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『性暴力をめぐる語りは何をもたらすのか』

 
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前之園和喜 著
『性暴力をめぐる語りは何をもたらすのか 被害者非難と加害者の他者化』

「序章 性暴力をめぐる語りを分析する」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 性暴力をめぐる語りを分析する
 
 本書は、性暴力をめぐる報道において被害者と加害者、そして被害者でも加害者でもない第三者の「わたしたち」がどのように語られているか、また、そこにどのようなジェンダー規範が作用しているかを、具体的な新聞・雑誌メディアの言説の分析をとおして明らかにしたものである。
 近年、性暴力を告発する機運を高めた#MeToo運動の広がりや、二〇一九年三月に相次いだ性暴力事件無罪判決への抗議に端を発するフラワーデモの盛り上がりなど、性暴力への世間的な関心が高まっている。長いあいだ沈黙させられてきた性暴力被害者、そして性暴力そのものが不可視化されてきた現実が改めて浮き彫りになるとともに、被害者や事件の多さにも注目が集まった。
 ただ、このように性暴力が大きな注目を集めているとはいえ、すべての人が性暴力を身近に起きる/自分が起こす可能性のある喫緊の問題として考えているとはいえないのではないか。実際、香川県による県政モニターの調査では性暴力を「意識したことがない」と答えたのは、調査対象者のうち五七・二%にのぼる(香川県 2015:4)。しかし、この調査からは男女差がわからないため、男性と女性とで性暴力を喫緊の問題として感じる度合いがどれほど異なっているのかを推し量ることはできない。同様に、大学生を対象にした性暴力にかんするアンケート調査の自由記述を分析した研究では、男女差はわからないものの、「性暴力の問題は、自分や身近な人が痴漢やセクシュアルハラスメントの被害にあうなどして身近な問題であると捉えている学生がいる一方で、ニュースやドラマの中の遠い出来事としか感じられない学生も一定数いることが分かった」と報告されている(執行ほか 2019: 140)。つまり、性暴力が注目される状況のなかでさえ、性暴力を自分ごととして認識していない人びとが一定の割合で存在しているのである。
 しかし、実際には性暴力が身近に起きていることはデータからも示されている。一九九九年度から三年ごとに無作為抽出法によって実施されている「男女間における暴力に関する調査」(内閣総理大臣官房男女共同参画室および内閣府男女共同参画局)で、該当するデータがある二〇〇五年度から二〇一四年度までの調査では、女性のみを対象に「子どもの頃も含めて、これまでの経験についてお聞きします。あなたはこれまでに、異性から、無理やりに性交されたことがありますか」との問にたいして「あった」と答えた割合(「一回あった」と「二回以上あった」を合わせた割合)は六・五%から七・七%のあいだで推移しており、その加害者のうち配偶者や交際相手などの面識のある男性(複数回答)の割合は七四・四%から八六・〇%を占めている(内閣府男女共同参画局 2006:71–2, 2009:82–4, 2012:47–8, 2015:61–2)。被害経験の対象を肛門性交と口腔性交にも広げ、女性に限らず全員にたずねた二〇一七年度の調査では、七・八%の女性が「無理やりに性交等」をされた経験があると回答しており、その加害者は、配偶者・元配偶者が二六・二%、交際相手・元交際相手が二四・八%、職場・アルバイト先の関係者が一四・九%など(複数回答)、面識のある男性が大半を占めている(内閣府男女共同参画局 2018:68–71)。二〇二〇年度の調査でも被害経験率や加害者の多くを面識のある男性が占めている傾向はほとんど変わらない(内閣府男女共同参画局 2021:70–3)。これらの数字は、一三〜四人に一人の女性が意思に反する性交(等)の被害にあっていることを示しているだけでなく、その加害者の大半が面識のある男性であることも示している。
 「男女間における暴力に関する調査」では、「無理やりに性交(等)された」という性暴力のみに焦点をあてているが、性暴力は意に反した性交(等)に限定されない。より幅広く被害経験についてたずねているのが、NHKによる「性についての実態調査」の一部の設問である。「あなたは、これまでに自分がまったく望まないのに次のような性的被害(ちかん、強姦など)を受けたことがありますか」との問に対して、「そのようなことはない」の回答と無回答を除き、複数回答で女性の三二%がなんらかの被害にあっていると回答している(NHK「日本人の性」プロジェクト 2002:235–6)。つまり、女性の三人に一人は性暴力被害にあっているのである。なお、性暴力被害に痴漢を含むため、加害者(複数回答)は「見知らぬ人」が七七%で最多となっており、以下、「知人」が一三%、「友人」が六%と続く(NHK「日本人の性」プロジェクト 2002:236)。
 これだけの女性が配偶者や交際相手など面識のある男性から性暴力の被害にあっているにもかかわらず、一定数の人びとが性暴力を「自分とは関係のないこと」と考えているのはなぜであろうか。そういった意識は人びとがもつ性暴力や加害者・被害者のイメージとどのようにかかわり、そのイメージはどのように作られているのであろうか。
 こうした意識やイメージを人びとが形成するにあたって不可欠となる、性暴力を含む犯罪にかんする情報の入手源は、マス・メディアの報道がその大半を占めている(内閣府「治安に関する世論調査」二〇〇四年、二〇〇六年)。そうした情報から性暴力への人びとの意識やイメージはどのように形成されていくのであろうか。
 本書は、日本語メディアにおける性暴力被害者・加害者像の分析を行うとともに、それによって被害者でも加害者でもない「わたしたち」が性暴力とどのように向き合っているのかを分析するものである。
 
