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『テトラローグ』

 
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ティモシー・ウィリアムソン 著
片岡宏仁 訳、一ノ瀬正樹 解説
『テトラローグ こっちが正しくて、あんたは間違ってる』

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解説(抜粋)
 
科学と宗教
 さて、以上のような流れで見取ることができるウィリアムソン哲学だが、本書『テトラローグ』は、一般向けの対話篇ながら、ウィリアムソン哲学の特徴が絶妙に織り込まれた、アクセスしやすい著作となっている。まず、「テトラ」すなわち「4」人の対話者は、次へのような立場を象徴している。

サラ:科学主義あるいは科学至上主義、ただし道徳については絶対性は認めない
ボブ:反科学主義、魔女を信じる
ザック:相対主義、すべては各人の視点に依存するとする
ロクサーナ:論理的思考重視、世界の事態との一致という真理概念を強調する

 日本語訳もスムースで読みやすく、内容的にも専門的知識はまず必要ないので、まずは通読することをお勧めしたい。4部構成で、各部の後に訳者による懇切丁寧な「ふりかえり」が付されているので、一層読みやすい書物になっている。ぜひ、哲学対話の、入り組んでぐちゃぐちゃしつつも、刺激満載で、ユーモアたっぷりの知的魅力あふれる議論を存分に堪能していただきたい。また、私の右の説明からも示唆されうるかと思うが、4人の対話者の中で、おそらくウィリアムソン自身に近いのはロクサーナであろうと思われる。むろん、ロクサーナとウィリアムソン自身がぴったり同一ではないが。
 この「解説」の場では、要約的説明は不要なので、読者の理解の助けになるかもしれないいくつかの点について述べておこう。第一に、ボブが魔女の存在を信じているという宗教的あるいは呪術的設定が、あまりに常識外れで、まともな議論の話題になりうるのか、という疑問を抱く方がいるかもしれない。たしかに、もっともな疑問である。けれども、哲学をかじると、決して奇妙な設定ではないことが分かる。もちろん、いわゆる「疑似科学」(pseud-science)の類いとして魔女の存在が挙げられているのだろう、という理解をする方もいるだろう。水からの伝言とか、ホメオパシーとか、あるいはいまなぜか異様に興隆している「地球平面説」(flat earth)などが代表的な疑似科学だろうか(ただし、何が疑似科学かについては多種の見解がある)。魔女の存在もそうしたものの一つと理解されうるだろう。けれども、疑似科学という呼称自体ネガティブな含意があり、間違っている、という意味が込められている。それに対して、本書でのボブの言う魔女の存在は、ネガティブではない、もうすこしニュートラルな見解として導入されていると思われる。
 魔女の存在をある種の宗教的な信仰であると捉えて説明してみよう。実は、もともと議論の大枠の構造という点では、科学と宗教は同様である、というのはよく知られた論点なのである。それは遠くヒュームの議論に遡る。科学というのは、自然の中に法則性や秩序がある、ということを前提して、観察や実験によってそれを見出していく、という営みである。そもそも自然の現象がまったくランダムなのだとしたら、検証とか再現実験とかは意味をなさない。一回ごとに異なる、その他の時間での出来事とはなんの連関性もない形で現象が発生してしまうのだとしたら、科学は一体何を発見するために営まれるのか、訳が分からない。よって、科学的探究が有意味に成立するためには、自然の中に秩序や法則性があると考えなければならない。こうした考えをヒュームは「自然の斉一性の原理」と呼んだ。自然は、同様な条件のもとでは、斉一的な現象を繰り返す、という考えのことである。
 では、しかし、この「自然の斉一性の原理」が成立することはどのように確認できるのだろうか。まさしく自然科学的な観察や実験によって確認できるだろうか。しかるに、「自然科学的な観察や実験」によって何かを確かめる、という営み自体が有意味に成り立つためには「自然の斉一性の原理」が必要なのだから、その営みによって「自然の斉一性の原理」が成り立っていることを確認するというのは、循環になってしまい、確認の体をなさない。では、「自然の斉一性の原理」は論理的に成り立っているのか。それも違う。論理的に成り立っているならば、その否定は矛盾してしまうはずだが、「自然の斉一性の原理」が成立しない世界は矛盾などせず、容易に表象可能である。だったら、私たちはどのように「自然の斉一性の原理」を受け入れているのか。ヒュームは「想像」に訴えて説明した。要するに、理論的には正しい考え方として説明できず、「想像」によると述べるしかなかったのである(『人性論』(一)大槻春彦訳、岩波文庫、第一篇・第三部・第六節)。
 この点は、20世紀の哲学者ホワイトヘッド(Alfred North Whitehead)の記述が一層印象的である。ホワイトヘッドは名著『科学と近代世界』の中でこう述べている。「理性への信仰は、事物の究極の本性とはすべて相まって調和を成すというところにあり、諸事象が単に恣意的に生じているという見方は排除されるべきだ、ということへの信頼である。それはつまり、事物の根底に単なる恣意的な神秘を見いだすことはないという信仰である。自然科学の勃興を可能にした、自然の秩序への信仰(the faith in the order of nature)は、一段と深い信仰の特殊な例である。この信仰は、帰納的な一般化によっては正当化することはできない」(Science and the Modern World, Free Association Books, 1985, p.23)。世界の自然現象に秩序や法則性があることそれ自体は、確認できるようなことではなく、単に「信仰」(faith)するしかないものだ、とホワイトヘッドは見破ったわけである。要するに、自然科学の営みの最深部の根底に、ある種の宗教的信仰が宿っているということである。一見すると驚くべきことのように思えるが、哲学の世界ではよく知られた論点である。
 科学と宗教が同根の営みであることは、科学革命の時代を彩った一人、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)の逸話によっても知られる。ケプラーは、師匠のティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)が残した天体のデータを数式で表現しようとしてもできずに悩んでいた。ケプラーは敬虔なキリスト教徒だったので、神が世界を創造し、神は人間を神の似姿として創造したのだから、自然界には人間が努力すれば発見できる法則性があるはずで、それを発見することによって神の偉大さを確証できるはずだと考えた。そしてついに、天体は円軌道をしている、という古代以来の前提が間違っていたのであって、楕円軌道をしていると考えればうまくいくのではないかと思いついた。かくして、ブラーエの残したデータの中に見事な規則性があることを発見したのである。このような逸話によって、近代科学が宗教的信仰との連携のもとで立ち上がってきたこと、すなわち科学と宗教の同根性を確認することができる。だとしたら、本書の中でボブが魔女の存在を信仰して、それに対してサラが非科学的だと非難するという対話の骨子が、実はかなり哲学的に意義深く、繊細な論点に触れていることがお分かりいただけるだろう(一ノ瀬正樹『英米哲学入門』、ちくま新書、2018年、pp.26-27 参照)。ウィリアムソンは明らかにそうした含意を込めて、対話を設定していると思われる。
 逆に、サラのように、何でも科学的に解明できるはずだとする科学至上主義それ自体、間違ってもいるし、道徳的にもまずい、という捉え方もありえる。たとえば、事象間の因果関係について、科学至上主義の立場からは最終的には科学的に解明できるとする主張がなされるだろう。けれども、何かがないこと、つまり「不在性」(absence)が原因として指定される可能性を考えると、科学的な解明や立証はほぼ不可能である因果関係が想定される。たとえば、交通事故の原因として、人間の側のさまざまな不作為や過失、ある種の脳内現象のもともとからの不在などが原因とされることがありうるが、そうした原因はそもそも出来事ではないのでデータが取れない。よって科学的な解明はまずできない。何の不在が原因かは、科学ではなく、規範的な判断によって判定されるものである。そうした事例が多々あるにもかかわらず、科学的な解明の万能性を信じるとするのは、根拠のない信念を自己欺瞞的に信奉することになり、いわば「認識的悪徳」と見なされうるだろう(Jeroen de Ridder, Rik Peels, and Rene van Woudenberg, Scientism: Prospects and Problems, OUP, 2018 を参照)。
 
