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あとがきたちよみ
『経済学の哲学入門』

 
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ダニエル・ハウスマン 著
橋本 努 監訳/ニキ リンコ 訳
『経済学の哲学入門 選好、価値、選択、および厚生』

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はじめに
 
 息子のジョシュアが3歳のころ、大きくなったら何になろうかとあれこれ考えていたことがある。「てちゅがくのしぇんしぇえ」もいいかな、砂利トラの運転手さんになるかも、「おうまさんにのって、どうぶつを撃つ」のもいいかも、と言っていた。知っているかぎりの大人の職業のなかから、自分はどれを選好するか知ろうとしていたわけである。彼はのちに、ほかの選択肢も考慮に加えていった。いまは哲学者でもなければ、トラック運転手でも動物を殺すカウボーイでもない。
 本書は、選好についての本である。主として選好が経済学においてどのように理解されており、また、されるべきなのかについて論じている。そのほか、日常の言葉と行為で用いられる選好、心理学で理解される選好、行為や道徳についての哲学的反省にかかわる選好なども扱っている。本書では、さまざまな場面で用いられる選好を、一つの概念として明確にし、分析的に評価した。またそれがとりわけ経済学において行為や状況を説明し、予測し、価値評価するうえで果たす役割についても明確にし、分析的に評価する。本書は、経済学者たちが実際に行なっていること─つまり、行為、制度、結果などを説明し、予測し、評価するのに選好を引き合いに出すやり方─に対して、だいたいにおいて肯定的な評価を下している。しかし本書は、自分たちのしていることはこうだと説明する経済学者たちの言い方に対しては、それほど好意的ではない。
 本書はまた、経済学者たちがその実践について述べる解釈をゆがめるような、いくつかの誤った考えについても批判している。そのように批判するなかで、経済学者たちが合理的選択理論を用いる際の説明様式と、哲学者たちが人間の行為を論じる際の説明様式の関係についても、いくぶんかはっきりさせている。さらに、選好形成とその修正についてのモデルを構築するための素材を収集することで、理性や情動がどのように選好を形づくるかについても論及している。
 本書は、人々が何を選好するか、何が選好の原因となるか、ある選好がどんな帰結を生むかなどについての実証的な研究ではない。人々が何をするか、またなぜそれをするのかについて研究するのではなく、そうした研究をする経済学者や心理学者の営みを、いわば後ろからのぞきこむことにする。研究をのぞき見する以上、どうしても研究対象も目に入ることにはなるが、私が焦点をあてるのは、かれらのものの見方であり、なかでも、選好という概念がかれらの視野にどのように入ってくるのか、また、どう入ってきてしかるべきなのかについてである。次の絵をごらんになれば、私の言わんとするところがよりはっきりするだろう(図0.1)。
 この絵は単純化しすぎているが、経済学者や心理学者といった社会科学者たちが研究するのは、行為者とその行為、そしてその行為の理由、原因、帰結である。社会科学では、行為者の研究をするにあたって、モデルを構築する。これらのモデルにおいては、とくに経済学の場合、選好が大きな役割を果たす。社会科学をめぐって哲学者たちは、社会科学者たちが行為者をどのように研究しているのかを探求する。本書は、社会科学を扱う哲学の試論であり、選好の解釈について、また、行為を理解したり結果を評価したりする際に選好が果たす役割について、探究するものである。
 選好は欲求と同様に、人間の生活において大きな役割を果たしている。人はほとんどすべてのことについて選好と欲求をもち、それらを言葉と行為の双方でひっきりなしに表現している。子どもは、まだ言葉が話せないうちから、別のおもちゃではなく特定のおもちゃに手を伸ばすし、親が知らない人に抱っこさせると泣いてしまう。動物だって、選好や欲求を表す。私が外出の支度をしていると、愛犬のイツァークが怒ったように吠えるのもその一つである。
 選好と欲求は同じものではない。いちばん重要な違いは、選好は欲求とちがって比較にかかわるという点だ。あるものを選好するとは、つねに、それをほかの何かよりも好むことを意味する。かりに選択肢が二つしかないとして、その両方を欲求することはできても、両方を選好することはできない。選好は比較を含むから、欲求とはちがって二つの選択肢を天秤にかけないことには成り立たない。それゆえ、選好は欲求にくらべ認知的なものであり、判断との類似性もいっそう高い。本書が主題とするのは、欲求ではなく選好である。
