あとがきたちよみ 本たちの周辺

あとがきたちよみ
『もっと気になる社会保障――歴史を踏まえ未来を創る政策論』

 
あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
 
 
権丈善一・権丈英子 著
『もっと気になる社会保障 歴史を踏まえ未来を創る政策論』

〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
 

*サンプル画像はクリックで拡大します。「はじめに」本文はサンプル画像の下に続いています。


 


はじめに,そして勤労者皆保険の話
 
『ちょっと気になる社会保障』から『もっと気になる社会保障』へ
 社会保障を政策論として見る場合,この政策が多数決という民主主義の下で形成されている事実は重い意味を持つ.たとえば医療であれば,診察・診断に基づく治療のあり方が民意に問われることはない.しかし,政策論はそうではない.制度に対して人々の誤解が高じれば,民主主義は誤解に基づく政策を誕生させ,社会全体の厚生を低下させることになる(仮に制度がまともな場合でも,正確な理解を欠けば利用の仕方を誤り残念な事態を招くこともある).民主主義を構成するひとりひとりの誤解を解き,社会保障を通じて社会的厚生を高めるためには,人々に社会保障への正確な理解をしてもらい,民主主義を通じて,あるべき政策を実現するしかなさそうである.そのためには,人々の手元まで正確な情報が届く本を書く方法が考えられるなどというのは,後付けの理屈であって,ひょんなことから表紙にへのへのもへじの絵がある本を書いたのは,2016 年であった.私が歴史を語る際に用いる言葉──バタフライ・エフェクト(11 頁)風に語れば,2011 年に立ち上げられた「社会保障の教育推進に関する検討会」に関わらなければ,そこで高校の教科書で社会保障がどのように教えられているかのチェックなどを行わなければ,さらに検討会の活動に高校の一部の先生たちの反発がなければ,ああいう本は生まれなかったことは確かである.そのあたりは,別に記した「前途多難な社会保障教育」『年金,民主主義,経済学──再分配政策の政治経済学Ⅶ』(2015)を見てもらいたいところだが,そうした背景もあり『ちょっと気になる社会保障』を書くことになる.
 この本は,表紙にへのへのもへじの挿絵が描かれていながら,「正確な理解」という言葉が15 回も登場し,「おわりに」には,次の文章がある.

そして今すぐにとは言いませんが,できましたらいつの日か,社会保障をもっとよくし,この国をもっと住みやすい社会にするために,社会保障についての正確な理解を,まわりの人たちに伝える役回りになってくださいませんか? 僕はそういう人たちを,ポピュリズムと闘う静かなる革命戦士と呼んでいるのですが,そうした話はいずれまた追い追い…….

 その後,『ちょっと気になる医療と介護』,『ちょっと気になる政策思想』,『ちょっと気になる「働き方」の話』と出版が続く.その間に,FP や社会保険労務士をはじめ,多芸多才な経済コラムニスト,ジャーナリスト,エッセイストなどなど,多くの理解者と知り合いとなり,社会保障に関する「正解な知識」は有名なYouTuber たちにも届いていった.そして彼らの正確な情報の発信力はものすごいものがあった.のみならず,彼らは,厚生年金の適用拡大や被保険者期間の延長の重要性など公の課題についても,広く積極的に説いてくれてもいる.
 彼らのおかげも大いにあり,社会保障をめぐる環境は以前とは相当に変わってきた.
 過去,大きな問題であった,公的年金への世間からの誤解は随分と解けた.そして年金は,公的年金保険と正しく呼ぼう,WPP,すなわちもし長生きしたときに備えて,高齢期に向けてWork Longer,次にPrivate Pension が中継ぎ,そして最後は,抑えの切り札,守護神としてPublic Pension という人生設計を立てておけば,さほど後悔することはないというガイドラインも広まってきた.
  【ジャンプ!】知識補給 WPP を知らないのは,もういいだろう,放っておいて →303 頁へ
 
 破綻もしていない公的年金を破綻していると信じ,どうすれば良いのかと脅え消費を我慢して世の中全体でデフレを加速させ,将来不安に駆られていろいろとお金の情報を求めながら生きているなど,まったくもっておかしな話であった.だが,今は,多くの人たちが,あの頃よりも,自分の時間を,楽しく意味のあることに使うことができるようになってきたと思う.ゆえに,この国の,いわゆる社会的厚生はかなり高まったはずである.しかし公的年金に関して言えば,厚生年金の適用拡大,被保険者期間の延長,マクロ経済スライドのフル適用など,やらなければならない改革は,相変わらず解決には遠い──そういう状況にある.
 医療も,似たような状況にある.次は,第3 回全世代型社会保障構築会議(2022 年3 月29 日)での私の発言である.