1 被害者と加害者はどう語られてきたか
 
 本節では、以上の問題関心にもとづき、性暴力をめぐる語りにかんする先行研究を概観することで、性暴力被害者と加害者がどのように語られてきたかを確認していく。
 なお、本書が対象とする性暴力は、男性の加害者によって女性の被害者にたいして行われた性暴力である。むろん、それ以外の性暴力─たとえば、男性から男性への性暴力や女性から男性への性暴力─は不可視化されているものの、たしかに存在しており、その調査や研究も進展している(たとえば、内閣府男女共同参画局 2018:68, 2021:70)。それでもなお本書は、男性から女性への性暴力を対象とする。なぜなら、男性から女性への性暴力が大多数を占める状況において(内閣府男女共同参画局 2018:71, 2021:73。序章注5も参照)、こうした性暴力は男性を上位に、女性を下位に位置づける非対称なジェンダー秩序のもとで起こり、女性に性暴力の恐怖を植えつけることでその秩序を維持する機能さえ果たしていると考えられるからである(Brownmiller 1975=2000:6)。この形態の性暴力に着目することで、本書は、性暴力の語りにジェンダー規範がどのように作用しているのか、そして男女で非対称なジェンダー秩序がどのように維持・再生産されているかを考察する。以上の点から、本書は男性が加害者であり、女性が被害者である性暴力の語りを分析する。以下ではその形態の性暴力をめぐる言説を分析した研究を概観することにする。
 
1−1 被害者の語られ方
 被害者の語られ方にかんする研究には多くの蓄積があるが、ここでは被害者への非難(victim blaming)についての研究を概観する。性暴力被害者が語られるとき、被害者の言動に非難されるべき要素が認められるかどうかが厳しく詮索される。そのため、被害者をめぐる語りの多くが非難に言及しているからである。
 先行研究で指摘される被害者の語られ方として、非難の有無によって被害者を二分する枠組みがあげられる。アメリカの新聞を分析したヘレン・ベネディクトはこの枠組みを「聖女(virgin)」/「魔性の女(vamp)」の二分法と呼び(Benedict 1992:23–4)、アメリカのテレビ・ニュースを分析したマリアン・メイヤーズは「聖女(virgin)」/「尻軽女(whore)」または「良い娘(good girl)」/「悪い娘(bad girl)」の二分法と呼んだ(Meyers 1997:53)。非難の有無にもとづく被害者の二分法において、前者が非難される点のない被害者、後者が非難されるべき被害者であると認識される。同様に、性暴力を含む犯罪にかんする日本のテレビ・ニュースを分析した小林直美は、ニュースの型を、被害者を悲劇の主人公とする「ヒーロー/ヒロイン型」と、性規範を逸脱したなど被害者を悪く表象する「悪女型」とに分けている(小林 2014:124–5)。この分類も被害者への非難の有無に依拠している点で、ベネディクトやメイヤーズの二分法と共通であると解釈することができるため、日本のメディアにおいても同様の二分法にもとづいて被害者が二分されているといえる。
 