 図0.2の選択と厚生に関する簡単な図式は、主流派経済学において優勢な考え方を示している。この絵のなかで、行為者は数ある選択肢(ここではさまざまな食べ物を例にした)を序列づけしている。行為者は可能な選択肢のなかから、価格や在庫といった制約の許す範囲内で、選好の順位がなるべく上位のものを選ぶ。どれだけ上位まで登れるかが行為者の幸せを決定する。実証経済学は選択とその帰結を説明し予測するが、そこではこの選好順位が人々の選択を左右するとされる。規範経済学ではどの結果が最善で、どんな政策を導入するのがよいかを検討するが、その目指すところは、人々にその選好順位を登らせることである。実証ミクロ経済学の諸原理は、主として選好とそれが選択に及ぼす影響について一般化したものである。そして規範経済学の課題は、選好を充足する最善の方法を特定することである。このように選好は、主流派の経済学理論の中核に位置している。
 心理学者たちも選好に関心を寄せるものの、「選好」という用語によって意味する内容は学派によってちがう。心理学者のなかでも、経済学者と共同で仕事をする人たちや、主流派経済学がかかげる選択についての諸理論を批判する人たちであれば、経済学者と同じ意味で用いている。その一方で、選好を欲求とひとまとめにし、選択について理論づけるにも、衝動、ニーズ、願望、希望、負い目、性格特性、情動、計画といった個々の動機づけ要因の観点から行なう人たちもいる。人々を動機づけるものを指す一般的な用語として、心理学者たちは「選好」よりも「欲求」を好んでいる。
 選好と欲求は、行為やプルーデンス(prudence 処世術的な配慮)や道徳に関する哲学の諸理論にも登場する。哲学では、行為を説明するにあたって、理性の果たす役割にとりわけ関心を寄せてきたので、その結果、一方の理性と、もう一方の信念、欲求、選好、意図などとの関係に、関心を抱いている。哲学でプルーデンスやウェルビーイングが語られる場合、ウェルビーイングは選好の充足と結びつけられることが多かった。ただし、哲学でウェルビーイングと同一視されがちなのは、人々の実際の選好の充足というよりも、理性を用い、かつ十分に情報を集めたうえでの選好の充足に傾きがちではあったのだが。
 この本では、日常生活、経済学、心理学、哲学のいずれにおいても、とても重要な役割を果たしている一つの概念[選好]について検討する。また、経済学における選好の考え方と、選好という用語のそれ以外の用法を区別するほか、一つには、選好がどのように信念や欲求、情動、意図、理由、価値観などに依存するのかを、もう一つには、選好が選択に、また厚生にどのような影響を与えるのかをはっきりさせていく。
 ではなぜ、選好をめぐるこうした探求に、あるいはもっと広く言うなら、図0.1で哲学者が言わねばならないことに関心をもつ必要があるのだろうか。社会科学者なら、自分たちの仕事をなしとげるうえで哲学者が助けになると思えば興味をもつかもしれない。哲学者なら、人々がどうやって自分自身を知っていくのかを理解したいし、また、何がよい人生をもたらすのかについてさまざまな理論を探しているので関心をもつだろう。哲学者や社会科学者でなくても、人は(社会科学者と同様に)自分の選択の原因や帰結、あるいは自分がそのような選択をする理由を理解したくて関心を抱くかもしれない。社会科学の探求を哲学的に吟味することは、人々が自分自身をよりよく理解する助けにもなりうるだろう。
 本書の構成は次のとおりである。第1章は導入部で、本書で扱う選好の概念を、同じ選好という語のそれ以外の意味と区別する。ここでは、合理的選択理論が実際の選択に関する理論にどのように影響しているかを理解するための一つの方法を素描するとともに、のちの章で批判する予定の、選好についてよくある誤解のあれこれを指摘する。
 第2章以降は、三つの部分に分かれる。第Ⅰ部(第2章~第4章)は主流派経済学において選好が予測や説明に果たす役割に焦点をあてる。第2章では、経済学における選択の形式理論を手短かに紹介してから、選好をめぐる二つの誤解を批判する。その誤解とは、選好は嗜好の問題であるという考え方と、選好は自己利益の観点から定義可能だという考え方である。第3章で批判するのは三つ目の誤解、すなわち、選好は選択によって定義できるという考え方である。
