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『キャリア教育と社会正義』

 
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前田信彦 著
『キャリア教育と社会正義 ライフキャリア教育の探究』

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はじめに
 
 本書はこれまでの職業準備教育の一環として位置づけられてきたキャリア教育を批判的に検討し,いくつかの実証分析の結果を踏まえたうえで,「社会正義」や「ケアの倫理」といった新たな要素を取り入れた「ライフキャリア教育」の方向性について考察するものである。
 キャリア教育の概念がわが国に本格的に導入されたのは,1999 年に中央教育審議会が提起した政策文書の中であった。バブル経済崩壊後の景気後退に伴って若年者の失業率が高まり,「フリーター」や「ニート」といった社会現象から学校から職業への移行が社会的問題となり,2003 年「若年自立・挑戦プラン」及び2004 年「キャリア教育に関する総合的調査研究者会議報告書(文科省)」を経て行政主導によって登場したのがキャリア教育である。その後,キャリア教育は,就職支援あるいはキャリアガイダンスという要素を含みながら,初等教育から高等教育まで広く実施されてきた。
 一方,キャリア教育は,企業からの大学への職業教育の期待,就職ランクを意識する学生,あるいは就職率を上げたい大学側の思惑の中で,社会の実践的な要請の中で誕生したとも言える。そのため,望ましい勤労観・職業観を身につけさせることを目的としたインターンシップや社会人を招聘した講義などがそのプログラムの中心である。エンプロイアビリティという雇用のための能力を身につけることが主要な目標であり,労働市場における経済的行為を念頭にキャリア教育が行われてきたのが実際のところだろう。
 しかし,学生たちが卒業後にマーケット(市場)以外の領域である公共圏にどのように関わっていくのか,社会を変革していくための批判的能力の育成や,社会正義の意識,他者と関わるうえでのケアの倫理など,共生社会に向けて生きることの本質的命題に対して,現行のキャリア教育は十分に応答しきれていないようにも思われる。職業準備教育の要素が強いほど,労働市場以外の生活(ライフ)や公共性,あるいは共生社会へのまなざしは遮られ,いかに就職戦線を勝ち抜いていくべきかといった強者の論理がキャリア教育を支配していくことになるのではないだろうか。
 もちろん筆者は,学校教育と企業への就職とを架橋するこれまでのキャリア教育や,その背景にある市場原理と経済行為を否定する立場ではない。利潤追求の動機づけによって形作られるマーケット(市場)は,新たな商品を生み出す原動力であり,創造性や変革のスピードという点においては共助や共生社会の原理よりもはるかに優れている。しかし,キャリア教育の中で就職支援を重視しすぎることで,その目的を市場における行為を念頭におくことに限界があるということも反省的に振り返る必要があるのではないだろうか。残念ながらこういった指摘は一部の研究者によってなされてきたものの,それを社会学の視点から実証研究に基づいて検討し,就職支援のみを目的としない新たなキャリア教育の方向性を探求した研究はきわめて少なかった。こういった背景から,従来型の職業準備教育としてのキャリア教育を批判的に捉え,公共性や共生社会を目指すためのオルタナティブなライフキャリア教育の方向性を検討することが本書の目的である。
 
 とはいえ,本書で提起するライフキャリア教育は試行的な試みに過ぎない。本書で用いるライフキャリア教育の定義は,従来の職業教育の領域を大きく超えていることからも試論の域を出ておらず,現行のキャリア教育にとって代わることもあり得ないだろう。
 また方法論についていえば,本書のいくつかの章では筆者が行った授業の学生アンケートに基づく分析結果を提示しているものの,社会学の量的分析としては非常に限られたサンプル数である。とりわけ本書のテーマである「ライフキャリア教育」の受講生サンプル数が限られていることもあり,知見を一般化するうえでも用いるデータの偏りは否めない。一方,本書で用いるデータは,ほぼ筆者自身が実践した授業記録を基に得たものであり,一般的な標本調査とは異なって,調査対象者のリアリティをより正確に反映した質の高いデータでもある。本書ではこのようなデータの特性を活かしながら,量的分析に加えて,インタビュー調査を踏まえた質的分析を取り入れ,ライフキャリア教育の実践的な効果を多面的に把握する。これは「混合研究法(mixed methods research)」と呼ばれる分析手法に近いアプローチでもあり,本書全体を通して,できるだけ質的分析を加えながら知見や解釈の妥当性を高める工夫も試みている。
 以上のような方法論上の限界や固有性を承知のうえでもなお,本書が提起するオルタナティブな「ライフキャリア」の視点が,教育の一角に居場所を見出すことによって,これまでのキャリア教育の全体像に別の角度から光を当て,それに一定の影響を与えることが可能であると考える。これはまた,キャリア教育が単なる就職支援という枠組みを超えて,社会正義の実践(下村 2000)や共生社会(宝月 2017)を担っていくための教育へと転換する可能性を持つと言えるであろう。
 
 
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