「憲法学の散歩道」単行本化第2弾! 書き下ろし2編を加えて『歴史と理性と憲法と――憲法学の散歩道2』、2023年5月1日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
※本書の「あとがき」をこちらでお読みいただけます。⇒『歴史と理性と憲法と』あとがき
人間は合理的な動物である。それを疑う人は少ないであろう。少なくとも人間は合理的であるべきだと考える人の方がそう考えない人より多いはずである。
問題は、そこで言う「合理性」とは何かである。
人間は誰もが、自分の効用をもっとも効率的に最大化しようとするものだ、それこそが人間の合理性だという考え方がある。そこで言う「効用」はベンサム流に快楽から苦痛を差し引いたもの──どのようにすれば差し引けるかは不明だが──かも知れないし、経済学の入門書で描かれているように、購入した商品から得られる便益から購入費用を差し引いたものかも知れない。
こうした想定は、いわゆる社会科学の広い領域で共有されているように思われる。科学的合理性(scientific rationality)の想定と呼ぶことができるであろう。
この想定からすると、人の直面する選択肢はすべて、それぞれがもたらす効用とコストにもとづいて、1つのものさしの上に落とし込んで、どれが最善かどれが最悪か、どれがどれよりより善いか悪いか、をあらゆる場合に判定することが可能となる。何より事態を数学的に記述すること、さらには客観的に将来を予測することが可能となる。
筆者は以前、ある座談会で、高名な経済学者と高名な社会学者とご一緒したことがある。そのお2人に、「先生方は、人間は自分の効用をもっとも効率的に最大化するよう予めプログラムされたコンピュータと同じだと考えているのですよね」という趣旨の発言をしたところ、その通りであるとの回答を得た。筆者が、法律学はそうした前提をとっていないと述べると、お2人は驚愕していた。
法律学は、人間誰しも、自分の効用をもっとも効率的に最大化すべく行動するという前提をとってはいない──少なくとも、それは標準的な前提ではない──と筆者は考える。すべての選択肢を1つのものさしに落とし込んで、どれがどれより善いか、どれが最善の選択肢であるかを計算し、判定することがあらゆる場合に可能だという前提をとってはいない。
そういう意味では、法律学は社会科学ではないというのが筆者の考えである。理由の1つは、そうした前提はかなりの程度において、人間生活の現実と乖離しているからである*1。
ある事物や事柄について欲求や選好を抱くこと、その獲得・実現から効用を得ることには、さらにそれを支える理由があるはずである。理由もなくただただ欲しいとか、とにかくそうしたいというのは、依存症的な状態あろう。選択をした結果として、ある効用(非効用)が得られることについても、理由があるはずである。
つづきは、単行本『歴史と理性と憲法と』でごらんください。
憲法学の本道を外れ、気の向くまま杣道へ。山を熟知したきこり同様、憲法学者だからこそ発見できる憲法学の新しい景色へ。
2023年5月1日発売
長谷部恭男 著 『歴史と理性と憲法と』
四六判上製・232頁 本体価格3000円(税込3300円)
ISBN:978-4-326-45128-9 →[書誌情報]
【内容紹介】 勁草書房編集部webサイトでの好評連載エッセイ「憲法学の散歩道」の書籍化第2弾。書下ろし2篇も収録。強烈な世界像、人間像を喚起するボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアらを取り上げ、その思想の深淵をたどり、射程を測定する。さまざまな論者の思想を入り口に憲法学の奥深さへと誘う特異な書。
【目次】
1 道徳対倫理――カントを読むヘーゲル
2 未来に立ち向かう――フランク・ラムジーの哲学
3 思想の力――ルイス・ネイミア
4 道徳と自己利益の間
5 「見える手」から「見えざる手」へ――フランシス・ベーコンからアダム・スミスまで
6 『アメリカのデモクラシー』――立法者への呼びかけ
7 ボシュエからジャコバン独裁へ――統一への希求
8 法律を廃止する法律の廃止
9 憲法学は科学か
10 科学的合理性のパラドックス
11 高校時代のシモーヌ・ヴェイユ
12 道徳理論の使命――ジョン・ロックの場合
13 理性の役割分担――ヒュームの場合
14 ヘーゲルからニーチェへ――レオ・シュトラウスの講義
あとがき
索引
「憲法学の散歩道」連載第20回までの書籍化第1弾はこちら⇒『神と自然と憲法と』
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