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『バッド・ランゲージ ――悪い言葉の哲学入門』

 
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ハーマン・カペレン、ジョシュ・ディーバー 著
葛谷 潤・杉本英太・仲宗根勝仁・中根杏樹・藤川直也 訳
『バッド・ランゲージ 悪い言葉の哲学入門』

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訳者解説
 
藤川直也
 
1 イントロダクション
 言葉のダークサイドへようこそ─私たちの生きる社会は言葉の悪用に満ちている。記憶にありませんと嘘をつくことで処罰から逃れる。女性の話は長いから会議時間が長引くのだと言うことで女性から発言機会を奪う。議事堂へ行こうと叫ぶことで民衆を扇動する。印象操作だというレッテルを張ることで印象操作する。安心安全の大会というのが具体的にどのようなものなのかを説明しないことで、安心安全の大会の実現に全力を尽くすという約束によって生じる自分の責任を不明確なままにしておく(私たちは一体何を約束されたのだ?)。幅広く募っていたが募集してはいないと言い張ることで、自分が語った内容を歪め、自身の発言を正当化する。フェイクニュースは正確な情報に基づく自由な議論という民主主義の根幹を揺るがし、犬笛(分かる人にしか分からないような仕方で政治的なメッセージや差別的なメッセージをこっそり伝える発話)やヘイトスピーチは社会の分断をより深刻なものにする。
 フォースのダークサイドがそうであるように、言葉のダークサイドも強力で、人をそこへと引きずり込む魅力がある。知らず知らずのうちに言葉のダークサイドにとらわれてしまうこともあるかもしれない。言葉のダークサイドと対峙するためには─他者が用いるダークサイドの力に対抗するためにも、そして自分がダークサイドに陥らないためにも─それをよく理解しておく必要があろう。そしてそれはよりよい社会の構築に役立つはずだ。『バッド・ランゲージ─悪い言葉の哲学入門』は、これまで主流の言語哲学が見過ごしてきた実社会での様々な言葉の悪用に着目し、実践的な言語の問題を考える近年の言語哲学の新機軸への格好の入門書である。
 本訳書はCappelen, H. and J. Dever (2019) Bad Language, Oxford : Oxford University Press の全訳である。原著は同著者による言語哲学入門シリーズ(Contemporary Introduction to Philosophy of Language)の一冊であり、このシリーズは本書を含めて三冊が刊行されている。残る二冊のタイトルはそれぞれContext and Communication(2016)、Puzzles of Reference (2018)であり、いずれも言語哲学における現在のホットトピックを分かりやすく紹介する優れた入門書である。
 ごく簡単に二人の著者を紹介しておこう。ハーマン・カペレンは、哲学方法論、概念工学、文脈依存性などに関する仕事で知られる言語哲学者である。代表的な著作に、Fixing Language : An Essay on Conceptual Engineering(Oxford University Press, 2018)、Philosophy without Intuitions (Oxford University Press, 2012)、Insensitive Semantics (Oxford University Press, 2004。アーネスト・ルポアとの共著)があり、他にも多数の編著書がある。カリフォルニア大学バークリー校でPh. D を取得、オスロ大学、セントアンドリュース大学、オックスフォード大学を経て、現在は香港大学で主任教授を務めている。
 ジョシュ・ディーバーは、言語哲学、論理学の哲学を専門としており、特に合成性や直接指示論などに関する研究で知られている。カペレンと共著で、先述の言語哲学入門シリーズの三冊の他に、Making AI Intelligible(Oxford University Press, 2021)、The Inessential Indexical (Oxford University Press, 2014)の二冊を出版している。カリフォルニア大学バークリー校でPh. D を取得、現在はテキサス大学オースティン校哲学科で教授を務めている。
 以下では、本書の概略を紹介しつつ、本書で紹介される言語哲学の新機軸が言語哲学全体にとってどのような意味をもちうるのかを簡単に見ていくことにしよう。
 
