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ダイナ・レイミー・ベリー、カリ・ニコール・グロス 著
兼子 歩・坂下史子・土屋和代 訳
『アメリカ黒人女性史 再解釈のアメリカ史・1』
→〈「日本語版の読者のみなさまへ」「序章 ナニーの遺産──黒人女性の様々な歴史」(pdfファイルへのリンク)〉
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日本語版の読者のみなさまへ
私たちの著書『アメリカ黒人女性史』に国際的な支持が広まっていることを光栄に思います。本書が日本語に翻訳されると知り、私たちは深く心を打たれました。私たちの歴史を他の国々の読者に伝える一助となるよう、この歴史がいかに万人のための平等を求める闘いの伝統を表しているかを示すべく、黒人女性の歴史を世界全体に届ける責任をあらためて感じたのです。この闘いは永続的なものであるだけではなく、比類なくディアスポラ的な性格を持つものでもあります。
アメリカ合衆国のアフリカ系女性たちの旅路について学ぶにつれ、読者はアフリカ系とアジア系の人びとの様々な連帯についても知り、驚くかもしれません。たとえば一九四〇年代、アッラー・テンプル・オブ・イスラームの書記だったシスター・ポーリーンのような黒人女性は、日本への忠誠を主張した扇動罪の容疑で起訴されました。黒人が海外渡航を始め、グローバルな眼差しでアメリカを考察するようになると、彼女たちは西洋の帝国主義や資本主義そのものを批判する幅広い政治的分析力を磨いたのです。
そうしたイデオロギーは大きく様々に変化してきましたが、アメリカ黒人ディアスポラとアジア系ディアスポラのつながりは発展するばかりでした。しかし、このようなつながりが常に調和的だったわけではありません。一九九一年、ロスアンジェルスでの警察による恥ずべきロドニー・キング殴打事件の少し前、三月一六日に、一五歳の黒人少女ラターシャ・ハーリンズが韓国系商店主のトゥ・スンジャ(斗順子)に射殺されました。ハーリンズとトゥは店内で口論となり、ハーリンズが店を出ようとしたときにトゥが彼女の後頭部を撃ったのです。トゥは故殺で有罪となりましたが、ジョイス・カーリン判事は陪審員の判決を覆し、トゥに保護観察五年と社会奉仕、五〇〇ドルの罰金を言い渡しました。この判決と、ロドニー・キングの残虐な暴行に関与した警官たちに対する翌年の不起訴により、一九九二年にロスアンジェルスのサウスセントラル地区で壊滅的な人種蜂起が引き起こされます。商業施設は燃やされ、自動車を運転していた人びとは殴打され、商店は略奪に遭いました。それは黒人コミュニティの憤激を露わにするとともに、アメリカの人種差別や刑事司法の本質に対する怒りを明らかにしたのです。
こうした憤激は近年になって再燃しているのですが、特に人種差別的な警察によって殺害されたジョージ・フロイド〔二〇二〇年五月ミネソタ州で白人警官に膝で首を押さえつけられ窒息死した黒人男性〕とブリオナ・テイラー〔同年三月ケンタッキー州の自宅で就寝中に押し入ってきた警官隊の流れ弾で死亡した黒人女性〕、そしてジョージア州でジョギング中に人種差別主義者の白人男性の一団に狙われ殺害された若い黒人男性アマド・オーブリーの事件〔同年二月〕で、怒りに火がつきました。ジョージ・フロイドの殺害はアメリカ国内を揺るがし、余波は海外にも伝わりました。何百万もの人びとがストリートに繰り出し、黒人の命/暮らしは大切だ(BLM)〔ブラック・ライヴズ・マター〕のスローガンを叫んだのです。この[#BlackLivesMatter という]ハッシュタグを始めたのは、アリシア・ガーザ、オパール・トメティ、パトリース・カラーズという三人の黒人女性でした。