 第4章では、これまでよりも積極的な主張を行なう。すなわち、経済学における選好とは、総主観的序列づけであり、またそうでなければならないと論じる。言い換えれば、経済学における選好は、考慮すべき点をすべて考慮したうえで、諸々の選択肢を主観的に比較、評価することであるし、そうあるべきだと主張する。ここでは、経済学者たちがものごとを説明したり予測したりするにあたって、選好についてのこの考え方をどのように用いているかを示し、それを通じて私が「選択の標準モデル」と呼ぶものを示す。続く第5章では、選択の標準モデルがゲーム理論のなかでどのような形をとるのかを示す。第4章と第5章は、選好に関する四つ目の誤解とは反対に、経済学者たちは選好の形成にも修正にも関心をもっているし、もたねばならないと示すことになる。第6章では第Ⅰ部の締めくくりとして、標準的なモデルに対してアマルティア・センから寄せられた反論に答える。
 第Ⅱ部(第7章と第8章)は、規範経済学およびウェルビーイングに関する哲学的な諸見解において選好が果たす役割を論じる。ここでは、ウェルビーイングに関する選好充足理論に反論することになる。この批判は、人がどれくらい幸福であるかは選好の充足度に依存するとの見解に明白にコミットメントしている規範経済学にとって、不都合にみえるかもしれない。しかし第8章では、人々の便益にかかわる証拠としての選好に依拠して、規範経済学を擁護する。
 第Ⅲ部では、選択の標準的なモデルについて評価を行ない、経済学者は選好の形成や修正に関するモデル構築にもっと力を注ぐべきだと主張する。第9章は、心理学者や行動経済学者が見出した、選択の標準的なモデルの経験的ないたらなさを説明したうえで、その意味するところを考察する。選好の文脈依存性が、ここでの議論をつらぬく糸となる。つまり、諸々の評価に依存する選択は、しばしば、複数の次元を横断しつつさまざまな基準を考慮して、「臨機応変に」なされる。第9章と第10章ではさらに、さまざまな理由がどのように選好に影響を与えるのか、その道すじを論じる。第10章は主として、選好はいかに合理的に形成され、修正されるべきかにかかわる哲学的問題に焦点をあてる。合理的な選好といえども、そこには情動の要素が抜きがたく存在すると指摘する。第11章では、私なりの結論を述べる。
 この本が対象にしているのは4種類の読者層、すなわち、経済学者、心理学者をはじめとする社会科学者、哲学者、そして興味をもった一般の方々である。どの読者が読んでも、それぞれの関心事とは無関係だと感じられる部分がすぐ終わるよう、薄い本にした。
 本書で扱った論点は、私が学術の道に入った当初からずっと取り組んできたものだけあって、これまでに賜り、助けられた批判や助言を残らず思い出すことはかなわない。ご助力いただいておきながら謝意を示すことのできなかった方々にはお詫び申し上げる。ここ10年の間に、リチャード・ブラッドリー、ハリー・ブリグハウス、ポール・ドラン、フィリップ・エーリック、マーク・フローベイ、キャスリン・ハウスマン、デイヴィッド・ハウスマン、ジョシュア・ハウスマン、ロバート・ヘイヴマン、ダニエル・カーネマン、チャールズ・ケイリッシュ、キャスリン・カウツキー、シンティア・レッツ・ルッチ、フィリップ・モンジン、マイケル・マクファーソン、フィリップ・ペティット、ヘンリー・リチャードソン、マイケル・ロスチャイルド、ラス・シェイファー=ランダウ、アンドルー・ショッター、アーミン・シュルツ、アマルティア・セン、エリオット・ソーバー、ポール・サガード、マイケル・ティテルバウム、デイヴィッド・ヴァイマー、ダン・ウィクラー、ジェイムズ・ウッドワード、エリック・ライトのみなさんにはことのほかお世話になった。また、2011年2月に米国哲学会で行なったロマネル記念講演は本書の内容の一部をもとにしたものであり、このときに最後の仕上げとなるコメントを数多く寄せてくれた聴衆のみなさんにも恩義がある。ミカエル・コジーク、マーク・フローベイ、デイヴィッド・ハウスマン、ジョシュア・ハウスマン、アンドルー・レヴァイン、ジュリアン・リース、マーガレット・シャバス、ポール・サガードは完成一歩手前の原稿に目を通してくださり、その批判は言い尽くせぬほど貴重なものであった。それでもなお残った誤りはひとえに私の責任である。