2 理論的理想化からの逸脱としての悪い言葉
 言葉を使ったコミュニケーションとはどんなものなのか。「明日の天気は?」と尋ねる友人に「晴れだよ」とあなたが答える、という場面を考えよう。友人とあなたは何のためにこのやりとりをしたのだろうか。いろんな目的があるだろうが、分かりやすいのは、明日の天気に関する情報を共有するため、というものであろう。その目的のために、あなたは自分の知っていることを、嘘つくことなく友人に伝える。友人はあなたの言ったことを信頼する。結果、明日の天気は晴れだということが二人の間で共有される。このことが可能であるのは、たとえば「明日」は明日を意味し、「天気」は天気を意味し、「晴れ」は晴れを意味するのであり、あなたと友人がまさにその意味でそれらの表現を使い理解しているからである。
 こうした描写においてコミュニケーションは次のようなものだと考えられている。コミュニケーションにおいては話し手たちに共通の目標があり、話し手たちはその共通の目標の達成を目指し互いに協力しあう。コミュニケーションの共通の目標は知識の共有にある。話し手たちの間には言葉が何を意味するのかの共通了解があり、それは場面場面で変わることはない。
 現代の言語哲学、意味論、語用論は、七〇年代になされたいくつかの重要な仕事に理論的な基礎をもつ。そしてこれらの仕事は、コミュニケーションをまさに今描いたようなものとして捉える。ポール・グライスによれば、会話というのは根本的に協調的なものであり、会話の協調性は量、質、関係、様態という四つの格率の遵守によって確保される(Grice (1975)。これは一九六七年に行われた講演に基づいている)。ロバート・スタルネイカーとデイヴィッド・ルイスは、話し手と聞き手の間での様々な共通了解(共通基盤、会話のスコアボード)の更新という観点に着目することで、会話のあり方を分析するための動的な枠組みを提示した(Stalnaker (1978), Lewis(1979))。言葉の意味の成立の基礎には、話し手は真なることを言い聞き手は話し手を信頼するという慣習が存在すると考えたのもまたルイスであった(Lewis (1975))。最近では、人は自分が知っていることだけを主張すべきだとするティモシー・ウィリアムソンの主張理論が注目を集めている(Williamson (2000))。
 カペレンとディーバーは、こうした理論的想定は理論構築のためになされた理想化の想定なのだと喝破する─そしてそれに基づくコミュニケーション像もあくまで理想化されたものに過ぎないのだと(第一章)。確かに現実の言語使用はそんなお行儀のよいものばかりではない。人はときに、嘘をついたり、でたらめを言ったり、あるいは話をはぐらかしたりする。あるいは言葉は他人を非難したり、悪口を言ったり、差別のために用いられることもある。知識の共有を目的としない非協調的なコミュニケーションは枚挙にいとまがない。また、そもそも言葉を同じ意味で使っていないがゆえに生じるすれ違いを目にすることも少なくない。そうしたやりとりの中には、あえて言葉の意味をずらすことによって、相手が言いたいことを言えなくしたり、あるいは自分の有利なようにこっそりことを運ぼうとするようなものすらある。
 本書の主題は、こうした悪い言葉や言葉の悪用に代表される、従来の言語哲学における理想化の想定からの様々な逸脱的事例である。本書で取り上げられるのは以下のような問題である。

