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『ベルクソン 反時代的哲学』

 
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藤田尚志 著
『ベルクソン 反時代的哲学』

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あとがき
 
 本書は、二〇〇七年一一月にフランスのリール第三大学に提出した博士論文La logique mineure dans l’œuvre de Bergson. Pour un vitalisme(non)-organique を元にしている(Membres du jury は、Frédéric Worms, Jean-Christophe Goddard, Pierre Montebello, Pierre Macherey)。そこからでも一五年、最初にリールで研究発表をしたのが二〇〇二年、修士課程に入ったのが一九九七年だから、そこから考えると二〇年以上研究してきたことになる。最初の単著は三十代のうちに出したほうがよいと言われていたのに、気がつけば四十代が終わろうとしている。なるべくその後の研究も視野に入れ、キャッチアップに努めはしたが、博士論文を提出してから自分の研究にどれほどの進展や深化があったのかと考えると悲しい気分になるので、やめておく。『創造的進化』第四章など、まったく論じられなかったことも挙げ始めればきりがない。今はひとまずどうにか完成にまでこぎつけたことをささやかに喜びたい。
 時代が変われば研究も変わる。当たり前のことだが、本書を完成させるにあたって最も痛感したことである。一例を挙げれば、ベルクソンの著作の参照方法が大きく変わった。ベルクソン初の校訂版が刊行されたのは二〇〇七年一〇月である。それまでは、多くの研究者がベルクソンの主要著作を一冊にまとめた『著作集』(Œuvres)、通称『百周年版』(Édition du Centenaire)のページ数と各著作の単行本版のページ数を併記したりしていたが、校訂版が普及した今では、単行本のページ数だけを記すのが普通であるように見受けられる。
 研究手法もずいぶん変わった。大雑把に言えば、ベルクソンのテクストの「解像度」が格段に上がった。学習院大学の杉山直樹先生が『ベルクソン──聴診する経験論』(二〇〇六年)で示された端正な読解は、日本のベルクソン研究のその後の方向性を決定づけたと言える。彼を中心として拡大してきたベルクソン哲学研究会の活動は、今や福岡大学の平井靖史さんや東北大学の村山達也さんを新たな軸として、さらなる発展を遂げ続けている。
 私はと言えば、そのようなミリユーに属しているようないないような、微妙な場所に立っているといつも感じている。思えば、私はいつも人がいるようでいないような空間が好きだった。
 

 人にはそれぞれ思考の原風景とでも言うべきものがあると思う。「満足いくものが書けたとき、そこには風景が見える。自分の書いたものの中に風景が見えるか、見えるとすればそれはどんな風景なのだろうか」──パリ行きの飛行機の中で、西山雄二さんと長時間話した中で一番心に残っている言葉だ。彼の答えは、「誰かに手を差し出している風景かな。「握手をしよう」って」というものだった。これはとても彼らしい答えだ。以来何となく考えてみた。「私は?」
 たぶん旅立つ風景だ。空港や駅、大学でもいい。人が慌ただしく行き交う場。そこに独りで佇み、どこかへ出発するのを待っている。若干の期待と若干の寂寥。遠くへ、さらに遠くへ──私の書いたものを読む人がどう思うかは分からないが、少なくともそれが、私が仕事をしているときに根底にある気分(Stimmung)であるような気がする。
 それはハイデガー的なノスタルジーとはおそらく違う。彼はノヴァーリスに倣って哲学することの根本気分を「郷愁」と呼んだが、私にとっては世界の中にいること(世界内存在)が問題なのではないし、「随所に家に居るように居たいと欲する衝動」に駆られて有限性や単独化を問い続けることが問題なのでもないからだ。
 そうではなく、「閾Seuil」にいること──私の専門で言えばフランス哲学・思想研究と他の諸科学・諸領域との間にいて、世界のどこかからどこかへ、常にどこかへの途上にあり(on the road)、常に待機中で=何かを期待しているような(en attente)、そんな気分である。

 以上の文章は、UTCP(東京大学・共生のための国際哲学センター)のブログのために私が二〇〇九年に書いたエッセイの一部である。二〇二二年の今、私の脳裏には、残念ながら大したことは浮かばない。地方の小さな私立大学のしがない大学教員として、研究や高等教育とは程遠い雑務に追われる毎日である。国際学会や国内のシンポジウムで発表をするたびに、小さなサッカークラブで資金集めに奔走しながら練習を続ける選手のような切ない気持ちに駆られている。「歩みを止めている人にだけ見える景色がある」。そんな歌の一節を思い出しながら、何とか気分を奮い立たせて日々できるかぎり机に向かう。
 