 本書の内容には一部、過去の論稿で公表済みの箇所がある。第1章から第4章にはPhilosophy of the Social Science 41(2011):3 25に掲載の論文“Mistakes about Preferences in Social Sciences”の題材が使われている。第2章と第6章は、Economics and Philosophy 21(2005):33 50に掲載された論文“Sympathy, Commitment, and Preference”、第3章は同誌 16(2000):99 115に掲載された論文“Revealed Preference”ならびに Andrew Caplin and Andrew Schotter編 Handbook of Economic Methodology (Oxford University Press, 2008), pp.125 51に収められた論文“Mindless or Mindful Economics: A Methodological Evaluation”をもとにしている。第5章は論文“Consequen tialism, and Preference Formation in Economics and Game eory,” Philosophy 59, Supplement (2006): 111 29, 第7章と第8章は論文“Prefe rence Satisfaction and Welfare Economics,” Economics and Philosophy 25(2009):1 25 ならびに著作 Economic Analysis, Moral Philosophy, and Public Policy (Cambridge University Press, 2006)(ともにマイケル・マクファーソンとの共著)をもとにしている。
(注と図は割愛しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
監訳者あとがき 経済を哲学するために
 
1 この本と著者について
 本書はDaniel Hausman, Preference, Value, Choice, and Welfare, New York: Cambridge University Press, 2011の翻訳です。日本の読者に手に取りやすいように、邦題を新たに『経済学の哲学入門』とし、原題「選好、価値、選択および厚生」を副題としました。本書は、原題にある経済学の四つの基礎概念を哲学したコンパクトな本であり、経済思想や経済哲学の入門書と呼ぶにふさわしいでしょう。
 著者のダニエル・M・ハウスマン(1947-)は、シカゴ生まれのアメリカの哲学者で、ハーバード大学とケンブリッジ大学でそれぞれ教育を受け、1978年にコロンビア大学で博士号を取得しています。現在は、ウィスコンシン大学マディソン校のハーバート・A・サイモンの名を冠した講座の名誉教授です。
 ハウスマンはこれまで、経済学と哲学のあいだの諸問題、例えば経済学の認識論や形而上学、あるいは経済倫理の問題などを広範に研究してきました。経済思想および経済哲学研究の第一人者であり、とりわけマイケル・マクファーソンと共同で雑誌Economics and Philosophy(ケンブリッジ大学出版局)を創刊し、1984年から1994年まで共同編集を担った功績は大きいでしょう。それ以前の経済思想・経済哲学の研究は、経済学史や経済社会学や哲学や倫理学などのさまざまな分野に散在していましたが、この雑誌の刊行によって経済思想・経済哲学は、一つの研究分野として発展することになりました。
 ハウスマンは本書のほかに、以下のような著作を著わしています。『資本、利潤、および価格(Capital, Pro¬ts, and Prices)』(1981年)、『不正確で分離された科学としての経済学( e Inexact and Separate Science of Economics)』(1992年)、『哲学と経済学方法論に関する試論(Essays on Philosophy and Economic Methodology)』(1992年)、『因果的非対称性(Causal Asymmetries)』(1998年)、『経済分析、道徳哲学、および公共政策(Economic Analysis, Moral Philosophy, and Public Policy)』(2017年、マイケル・マクファーソンおよびデボラ・ザッツとの共著、第3版)などです。また、1984年に編纂した『経済の哲学:論文選(The Philosophy of Economics: An Anthology)』は、この分野の重要文献を集めた選集として長く読まれています。2007年には第3版が刊行されました。
 このほか、ハウスマンは2009年に米国芸術科学アカデミーに選出され、また2016年には、バイロイト大学で「賢者の石」という賞を授与されています。
