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あとがきたちよみ
『ネット分断への処方箋』

 
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田中辰雄 著
『ネット分断への処方箋 ネットの問題は解決できる』

「はじめに ネットの分断は解決できるか」「第1章 1-3 相手を倒すための議論」「第3章 3-4 ネットで表明される意見の偏り/3-5 強すぎる情報発信力/3-6 中庸な議論の撤退」「第4章 4-2 基本アイディア──受診と発信の分離」「第5章 5-2 本書の提案する炎上対策──フォーラムによる防御」(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに ネットの分断は解決できるか
 
 インターネットの草創期には,ネットは社会を良くすると思われていた。世界中の人が時間と空間を超えて話すことができるなら,議論を通じてより良い社会ができるだろう。世の中の争い事は無知や誤解から生じることが多い。ならば議論を通じて相互理解が深まれば次第に社会は良い方向に向かうだろう。ネット草創期の人々は本気でそう思っていた。
 しかし,われわれが現在,手にしているのはそれとはほど遠い荒れ果てた世界である。人々は相反する陣営に分かれて罵倒と中傷を繰り返す。相互理解に向かうような落ち着いた議論はほとんど見られない。リアルの社会では見られないような極端な悪口雑言が飛び交い,社会は分断されてしまったように見える。ネットで目立つのは炎上,フェイクニュース,ヘイトスピーチといった病理的な現象ばかりであり,ネットがあって良かったというようなニュースはとんと聞かれなくなってしまった。
 なぜこうなってしまったのだろうか。議論を重ねて相互理解を深め,問題を解決していくというのは人間社会の基本のはずである。その基本がネットでは実現しないのだろうか。草創期の人々の期待は夢まぼろしなのであり,ネットでの分断は避けがたいのであろうか。人間にはそもそもネットを使いこなす能力はなく,ネットの分断は人間の愚かさの必然的な帰結なのだろうか。分断を防ごうとすればもう何か規制のようなものを入れるしかないのだろうか。本書の課題はこれらの問いに答えることにある。
 本書の用意する答えは簡明である。ネットの議論が荒れ果て分断されている最大の原因は一つに特定化できる。それはネットでの個人の情報発信力が最大に設定されていることにある。すなわち,ネットではどんな相手に対しても議論を開始し,相手の意向にかまわずいつまでも無限に議論をし続けることができる。聞きたくない相手の耳元でいくらでも囁くことができる。これは人間のコミュニケーションのあり方としてはありえないほど発信力が強い。この異例に強い情報発信力のために,中庸で穏健な意見,そして相手を理解しようとする落ち着いた議論はネットから消えてしまい,極端な意見しか残らない。その結果が罵倒と中傷の分断された世界である。そうだとすれば解決策は簡単で,個人の過大な情報発信力を抑えるような仕組みを入れればよい。その一例として本書はフォーラム型のソーシャルメディアを提案した。
 類書に比べたときの本書の特徴は,分断されたネットの問題の原因を特定化し,その具体的な対策を提案していることにある。ネットの分断を嘆く言説は多いが,原因を特定化しているものは少なく,対策を提案している論考はさらに少ない。しばしばユーザの情報リテラシーを上げることと何らかの規制が提案されるが,いずれも有効とは思われない。ネットが普及して20 年以上経過し,物心ついたときからネットに触れている人が現れて若者を中心に人々の情報リテラシーはかつてないほど上がっている。しかしそれでも状況に改善は見られない。ネットを規制せよとの提案はいくつかあるがいずれも問題が多く,また規制を入れるとかえって分断を招くことがある。たとえばアメリカではフェイスブックやツイッターなどSNS の発信規制を行った結果,トランプ支持者は既存のSNS を頭から信じなくなり社会の分断はかえって深まってしまった。リテラシー向上とネット規制に解決を求めるのは問題含みであり,かつ効果は疑わしい。
 これに対して本書の提案は拍子抜けするほど簡単なものである。過剰な情報発信力を抑制したフォーラム型のSNS をつくること,これだけである。そんなことで状況が改善するのか疑問に思う方もおられるかもしれない。疑問に思われる方はぜひ本書を読んで判断していただければ幸いである。筆者の考えでは,個人の情報発信力を最大に設定したのは学術ネットワークとして出発したインターネットの初期設定ミスであり,修正は可能である。ありえないほどに強い情報発信力を正常化してやれば状況は大きく改善する。