 
 私は日本では学部も大学院も仏文科に所属していた。その頃の自分は、「哲学書は自分でも読めるが、フランス語を徹底的に習得するには仏文科で修業しなければダメだ」などと考えていたのである。曲がりなりにもフランス語に習熟し、自分自身の強みにまで出来たのは、仏文科の先生方のご指導と研究室のみなさんとの切磋琢磨のおかげである。修士課程の指導教官であった塩川徹也先生、博士課程の指導教官であった中地義和先生にはとりわけ深い感謝の念を捧げたい。ありがとうございました。
 他方で、フランスでは哲学科に六年間在籍し、フランス的な哲学のやり方を一応身につけたつもりではある(日本的な哲学のやり方を若いうちにエートスとして身につけなかったせいで、いや単に私の力不足によって、今でもずいぶん苦労しているが)。私が学部でベルクソン研究を始めた一九九〇年代半ばの日本では、ドゥルーズ的な読解が隆盛を誇っていた。そんな中でフィリップ・スーレーズの『政治的ベルクソン』(一九八九年)に惹かれ、フランスではスーレーズのもとで研究したいと漠然と考えていたが、一九九七年にスーレーズとヴォルムスの連名で刊行された伝記によって、スーレーズが五一歳の若さで九四年に逝去していたことを知る。当時はネットというものがまだまだ普及していなかったのである。卒論はワープロで書いたし、マシュレへの指導教官依頼はFAXで送った。そういう時代であった。
 リール第三大学で修士課程の指導教官であったPierre Macherey 先生、博士課程の指導教官であったFrédéric Worms 先生にはまったく違う形で恩恵を受けた。これも記して感謝したい。
 マシュレ先生は「実直」「一徹」という言葉がぴったりくる哲学者である。一九四二年生まれだから、御年八〇歳になるはずだが、執筆意欲はいささかも衰えず、たまに講演などでパリへ出る以外は基本的に人的交流を最小限にとどめ、今なお哲学者としての旺盛な活動を続けておられる。私は六年間、彼が主催していたセミネールに毎週欠かさず出席した。多くはマシュレ本人があらかじめ用意した原稿を読み上げる昔ながらのCours magistral 形式であったが、彼の旧知の友人であるÉtienne Balibar をはじめ、有名・無名実にさまざまなゲストを呼んでくれることも少なからずあった。後に自分が読むことになる本の著者たちと実際に会ったことがあるというのは、私にとって大きな財産である。また、毎週そのゼミで必ず質問することを自分に課していた。相手にされず、悔しい気持ちでまた次の週の予習に向かうということを繰り返すなかで、精神的にも知的にも鍛えられた気がしている。
 ヴォルムス先生は多くの点でマシュレ先生とは真逆の人物である。リールからパリへと数年で羽ばたき、実に鮮やかなタクトで、ベルクソン研究の世界を整備していった。二〇〇二年にフランスの著名な出版社であるPUFから『ベルクソン年鑑』(Annales bergsoniennes)の刊行を開始してベルクソン研究の存在を広く哲学界に知らせ、『創造的進化』刊行百周年となる二〇〇七年以降、有能な若手研究者たちに著作の校訂版を、そして二〇一六年以降はコレージュ・ド・フランス講義を刊行させた。EUのErasmus mundus の一環としてJean-Christophe Goddard が世界的に展開していたプロジェクトに参加させてもらっていた時も感じていたが、「哲学」や「思想」は決して「著者」だけで成り立っているのではなく、自分の研究を犠牲にしてでもプロジェクトを推進してくれている陰の立役者たちのおかげで成立している部分も相当大きいということである。ヴォルムスの活躍を比較的間近で観察できたことは、私にとってかけがえのない経験だったと思う。
 六年間の滞仏中は武者修行の感覚でいろいろなことにトライしていた。イタリアのチッタ・ディ・カステッロで数週間にわたって行なわれるアメリカの大陸系研究者たちの集いCollegium phaenomenologicum に参加してみたり(二〇〇三─二〇〇四年)、ノルウェーのベルゲンで行なわれていた北欧現象学会で発表してみたり(二〇〇五年)、世界中の若手研究者たちと無我夢中で議論していた。
 ヴォルムスとPaul-Antoine Miquel が二〇〇四年にニースで開催したシンポジウム「ベルクソンと科学」に参加したことも大きかった。Henri Atlan やJean Gayon、あるいはBertrand Saint-Sernin といった大御所からElie During のような俊英までが一堂に顔を揃えて議論しているさまを目撃できたのも良かったが、個人的にはtable ronde(最終日の朝に博士課程の学生たちが自分の博論に関するごく短い発表をさせてもらう場)に参加できたのは得難い体験だった。大御所たちは忙しく、自分たちの発表が終わるといなくなることも多いが、Gayon やDuring が朝早くから聴講してくれたのは本当にうれしかったし、励みにもなった。
 そのtable ronde に出席してくださった唯一の日本人が法政大学の安孫子信先生であった。安孫子先生との出会いも私にとっては大きかった。安孫子先生は大学的には何のつながりもない私を日本学術振興会のPD研究員として受け入れてくださり、彼と話しているうちに、日本のベルクソン研究を国際的に発信するプロジェクトBergson in Japan(PBJ)を始動することになったからである。
 二〇〇七年は今振り返れば私にとって転機の年であったのかもしれない。数か月のかなり骨の折れる交渉・調整作業を経て、日本で大々的に(学習院大学・法政大学・京都大学で)『創造的進化』刊行百周年記念の国際シンポジウムを開催したのも、フランス語で三六〇頁ほどの博士論文を提出し、諮問を受け、無事博士号を授与されたのもすべて同じ二〇〇七年であった。その後、体調を崩してしまい、もはやあの時と同じ密度でさまざまな仕事をこなすことは難しくなってしまったが、とりわけ第一期と第二期のPBJでは、安孫子先生とともに国際的な研究ネットワークの開拓・拡大・維持・刷新のために自分なりに奮闘していたことを懐かしく思い返す。安孫子先生をはじめ、このプロジェクトの初期メンバー(故・金森修先生、合田正人先生、杉村靖彦先生、檜垣立哉先生)には思想的にも人間的にも助けられてきた。記して感謝したい。いつもありがとうございます。
 