・コミュニケーションで伝わる内容のすべてがはっきりと表立って言葉にされるわけではない。ずるい話し手はときに、何かしらの悪い内容─差別的な内容、犯罪につながるような内容、真偽の定かでない内容、等々─を、はっきりと言葉にすることなく、会話にこっそり忍び込ませる。たとえば賄賂をもちかけようとする話し手は、それをはっきり言葉にせず、言外の意味として伝達しようとするかもしれない。あるいは、当たり前でないことを当然視するようし向ける話し方をすることで、相手がそれに疑問を感じたり反対しにくい状況を作りだそうとするかもしれない(「なぜフランス人は服を一〇着しかもたないか、ご存知ですか?」)。こうした間接的な伝達を可能にするような言葉の仕組みとはどのようなものだろうか。(第二章)
・嘘をつくことは必ず人を欺くことであるのだろうか。嘘とミスリードの違いはどこにあるのだろうか。嘘をつくことができるのだとすれば、真なことを述べることは言語やコミュニケーションの成立にとって本質的なことなのだろうか。(第三章)
・嘘をつく人は多くの場合自分が偽だと思っていることをあえて口にする。だが、自分が言っていることが真なのか偽なのかをそもそも気にかけない、あるいは自分が言っていることが意味をなすのかどうかすら気にかけない人もいる。そうしたでたらめな語りは、どれくらいよくあることなのだろうか。それはある種の言葉遊びや技巧的な小説などにのみ見られる特殊なものなのだろうか、それとももっと広く、たとえば政治的な言説、学術的な言説などにも見られるものなのだろうか。(第四章)
・言葉の意味は変化する。それだけでなく、言葉の意味を変える必要がときに生じる。たとえば「結婚」という言葉を広辞苑(第五版)で引くと「男女が夫婦になること」とある。同性間の結婚を意味上で排除してしまうこの意味を容認する社会は、極めて排他的な社会だ。よりよい社会を目指すなら「結婚」の意味を変えるべきである。意味の変化は、単に言葉だけの問題ではなく、社会のあり方や社会生活を送る個人の生にも大きな影響を及ぼしうる。では、意味の変化はどれくらい意図的に引き起こせるものなのだろうか。たとえば会話の場面場面で話し手が何を意味しようとしているかに応じて言葉の意味は変化するのだろうか。あるいは意味の変化は、長い時間をかけてゆっくりと生じるものであり、個々人の意図や思惑によって制御できるようなものではないのだろうか。(第五章)
・差別に用いられる言葉がある。そうした表現がもつ差別的な内容は、どのような種類の内容なのだろうか。たとえばある差別表現の内容は、「銀行」という表現が銀行を表すのと同じような仕方で、物事のあり方を描写するのだろうか。あるいは差別表現は差別的内容を前提する─「今日も0 うどんを食べた」が、その日より前にうどんを食べたということを前提するように─のだろうか。あるいは差別表現の使用は、何か物事のあり方を描写するというよりも、(ふと目をやると壁を大きなクモがはっていたときの)「おおっ」という叫びが驚きの表出であるように、それを使う人の心のあり様の表出なのだろうか。(第六章)
・言葉は人に様々な感情やイメージを引き起こす。ブランド名はそうしたイメージを考慮してつけられるし、感情やイメージは政治家の言葉選びを左右するものでもあろう。言葉が引き起こす感情やイメージ(本書では「語彙効果」と呼ばれる)は言葉の意味とどのように関わっているのだろうか。(第七章)
・「サメは人を襲う」、「女の子はスカートをはく」といった文を総称文と呼ぶ。私たちは総称文を使った推論が苦手だ。たとえば、「サメは人を襲う」という文を正しいものとして受け入れるに足る人食いザメの割合と、その文から人が推論する人食いザメの割合を比べると、おそらく後者の方が大きい。つまり、弱い証拠から強い結論を引き出してしまう。「女の子はスカートをはく」と言われると、女の子はスカートを履くべきで、履いていないのは変なのだ、とついつい考えてしまう。こうした間違いの原因は何にあるのだろうか。(第八章)
・不特定多数の人に向けられた発言は正確に言って何を意味しているのだろうか。聞き手の中に話し手の考えが及ばないような文脈に置かれた人がいる場合、その発言の内容は、話し手の意図を離れて聞き手の側に(も)委ねられるのだろうか。企業の声明のように、ある集団によってなされた発言は、その集団を構成する個々人とどのように関わるのだろうか。(第九章)
・言葉によって他者を抑圧する、あるいは言葉によって他者の声を封殺するということがある。では、こうした抑圧や声の封殺は、それ自体で一種の(発語内行為と呼ばれる狭い意味での)言語的な行為なのか、それとも言語的な行為がもつ何らかの帰結なのか。ポルノグラフィーは言葉による抑圧、言葉による声の封殺とどう関わるだろうか。(第一〇章)
・同意には、明示的に言葉にされるものもあれば、言葉にされず暗黙のうちになされるものもある。暗黙の同意と明示的な同意にはそれぞれどのようなポイントがあるだろうか。同意が虚偽情報に基づいている場合、その同意は無効になるだろうか。同意にはどんな場面でも変わらない普遍的本質があるだろうか。(第一一章)

 本書はこれらの問いの多くに対して確たる答えを出してはいない。本書はむしろこれらの問いをめぐるいくつかの異なる見解を簡潔にまとめ、読者がその先を自分で考えるための有用な手引きを与えてくれる。各章の最後に付された論点のまとめ、読書案内、練習問題は理解を深める手助けとなるだろう。本書で扱われる豊富な具体例のいくつかは日本語版の読者にとってはあまりなじみのないものであるかもしれない。日本語版の読者にとってこれはちょっとした厄介ごとではあるが、同時にそうした事例を自分にとってなじみのある具体例に置き換えるという作業をしてみるのは、理解を深めるよい課題になろう。
 
3 応用言語哲学と言語哲学のこれから
 本書が扱うこうした話題は、従来の言語哲学が主題的に扱ってきたものではなかった。言語哲学の議論を少し見聞きしたことがある人には、言語哲学といえば、意味や指示、真理について、抽象的で、ときに実社会と……
(以下、本文つづく。傍点は割愛しました)
 
 
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