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あとがきたちよみ
『環境徳倫理学』

 
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ロナルド・L・サンドラー 著
熊坂元大 訳
『環境徳倫理学』

「はじめに──徳本位の代替案?」(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに──徳本位の代替案?
 

自分たちが貪欲で、臆病で、短気で、自惚れ屋で、社会における振る舞い方の規則に従うことができないとわかっているとしたら、そうした規則を紙の上に書き出してみることに何の意味があるというのだろうか。私たちの社会制度や経済制度の改善について考慮しなくてよい、真剣に考慮すべきでないなどと言うつもりはさらさらない。私が言いたいのは、個々の人びとの勇気や無私無欲の精神がなければ、いかなる制度であれ決して適切に機能しないだろうということを認識しないかぎり、そうした考察は絵空事にすぎないということである。……(略)……法で善良な人びとを作り出すことはできない。そして善良な人びとがいなければ、善い社会は成立しない。個人の内なる道徳性……(略)……について考え続けなければならないのは、このためである。 C. S. Lewis, Mere Christianity, 73.

 
性格と環境倫理学
 環境についての公的論議はもっぱら法律や規制の用語で組み立てられている。そのせいで環境倫理学は、どのような活動が許可されるべきか、もしくは禁止されるべきかということに固執しがちである。結局のところ、私たちは人の性格ではなく振る舞いについて法を制定するのであり、政策も考え方ではなく行動に関係するものである。裁判所による基準の運用も同様である。しかし、実際に行動し、政策を推し進め、法案のロビー活動をするのは、性格特性や考え方や気質というものを備えた人間である。だからこそ私たちは、山頂除去方式による採炭や湿地の埋め立てや毒餌による狼駆除を非難したり、法律家や法廷、そして一般市民を前に主張を行うかたわら、人の性格についても検討しなければならない。ある人が環境とどのように関わり合うかは、その人の考え方に影響される。環境の乱開発を引き起こす主な原因は、自然は人間の欲求やニーズを満たすための資源に過ぎないとする考え方にある。多くの人はこのように考えているようだ。アルド・レオポルドが『野生のうたが聞こえる』の序文で述べている通り、「私たちが土地を乱用するのは、土地を私たちが所有する商品と見なしているからである。土地を自分たちが所属する共同体として見るとき、私たちは愛情と敬意を持って土地を使うようになるのかもしれない」。これこそまさに、本章冒頭のC・S・ルイスによる一節の要点を環境問題の文脈で具体化した考え方である。社会をその自然環境との関係も含めて改善しようという試みも、実行に移すための性格と献身性がその市民に欠落しているとしたら絵空事でしかないだろう。
 環境についての好ましい性格は、適切な行為につながるがゆえに有益だというだけではない。そうした性格の持ち主のためにもなる。自然に感謝し、敬意を抱き、感嘆の念を抱き、自然を愛する人は、自然との関わりにやりがいや充足感、そして安らぎを見出すことができる。「科学者であれ門外漢であれ、地球の美しさと神秘に囲まれた人は決して孤独ではなく、人生に倦むこともない」とレイチェル・カーソン〔『沈黙の春』で知られる環境保護活動家:以降とくに注記のないものはすべて訳者による注〕は述べた。そしてジョン・ミューア〔「国立公園の父」と評される環境保護活動家〕は「誰もがパンと同じように美を必要としている。同様に、自然に癒され、心身に力をもらしてくれる、遊びや祈りの場も必要である」と信じていた。自然を受け入れている人にとって、自然は歓びと安らぎ、再生、そして知識の安定した源泉となる。
 以上の予備的考察は、人の性格と環境の関係に見られる多様さと豊かさを示唆している。適切な環境倫理には、この複雑さを均一化したり歪めたりすることなく受け入れるだけの、記述的および評価的なリソースがなければならない。徳と悪徳の言語はこのリソースを提供する。ルーク・ファン・ヴェンスフェーンは、環境倫理学における徳の言語の歴史と進展についての傑出した著作で「生態学に鋭敏な哲学や神学や倫理学の文献で、何らかのかたちで徳の言語を組み込んでいないものをいまだかつて目にしたことがない」と述べている。ヴェンスフェーンは、現代の環境倫理学の文献に登場した一八九の徳の用語と一七四の悪徳の用語の一覧を作成し、徳の言語の使用が不可欠で、多様で、弁証法的で、動的で、そして先見的であることに気がついた。徳の言語は、ただ言説のいたるところに見られるのではない。必須なのである。十分に注意を傾ければ、徳の言語は環境問題への理解と対応力を高めうる評価概念と視点の強力な一式を私たちに提示してくれるとヴェンスフェーンは結論づける。彼女が言うように「もう一つの言語、すなわちもう一つの機会」というわけである。