 
 日本でも世界でも新進気鋭のベルクソン研究者たちが続々と現れ、今まで見たこともないベルクソンを見せてくれるさまは実に爽快だ。分析哲学的な手法や現代の諸科学との接合を試みる取り入れる研究も多くなりつつある現在、一方では、そのような研究の方向性を加速することは、生涯にわたってさまざまな科学との対話を試み続けてきたベルクソンの哲学を研究する者にとって、いわば当然の姿勢であると感じている。私が馴染んできた研究手法──テクスト内在的な読解ないし大陸系の(独仏を中心とした)思想史的研究──は言ってみればきわめて反ベルクソン的な精神を孕んでいるのであって、私自身に潜むそういった傾向には十分に自覚的でなければならないと自戒し、最近では極力そういった方面の勉強を心がけている。その意味では、この十年ほど(つまり福岡に赴任して以降)、研究者としては今にも崩れ落ちようとしていた私のすぐ近くに福岡大学の平井靖史さんがいたことは本当に幸運だった。いつ見ても、最先端の科学的・分析哲学的知見に対して天使のような無邪気さで目を輝かせ続け、貪欲に吸収する姿を見て、私も自分なりに頑張らねばと自分を奮い立たせることができた。友情と尊敬に満ちた感謝を捧げたい。これからもよろしくお願いします。
 しかし他方で、私は私にしか書けないベルクソンを描けばそれでよいではないか、と半分開き直ったような自分もいる。相も変わらぬ馬鹿馬鹿しいお噺を一席、と下手くそな芸を披露し続けることにもそれなりの価値があるのではないか、とも思うのである。私が本書で描いてみせたベルクソンが、古色蒼然の骨董品になりきれない、中途半端に時代のついた古ぼけたものであることは、自分が一番自覚しているつもりである。
 これからどうするのか。平凡な研究者の人生にそれほどドラマティックな展開があるわけもない。日々自分なりに一生懸命やってきたつもりだが、未だに何一つ満足にできない。周りの友人たちは、ずいぶん遠くまで進んでしまい、もう背中も見えない。しかし諦めもつかないまま、ぐずぐずと今日もまた哲学が好きで取り組んでいる。「気が遠くなるような片思い」を映画に対して抱くエキストラの歌がある。私も端役の一人として、最後まで哲学や思想の舞台に関わっていたいと願っている。
 

 
 本書の成立に関して、それ自体がこの書物との対話となっている素敵な装丁を仕上げてくださった伴野亜希子さん(と的確なアドバイスをいただいた平井さん)、そして誰よりもご迷惑をお掛けしてしまった勁草書房・編集者の関戸詳子さんに深い感謝と心からのお詫びを申し上げます。特に関戸さんにはお詫びの言葉もありません。「けいそうビブリオフィル」に連載を開始してからいったいどれくらいの年月が経ったことでしょうか。気の遠くなるような時間をお待たせした挙句、ある日突然「もうこれでは埒が明かないので、ひとまず入稿させてください」とお願いしてから、これまた気の遠くなるような膨大な編集作業を何度もお願いすることになってしまいました。本当にごめんなさい。どうかお許しください。
 

 
 最後になりますが(last but not least !)他にも多くの方々に支えられて、どうにかここまで歩いてくることができました。一人一人お名前を挙げられないことをどうかお許しください。本当にありがとうございます。
 

 
 生の途上で出会いえたあの人にも、遠く離れていても、心からの感謝を。
 
二〇二二年三月 藤田尚志
 
 
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