非難される被害者
 このように二分された被害者のうち、まずは非難される女性について検討する。被害女性への非難には、ジェンダー規範、人種・エスニシティや階級、性暴力そのものの否定が用いられる。それぞれについて順に確認していこう。
 性暴力の被害者は一般的に、派手な服装をしていた、複数の男性と関係をもっていた、深夜に出歩いていた、男性を自宅に招いたなどと報じられることで、性暴力の危険性を高める行為を自ら行った能動的な主体として語られ、その「落ち度」や責任を問われる(Soothill and Walby 1991:85–6; メディアの中の性差別を考える会 [1991]1993:40; Benedict 1992:23–4; 細井・四方 1995:36; Loś and Chamard 1997:318–9; 四方 2014:136–7)。これらの行動や態度が、「女性は性的に積極的であってはならず、貞淑さを保つべきである」という女性が遵守すべきジェンダー規範に違反していると解釈されるために被害者が非難されると分析する研究もある(Meyers 1997:61–2; 小林 2014:130)。これがジェンダー規範を要素とする非難である。
 次に、被害者への非難にさいして人種や階級といった要素があげられる。アメリカのテレビ報道にかんする研究では、黒人女性の性暴力被害事件は、そもそも白人女性が被害者である場合よりも報道されないが、報道される場合には白人女性よりも「落ち度」を問われて非難されやすいことも明らかとなっている(Meyers 1997:66)。さらに、被害者への非難にさいしてジェンダー・人種・階級の不可分の結びつきも指摘されている。被害者が黒人女性である場合、黒人女性であることを貧困と性的積極性とに結びつけるステレオタイプによって、本人の積極的な言動が被害を招いたと非難されると同時に、一般に黒人女性は白人で中流階級の女性がもっている社会的にふさわしい価値観を欠いた存在として語られたとメイヤーズは分析している(Meyers 2004:112)。
 ここまで確認してきた被害者非難の語りは、性暴力の存在を認めつつ被害者を非難する言説である。
 一方、当該性行為は同意のうえのセックスであったと述べることで性暴力そのものを否定する語りも存在する。そこでは、「女性は復讐のために性暴力を捏造する」という趣旨の加害者側の言い分が無批判に新聞に掲載されたり(Benedict 1992:59–60)、被害者が自ら誘ったとされたり、本来は無関係であるはずの被害者の過去の性的経験を取り上げて性暴力を受けたという供述の信用性が毀損されたりすることで(Soothill and Walby 1991:71–3)、被害者が同意を翻して性暴力を「捏造」したとして非難されることがある。後者のように、被害者が性的に放埓であることが供述の信用性を損なうと解釈されていることから、性暴力の「捏造」を非難する語りにおいても「女性は性的に積極的であってはならず、貞淑でなければならない」という規範が作用していることがわかる。
 このように性暴力を認めるか否定するかという観点から被害者への非難を分節した研究は管見の限り存在せず、被害者への非難として一括して議論されているのが現状であるといえる。さらに被害者への非難が、危険を回避しなかった・原因を作り出したことの次元、女性の規範にたいする違反の次元、または性暴力を「捏造」したことの次元のいずれに向けられているのかを分節した研究は存在しない。
 加えて、非難されるべきとされる被害者は、二つの意味において「他者」であると認識されることがある。第一に、性暴力被害にあわない男性を基準にしたときの「他者」である。メディアが情報源とする警察や裁判所は主に男性によって担われており、そこにおける「わたしたち(we)」は性暴力にあうはずがないと考えられる男性であるため、性暴力被害にあった女性は「他者」であると認識される(Loś and Chamard 1997:318)。第二に、保護に値する被害者にたいする「他者」と認識されることがある。被害者を保護に値するか否かによって二分し、メディアは貞淑で「上品で立派(リスペクタブル)な女性」と認識された保護に値する「無垢な」被害者に同情する一方、それとは明確に区別される、性的に奔放であるゆえに女性が遵守すべきジェンダー規範に違反したと解釈されることで保護に値しないと認識される「売春婦」の被害者を「他者」として表象することが指摘されている(Kitzinger 2009:88)。
 