 私たちは、もう一つの機会を利用することができるかもしれない。私たちが抱えている環境問題は単純ではなく、静的なものでもない。初期の環境保護主義を支配していた原生自然と土地利用の問題は理論(たとえば保全や保存、修復のパラダイム)と実践(たとえば国有林におけるオフロード車の使用と道路建設、火災抑制政策、狼の「管理」プロジェクト、そして種の保存)の両面で、今なお私たちとともにある。しかしながら、私たちにとって喫緊の環境問題は、土地の利用や「あちら側」の動物相や植物相の扱いに関わるものだけにとどまらない。一九六〇年代から七〇年代にかけて、環境問題は汚染や化学物質という形で、私たちの「こちら側」にやってきて、初期の問題とは違ったこの問題自体の理論的不一致(たとえば環境に関する意思決定のための費用便益分析アプローチと自由市場アプローチ、分配的および手続き的正義アプローチ、そして環境権アプローチのあいだの不一致など)と、実践上の問題(たとえば産業用地の区分けや許可証の発行、製造業と消費者の廃棄物処理、水道民営化、そして環境正義など)をもたらした。これら第一世代の問題と第二世代の問題に加えて、今では「あちら側」と「こちら側」だけでなく、「いたるところ」でみられる第三世代の問題がある。地球温暖化やオゾン層の減少や人口増加などの問題が、ユニークな理論上および実践上の課題をもたらしているのである。というのも、特定の個人に責任を帰することができない、(空間的にも時間的にも)隔たりのある集団的行為の問題であり、一見すると取るに足らないように思われる膨大な数の決定の、意図せぬ累積的な影響がふくまれているからだ。また、これら三世代の環境問題は相関関係にある。エネルギー政策、消費パターン、貿易政策、共有財の民営化、行政能力、企業の影響力、これらがいずれの問題にも関係している。特定の世代間問題もまた、天然資源から消費材へという同一過程の異なる段階(たとえば天然資源の採取、輸送、精製と製造、消費、そして廃棄処理)における問題が表面化したものであることが多い。さらに言えば、第四世代の問題が姿を現すことがないと考える理由もない。遺伝子工学やナノテクノロジーは、これまでSFの題材でしかなかった環境上の課題を現実のものにしてしまう可能性をはらんでいる。
 私たちが自然環境とのあいだに築いている関係の豊かさと複雑さ、そして環境問題の多様性とダイナミズムや連動性を考えると、環境倫理学へのよく知られたアプローチの多くが一元論的であることは、いささか驚くに値する。これらのアプローチはある一つのタイプの考慮事項(たとえば生き物の固有の価値〔inherent worth〕、感覚を持つ存在の利害関心、人の選好、人権、あるいは生態系の統合性〔integrity〕)を環境についての道徳的配慮の根拠として強調し、またこの根拠にもとづいてある一つのタイプの応答(たとえば価値の尊重、苦痛の最小化、選好充足の最大化、権利の尊重、あるいは生態系の統合性維持)を正当化する。環境問題の多元性と、私たちが対応できる環境存在の多様性およびそれに対して考えうる私たちの応答の形を考慮すると、適切な環境倫理がこれらいずれの方法であれ、一元論的なものであるようには思われない。これほど多くの一元論的なアプローチが存在していることが、まさにその証左である。いずれのアプローチも私たちと自然環境との関係に見られる、道徳に関わる多くの側面のうちのどれか一つをとらえることで一定の信憑性を手にしている。自然環境は人間に物質的な財を提供する。自然には価値と、人間による評価に依存しない価値を備えた個体が含まれており、ケア的、美的、レクリエーション的、そしてスピリチュアルなさまざまな関係と経験を可能にする。これらを単一の道徳的根拠で説明しようとしたり、単一の道徳的応答の様式に当てはめようとすれば、非経済的な財を経済的単位に換算するために支払意思額や仮想評価の手法を用いるときと同じように、対象を歪めてしまうことになる。道徳的応答のあらゆる根拠と形式から、一つの共通の道徳通貨を抽出する方法など存在しないのである。
 それゆえ私は、一元論的な環境倫理学は環境がもたらす財と価値の多様性にも、環境問題の複雑性にも、また環境問題が根ざしている諸々の個人的・社会的・文化的・政治的・経済的文脈にも十分対応していないという環境プラグマティストたちの主張に共感している。しかし、環境倫理学への多元的なアプローチが必ずしもプラグマティズムのアプローチになるわけではない。環境が持つ財や価値についての多元論は、環境倫理学における理論的ないしは基礎的な事柄が余計な雑念であるとか、手におえないものであるということを意味するものではない。また、相反する一元論的アプローチのあいだの実践的・政策的目標の収束に専念するために、そうした事柄を棚上げすべきだというわけでもない。環境問題への応答性の正当化や基盤や形態における多元性を受け入れられるように理論的に基礎づけられた環境倫理学へのアプローチは、環境保護の一元論と環境プラグマティズム双方への代替案を提供することになるだろう。
 私が提唱する環境倫理学に対する徳本位のアプローチは、以下のそれぞれの点で多元的なものとなる。すなわち1.性格特性を環境徳たらしめる財と価値のタイプ──道徳的応答性の正当化について、2.環境徳が働く物や出来事や存在──道徳的応答性の基盤について、そして3.環境徳による反応と振る舞い──道徳的応答性の形態についてである。十全な環境倫理には性格倫理が不可欠である。これはまた、人間と自然環境との関係と相互作用が持つ豊かさと複雑さを引き受け、具体的な環境問題やその争点についての指針を提供する包括的な環境倫理の基礎となりうる。このような性格の倫理を確立することが、この本の主要なプロジェクトである。
 