 本書のもう一つの特徴は,論拠としてアンケート調査を多用していることである。本書はその結果をもとにしている。どのアンケート調査かいちいち本文中で示すのは煩雑なため,ここで一覧にしておこう
(1)2014 年12 月調査 「炎上調査」 予備調査2 万人→本調査2,000 人
(2)2016 年6 月調査 「炎上調査2」 予備調査4 万人→本調査2,000 人
(3)2017 年8 月調査 「分断調査1」 予備調査10 万人→本調査3,000 人
(4)2018 年2 月 「分断調査2」 予備調査5 万人→本調査3,000 人
(5)2019 年5 月 「分断調査3」 予備調査2 万人のみ
(6)2020 年1 月 「フェイクニュース調査1」 6,000 人
(7)2020 年4 月 「糸井重里炎上事件調査」 1,200 人
(8)2021 年7 月 「フェイクニュース調査2」 1,200 人 
(9)2021 年2 月 「ヘイトスピーチ調査」 2,000 人
調査会社は(1)から(6)まではマイボイス社,(7)から(9)まではサーベロイド社で,いずれもウェブモニター調査である。調査期間は8 年間にわたり,調査人数は予備調査を含めて延べ20 万人以上になる。本書の分析と提案はこれらアンケート調査の結果と事例研究に基づいたものである。
 本書の構成を簡単に述べておく。第1 章は導入であり,そもそも議論が荒れるとはどういうことなのかを整理する。議論には相手を倒すための議論と相互理解のための議論があり,両者が混在しているのが問題であることを示す。第2 章では保守とリベラルの思想対立を簡単に整理する。ネットでは保守とリベラルは罵倒と中傷を繰り返すばかりであるが,これは本来の姿ではなく,本来,保守とリベラルは生産的な議論ができる関係にあることを確認する。なおこの第2 章はやや横道なので,保守とリベラルの思想対立に興味のない方は飛ばして第3 章にすすんでもらっても結構である。
 第3 章は本書の核心部分であり,ネット上で議論が荒れて罵倒と中傷になるのはなぜかを述べる。本書の用意する答えは,個人の情報発信力があまりに強すぎること,である。ネットでは誰に対しても議論を開始することができて,それをやめさせる方法がない。聞きたくない人の耳元に無限に囁き続けることができる。この最強ともいえる情報発信力のために,相互理解の議論をする人は嫌気がさしてネットから撤退してしまう。ネットでの個人の情報発信力が最強に設定されているのは,インターネットが学術ネットとして始まったことの名残であり,修正可能である。
 第4 章ではその修正方法の一例としてフォーラム型のSNS を提案する。フォーラムとはメンバーシップ制をとり,書き込むことはメンバーしかできないが,読むことは誰でもできるようにしたSNS である。いわば受信と発信を非対称にすることで(言論の自由を守りながら)個人の過剰な情報発信力を制限する仕組みである。フォーラムの中では相互理解を勧めるような落ち着いた議論ができるようになるので,ネットの分断の抑制に役立つと期待できる。
 第5 章と第6 章は,ここで提案したフォーラムが,分断を防ぐだけでなく,ネットの各種の病理現象を緩和することに役立つことを示す。第5 章では炎上を取り上げ第6 章ではフェイクニュースを取り上げる。フォーラムは結果として炎上とフェイクニュースの問題に対しても一定の効果があることが示される。
 第7 章では情報化の長期的なビジョンを示し,本書の提案をその中に位置づける。近代500 年の歴史を振り返るとき,現在のネットの混乱はいわば初期故障であり,いずれ修復される。現在は初期故障に対する解決策が試みられている最中であり,本書のフォーラムの提案もその一つとみなせる。あとがきには,言い残した問題として,ヘイトスピーチと情報力の独占の問題を取り上げた。
 最後に本書はネットについての楽観論であることを述べておきたい。昨今のネットについての論考は悲観論が優勢である。ネット上の言論空間は誹謗と中傷の嵐であり,そこで目にするのは分断,炎上,フェイクニュース,そしてヘイトスピーチである。一向に改善されない惨状に,これは人間にとって宿命的問題であり,あきらめるしかないとの声も陰に陽に聞かれるようになった。ネットとはその程度のものである,と。
 しかし,現在のネット上の混乱は情報化の長期ビジョンからすれば初期故障であり修正可能である。強すぎる情報発信力は学術ネットワークとして始まったインターネットの初期設定のミスにすぎない。たかが初期設定のミスにすぎないものを宿命的な問題としてあきらめる必要はない。問題は修復できる。ここで述べたフォーラムはその一例であり,これ以外にもアイディアはあるだろう。今後30 年程度の間にネットにはさまざまの改善の試みが行われると予想する。少なくともいま国家統制のような性急な規制に走るべきではない。
 