真理と道徳
 次に触れておきたいのは、ロクサーナがタルスキーの真理概念に触れている部分についてである。ロクサーナは、そのことを「現にそうであることをそうであると言ったり、現にそうでないことをそうでないと言うのが真理である」(58頁)と、アリストテレスの言葉を使って表現している。これは事実と文との対応関係を名指した、実にシンプルな定式化であるが、同時に、非常に核心的で根源的な真理概念の捉え方である。ただ、すぐに気づくように、いくつかの疑問を惹起する。まず、そういう事実が確認できていない、あるいはそもそも原理的に確認できない場合、真理概念はどのように理解したらよいのか、という疑問である。「徳川家康は1616年に亡くなった」という事実は、直接的には確認できない。それは、そもそも原理的に確認できない。こういう場合、事実と文の対応関係をどのように判定したらよいのか。ここに形而上学が侵入してくる。ウィリアムソンの「真理の形而上学」が機能する場面である。
 次に、この真理概念の規定における「真理」とは、それ自体事実なのか、それとも言葉なのか、という素朴な疑問が湧出するだろう。果たして「真理」とは一体どういう身分のものなのだろうか。少し反省すれば分かるが、「真理」は恐ろしいほど強力な概念である。どんな主張にも、まるで背後霊のようにまとわりついてくる。ザックが、どのような考え方もその人の視点に依存する、という相対主義の立場を提起したが、それを一つの主張として提起している以上、ザックは、たとえ明示しなくとも、「どのような考え方もその人の視点に依存する」は真理である、と主張していることになってしまう。これをどう処理するかが、相対主義を展開するときの最大の試金石である。
 しかし、いま相対主義に関して言及した、「何々は真理である」という、真理概念の、いかなる主張にも付加しうる、主張の表面の背後に隠れている使用法は、逆に言えば、真理概念を明示しなくてもいい、という捉え方を促す。いや、もっと強く、真理概念などなくてもいいのではないか、という捉え方を促すようにさえ思える。「プルトニウム239の半減期は約2万4千年であるは真理である」というのと「プルトニウム239の半減期は約2万4千年である」とは、内容として何も違いはないではないか。だったら、「真理」のようなややこしそうな概念はかえって使わない方が紛れがないのではないか。こうした考え方が出てくるのは必定であり、実際第Ⅱ部のザックは、真理や虚偽の概念を使用する習慣的なゲームを拒否する(63頁)と断言している。そして実際、こういう真理概念などなくてもいい、かえって使わない方がいい、という考え方は現代哲学の中でも一定の説得力を持って流布している。一般に「真理のデフレ理論」と呼ばれる立場である。タルスキーの定式化から始まりデフレ理論にいたるまで、真理をめぐる哲学的議論は驚くほど錯綜しているが、根源的な思考に沈潜する喜びを堪能できる主題でもある(チェイス・レン『真理』野上志学訳・一ノ瀬正樹解説、岩波書店、2019年を参照)。いずれにせよ、このような文脈での真理概念は、「何々は真理である」と述べるときの言葉としての真理概念にほかならない。ウィリアムソンは、ザックを介して、「発話の認識論」の側面を垣間見せていると言えるだろう。
 
 
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