本書の概要
 どのような環境の性格倫理にとっても中核となる問題、そして本書に動機と方向性を与えている問題は、以下に挙げるものである

1.何が性格特性を環境徳あるいは環境悪徳たらしめるのか
2.環境の徳と悪徳を構成する特有の考え方と気質は何か
3.環境倫理における性格倫理の適切な役割とは何か
4.性格倫理は私たちが直面している環境の課題を適切に理解し対応するうえでどのような助けとなるのか

 何が性格特性を環境徳あるいは環境の悪徳たらしめるのか。第一章では、何が性格特性を美徳や悪徳たらしめるのかについての、自然主義的、目的論的、かつ多元論的な説明を擁護する。この説明が自然主義的であるのは、科学的自然主義と一致しており、かつこれによってもたらされるものだからである。目的論的であるのは、特定の目的を促進する助けとなることによって性格特性が徳となるからであり、性格特性を悪徳たらしめるのは、この特性がそうした目的の実現の妨げになるとされているからである。多元論的であるのは、そうした諸々の目的が、行為者相対的(であるがゆえに多元的)かつ行為者に依存しない(ゆえにまた多元的)だからである。この概括的な説明は、徳と悪徳を見極めるべく人間活動の特定の領域やタイプに適用することが可能であり、これには自然環境との相互作用や関係も含まれる。
 環境の徳と悪徳を構成する特有の考え方と気質は何か。第2章では、何が性格特性を徳たらしめるのかという説明を用いることで、人間的繁栄と環境との関係に立ち現れる環境徳と環境悪徳の実質的な詳細を提示する。徳には人間の健康に必要な財を生み出せるように生態系の統合を促進する気質(持続可能性の徳)、自然環境を享受しその恩恵を手にすることを可能にする気質(自然との交わりの徳)、こうした財や恩恵の機会を維持する助けとなる気質(環境ステュワードシップ〔神の創造物である自然を適切に管理する責任が人間にはあるという、一神教的考え方〕の徳と環境保護活動の徳)がある。環境徳は、環境の文脈での私たちの経験を増進する性格特性、たとえばオープンであることや感謝、受容性、愛情、感嘆の念などに限定されるものではない。節制や不屈さ、献身性、楽観主義、協調性など、環境がもたらす財や資源、機会を確保するために効果的に尽力するうえで好ましい特性もまた環境徳である。この章で論じる環境悪徳には、人間としての繁栄に必要な財を提供するうえで求められる環境の健全性の水準を維持することの妨げとなる気質(貪欲、不節制、浪費など)、自然環境がもたらしうる恩恵への理解を妨げる気質(傲慢、自惚れ、不寛容など)、環境財の保護と維持を妨げる気質(無関心、悲観主義、人間嫌いなど)が含まれる。
 第3章で私は、環境徳と環境悪徳に影響するような、人間としての繁栄との関係から独立した価値が自然ないしは自然的存在にあるのかを検討する。生物、および十分なまとまりと組織化が見られる環境集団の一部にはそれ自身の善があり、それ自身のために私たちが配慮すべきであると論じる。この固有の価値は、そうした存在に対するケア、配慮、思いやりという気質(自然に対する敬意の徳)の正しさを示し、そうした存在に対する冷淡さや無関心、残酷さが悪徳であることの証となる。また、生態系や種はそれ自身の善を持つ環境集団には含まれないものの、多くの環境徳(土地の徳)の領域に含まれるにふさわしいことを示す。