丸腰の十代の黒人少年トレイヴォン・マーティンが人種差別主義者に殺害された後の、二〇一三年〔二〇一二年にマーティンを殺害した自警団の男性に無罪判決が出された年〕のことです。マーティンはフロリダ州の地元小売店でお菓子とソフトドリンクを買った後、家に帰る途中で殺されました。それ以来、BLM[運動]はこうした人びとの死の問題に取り組むために発展しただけではなく、アメリカにおける犯罪の監視取締りや裁きに対して抜本的な変革を求める草の根の運動となったのです。
しかし、ジョージ・フロイドとアマド・オーブリーの事件では有罪判決が出た一方、ブリオナ・テイラーの裁判の行方はまだ分からないままです〔二〇二二年八月に現職・元警官四人が訴追された〕。テイラーは二六歳の救急救命士でしたが、自宅で丸腰のところを警察に射殺されました。私たちが[二年以上経過した]今もなお、ブリオナの事件で公正な裁きがもたらされるよう闘っていること自体が、人種差別と家父長制、反黒人感情の連鎖に光を当てるものです。ブリオナの状況を取り巻く緊急性と悲劇にもかかわらず、社会における黒人女性の立場が[黒人男性とは] 異なる特異なものであるために、彼女たちが犠牲者になり見えなくされてしまうという意味においてです。ブリオナの事件で有罪判決を勝ち取ることが[黒人男性の事件よりも]ずっと困難なのは、黒人女性に対する警察暴力の大半が私的な空間で起こるからです。公共空間のように証拠がビデオに撮られる可能性がないのです。
それでもなお、ブラック・ライヴズ・マターは今では私たちの社会に浸透し、活動家から一般市民、政治家、大坂なおみのような著名なアスリートまで、すべての人びとに認められ支持されてきました。大坂自身、アメリカで活躍する黒人であり、かつ日本人です。大坂は二〇二〇年の全米オープンテニス選手権の間、犠牲者の名前入りのマスクを着けることによって、暴力的な人種差別主義者に殺された黒人たちの事件への関心を高めることにきわめて重要な役割を果たしました。同年八月二六日に英語と日本語で書かれたツイッターへの投稿〔二三日にウィスコンシン州で起きた警官による黒人男性銃撃事件に抗議し、全米オープンの前哨戦ウェスタン・アンド・サザン・オープンでの準決勝戦を見合わせることを表明したもの〕で、大坂はこう説明しました。「でも、私は一アスリートである前に、ひとりの黒人女性です。黒人女性として、私のテニスを見てもらうよりも、今すぐに注目してもらわなくてはならない、ずっと大事で切迫したことがあると感じています。……警官の手によって黒人が虐殺され続けるのを見ると、吐き気がします。数日おきに新しい[犠牲者名の]ハッシュタグをつけるのには疲れ切ったし、何度もこの同じ会話を繰り返していることにもうんざりです。一体いつになったらもう十分なのでしょう?」
大坂の素晴らしさ、貢献、立ち位置、そして彼女が投げかけた苦痛に満ちた問いは、アメリカの黒人女性たちが取り組んできた先祖伝来の闘争を強調し、前進させるものです。読者が本書を読み進めるにつれ、その歴史をよりよく理解すること、そして黒人女性についてもっと知りたくなったり、万人のための平等に貢献したくなったりするような刺激を本書が与えることを、私たちは願っています。
連帯を表して
ダイナ・レイミー・ベリー、カリ・ニコール・グロス
序章 ナニーの遺産──黒人女性の様々な歴史
私たちは輝かしい女性らしさを持たねばなりません。どんな男性─白人、先住民、アジア系、中南米系、あるいは黒人でも─の顔でもじっと見つめることができるような女らしさです。そして黒人女性の中にある資質の高潔さについて伝えなくてはなりません。
─ナニー・ヘレン・バロウズ