2022 年4 月 田中辰雄
 
 
第1 章 二つの議論──倒すか,理解か
 
1-3 相手を倒すための議論
 論をすすめるにあたって,ここで罵倒と中傷とは何を指すかを明らかにしておこう。今ネットでは落ち着いた議論が失われ,罵倒と中傷だけになってしまったと述べた。しかし落ち着いた議論とは何であろうか。罵倒と中傷と述べたが激しい論争がはたから見ればそう見えるだけで,それでも議論の一種とは言えないのだろうか。今後の考察のために,本書に必要な範囲で世の中に存在する議論というものについて整理しておこう。
 議論には2 種類ある。それは相手を倒すための議論と相互理解のための議論である。
 相手を倒すための議論は,激しい政治闘争の際や法廷論争そしていわゆるディベートなどで行われる。相手を論破して勝つことが目的であり,相互理解を求めているわけではない。議論には勝者と敗者があり,勝つことが目的なので,議論は攻撃的になり,論破するためにあらゆる手段が使われる。現在,ツイッターや掲示板など公開の場で行われている議論の大半は,この相手を倒すための議論である。
 これに対し,相互理解のための議論というのがある。この議論の目的は相手を論破することではない。相手と自分の意見の相違点が明らかになり,なぜ意見が異なるかを相互に理解することが目的である。議論の結果,相互理解を得られれば成功,得られなければ失敗である。議論に成功と失敗はあっても,勝者と敗者はいない。この2 つのタイプの議論は基本的に異なっており,分けて考える必要がある。以下,それぞれについて少し詳しく解説してみよう相手を倒すための議論では,攻撃のためにあらゆる手段が動員される。相手の議論の弱点を見つければ徹底的にこれを攻撃し,逆に自分の弱点はできるだけさらさない。議論を聞いている聴衆が問題の全体像をとらえることは必ずしも望ましいことではなく,聴衆の関心は全体像ではなく相手の弱点にだけ向けられるようにすることが望ましい。そのような誘導を図ることが重要な戦略となる。また,聴衆の支持を得るためには感情に訴えることも有効なので,わかりやすいキャッチフレーズやレッテル貼りも多用される。議論の中身より相手の個人的な信用を失わせることも有効な戦略となるので,相手の人間性や人格的な欠点を浮き彫りにする事実があれば遠慮なくそれを使う。つまり人格攻撃もいとわない。
 このような議論の進め方は政治論争ではよく使われる。たとえば『左翼を論破する⽅法:議論に勝つ11 のルール』(ベン・シャピーロ)という本がある(Shapiro 2018)。この本はアメリカの右翼の論客が左翼との政治論争をどう進めるかを書いたもので,「相手を倒すための議論」の性質がよく表れている。
 彼があげた11 のルールの中には相互理解に通じるものもあるが,そうでないものも多い。たとえば,次の3 点などはその典型である。

• 戦争だと思っていけ(Walk Toward the Fire)
• 相手にレッテルを貼れ(Frame Your Opponent)
• 自分に有利なように問題設定をせよ(Frame the debate)

 戦争だと思っていけというのは,まさに相手を倒すことを目的とすることの端的な表現である。相手の言い分をある程度認めるとか,妥協案を探すとかは考える必要はない。相互理解など思いのほかであって,相手を倒すことだけに専念せよというわけである。
 レッテル貼りは議論を単純化し感情に訴えるのに有効である。歴史的によく使われるのは,ファシスト,レイシスト,国家主義者,売国奴,共産主義者等であるが,辛辣な造語がつくられることもある。たとえばフェミニズム論争では,名誉男性,フェミナチという言葉があるし,昨今のネットでよく使われるネトウヨ,パヨクもその一例である。原発事故の際の御用学者,放射脳もこれに属する。コロナ渦のときはコロナ脳という言葉を使う人もいた。これらの用語に一定の意味がないわけではないが,ほとんどの場合は相手を非難・攻撃することが自己目的化しており,少なくとも相互理解の姿勢は見られない。
 自分に有利なように問題設定せよとは,相手の弱点に焦点が当たるように議論を誘導せよということを意味する。どんな主張にも弱点はあるので,自分の弱点はできるだけ話題にしないようにし,相手の弱点だけに焦点が当たるように問題設定するのが戦術的に有効である。その結果,聴衆の理解は偏ってしまうことになるが,自分に有利な方向に偏るのはむしろ望ましい。聴衆にバランスのとれた全体的な理解を与えることが目的ではないので,いくら理解が偏りバイアスがかかっても勝ちさえすればよい。
 このように書くと相手を倒すための議論とはいかにも殺伐として非生産的に聞こえるかもしれない。しかし,悪いことばかりではなく利点もある。大きな利点として激しい攻撃の応酬により,短い時間で効率的に問題の論点を明らかできる点があげられる。自分の弱点を隠して相手の弱点だけに焦点を当てると言っても相手も同じことをしてくるのであるからなかなかうまくいかず,結局双方の弱点が明らかになることも多い。この論点が効率的に明らかになるという利点を最大限を生かそうとするのがいわゆるディベートであり,うまくいけば短時間で生産的な議論が期待できる。
 ただし,相手を倒すための議論が生産的になるためには条件が必要である。それは審判者たる聴衆の存在である。議論で相手を倒したかどうか,すなわち勝負を判定するのは聴衆であり,議論は聴衆に向けて行われなければならない。政治闘争では有権者が,法廷論争では裁判官あるいは陪審員(審判員)が,ディベートでは審判(ジャッジ)がその聴衆にあたる。聴衆がいる以上,相手を倒すための議論にはある程度の節度が求められる。非常識あるいは無意味な立論,枝葉末節にこだわる議論,本筋と離れた論点など,議論を混乱させるだけの要素を持ち込むと聴衆の支持を得られず,議論に負けるからである。実際,上記の左翼と議論するための11 のルールの中には「相手の議論の矛盾点をつけ」「知らないことは率直に認めてしまえ」「はぐらさかれないようにせよ」などまっとうなルールも含まれており一概に非生産的とは言えない。これはあまりひどいことをすると審判者たる聴衆から支持を失ってしまうためである。政治闘争や法廷論争,そしてディベートが,議論として一定の生産性を保っているのは,このように勝負を判定する聴衆が存在しているからである。
 ここで読者は気づくだろう。ネット上では聴衆が存在しない。より正確に言えば勝負を判定する役割をになう聴衆がいない。勝ち負けは相手が黙るかどうかだけである。こうなるとまっとうではないあらゆる手段が動員され始める。黙らせさえすればよいのであるから,どんなに議論を混乱させてもかまわない。非常識な立論,枝葉末節にこだわる議論,議論の前提の前提のそのまた前提までさかのぼる無制限の戦線拡大,同じことをロボットのように言い続ける消耗戦等,いくらでも手段は考えられる。相手が音を上げて議論から撤退してしまえば論破したと勝利宣言できる。あるいは相手がブロックすれば逃げたと言えばよい。このように相手を倒すための議論は聴衆を失うとき,劣化しやすい。
 このような議論の劣化の典型例が,ネットで古くから知られる「詭弁のガイドライン」である。このガイドラインは2 ちゃんねるなどの掲示板で行われた議論から,一見してもっともらしいが実際には中身の乏しい詭弁を集めたものである。このガイドラインは,詭弁に騙されないようにという警告の書と読むこともできるし,こうやれば詭弁で相手をけむに巻けますよという指南書と読むこともできる。相手を倒すための議論が聴衆を失って劣化した場合どうなるかをよく示しているので,一部を簡単に紹介しておこう。
 詭弁のガイドラインでは例として「犬は哺乳類か?」という問いを立てる。犬が哺乳類であることは皆知っているが,あえてこれを否定しようとしてみる。詭弁のガイドラインでは次のような立論例をあげている(原典ではもっと多いが,ここでは一部だけ取り上げる)。