 環境倫理における性格倫理の適切な役割とは何か。第4章では、環境に関する意思決定に焦点を移す。私は、正しい行為についての徳本位の原則と、意思決定についての徳本位のアプローチを擁護している。行為は、ある特定の状況におかれている特定の行為者にとって、作用している徳の目標を最もよく成し遂げるならば正しいと私は主張する。徳は状況と行為者の固有性にもとづいて正しさの基準を提供するものなので、具体的な状況に適用されてはじめて行為の指針が示される。そのためには、まずどのような徳が関係しているかを見極め、次に関連する徳がその状況で支持する一連の行動を定めることが必要である。これには徳の規則──徳の実体を具体化した規則──の使用や他者との協働的な論議、メンターによる助言、ロールモデルの研究、道徳的な知恵が必要とされることがある。私は、このアプローチを環境の文脈や環境問題の争点に適用することを提唱する。
 第5章では、すでにこのイントロダクションで概略を示した環境倫理としての徳本位のアプローチを支持する議論を提示し、環境倫理学に対する適切な徳本位のアプローチの可能性に向けられたいくつかの具体的な反対意見に応答する。私は、このアプローチの客観的/相対的、そして人間中心的/非─人間中心的な諸々の方法を議論し、このアプローチが多元論的である点を数多く挙げていく。そして、環境倫理学に対する徳本位のアプローチとプラグマティズムのアプローチのあいだの共通点と相違点について検討する。
 性格倫理は私たちが直面している環境の課題を適切に理解し対応するうえでどのような助けとなるのか。第6章で私は、環境意思決定についての徳本位の手法を遺伝子組み換え作物の問題に適用することで、それまでの章で「理論的に」主張してきたことを「実践的に」提示してみせる。徳本位のアプローチは具体的な環境問題における効果的でニュアンスに富んだ行為指針を提供するものである。このアプローチは、遺伝子組み換え作物を選択的に受け入れる立場を支持するが、私たちが抱える深刻さを増しつつある農業上の課題への主要な対策として用いることには反対する概括的な推定を固める。しかし、もしある特定の遺伝子組み換え作物が、たとえば広範囲にわたる栄養失調の予防のような、切実な農業上の課題に取り組む対応、しかもその社会的、制度的、そして生態学的な点も含めた包括的な対応の一部として採用されるならば、そしてその技術が人間と人間以外の存在の繁栄に必要な財を生産する(農業的および非農業的)生態系の可能性を損ねるものではないという強力な証拠があるのであれば、その作物は支持されてしかるべきだろう。
 締めくくりとなる章では、本書の主要なテーマが環境倫理学および道徳哲学一般に関わると私が見なす点を振り返る。また、徳本位の環境倫理学、そして人の性格と自然環境の関係にまつわる今後の課題を指摘する。
(傍点と注番号は割愛しました)
 
 
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