黒人女性の視点からアメリカ合衆国についての歴史を書くということは、信じられないことや素晴らしいこと、意気揚々としたことがしばしば同時に困難や恐怖と出合い、混ざり合い、交わる過程を記すということだ。統一性には大きく抗うものの、黒人女性の歴史は、私たち[黒人女性]がいかに困難をものともせずに前に進み、個人的にも地元にも全米にも持続した変化をもたらしてきたかによって特徴づけられている。私たちはたしかに、一九〇九年にナニー・ヘレン・バロウズが校長を務めた学校のために創り出した校訓「私たちはまったく不可能なことを専門に扱う」を体現しているのだ。この校訓は、ナニー自身の生い立ちとともに、ひとりの黒人女性が過去の鋭気をくじくような障壁を押しのけて、明らかに普通ではない人生を生きることができたこと、そしてそう生きたことの証拠として有効である。
一九世紀後半に、かつて奴隷にされていた〔エンスレイヴド〕ナニーの母親ジェニー・バロウズは、より良い雇用と教育の機会を見つけることを期待して、ナニーと彼女の妹とともにヴァージニア州オレンジ郡からワシントンDCに移住した。それは白人至上主義者たちが南部で権力を再強化し、北部の白人たちが黒人の公民権への支援を撤回した時機だった。兆候を読み取り騒ぎに乗じて、ジェニーはなんとか自身と子どもたちのための新しい生活を、ほとんど独りで始めた。夫のジョン・バロウズは巡回牧師で、長期間にわたり不在だった。ナニーは母親が家族を食べさせるのに苦労するのを見て育った。このことがナニーに母親の強さへの尊敬の念や黒人労働者階級への敬意を植えつけ、黒人女性がより大きな社会的・政治的・経済的足がかりを得るために必要な技能を養うような支援に心から献身することを教え込んだのだ。
「私たちは輝かしい女性らしさを持たねばなりません。どんな男性─白人、先住民、アジア系、中南米系、あるいは黒人でも─の顔でもじっと見つめることができるような女らしさです。そして黒人女性らしさの中にある資質の高潔さについて伝えなくてはなりません」。ナニーは一九三三年一二月の演説でこう述べた。これらの考えは彼女の教育と職業を反映していた。一八七九年に生まれたナニーは、ワシントンDC、そして後にはケンタッキー州で学んだのだが、さらにはこの国の首都にある女性と少女のための全米訓練学校の校長になるのだった。ここで彼女が同職に就いている間に、学校はでこぼこの土の丘に立っていた状態から、推定評価額二二万五千ドルの数エーカーの土地に鎮座する八棟の校舎群となった。思想に関しては、ナニーは同時代の両極端[の思想]に制限されることを拒んだ。勤労と自助を強調したため、よく「ブッカー・T・ワシントン〔二〇世紀転換期に活躍した南部の黒人指導者で、黒人実業学校タスキーギ師範産業学院の初代校長。勤労と自助努力による経済的向上を訴えた一八九五年のアトランタ綿花国際博覧会での演説で有名〕夫人」と呼ばれたが、彼女は職業教育と古典教育の両方を採り入れ、初期のブラック・ナショナリストおよびフェミニストのイデオロギーを体現した。彼女は黒い肌を称賛することで人種の誇りを奨励したし、ずっと黒人女性の投票権と労働者の権利の擁護者だった。彼女の死から三年後の一九六一年、彼女が何十年も奉職した教育機関はナニー・バロウズ・スクールと改称された。ナニーの人生と、あまりにも多くの人びとが彼女についてほとんど知らないという事実は、黒人女性の歴史に織り込まれた複雑な糸とつながりがある。