1.事実に対して仮定を持ち出す
「犬は子供を産むが,もし卵を生む犬がいたらどうだろうか?」
2.ごくまれな反例を取り上げる
「だが,時として尻尾が2 本ある犬が生まれることもある」
3.自分に有利な将来像を予想する
「何年か後,犬に羽が生えないという保証は誰にもできない」
4.資料を示さず自論が支持されていると思わせる
「世界では,犬は哺乳類ではないという見方が一般的だ」
5.一見関係ありそうで関係ない話を始める
「ところで,カモノハシが卵を産むのは知っているか?」
6.陰謀であると力説する
「それは,犬を哺乳類と認めると都合の良いアメリカが画策した陰謀だ」
7.自分の見解を述べずに人格批判をする
「犬が哺乳類なんて言う奴は,社会に出てない証拠。現実を見てみろよ」
8.レッテル貼りをする
「犬が哺乳類だなんて過去の概念にしがみつく右翼はイタイね」
9.勝利宣言をする
「犬が哺乳類だという論はすでに何年も前に論破されてることなのだが」
10.細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
11.全か無かで途中を認めないか,あえて無視する。
「すべての犬が哺乳類としての条件を満たしているか検査するのは不可能だ(だから,哺乳類ではない)」
12.勝手に極論化して,結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない,しかしだからといって,哺乳類としての条件をすべて持っているというのは早計に過ぎないか。」

 犬が哺乳類であるという命題が正しいことは明らかなので,これらの立論がおかしいことはすぐにわかる。すなわち,これらの立論はいずれも犬が哺乳類かどうかという問いに正面からまじめに答えるつもりはなく,議論は前進しない。このような立論に付き合った場合,議論はただ混乱するだけである。
 犬が哺乳類かという話題の場合は,その不毛さが誰にもすぐわかる。しかし,これが通常の論争的な話題になると一見してもっともらしく聞こえてくる。たとえば話題を「原発はすみやかに廃止すべきか」「子宮頚がんワクチンは打つべきか」「萌えポスターは女性差別か」など近年論争になった話題に変えてみよう。これらの話題に対して上記の詭弁を適用した表現をつくってみると,一見したところ詭弁とは思えなくなる。「世界では原発は廃止するのが当たり前だ」「原発が危険というのは環境主義者のつくり出した陰謀だ」等々。実際,ツイッターや掲示板でこのような形式の立論を見たことがある人もいるだろう。この場合,正面からまっとうに議論しようとしているわけではないので,議論は消耗的になり袋小路にはいる。やがて,相手が疲れて議論の場から撤退してしまえば,勝利宣言をして論破成功と称することができる。実際には相手は呆れて去っていくだけで決して論破したわけではないが,当人は意気揚々と勝利を語ることになる。
 聴衆が勝敗を判定するなら,このようなことは起こらない。聴衆の目から見れば議論が混乱していることは明らかで,仮にそれが詭弁を仕掛けた側にあることがわかれば,詭弁を仕掛けた側は聴衆の支持を失うからである。
 今,撤退すると述べたが,撤退は比較的おとなしい決着である。その人にとって引くことはできないほど重要な問題であれば撤退はありえず,あくまで頑張ろうとする。すると最後には激高し感情的な喧嘩に移行する。これが罵倒と中傷である。かくして,聴衆のいない場での「相手を倒すための議論」は,往々にして罵倒と中傷を生みやすい。ネット上で罵倒と中傷が多いのは,審判役たる聴衆がいないにもかかわらず,相手を倒すための議論を行っているためである。ネットで行われているのは,審判役なきディベート,裁判官なき法廷論争,有権者なき政治討論であり,その行きつく先は罵倒と中傷となる。
 
