海の危機やリスクについて,解決策とされる管理手法,政策,ソフト面での努力に注目し,その視点,効力,現状を解説する。これらの章では,比較的新しい海洋管理と利用用途に焦点を当てているが,専門知識や前提となる背景に関する知見がなくても各章の内容は理解できる。しかし,これらの章を読み解く上で,取り扱っている議題,社会的責任や持続可能な開発目標などが必ずしも肯定的に認識されていないという傾向が,すべての章に共通している点である。例えば,企業の社会的責任を扱う第10 章では,水産業界が,自らの説明責任を果たす代わりに自社の商品(水産物)のエコラベル認証に過度に依存することで「責任からの逃避」や「新viii 序論 海の未来を予測するたなイノベーションの抑圧」を生む可能性を議論する。第11 章では,海という共有財産を市場化,私有化,商品化する「新自由主義的」な動きについて,海洋保全であれ,漁業資源管理であれ,「所有権」を海の領域や資源に与えることで,一部権力がその恩恵を「囲い込む」不平等と不正義につながると指摘する。海洋システムの複雑性と紛争とのつながりを説明する第12 章では,これまで単純化されてきた海洋紛争の原因や仕組みへの理解を検討しつつ,「海洋紛争」は,魚資源の枯渇や分布の移動が直接的に紛争を喚起させるのではなく,領土や領海の所有権をめぐるさらに根深い戦いの代理戦争ではないかという懸念をも示している。
 国際的な取り組みは,国や企業が主導する取り組みと一線を画しており,個々の立場と利害を超えた地球的な未来への希望やビジョンとして称賛されるべきかもしれない(アメリカンジョークに,“エリートにはいろいろなものが見える。ゴーストやビジョンなど”がある)。しかし,第13 章のブルーエコノミーについては,社会公正が,環境保全と同様,もしくはそれ以上に必要な条件であることを主張する。その上で,海洋利用や開発の「持続可能性」が,一元的な定量的データや一部の利益者,特に開発技術や資金力を持つ先進国によってのみ具現化される「植民地的」な危険を指摘する。そして,持続可能性を国際的な目標として掲げたSDGs に関しては,その基盤となる「プラネタリーバウンダリー・安全な機能空間」の視点を第14 章で再検討する。第14 章では,人間の安全な生活には自然環境を適切な状態にすることが第一であり,その安全な空間の中でこそ,経済的,社会的な目標は達成される(べきだ)という論理は正当に見えるものの,実際には,必ずしも適切な環境が安全な社会に繋がる訳ではないということを,歴史的な事例とともに論理的に展開する。第15 章では,国際漁業関連法に関わる「義務の遵守」という実施力の議論を解説し,適切な評価,統一された基準,どの国が説明責任を負うのかというガバナンスの課題を提示している。
 そして,本書の最終章として結論を示す。そこでは,未来の海の予測結果を発表し,その予測結果にいかに対処していくべきかを議論している。無論,予測は常に進行中であり,私たちは新たなフェーズでさらに「悪魔的」で「累積的な」問題を複雑に捉え,人や社会が尊重されるべき大事なことを諦めることなく,安全で豊かな暮らしを送るという単純で明確な答えに結びつけていくために研究を継続することを付け加えておきたい。
 
読者へ
 本書の著者は,各専門分野で第一線を走る若手研究者たちである。読者の方々には,明確な結論とともにまとめた彼らの意図を理解して,現在進行形の科学的知見を手に入れてもらいたい。海の研究は,見えない世界の研究であり,その未来ともなれば不確実性を伴うのは当然である。しかし,すでに認識されている知見を整理し,新たなデータや視点を提示することで,未来の海を考察する意図が,危機に警鐘を鳴らすだけでなく,危機を正確に伝えるために必要な手順,知見,データ,分析力,動機を伝えることに変わる。それは,専門家として,自分の予測の是非を見届ける立場として,単純化された海の未来やその方向性こそがリスクであると認識しているからである。多角的な未来を示すという本書の目的のために,享受すべき不確実性,二律背反,多様でかけがえのない人と海との関係や価値観を知るという経験を読者の皆さんに共有していただきたい。
 最終章である結論で再会できれば幸いである。
 
太田義孝
 
 
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