黒人女性はアメリカとの複雑で矛盾した関係にある。私たち黒人女性はすぐに脇に追いやられ排斥されるのだが、私たちの存在こそが白人至上主義を創出し維持するのを促進するために搾取されてきたのだ。敵対しているアフリカ人たちとヨーロッパ人商人が何千人もの西アフリカの人びとを誘拐し奴隷として売り飛ばしたとき、捕虜となった黒人女性と子どもを合わせると「大西洋奴隷貿易の全体の中で南北アメリカ大陸に輸送された人びと」の大多数を占めた。アフリカ人女性は特に多くが土地の耕し方を知っていたので、貴重な知識生産者であり労働者だった。彼女たちは、ヨーロッパ人入植者たちが単に生き延びるだけではなく成功する手助けとなるのに必須の知識や技能を持っていたのだ。
奴隷状態〔エンスレイヴメント〕が法律に組み込まれるにつれて、黒人女性の子どもが奴隷主〔エンスレイヴァーズ〕にとってきわめて重要な財産となっていくことになる。しかしアメリカが黒人女性の身体と強制労働から肥大化する一方、黒人女性らしさというものは不正直でみだらで常軌を逸したものと表現された。黒人女性は、より優れているとされる白人男女のアイデンティティが描かれる際の理想的な引き立て役として対置されたのだ。言い換えれば、黒人女性はこの国の建設にとって重要だっただけではなく、まさに私たちのイメージこそが、白人の男らしさや女らしさという支配的な考えが創られるにあたって決定的な要素となってきたのである。しかし、アメリカの黒人女性の経験を考察する際に等しく重要なのは、黒人女性らしさをその美しさや知性、力強さ、平等への献身など、それ自身の真価で理解することである。ナニー・ヘレン・バロウズのような女性たちの様々な遺産には、まさしくそれがふさわしい。
さらに言えば、黒人女性の歴史上の貢献や苦境や抵抗をこの国に思い出させ、ミソジノワールの風潮に対して黒人女性らしさを肯定する重大な緊急性が存在する。「ミソジノワール」とはジェンダー化された黒人嫌悪の暴力を表すのに使われる言葉で、丸腰の黒人女性に対する警察の暴行や殺害(そしてそれらに耳を塞ぐような沈黙もよく起こり、これが#SayHerName を生んだ)から、一流の黒人女性研究者、弁護士、ジャーナリスト、政治家を人種差別の標的にすることまで多岐にわたる。こうした暴力は、教育や医療、雇用、住宅に黒人女性がアクセスする際に今も格差があることに加えて、存在している。そして、これらすべてが起こる中で、幼い黒人少女たちは「R・ケリー[の性暴力]を生き延び[1]」、黒人女性や黒人少女への性的暴行がほとんど野放しで続くことを許している内外の構造を生き抜こうと奮闘しているのだ。映画監督ドリーム・ハンプトンのような黒人女性活動家は、こうした女性たちの声を拡大させ、彼女たちが真実を語ることを可能にしたが、これによって司法制度は─きわめてまれなことだが─彼女たちのために行動せざるを得なくなったのである。
このようなアクティヴィズムは長い歴史的連続性の上に存在している。というのも、黒人女性たちは黒人コミュニティひいてはこの国全体を消しがたく形作ってきた、強力な変革の担い手なのだから。黒人女性は自身の非常に優れた能力を用いて体系的抑圧に立ち向かい、自分たちだけで比類のない女性の連帯の空間を作るために、力を合わせて組織化してきたのである。本書はその歴史について称え、啓蒙するものだが、同時に二一世紀の黒人女性と少女たちのニーズに応えるものでもある。黒人女性の人生を有意義に提示し、私たち黒人女性の持つあらゆる複雑さに注意を払い、私たちの驚くべき偉業と活気を祝福するために、本書は黒人女性の歴史を解きほぐしていく。しかし最も重要なのは、黒人女性たちがこれらの物語を動かすことなのだ。
そのためには、少数のよりよく知られている人物だけではなく、世に知られていないありふれた女性たちなど、あらゆる種類の黒人女性が描かれることが重要だが、私たちは、ともすれば伝統的な歴史からは除外されるかもしれない女性たちも取り上げている。本書は全員を網羅することはできないし、そのつもりもない。むしろ目的は、私たちの歴史とこの国の歴史を形作ってきた選り抜きの女性たちを取り上げることである。また、広い読者層に受け入れられるような書き方も心がけた。