1-4 相互理解のための議論その1:論理による理解
 次に相互理解ための議論について述べよう。相互理解のための議論では相手と自分の意見の相違がなぜ,そしてどこから生じているかがわかればよい。議論に勝ち負けはない。見解の相違の理由がわかれば議論は成功であり,わからなければ失敗である。議論に勝ち負けはないが成功と失敗はある。また,相互理解はできるだけ深く広い方がよいので,双方の弱点と利点がわかった方がよい。ゆえに弱点を出すまいと身構える必要はなく,むしろ弱点も利点もさらして議論することが望ましい。相互理解のため議論は激しい攻撃とは無縁であり,静かな話し合いとなる。
(以下、本文つづく。注と傍点は割愛しました。pdfファイルでご覧ください)
 
 
第3 章 学術的な,あまりにも学術的な
 
3-4 ネットで表明される意見の偏り
 では,なぜネットの議論は荒れるのか。人は問うだろう。ネットの利用で人々の意見が過激化しているわけではないのなら,なぜネットでの議論はリアル以上に極端な意見ばかりで,荒れているのだろうか,と。
 ネットの利用で人々の意見が極端化しているのではない。それにもかかわらずネットでの議論は極端なものばかりである。それならネット議論での意見の表明に偏りがあると考えるしかない。すなわち,中庸で穏健な人の言論がネットからは消えてしまい,極端な意見ばかりが残る結果になっているということである。
 図3-3 はこれを概念的に図示したものである。横軸はある争点についての賛成と反対の程度を表す軸,あるいは保守とリベラルの政治傾向の軸である。世の中には中庸な人が多いので人々の意見は中央に集まり,意見分布は図の実線のような山型をしている。ネットの利用によって過激化が進んでいるわけではないので,ネット利用者の意見分布もこれと同じく中央が多い山型のはずである。しかし,ネットで表明される意見には偏りがあり,賛成あるいは反対の極端な意見ばかりになっていると考えられる。図の点線がそれであり,ネットでは両端ばかりが強調されてしまうことになる。
 ネットで表明される意見が両端に偏ることを裏づけるデータはいくつか示せる。例として憲法9 条改正についてネット上で発言したことがあるか,発言したとすれば過去1 年に何回くらい書いたかを尋ね,その分布を見てみよう。調査時点は2019 年5 月でサンプル数は2 万人である。
 図3-4 は人数ベースの分布,すなわちその回数だけ書き込んだ人の数の分布である。これを見ると95% 以上の人が過去に一度も憲法9 条について書き込んでいない。憲法9 条のような著名な政治争点についてでも書き込んだことがあるのは5% 程度であり,一般にネットで政治争点について意見表明する人の数は多くない。過去1 年に限ると2 〜 3% 程度にまで低下する。
 ここで興味深いのは書き込んだ数のばらつきが大きく,少数ではあるが,非常にたくさん書き込む人がいることである。この偏りの影響を見るために,分布を人数ベースではなく,書き込み数ベースに変えてみよう。たとえば,4 ~6 回書き込んだ人は0.49% なので,彼らの総書き込み数は平均を5 回として,5 回× 0.49% ×総人数(19,015 人)となる。この総書き込み数について分布を描いたのが図3-5 である。この図は,縦軸のそれぞれの書き込み数の区分の人たちが書き込んだ数が,全書き込み数の中のどれくらいの比率を占めるかを示している。
 これを見ると60 回以上書き込んでいる人の書き込みが50% にも達しており,断然大きい。60 回以上書き込む人は図3-5 で見るように,全体の中で0.23%しかいない。彼らの書き込みが全書き込みの50% を占めていることになる。言い換えるとわれわれが憲法9 条改正についてネットで目にする意見のうち半分はわずか0.23 %の人の意見である。そして,60 回以上書き込んでいることからわかるように,彼らは憲法9 条改正について賛成にしろ反対にしろ,極めて強い意見の持ち主である。憲法9 条改正に限らず,原発の是非,子宮頚がんワクチンの賛否,PCR 検査の拡充の是非などの話題についても同様のグラフを描くことができる。ネット上では両端の強い意見ばかりが表明される傾向があるのである。
 強い意見の持ち主は意見を表明したいという意欲も強いから,書き込み数が増えるのは自然である。思想の自由・言論の自由に基づき,彼らが熱心に書き込みをすること自体に何ら問題はない。しかし,ネットに書き込むのが強い意見の持ち主だけ4 4になってしまうと,相互理解を目指した議論は難しくなる。あまりに見解の差が大きい相手とは相互理解は困難であり,理解不能な相手は攻撃対象になりやすいからである。相手を倒すための議論が常態化し,ネットは荒れ始める。
 問題は中庸で穏健な人たちがネットから撤退しており,見えなくなっていることである。すなわち中庸で穏健な人たちが意見交換し,相互理解を進めるような言論空間がネットから消えてしまっている。これはなぜだろうか?
 