2013 年の国民会議のときに改革の道筋が示されて,それ以降,新たに地域医療構想がつくられ,また,それまで介護の世界にあった地域包括ケアを医療の世界にまで拡張し,さらに,医療法の中で「地域医療構想と地域包括ケアシステムの構築に資する役割を積極的に果たすよう努めなければならない」と規定された地域医療連携推進法人などが生まれました.2013 年から9 年たって,その間パンデミックがあった中,あのときに示された改革の方向性の正しさは十分に認識されたと思います.問題は,当時意図されたほどに改革が進まなかったことです.……改革を実行たらしめる手段の在り方も検討していく必要があろうと思っています.

 何が問題なのかということは,ことさら言うまでもなく,大方みんなは分かっている.そうであるのに,改革の方向性が示された2013 年の社会保障制度改革国民会議の後,政治・行政方面でおかしなことが起こり,提供体制の改革などの重い改革には目をそむけて,予防をすれば医療費は抑制でき,抑制された医療費で財源問題は解決できるとか,病気になるのは自己責任だという風潮をもたらす──私が「ポピュリズム医療政策」と呼んでいた話に迷い込んでいた時代があった.しかしそれも一昨年の2020 年頃に転機を迎えた.
  【オンラインへgo!】医療維新「全世代型社会保障検討会議報告書を読み解く」vol.1
  途中で「主役」がいなくなった会議『m3.com』(2021 年1 月15 日)
  【ジャンプ!】知識補給 医療政策を取り巻く政治環境の変化→311 頁へ
 
 そして今,政策の主軸は,保守本流の医療介護の一体改革に戻り,提供体制の改革を心機一転進める時代に入っている.
 改革の方向性はわかっている.では,どうすればそれを実現できるのか.社会保障が抱える問題の多くはかなり前からそういう段階にある.本書はそういうところから始めようと思う.かなり前から言っていることであるが,本書にも,「実際のところ,公共政策の目的のほとんどは,「合成の誤謬」の解決である」(214 頁)という文章がある.合成の誤謬が関わる問題は,必ず総論賛成・各論反対となる.それでも総論に基づく解決策を実行する方法を考える.それは,2001 年に出した本に書いていた「価値判断と実行可能性という2 つの制約条件のもとで織りなされるアート」(本書263 頁で引用)の趣があるが,それが政策論というものであろう.
 
社会保障をめぐる環境の変化
 長く社会保障に関わってきたせいか,いや,それに本当はある程度制度が整ってきたという時代の条件も加わったためだと思うのだが,社会保障制度が目指す目標として,シンプルであること,煩わしくないことの価値が,以前よりも高まってきている.人に相談などしなくても簡単に分かる制度,ああすればいいのか,それともこうすればいいのかと様々な情報を集めさせるような,選択のために人様の貴重な時間を奪うことのない制度,人の生き方に影響など与えない中立的な制度,いわば,人々にその制度の存在に鬱懐を抱かせない制度,まして人の雇い方次第で企業側の損得に違いが生まれないような制度,そうしたものに高い価値を置くようになってきているのを感じる.人の意思決定に中立な制度ができたら,FP や社会保険労務士たちへの相談も大幅に減るかもしれない.だが,そうした事態が出来するような,シンプルな制度,煩わしくない制度こそが目指す方向性であってほしいと強く考えるようになって久しい.
 特殊な情報にアクセスすることができる人だけが得をする制度──往々にして所得の高い人たちに有利に働く制度──や,国が掲げる高い次元での目標,例えば数十年前の70 歳の人たちよりも,体力,知力と若返った多くの人たちに生き生きと生きてもらうために,なるべく社会参加を続けてもらう機会を準備していくWork Longer という目標などと矛盾する制度などは,二流,三流の制度でしかない.
  【ジャンプ!】知識補給 社会保険における高所得層の包摂 307 頁へ
 