 ハウスマンは、経済の基礎概念を検討するなかで、さまざまな含意を引き出しています。とくに本書は、ハウスマンが2000年から2011年にかけて発表した重要な論稿のエッセンスをまとめたものであり、それぞれの章は、深い思考に支えられた内容の濃いものです。読者はこの本を手がかりに、現代の経済思想・経済哲学の森のなかに入っていくことができるでしょう。例えば「選好とは何だろう」という根本的な疑問が浮かんだとして、この問題は経済学者だけでなく、哲学者や心理学者や倫理学者など、さまざまな分野の人たちによって探求されてきました。ハウスマンはそうした研究の成果を広く収集して検討し、綜合的な知見を導いています。
 
2 経済の哲学に入門する
 経済思想と経済哲学の土台(ベース)は、経済の基礎概念を吟味するという研究です。例えば、効用、価値、選択、選好、厚生、ウェルビーイング、貨幣、商品、交換、贈与、欲望、消費、生産、労働、といった基礎概念について、根本的に検討するというのがこの研究分野の土台であり、また中心的なテーマでもあります。
 ここで「経済思想(economics thought)」と「経済哲学(economic philosophy, philosophy of economics)」の違いについてごく簡単に触れると、実はこれら二つの言葉には明確な定義があるわけではありません。互換的に用いられることも多く、どちらを用いてもかまわないのですが、ただ「思想」という言葉には、どう生きるべきかとか、どんな社会が望ましいかとか、あるいは社会変革の理想はどんなものかといった、理想への関心が込められています。これに対して「哲学」という言葉には、ものごとの本質は何かとか、深く吟味するとどんな知見が得られるかといった、批判的吟味への関心が込められます。どちらもエッセンシャル(必須)な問題を立てて探究しますが、歴史的にみると、思想と哲学は手を携えて発展してきました。その意味で、経済思想と経済哲学は切っても切り離せない関係にあります。しかし以下では焦点を絞って、経済哲学に入門する方法について少しお話ししましょう。
 経済哲学、あるいは経済の哲学は、「経済とは何か」といった本質的な問題を探求します。この分野の研究には、入り口となるいくつかの良書があります。どの本から読み始めても面白い知見にたどりつくと思いますが、経済哲学を体系的に探究する場合、一つの方法は、経済現象を捉える経済学のものの見方について哲学することです。
 例えば経済学(ミクロ経済学)の教科書には、ごく最初の段階で、「無差別効用曲線」という用語が登場します。ある二つの財(例えばリンゴとみかん)の組み合わせから得られる効用の値が等しい点を結んでいくと、一つの曲線になる。これが無差別曲線と呼ばれるものです。では無差別曲線において想定される「効用」とは、いったい何でしょう。効用は、快楽と同じものでしょうか。あるいは効用は、幸福、厚生、ウェルビーイング、価値などと、どのように違うのでしょうか。
 効用という言葉の意味は、直観的にはわかる気がするのですが、これを言葉で表現しようとすると、いろいろな説明がでてきて困ります。効用は例えば、満足の度合い、喜びの度合い、価値をモデル化する際の尺度、選択によって明らかになる価値尺度、などと表現されます。いったいどの説明が正しいのでしょう。実は経済学者たちのあいだで、意見が一致しているわけではありません。経済学(ミクロ経済学)では、効用の定義は多義的でも、そうした細かい点にはこだわらずに、話を次に進めます。
 次の話とは「予算制約線」です。どんな人でも、財を買うときに予算の制約に直面しますね。では、ある予算制約のもとで、消費者はどのように選択をするでしょうか。経済学においては、それは「無差別曲線と予算制約線の接点で選択する(例えばリンゴ5個とみかん3個の組み合わせを選択する)」という説明になります。選択されるリンゴとみかんの組み合わせは、ある予算制約のなかで、最も効用が高い無差別曲線上のものになる。そのような仕方で、消費者は選択をするというわけです。
 しかしどうでしょうか。直観的にはわかりますが、消費者は本当に、無差別曲線と予算制約線の接点で選択をするのでしょうか。哲学的に考えると、消費者は選択したというよりも、無差別曲線と予算制約線の情報が与えられた段階で、選ぶべきものを機械的に決められてしまったのではないでしょうか。選択という行為はむしろ、消費者がまだ明確になっていない自身の無差別曲線と予算制約線を明確にしていくという、検討のプロセスにあるのではないでしょうか。あるいは選択は、無差別曲線と予算制約線の明確化という面倒なプロセスを経なくても、実際になされているのではないでしょうか。私たちはリンゴとみかんの最適な組み合わせを選択するとして、自分の無差別曲線や予算制約線をどこまで明確にしているのでしょうか。日常生活においては、あまり明確に考えずに選択することもあるでしょう。