3-5 強すぎる情報発信力
 本書は,その理由は個人の情報発信力が強すぎる点にあると考える。この見解は本書の中核をなす主張なので,以下詳しく述べよう。
 ネットでのコミュニケーションにはリアルにはない大きな特徴がある。それは個人の情報発信力が異例に強いことである。誰に対しても議論を開始することができて,受ける側にそれを拒否する自由がない。
 掲示板とツイッターで非常に極端で攻撃的な意見の人が現れたとしよう。その人の攻撃的で一方的な発言に辟易として,その人の言いたいことはわかったからもう聞きたくないと思っても,その人の発言を聞かないようにする方法がない。掲示板を見る限りその人の発言は目に入ってくるし,ツイッターを開く限り目にせざるをえない。ブロックするなどの方法もあるが,ブロックするにしても一度はその書き込みを読まなければならないし,アカウントを変えて同じ人が,あるいは似たような人が次から次へと現れる。聞きたくないひどい言葉,そして罵声や中傷も目にしなければならない。静かにしてもらおうとして反論すれば,その人のひどい言葉がフォロワー全員に伝わってしまい,むしろ騒ぎが広がってしまう。
 これは極めて異例な事態である。情報を発信する側の力が異常に強く,受信する側に選択する自由がないからである。ネット上ではこれは当たり前のように行われているが,これはコミュニケーションのあり方としては極めて異例である。
 その異例さは同じことがリアルで起こったらどうなるかを考えてみればわかる。仮にネットと同じ程度の情報発信力がリアルの世界にあったらどうなるかを考えてみよう。たとえば公民館である人が講演をしていると,客席から一人の客が立ち上がり,批判を述べたとする。批判が政治的にかなり偏っているので,講演者は一言二言答えて終わりとして講演を続けようと思っても彼は座らずに批判を続ける。司会者が止めてもやめずに延々としゃべり続ける。退席させようとすると突然彼の周りに魔法のように鋼鉄の檻が現れて彼を護り退席させることができない。そうなったらどうなるだろうか。あるいはテレビの討論番組で,突然スタジオにバーチャルリアリティのように視聴者の一人が現れ,討論に割って入ったらどうなるだろうか。テレビ局が止めさせようと思ってもできず,次々から次にそのような人が現れたらどうなるか。本を出版したら,読者から批判の手紙・電話がたくさん届き,著者はそれらに目を通さなければならないとしたらどうなるか。たとえば手紙を読まなければ家から出られない,あるいは自宅の電話がいつまでも鳴り続けるとしたらどうなるか。
 もちろん,そんなことは現実には起こらない。もし起こったら,講演会は中止であり,そのような事態が頻発するならそもそも講演会自体が開こうとしなくなる。テレビ局も討論番組は編成しないだろう。本の著者は批判が殺到するような本はそもそも書かなくなるだろう。結果として言論の場は縮小し,言論の自由は損なわれてしまう。もちろん現実にはこのような馬鹿げたことは起きない。しかし,その馬鹿げたことがごく普通に起きているのがネットの世界である。ネットの世界での個人の情報発信力がいかに強力かがわかる。これはコミュニケーションのあり方としては極めて異例である。
 