 以前は,社会保障の制度を考える際には,公平や効率を意識し,その際にも多分,私は人よりも,効率のようにはひとつの答えをカチッとだすことのできない公平や正義という価値への選好をもっていたようではあった.たとえば,公的年金の世界では被用者年金の一元化が長く言われてそれが実現していった.そうした年金の世界も見ている立場からすると,医療保険料率にこれほどの差があり,しかも逆進的である状況は,同じ社会保険である公的年金保険のように公平な負担に向けて改革をするべきと思え,20 年ほど前から,被用者健康保険の一元化やリスク構造調整の導入を論じてきた.2013 年の社会保障制度改革国民会議報告書にある「負担に関する公平化措置」は,後期高齢者医療制度支援金の負担の在り方を全面的に総報酬割にするための文言であり,「健保組合の中での保険料率格差も相当に縮小する」ためのものであった.その後,その政策も実現された.そして次の目標は,健保組合の協会けんぽへの統合やリスク構造調整の導入であるとも論じてきた.そこで2017 年に出した『ちょっと気になる医療と介護』には,「第8 章 制度と歴史と政治」「第9 章 リスク構造調整の動きが国民健康保険にまでおよぶ2018 年度」で詳しく論じていた.なお,介護保険については,次を参照してもらいたい.
  【オンラインへgo!】なぜ大企業の介護保険料が4 月から上がるのか
  ──加入者割から総報酬割へ移行する意味『東洋経済オンライン』(2020 年3 月7 日)
 
 全世代型社会保障構築会議の中間整理にある「能力に応じて皆が支え合う」には,そうした課題も込められていると理解できる.社会保障制度に関する公平面ではそうした現状にあることを前提にした上で,ここにきて,公平,効率,簡素という目標とすべき価値に優先順位をつけるとすれば,と問われれば,公平をもたらす制度がある程度整備されてきた現在においては,制度が簡素,シンプルであることが極めて重要と感じるようになってきている.簡素であれば,効率も促される.そしてそのためにも,社会保障制度の財源の調達,給付の認定,給付の実行は,DX 化を図るべきだとも強く思う.この本の中で,マイナンバーの社会保障ナンバー化を言っているのもそうした理由による(283 頁).
 
書名など
 今回の書名は,『もっと気になる社会保障』にしてみた.
 本書の第1 章,第2 章は,年金の話からはじまる.ちょうど,日本年金学会が2020 年に40 周年を迎え,その記念誌『人生100 年時代の年金制度──歴史的考察と改革への視座』で私,善一が原稿を書き,英子が記念講演を依頼されたので,それを載せている.あの時の年金学会シンポジウムのテーマは「働き方改革と年金」だったため,学会員ではない彼女は労働方面の話を求められて呼ばれたようである.翌年の2021 年日本年金学会シンポジウムでは私が基調講演を行っており,その概要を第3 章で紹介している.
 ふたりとも,年相応に歴史を語るようになってきている.したがって,この本は『社会保障の歴史』の趣もある.ただ,それにとどまらず,本書には,歴史の先にある未来において,こうすればいいではないかという政策提言も豊富にあるので,『社会保障政策論』の趣もある.そこで,副題に「歴史を踏まえ未来を創る政策論」を置くことにした.そしてこの本はこれまでの総集編の位置づけになるため,表紙には,これまでのへのへさん,へのへのくん達に勢揃いしてもらった.隊長は『政策思想』である.
 
労働力希少社会を迎えて
 最近,とみに思うのは,年金をはじめとした社会保障政策にしろ,労働政策全般にしろ,使用者には申し訳ない話だが,彼らに譲歩を求めることが多いということである.だがそれはある面仕方がなく,それは,『ちょっと気になる「働き方」の話』にあるように「労働力の供給曲線が左側にシフトしていくために労働力の希少性が増して労働条件が改善していく「労働力希少社会」」の必然の出来事であるのかもしれない.
 というのも,労働力希少社会は,社会全体に労働力の有効な活用を求めることになる.そしてそれまで働いていなかった人たちにも労働力となってもらうことを求めることにもなる.ゆえに使用者には,これまでの労働力の使い方,働いてもらい方に再考を求めることになるので,必然,労働力希少社会は,このままでいたい,今までこれでよかったんだと思う使用者たちに譲歩を求めることになってしまう.
 労働力希少社会は次のようにまとめられていた.