 いったい選択とは、どんな現象なのでしょう。それは経済学の説明において、本当にうまく説明されているのでしょうか。こうした根本的な次元で疑問がわいてくると、私たちは経済学の教科書をなかなか先に読み進められません。経済学は、いったいどうして無差別曲線とか予算制約線といった用語を使うのでしょう。これらの言葉は、どんな認識論に基礎づけられているのでしょう。経済哲学はこのように、経済学の最初の段階で、先に進むよりも後ろに遡行して、ものごとの本質を問います。経済の哲学は、いわば経済学の説明につまずくことから始まります。
 
3 経済哲学の三つのメッセージ
 では、こうした経済哲学の発想法(アプローチ)に従って考察を進めたとしましょう。私たちは最終的に、どのような成果を得られるでしょうか。およそ哲学の議論は、思索の沼地に入り込むようなものであり、「ああでもない、こうでもない」という迷路から抜け出せなくなってしまうこともしばしばです。ハウスマンはしかし、本書『経済学の哲学入門』で建設的な答えをいくつか導きだしています。
 第一に、経済学を哲学することの意義は、経済学の研究に新たな方向性を示すことにある、とハウスマンは考えます。ハウスマンによれば、経済学者たちは、自分たちがやっている研究を必ずしも十分に理解しているわけではありません。例えば、経済学は選好関数というものを想定しますが、その一方で、選好がどのように形成されるのかについては、これを心理学の課題であるとして踏み込まないといいます。ところが経済学の別の場面では、経済学者たちは、選好の形成過程を理論化しています。経済学者たちはどうも、自分たちのやっていることを十分に把握せずに、「これは経済学の課題ではない」と言ったりするのですが、ハウスマンによれば、そうした自己理解を改めれば、経済学の研究プログラムはもっと豊かな方向に展開しうるといいます。ハウスマンは、経済学が選好の形成過程をさらに理論化する方向に向かうべきだといいます。そのためには経済哲学が有効であると考えるのです。
 第二に、ハウスマンは、「選好」の概念を「総比較評価」として捉えるべきだ、と主張しています。経済学で扱う選好とは、さまざまな財の相対的な評価(どれがより望ましいかについての主観的な評価の序列づけ)にかかわるものです。その比較評価には、大きく分けて、部分的な比較評価、大まかな(総括的な)比較評価、および、関連する事柄をすべて考慮に入れた総比較評価の三つがあります。このほかにも選好という言葉の意味は、選択の序列づけ、期待された便益(advantage)の序列づけ、仮想的な選択の序列づけ、精神的な充足、価値、嗜好、原則以外で動機づけになるすべての検討事項、といった意味で用いられることがあります。選好という言葉はこのようにさまざまな意味をもつのですが、ハウスマンは選好の概念を、関連するすべての事柄を主観的に考慮に入れた比較評価、すなわち総主観的比較評価として、一義的に定義して用いるべきだといいます。
 ハウスマンの関心は、おそらく次のようなものでしょう。選好の意味はいろいろあるけれども、その多様性を放置していては、経済学は確固たる土台の上に研究プログラムを発展させることができない。経済学が学問として発展するためには、選好の定義を一つに絞って、厳密で体系的な研究を展開すべきなのだと。ハウスマンはこのような関心から、アマルティア・センの経済哲学を批判します。センは効用の概念を吟味して、そこにさまざまな意味があると指摘しますが、ハウスマンによれば、たんに指摘するだけではダメだというのです。
 このハウスマンの主張は、どこまで説得的でしょうか。その答えは読者の判断に委ねたいと思いますが、いずれにせよ、ハウスマンのように選好を「総主観的比較評価」として一義的に定義すると、私たちは関連する選択肢のあいだの関係を十分に吟味しなければ、選好を形成したことになりませんね。選択肢をあまり吟味せず、直感的にあれがいいとかこれがいいと言うだけでは、それは「不明瞭な選好」と呼ばれてしまうでしょう。選好は、明確なものとして形成されなければならない。ここにはハウスマンの人間観や思想的な立場が表れているように思います。