3-6 中庸な議論の撤退
 個人の情報発信力が強すぎると,中庸・穏健な人たちが議論の場から撤退していく。中庸・穏健な人が相互理解型の議論をしようとしているとき,極端な意見の人が入って相手を倒すための攻撃的な議論を始めると,中庸で穏健な人たちはそれに耐えられずに議論から撤退してしまうからである。
 たとえば,ある喫茶店で穏健な原発反対派と賛成派の友人同士が意見交換していたとしよう。互いの意見の違いがどこから生じているのかを論理的に整理し,あるいは互いに相手の気持ちを共感して理解しようとしていたとする。すなわち相互理解を求める議論がゆっくり行われていたとする。
 そこにたまたま隣の席に座っていた強硬な原発反対派の人が割って入り,原発賛成派を批判し始めたとする。「命より金が大事だというのか」「あなたは原発利権に洗脳されている!」,と。穏健な人たちは突然現れた批判者の攻撃的言辞についていけない。その勢いに気おされて黙るか,不愉快に感じて席を立つかであろう。さらにそこに今度は強硬な原発賛成派が現れれば事態はさらに悪化する。「原発推進は実は世界の潮流だ」「放射能の被害は小さく,そればかり言うのは環境カルトだ」,と。強硬な反対派と強硬な賛成派の違いは大きく,相互理解は困難であり,すぐさま相手を倒すための議論に移行する。二人の強硬派の激しい攻撃的口調は容易に罵倒と中傷に変化し喫茶店中に響きわたる。そうなったとき,最初にいた穏健で中庸な人たちはもうそこにはいなくなっているだろう。かくして中庸・穏健な議論は居場所を失っていく。
 一般に,相互理解のための議論と相手を倒すための議論は共存しない。相互理解のための議論では論理と共感を駆使して互いを理解することが目的であり,自らの弱点もさらすし,相手の弱点を責めはしない。懐のうちをすべてさらすため,いわばやわらかい腹をさらして生身で相手に対処するようなものである。これに対し相手を倒すための議論では,倒すことが目的なので,自らの弱点は隠し,相手の弱点をひたすら攻撃する。それは鎧兜に身を固め,剣を武器にして切りかかるようなものである。したがって,両者がぶつかった場合,傷つき嫌気がさしてしまうのは相互理解を求める議論をしている側である。相互理解のための議論をしたい側から見ると,相手を倒すための議論をする人は自分の非を一切認めることなく,一方的に攻めてくるようにしか見えない。最初からこちらを理解する気がなく,ただ打ち倒したいと思っている相手と話すのは苦痛である。相互理解の議論をしたい側はその場から撤退して議論は終了する(しばしば相手を倒すための議論をしている側は勝利宣言を行う)。こうして相互理解のための議論を担う中庸・穏健な人はネットから消えていく。
 これがネットで日常的に起きていることであることを示すため,実際に中庸・穏健な人が撤退する事例を見ることにしよう。
 2019 年の秋に宇崎ちゃん萌え絵ポスター事件というのが起きた。この事件は献血キャンペーンの一環として『宇崎ちゃんは遊びたい』という漫画のキャラを使ったポスターがつくられたが,このキャラが胸の大きさを強調しており,女性蔑視あるいはセクハラとして批判・撤去され,これに対し表現の自由の立場から反論が行われて論争になった事件である。論争はフェミニズム対表現の自由の対立として広がりを見せ,半年近くにも及んだため,多くの人が論戦に加わった。それがため,途中で論戦から撤退する人が目に見えることになった。通常は議論からの撤退は黙って静かに行われるので見えにくいが,この事件は長期にわたり多くの人が加わったために撤退の弁を述べる人が現れた。2 つほど例をあげてみよう。
(以下、本文つづく。注、傍点、図は割愛しました。Pdfでご覧ください)
 
 
第4章 フォーラム型SNS
 
4-2 基本アイディア──受診と発信の分離
 SNS で個人の情報発信力を抑えるにはどうすればよいか。一番簡単な方法は会員制をとってしまうことである。たとえばフェイスブックはツイッター・掲示板に比べて書き込める人が比較的制限されているので荒れにくい。さらにLINE となると完全なメンバー制なので外部から侵入されることはなく罵倒と中傷の応酬とはならない。
 しかしながら会員制をとるとその代償としてSNS 自体の情報発信力が弱くなり,世論形成ができなくなる。フェイスブックでどんなに良い相互理解型の議論ができたとしても(実際,そのような良い議論の事例はある),それが外部に伝わることはない。フェイスブックは世界的にはツイッターを上回るユーザがいるにもかわらず,世論形成にほとんど影響を与えていないのは驚くべきことである。ネットの世論を形成しているのはツイッターと掲示版であり,フェイスブックではない。また,会員制にして閉じてしまった場合,そこでいわゆるエコーチェンバーが起こると誰の目にもそれが触れず,修正の方法がなくなるという問題もある。
 そこで,会員制にとるのは書き込みだけにし,読む方は誰でもできるようにする。すなわち受信と発信を非対称にすることを考える。フォーラムと呼ばれるグループがあって,書き込めるのはフォーラム会員に限られるが,書かれたモノを読むことは誰でもできるとしておく。書き込みは会員に限られるので,外部からの未知の個人の侵入は防ぐことができる。一方で書いたものは世界に向かって発信されるので世論形成力は維持できる。
 イメージとしてはツイッターの中に特定メンバーだけが書き込めるような場所(これがフォーラムである)があると考えればよい。このフォーラム内に書き込んだことは誰でも読めてリツイートもできる。しかし,フォーラムの中に書き込めるのはフォーラム会員だけである。
(以下、本文つづく。傍点は割愛しました)
 