「日本は,人口減少社会,特に,生産年齢人口が大幅に減少していく社会に入っています.そうした社会では,労働力の希少性が増す「労働力希少社会」を迎えることになります.今は,希少性が高まりゆく労働力をいかに有効に活用するかという方向性を模索する大きな動きの中にあると言えます.これまで,グローバリズムをはじめとした環境の変化は,労働力の価値を押し下げる方向に作用してきました.その逆向きへの動きが,今,世界中に先駆けて,この日本で始まりつつあるとも言えます.」『ちょっと気になる「働き方」の話』

 今起こっている次のようなことはいずれも,使用者の協力を得てこそ実現する政策であった.

・Work Longer 社会
・女性活躍推進
・ワーク・ライフ・バランス
・均等・均衡待遇(いわゆる日本型同一労働同一賃金)
・育児・介護休業
・最低賃金
・勤労者皆保険
etc.

 そして今起こっている変化は,良いことか悪いことか.『ちょっと気になる「働き方」の話』の出だしに書いていたように,「多くの人たちが労働者であり消費者でもあり,さらには生活者でもあるという多面性が強く意識されるようになってきた」今の時代には,「労働力の不足」という現象を,一方向から評価するのは難しい.

「労働力不足というのは,評価するのになかなか難しい問題を抱えていまして,「不足」という言葉をみれば,何か一方的に悪いことのように受け止められるのですけど,これは働く人たち側からみればバーゲニング・ポジション(交渉上の地歩)の上昇のきっかけにもなるわけです.少なくとも言えることは,労働力が希少になり,使用者に対する労働者の交渉上の地歩が高まる「労働力希少社会」になったということです.それを困ったこととみるか,望ましいこととみるかは,立場によって異なるかと思います.」『ちょっと気になる「働き方」の話』

  (バーゲニング・ポジション(交渉上の地歩))については
  【『ちょっと気になる政策思想 第2版』へワープ!!】知識補給 アダム・スミスとリカードの距離
  ──縁付きエッジワース・ボックス(312 頁)
 
 生産年齢人口は1990 年代半ばから減り始め,1995-2020 年に1,187 万人減少した.これは,1995 年時の就業者数の18% に相当していた.しかし,前期高齢者と女性の就業率の上昇で量的には十分すぎるほどにカバーでき,就業者数は1995-2020 年に219 万人増加した.
 だが,これからは,前期高齢者と女性というふたつの労働力の給源からの供給量の増加はあまり期待できない.
 前期高齢者は急激に減っていくし,女性の就業率の上昇余地はこれまでほどは多くはない.つまり,労働力希少社会は本格化していく.
 したがって,今後は,非正規という形で増えてきた高齢者と女性の雇用の質を高め,彼らが備え持つ潜在的な能力を十分に発揮できる環境への変化がスムーズに行われるように,政策的にしていくことが課題になる.
 
勤労者皆保険について
 ところで,いま,勤労者皆保険という言葉が言われている.これは,岸田総理が2021 年の総裁選の時に公約に掲げていた言葉である.「勤労者皆保険」は,以前,「勤労者皆社会保険」と言われていた.たとえば,次をみてもらいたい.

2018 年5 月29 日
自民党政務調査会「人生100 年時代戦略本部」これまでの議論のとりまとめ
社会保険の適用拡大:「勤労者皆社会保険制度(仮称)」の実現
……
「勤労者皆社会保険制度(仮称)」により,いかなる雇用形態であっても,企業で働く方は全員,社会保険に加入できるようにして,充実した社会保障を受けられるようにする.その際,所得の低い勤労者の保険料は免除・軽減しつつも,事業主負担は維持すること等で,企業が事業主負担を回避するために生じる「見えない壁」を壊しつつ,社会保険の中で助けあいを強化する.

 ここに,「所得の低い勤労者の保険料は免除・軽減」,「事業主負担は維持する」という言葉がでてくる.この言葉は,何を意味するのだろう.
 この本は,まずは,そのあたりから始めてみようかと思う.ずいぶんと前からこの世界にいるために,その頃の話をしようとすると,歴史の話になってしまう.そうした,2007 年頃の歴史から,本書をスタートすることにしよう.
 