非難されない被害者
 次に、非難されない被害者について検討する。一般的に、幼い少女や高齢の女性が非難されない被害者であると認識される傾向にある。それは、年齢の低い被害者・年老いた被害者は、弱くて傷つきやすい(ヴァルネラブル)と考えられているからである(Meyers 1997:66)。また、被害者がこれらに該当しない年齢であっても、当該社会でマジョリティである人種や階級に属していると、性暴力以前の行動や性生活が詮索されることなく、被害者は非難されずに「良い女性(good woman)」と認識され、純真さと尊厳とが保たれる傾向にある(Benedict 1992:244)。非難されない被害者についての研究は、非難される被害者についての研究に比べて少ない傾向にある。これは、性暴力被害だけでなく第三者による非難が被害者に大きなダメージを与えている現状から、被害者への非難を根絶しようとする研究が多いことに由来すると考えられる。
 
非難されるとともに非難されない被害者
 さらに、同じ性暴力事件の報道において被害者が非難されて語られることもあれば非難されずに語られることもある。高名な黒人男性ボクシング選手であるマイク・タイソンが、黒人女性に性暴力を行った事件をめぐるアメリカのテレビ・ニュースの報道を分析したスジャータ・ムーティは、裁判の前には被害者は無力な「聖女(virgin)」や「良い(good)」女性として語られ、黒人女性であったにもかかわらずあたかも白人であるかのように扱われていたことを指摘している(Moorti 2002:104–5)。一方、有罪判決後の報道では、タイソンの支援者による発言が引用され、被害者は「魔性の女(vamp)」や「悪い(bad)」女性として語られ、被害者の服装や加害者のもとに向かうという不適切なふるまいが性暴力を招いたとして非難されたり、性暴力そのものがでっちあげであるとして非難されたりしていた。そこには、男性を誘惑する女性として被害者を語る、黒人女性のセクシュアリティにかんする神話が動員されていた、とムーティは分析している(Moorti 2002:105–7)。この事例は、「非難される被害者」と「非難されない被害者」が相互排他的なカテゴリーではなく、「真の被害者」とは誰かをめぐる争いのなかで混ざりあうものであることを示している。そして、被害者にかんする語りを生産する者のポジショナリティが、被害者を「非難される被害者」と「非難されない被害者」のどちらとして語るのかを決定していることを示唆している。ここからわかるのは、事件における被害者にかんする語りは完全に一様である場合ばかりでなく、事件の性質や事件について語る者のポジショナリティによって複層化される場合もあるということである。
 
被害者への非難にかんする研究が批判するもの
 以上の記述では、性暴力事件において被害者が非難されることが問題なのであり、非難されずに語られればそれで問題ないと思われるかもしれない。しかし、ある事件で被害者が「落ち度がない」と認識されて非難されないとしても、それはけっきょく他の「落ち度のある」被害者を念頭にした表現であり、結果的に他の「落ち度がある」と認識された被害者を非難することにつながると、日本の新聞による性暴力を含む犯罪報道を分析した四方由美は指摘している(四方 2014:193)。このように、被害者の語られ方をめぐる研究は、非難の有無によって被害者を二分する言説のあり方そのものを批判しているといえる。
 ここまで、被害者の語られ方を中心に扱った議論を概観してきたが、性暴力は加害者が存在することではじめて起こる。そのため、性暴力にかんする語りをトータルに分析するためには、加害者についての研究を検討する必要がある。以下では加害者の語られ方についての先行研究を概観する。
 
1−2 加害者の語られ方
 被害者の語られ方にかんする研究と比べて、加害者のそれは少ない状況にあるが、ここでは、加害者を他者とみなすかどうかにかんする先行研究を概観する。加害者が語られるとき、加害者がいかに「異常な存在」であるか、もしくはいかに「普通の存在」であるかが強調して語られ、それが語りのほとんどを占めているからである。
(以下、本文つづく。注番号は割愛しました)
 
 
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