 
第5 章 炎上への対処
 
5-2 本書の提案する炎上対策──フォーラムによる防御
 ではどうするか。考えてみると木村さんへの炎上コメントは一つだけなら問題はない。問題はこれが大量に書き込まれ,SNS を続ける限り,彼女には読まないという選択肢がほぼないことである。すなわち,非難コメントを書き込む側は事実上,強制的に自分の書き込みを相手に読ませることができる。本書で何度も論じてきた「個人の強すぎる情報発信力」がいかんなく発動される。これが炎上の真の問題点である。
 木村さんを非難するコメントを書いているほとんどの人に,彼女を追い詰めているという自覚はなかっただろう。ほとんどの人はひとこと書いて終わりであり,個人として(非難の)感想を述べたにすぎない。似たような感想・意見の書き込みはネット上によく見られ,特になにも起きていないのであるから,彼女が自殺するまで追い込まれると思わなくても自然である。コメントをひとこと書いた人を責めるのは適切ではない。もしひとことコメントを書いて責められるなら,誰もネットには感想コメントを書けなくなる。
 問題は書いた人にあるのではなく,そのひとことが,すべて彼女の耳に強制的に届いてしまうというネットの構造にある。すなわち個人の情報発信力が異常に強い点にある。どんな事件・現象に対しても不満な人というものはいて,非難の声をあげる。それが少数であれば大きな声にはならないし,たいていは当事者のもとには届かない。しかし,ネットでは個人の情報発信力が異例に強いため,ごく少数の人の声でもすべて当事者の耳元に届いてしまう。木村さんの耳元に少数の非難者の声ばかりが届き,彼女の情報空間を埋め尽くしてしまう。そうなると世界中から責められているようにしか見えない。問題なのはネットの持つこの構造にある。
 そこでフォーラムが解決案になる。図5-1(a)のように,テラスハウスのフォーラムがあって,そこに木村花さんが入っていたとする。このフォーラムはテラスハウスの関係者(出演者,スタッフ)とその友人,また,限られた視聴者代表(ファンクラブの代表者)などからできている。問題の殴打事件への非難コメントがネット上にでたとしても,フォーラム内部に直接届くことはない。フォーラムに書き込めるのはメンバーだけだからである。メンバーの誰かが非難コメントをフォーラム外のSNS から見つけて拾ってきて,こういう感想がでているよ,とフォーラム内に持ち込むことはできる。今回の例なら殴打事件はそれなりに話題になったので,フォーラム内に持ち込む人がいてもおかしくない。木村さんがそれ聞いて釈明し,必要なら謝罪すれば一般視聴者は納得し,それで話は終わったであろう。事件としての殴打事件はもともとその程度の事件である。
 しかし,フォーラムがない状態では,非難コメントは直接に木村さんのところに向かってくる。図5-1(b)がその状態であり,彼女のまわりはすべて非難コメントで埋め尽くされてしまう。実際には非難コメントを書く攻撃者は少数派であり,殴打事件を気にしていない一般視聴者が圧倒的に多数のはずである。しかし,当事者にはそうは見えず,世界全体から非難されているように思え,追い詰められていく。これが炎上問題である。
 フォーラムはこれを防ぐ。この場合のフォーラムは言わば炎上からその人を守る防御壁(プロテクションベルト)である。フォーラムの中にはその人の味方をする人もでてくるだろう。炎上事件では少しでも味方がいることは大きな救いになる。フォーラム内でなら,しでかした失言や行為について冷静に評価し,謝罪すべき点は謝罪し,誤解に基づく点は正し,正しいと思う点は改めて主張するなどの対応を冷静に行うことができる。このような対応について相談する相手がいるだけで問題はかなり解決する。
 さらに,フォーラムは防御壁になるだけでなく,フォーラム内で炎上事案について生産的な議論をすることも期待できる。炎上事件での攻撃者は正義の旗印を掲げていることが多く,相互理解の議論は困難である。つまり。図5-1(b)の状態で攻撃者と話しても相互理解はありえず,炎上を収めるとすれば全面謝罪しかない。さらに謝罪しても収まらないことすらある。しかし,フォーラムの中であれば中庸で冷静な人がいるので,炎上のもととなった発言について冷静に評価して議論することができる。本来,中庸な一般人(視聴者)が求めているのはそのような議論であり,全面謝罪か対話拒否かの二者択一は何も生産的な成果を生まない。フォーラムの場で議論することで,炎上が提起した問題について多面的な角度から議論することができる。こうしてフォーラムは当事者の身を守りながら,相互理解型の議論を深めることができる。
 ただし,フォーラムで当事者を守れるのはひとことコメントを書くだけの批判者に対してである。ほとんどの炎上参加者はひとこと書くだけなのでフォーラムの防御でことが足りる。しかし,例外的に数十回にわたり書き込み続けるストーカー的な攻撃者が現れることがあり,これはフォーラムでも防御できないので別途対策が必要になる。それはどんな場合か。またそもそもここで述べた議論の前提(炎上での攻撃者はごく少数である,大半の人はひとこと書くだけなど)は正しいのかも確かめる必要があるだろう。以下ではこれらの問いに答えるため,炎上の実態について事例ではなく,統計的な調査をもとにあらためて述べていくことにする。
(以下、本文つづく。注、図、傍点は割愛しました。Pdfでご覧ください)
 
 
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