 ハウスマンによれば、私たちは関連する事柄をよく吟味して、選択肢のあいだに、できるだけ矛盾のない主観的評価の序列を作らなければならない。そのような総主観的比較評価を形成すれば、私たちはセンのいう「合理的な愚か者」ではなく、合理的な賢者となりうるからです。私たちは、自分の感覚だけを頼りに選好を形成するのでなく、関連する事柄をよく検討して、判断力を用いて選好を形成していくべきだというのがハウスマンのメッセージです。
 ハウスマンのこの考え方は、近代的な合理的個人主義の理想をあらためて擁護するものだと思います。経済哲学の分野では少し前に、「限定合理性(bounded rationality)」という言葉に関心が集まりました。私たちは完全情報をもった合理的経済人のように振る舞うのではなく、不完全な情報と不完全な理性しかない状況で限定合理的に振る舞う。そのようなリアルな人間像が理念化され、経済学の理論に持ち込まれました。しかしハウスマンによれば、私たちの合理性は限定的であるにせよ、できるだけ自律的に、自分の選好を体系的に明確にしなければならない。なぜなら、私たちの個々の選好が互いに矛盾していると、そこから導かれる政策もまた矛盾してしまうからです。すぐれた経済政策を導くためには、各人ができるだけ一貫した選好を形成して、その選好を基礎としなければならない。そのように想定しないと、人々の選好関数から有意な政策を導くことはできません。もし政策担当者たちが人々の選好を頼りにできなかったら、担当者たちは人々の選好に対する温情的な配慮でもって政策を実行するでしょう。それは必ずしも望ましいとはいえません。
 ハウスマンはこのような考え方を背景に、経済哲学の第三の含意を引き出します。それは選好と厚生(ウェルビーイング)の関係をめぐるものです。先のハウスマンの主張に従って、私たちが自分の選好を「総主観的比較評価」として形成したとしましょう。関連するすべてのことがらを考慮に入れて、できるだけ一貫した選好を形成したとしましょう。しかしその場合でも、選好の充足は、人々の厚生を最大化しないかもしれません。例えば、多くの人にとってアムールトラの絶滅は、総主観的比較評価としての選好の充足を低下させるものではありません。けれども厚生の観点からすれば、私たちはやはり、アムールトラを救済したほうがよいかもしれません。私たちは自分の主観的な評価とは別に、社会的な評価にも関心をもつからです。
 むろんアムールトラの救済に対する評価は、これをあらかじめ各人の「総主観的比較評価」の一つに含めることができるかもしれません。厚生を判断する際の価値評価を、すべて各人の総主観的比較評価に含めてしまえば、選好の充足と厚生の充足は、対立するものにはならないでしょう。このように、選好関数の意味を、総主観的比較評価をこえて、あらゆる社会的比較評価を含むものにすれば、選好と厚生はズレることがないでしょう。経済学はそのような方向に向かうこともできるはずです。
 しかしハウスマンによれば、このように厚生の価値を人々の選好関数に組み入れることは、具体的な事例に即して考えてみると難しいといいます。例えば地球の温暖化がすすみ、何も手を打たなければ20年後の世界の平均気温が2.0度上がると仮定しましょう。そのような仮想状況を想定した場合に、私たちの厚生水準は、20年後にどれだけ下がるでしょうか。経済学では、「仮想評価法」などのアプローチによって、厚生水準の低下の度合いを計算します。その計算は、アンケート調査に基づくものです。しかし一般論として、こうした問題に対する私たちの答えはあいまいであり、質問の仕方によって答えが変化してしまうこともしばしばです。また私たちは、こうした問題に対して真剣に考えなければ適切な答えを出せないはずなのに、実際には真剣に考える余裕がなく、適当に答えを出してしまいます。厚生の問題を各人の総主観的比較評価に組み入れるといっても、実際には「答えのあいまいさ」や「真剣度のなさ」という問題に直面して、うまくいかないことが多いのです。
 ハウスマンはこうした問題を考慮に入れて、経済学が政策に及ぼす影響を倫理的に診断します。厚生を測ることの難しさにどう対応すべきか、というのが経済哲学の第三のメッセージであります。明快な答えはありませんが、問題を倫理的に考察し、既存の政策の正当性を批判することが、経済哲学の役割として重視されます。
 このほかにもハウスマンは、本書において経済哲学の重要問題を広範に検討しています。顕示選好理論、ゲーム理論、行動経済学、心理学の貢献などをテーマに、現代経済学の哲学的な意義と限界について考察しています。ここでは紹介を省きますが、これらの考察はいずれも、この分野の哲学的知見を一通り伝えるものになっています。
 
4 あやふやな選好はダメですか?