社会保険の適用除外が非正規雇用,格差,貧困を生む
 2007 年3 月に,厚労省年金局は,「パート労働者の厚生年金適用ワーキンググループ」の報告書をまとめている.そこに次の文章がある.
 「諸外国では低所得者について,事業主拠出分のみを強制し,本人負担分を軽減することで,低所得者の負担感をできるだけ少なくして適用を図っている例もあることから,中長期的には検討に値するのではないかとの意見があった」.
 そうした意見を言ったのは私であるが,あれから15 年──当時から見れば,今は,「中長期的」な時が過ぎた頃なのかもしれない.
 上述のワーキンググループに委員として参加していた私は,2007 年7 月に『医療政策は選挙で変える──再分配政策の政治経済学Ⅳ』を出した.そこに次の図がある.図表2,3 は事業主が賃金wで人を雇っている場合に事業主が直面する労務コスト線であり,労働者側から見た可処分所得線である.この図では,(2007 年当時一般的であった)週30 時間以上で厚生年金が適用されることをイメージしている.
 いま,wを時給1,000 円だと想定しよう.週30 時間以上就労した人は,厚生年金に適用され,その保険料は労使折半で負担されることになる.今は,厚生年金の保険料率は18.3% であるため,30 時間以上の労働者に対して,使用者は時給1,000 円×18.3%/2 = 91.5 円を年金保険料として負担することになり,このとき,事業主は,時給1091.5 円の労務コストを意識することになる.事業主にとっては,時給1,000 円から1091.5 円へと約1 割の引上げは避けたい.
 今のような,厚生年金の適用除外規定がある制度は,労働時間が30 時間未満の人を雇えば安くすみますよと,事業主に非正規雇用を推奨しているようなものである.一方
普通に適用を行っている事業主からは,公平な競争を阻害する制度に見えよう.
 130 万円の壁などと違い,事業主負担を節約するために事業主が短時間労働者を雇おうとするこの壁は,労働者には見えない.だから,「見えない壁」なのである.あろうことか,格差や貧困を解決するべきはずの社会保障制度の中の厚生年金適用除外の仕組みが非正規雇用を生む誘因となっており,社会保障そのものが格差・貧困の原因となっているのである.
 2007 年当時,参議院厚生労働委員会からのヒアリング調査の中で次のように答えている.
 「事業主負担を免れることのできる穴が大きければ大きいほど,事業主は,その穴に労働者の中でも弱い立場にある未熟練労働者を追いつめ落とし込む雇用形態をつくってしまう.なるべく事業主負担を免れることのできる穴を小さくする,もしくは蓋をしてしまって穴をなくす必要がある.」
 そこで,考えていたのが,「要するに,事業主が直面する労務コスト線から届折点をなくす.……厚生年金が適用されない第1 号の人たちにも事業主負担を課して,彼らの基礎年金の上に報酬比例部分を上積みした年金権を確保していく」という案であった.それは,図表4,5 のように描くことができる.
 かつては20 時間未満に適用されるこの制度を1.5 号と呼んだのであるが,それを制度の名前とはしづらいという声もあったので,事業主負担分のみが保険料として納められる制度を第4 号被保険者制度と呼んでおこう.
 第4 号被保険者を新設する──報酬比例の厚生年金の給付額を算定する際には(= 平均報酬月額×加入月数×乗数),加入月数を第2 号被保険者期間と第4号被保険者期間に分けて,第4 号被保険者期間には2 分の1 を掛ける.2 分の1 の理由は,事業主負担分しかないためである.
 その効果は,

「ここに屈折点があるから,雇う側はこの屈折点の内側で雇おうとするわけです.この屈折点は雇う側が意識する壁ですから,図における第1 号被保険者には目に見えない壁として立ちはだかることになります.……労務コストの屈折点をなくし,企業が合理的・利己的に考えたら,長時間働いてスキルを習得した人のほうを選好するような制度に組み替える」権丈(2015)『再分配政策の政治経済学Ⅶ』153-156 頁
 
