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あとがきたちよみ
『創造性をデザインする』

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
牧野智和 著
『創造性をデザインする 建築空間の社会学』

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はじめに
 
 ある晴れた冬の日、都内の公園。百貨店が立ち並ぶターミナル駅前から少し歩き、大通りからワンブロック入ったところにその公園はある。公園の中央部には五〇m四方程度の大きな芝生広場が設けられ、その周りを公園内に併設されたカフェ、ウッドデッキ、子どもたちが遊べるスペースなどが取り囲んでいる。この本の筆者は、これからやらねばならない仕事のことについて少し考えようと思い、カフェで温かいコーヒーを買ってウッドデッキに腰を下ろした。あれこれ考えながらも、ウッドデッキでギターに合わせて合唱する音楽サークルの人々、話し込む男女や若い女性たち、コーヒーをゆっくり飲んでいる中高年の連れ合い、筆者のように一人で公園にたたずむ人など、さまざまな人々が思い思いにその場を過ごしている様子が目に入ってくる。芝生の向こうからは、子どもたちが遊ぶスペースからの、あるいはその近くで鬼ごっこやだるまさんがころんだに興じる子どもたちのはしゃぎ声が聞こえ、とても洗練された内外装のカフェの方に目を転じると、暖をとって中でくつろぐ人々、少し寒いもののテラス席で晴れた冬の午後を楽しむ人々の姿がみえる。こうした人々に自分も溶け込みながら、目の前に広がる芝生の緑、その奥に立ち並ぶ中層ビル、そしてその上に広がる青空を眺めながら小一時間ほどを過ごし、何やら考えがよくまとまったように思えて充実した気持ちでその場を離れた。
 それより少し前の秋の日、神奈川県郊外の小学校の作品展覧会。鉄筋コンクリートの、乳白色の、典型的ともいえる校舎で小・中・高を過ごした筆者にとって、この校舎の設えは驚くことばかりだった。教室の壁がなく、廊下と地続きになっていること(ガラス戸が入れられるところもあるが、それでも廊下から教室の中がよく見えること)。教室や廊下に子どもたちが「たまる」ことができるようなスペースがいくつも設けられていること。廊下はさまざまな活動ができるように広くとられ、また教室や廊下の採光部も大きくとられて校内がとても明るく、木材もふんだんに使われて、全体として開放感と温かみに満ち溢れていること。また、この小学校は中学校と一体になっているのだが、この中学校ではいわゆるホームルームがなく、やや広めのロッカースペースと教科用の教室、そしてやはり広い廊下(窓際には腰を下ろせるスペースがある)からなっていること。自分自身が学んだ校舎を殊更に悪いものだとは思わないものの、このような校舎で過ごすことができたら、きっと楽しいだろう、何か違った学校生活になったのだろうと思った。
 さて、本書ではこうした「充実感」や「楽しさ」について、もう少ししっかり考えてみたいと思う。ある空間で居心地のよさを感じたとして、あるいはそのなかで何かしてみようという気持ちになり、実際に何らかの行動が新たに起こったとして、それらはどの程度、空間の設計意図のなかに組み込まれているのだろうか。組み込まれているとしたら、そこで生じる気持ちやふるまいは、一体どのような物理的な設えのどのような作用によって起こっているのだろうか。また、そのような作用は昔から考えられていたものなのか、近年特有のトレンドのようなものなのか、後者だとしたらそのトレンドはどのようにして発生したのか。
 こう書いてしまうと、私たちの気持ちやふるまいが、空間設計によって操られているというような「陰謀論」めいた印象を抱かれるかもしれないが、筆者の意図はそのようなものではない。私たちの日々の生活はつねに特定の物理的空間のなかで営まれており、その空間的条件によって制約されたり、逆に可能になったりすることが多くあるはずである。本書はそのなかでも、先に述べたような、充実感や楽しさを抱かせるような物理的空間がどのようにして成り立っているのかを考えることで、私たちの日々の生活の成り立ち、ひいては私たちの成り立ちのある部分について、理解を深めてみようとするものである。
 ただ、筆者の専門は社会学であって、空間設計、つまり建築を専門的に学んできたわけではない。その点はがっかりされるかもしれないが、本書は専門的な技術やディテールを細かく詰めていくというよりは、空間設計とそこで過ごす私たちの関係、あるいは空間設計とそれを可能にする社会との関係について考えていこうとするものである(もちろん、これらを考えるにあたって、可能な限り専門的な技術やディテールを学ぶことも必要ではあるのだが)。とはいえ、このような観点をとるからといって、建築というあまりにも広く深い分野に簡単に分け入ることができるとは筆者も思っていない。そのため、本書の第一章ではかなり紙幅をとって、建築に対する本書の社会学的な(理論的な)スタンスを定めようとしている。ここに面食らう方も多いかもしれないが、これは本書が建築を安易に「一刀両断」するようなものではなく、定められた分析対象をピックアップし、それをある定められた観点から考察し、どのような意味でこの分野に新たな知見の積み足しを行いうるかをちゃんと言葉にしたいためであって、社会学者である筆者が建築という確立された専門分野に分け入るにあたって行わねばならない手続きだと考えている。そのことを汲み取っていただければと思うものの、この章を飛ばして学校建築、オフィスデザイン、公共空間デザインについて考えていく第二章以降の分析パートから読み始めてもらっても、おおよその話は通じると思われる。
 さて、前置きはこれくらいにして本論に入ろう。くどくどと述べてしまったが、一言でいえば本書が行おうとしているのは「建築の社会学」である。この言葉の響きに何かしら感じるところがあれば、この後のページをめくってくれると嬉しい。
 
 
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