 最後に、本書で論じられる印象的な議論を取り上げましょう。それは選好のあいまいさをめぐる問題です。
 シドニー・モーゲンベッサーは、レストランで夕食を食べ、最後にデザートを注文することにしました。ウエイトレスによれば、選択肢はりんごパイとブルーベリーパイの二つです。そこでモーゲンベッサーはりんごパイを選びました。ところが数分後、ウエイトレスは「さくらんぼパイもありました」と言います。モーゲンベッサーは、「それならブルーベリーパイにします」といって注文を変えました(本書20頁、参照)。
 モーゲンベッサーの選好は、最初は「りんごパイ>ブルーベリーパイ」でしたが、さくらんぼパイが選択肢に加わると、「ブルーベリーパイ>りんごパイ」となりました。これはいったい、どういうことでしょう。選好が矛盾しているのではないでしょうか。
 経済学では、選好の順序が一貫していないと、「推移性」という基本公理に反するとされます。とはいえ推移性は、一つの選択肢集合のなかで矛盾してはならないという公理であり、この例のように、二つの選択肢集合({ブルーベリーパイ,りんごパイ}と{ブルーベリーパイ,りんごパイ,さくらんぼパイ})のあいだに求められる公理ではありません。モーゲンベッサーは、推移性の矛盾を犯したわけではありません。その意味では矛盾のない選好を形成したのですが、それでもモーゲンベッサーの選好は、やはり矛盾しているのではないでしょうか。
 ハウスマンによれば、彼の選好が矛盾しているとみなすためには、経済学に新たな公理をつけ加えなければなりません。それは、選好が個々の文脈から独立して安定的に形成されなければならないという「文脈からの独立性」です。この公理を満たすことは、実際には難しいのですが、それでもできるだけ満たすことが望ましい。あるいはこの公理を満たせないときは、文脈に応じて選好を変える理由を合理的に説明しなければならない。ハウスマンはこのように、できるだけ「整合性」のある選好を形成することが望ましいと考えます。
 しかしこの整合性の要請は大変なものですね。私たちはまず、安定した選好を形成しなければならない。それができない場合は、変更する理由を逐一合理的に説明しなければならない、というわけですから。モーゲンベッサーの場合、選択を変更した理由について、もし理にかなった説明ができなければ、矛盾しているとみなされるでしょう。
 ハウスマンの本書を読んでわかることは、経済学の公理の拡張版は、決して非現実的な仮定ではなく、できるだけそのように振る舞うべきだという、倫理的な要請を含んでいることです。ハウスマンはそのような倫理的想定をした場合に、経済学が政策に対して有意義な貢献をなしうると考えます。
 しかし近年の心理学は、選択に伴うさまざまな矛盾を指摘しています。本書でもいくつか論じられていますが、別の事例として例えば、コーヒーショップでブレンドコーヒーを注文するときに、サイズが「ミディアムとスモール」の二つのときはスモールを選ぶ人でも、「ラージとミディアムとスモール」の三つのときはミディアムを選ぶことがあります。選択肢の設定の仕方(フレーミング)に影響されて、選択が変化してしまうためです。私たち消費者は、こうした選択肢のフレーミング効果について、必ずしも自覚的ではありません。売る側のマーケティング戦略に誘導されることもしばしばです。
 では私たち消費者は、選択のフレーミング効果に、どのように対処すべきでしょうか。先のコーヒーの例の場合、一貫してスモールを選ぶべきでしょうか。あるいは選択を変える際に、その理由を合理的に説明できるように選好を形成すべきでしょうか。いやそうではなく、マーケティングの戦略に誘導されても問題はないでしょうか。議論はさまざまに紛糾するかもしれませんが、これは経済哲学として検討に値するテーマです。背後に横たわっているのは「おのれの欲求を知る」という問題であり、これは人生をいかに生きるべきかとか、あるいは社会はどうあるべきかという、思想的な問いへと広がっていくでしょう。
 
 本書の翻訳は、2020年の秋からニキリンコさんの協力を得て始めました。ハウスマンのアカデミックな文章を読みやすい日本語に訳していくというニキリンコさんの技量に、私は多くを学びました。ですが最終的なありうる誤りの責任は、すべて私にあります。読者諸氏の批判を乞う次第です。編集者の鈴木クニエさんには、那須耕介/橋本努編『ナッジ⁉』(勁草書房、2020年)、および、那須耕介/橋本努/吉良貴之/瑞慶山広大著『ナッジ!したいですか?されたいですか?』(勁草書房、電子版、2020年)に引き続き、お世話になりました。ニキリンコさんと私のやりとりを細やかにつないでいただいただけでなく、本書の意義を理解して編集と出版の作業にご尽力いただきました。心よりお礼申し上げます。
 
2022年3月 ロシアのウクライナ侵略に心を痛めつつ
橋本 努
(注は割愛しました。pdfでご覧ください)
 
 
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