「スーパーマーケットのオオゼキでは,「やっぱり商品知識がある人たちのほうが価値があるから,私たちは正規労働者を雇っていますよ」という方針で,商品知識の蓄積がある人を育てようとしているそうです.同じ賃金率で雇うことができるのであれば,ある程度スキルを蓄積できる雇用形態を選択するわけです.ですから,事業主が直面する労務コスト線から屈折点をなくす措置さえしておけば,……」権丈(2015)『再分配政策の政治経済学Ⅶ』94 頁

 さて,ここまでの説明を読んでもらった後に,先の,自民党による勤労者皆(社会)保険制度の定義に戻って,再読してもらいたい.「所得の低い勤労者の保険料は免除・軽減」,「事業主負担は維持する」そして「見えない壁」の意味をイメージできるようになったと思う.
 前回2020 年改正時の適用拡大は,2022 年10 月から100 人超,2024 年10 月から50 人超への適用となっていたから,次は規模要件の撤廃である.企業規模要件が2012(平成24)年改正法の附則に,「当分の間」の経過措置として位置づけられていることを踏まえれば,法律に沿って規模要件が速やかに次回の改正で撤廃されることはもちろんのことである.「当分の間」の経過措置とされて10 年も経っているのに,まだ残っていることを反省すべきであろう.
 加えて,政府の言う勤労者皆保険というのは,これまでの適用拡大の延長線上にある話でもなさそうである.現行のような適用除外規定をもつ社会保険制度が,非正規雇用を生み,格差・貧困を生み,社会を分断しているという事実を直視して,この原因を取り除くことである.
 貧困・格差を生んでいるのは,実は,それを解決するはずの社会保険であるという極めて残念な話を広く世の中に問題として共有してもらい,今回,解決をはかる.岸田首相が,政務調査会長の時にまとめた報告書にある勤労者皆(社会)保険,そして総裁選の時に公約に掲げた勤労者皆保険,その実現がなされれば,社会保険周りの最大の問題が解決されることになる.
 本書には,第4 号被保険者を新設する勤労者皆保険の提案の他にも,人への投資のための子育て支援連帯基金,国民皆奨学金制度,地域医療連携推進法人を社会的共通資本とみなしていこうという話や,高齢者は経済の宝なのだから,地方創生して高齢者を誘致しようなどの提案もある.これまでの『ちょっと気になるシリーズ』は,制度・歴史を正確に理解してもらうことが主眼であったために,政策提言は控えてきた.しかしこの本では,こうすればいいではないかという話をいくつも論じている.ここで提案している政策は,それが実現するしないにかかわらず,提案している政策の仕組みをみてもらえれば,社会保障の制度や機能の全体像を理解できるようになっている.加えて,私が政策を提案する際には,その論拠にも,なにがしかの特徴があるのかもしれない.たとえば,子育て支援や両立支援,子育て費用の社会化は,高齢期の主要な生活費が社会化されているのだから当然ではないかとしか言っておらず(20 年近く前からそう言っている),私自身が少子化対策という言葉を使っている箇所はない.加えて,年金においても,Work Longer は自分のためなのだから「支え手を増やす」という言葉に使用禁止令を出していたりする.終末期の医療の在り方についても,以前から,そして本書でもQOD,すなわち死に向かう医療,生活の質をたかめるためにACP を行うことができる環境を整えることが必要としか論じていない.そして,本書でも提供体制の改革について多くを論じているが,これについては2013年4月に社会保障制度改革国民会議で私が報告をした際に準備した資料に書いたタイトルは「国民のニーズにマッチした医療介護体制の整備――競争よりも協調を」であり,これまで,提供体制の改革は,サービスの質を高めるためにニーズに見合った提供体制にすることとしか論じたことがない.それと何よりも,私は,人を見ると労働力というよりは消費者に見えてしまう.この本における経済政策に関する論は,人は消費者として経済に貢献するという観点から論じており,消費は飽和していくという宿命を持つ資本主義は,持続するために社会保障に頼らざるをえくなるとも論じていたりもする.そして何よりも,『ちょっと気になる政策思想』で考えのベースになっている,供給の成長はコントロールが難しいが,需要の育成はコントロールできるということが本書のベースにもなっている──このことはあとがきでも触れている.ということで,本書を読んで遊んでもらえればと思う.
(図表と注は割愛しました)
 
 
banner_atogakitachiyomi