各章は、その歴史的経験が時代精神を体現し反映しているような特定の黒人女性の挿話で始まる。奴隷にされた〔エンスレイヴド〕者、自由だった者、教育者、政治家、芸術家、クィアの人びと、障がい者、活動家、それに法の外で生きていた人びとも含む、多様な女性を取り上げている。本書の構成は伝統的な歴史の時代区分に沿っている部分も多いが、私たちは黒人女性の生きた経験にとって最も意味のある時系列を用いる努力をしてきた。この実践は、探検と接触[本書では第一、二章(一七六〇年まで)でカバーされる]、奴隷制[第三、四章(一七六〇〜一八六〇年)]、アンテベラム期[第四章(一八二〇〜一八六〇年)]、南北戦争と再建[第五章(一八六〇〜一八七六年)]、大移動[第六、七章(一八七六〜一九四〇年)]、第二次大戦後[第八章(一九四〇〜一九五〇年)]、さらに公民権運動やブラックパワー運動など[第九、一〇章(一九五〇〜二〇〇〇年)]といった一般的な出来事[の区分]に、必然的に影響している。目的は私たちの伝えたい物語を提示する一方で、読者により大きな歴史的文脈の中でそれらを理解してもらうことである。時に私たちの語る歴史は信じられないくらい悲しかったり読み進めるのが難しかったりするが、女性たちがようやく手に入れた勝利に、読者は大声で応援し続けることもあるだろう。
本書は黒人女性が皆同じだと想像するような歴史を提示することはしないが、世間が私たちをどのように見ているかに関して、万人共通に近い経験があることも認めている。私たちは、黒人女性の歴史を、単に敵対的だとかジェンダー化された人種差別的抑圧との闘いの中だけに存在しているものと見なすことを拒否するが、しかしそれでも、そうしたネガティブな印象の影響を否定することはできない。階級、学歴、肌の色、宗教、エスニシティ、性的指向、性自認において、私たちは圧倒的に異なるにもかかわらず、世間は─少しでも私たちに注意を払うときには─しばしば使い捨て可能なものというレンズを通して認識する。そのように見られるため、黒人女性の身体は重要な身体ではないのだ。主流の人びとの利益のために用いられ消費されるのでなければ、庇護も敬意も得られないのである。黒い肌や分厚い唇、豊満な腰回りや臀部といった伝統的な黒人女性の特徴は、白人女性に盗用されるまでは魅力的ではないと考えられがちだった。黒人女性の髪、ファッションスタイル、独特の嗜好は、雇用主そして連邦政府によっても日常的に監視、規制されている─軍隊が当初ブレイズ〔髪を小分けにして、それぞれの毛束を三つ編みにしたヘアスタイル〕とドレッドヘア〔縮毛を絡み合わせ、複数のロープのようにまとめたヘアスタイル〕を禁止していたことを思い出してほしい。それなのに白人女性については、同様の外見が最新の美の流行として激賞されている。しかし本書は文化の盗用や黒人女性らしさの失墜についての本ではない。本書を読んでくれるすべての人びとを教育し励ますことも目指しているが、これは黒人女性とその仲間〔アライ〕のための、黒人女性によって書かれた、黒人女性についての歴史なのである。
私たちは黒人女性史に時空間を超越する七つの主題を見極めている。旅や移動、運動、移住は根本的にこの歴史を形づくるものだ。というのも、黒人女性の労苦は社会全体、アメリカ大陸全体を作り変えてきただけではなく、文化的・政治的・法的実践に大きな影響を与えてきたのだから。さらに、流動性もまた黒人女性が国内外で新しい機会や新しい世界を捜し出す願望を表していて、[先述の]ジェニー・バロウズのような女性たちは重要な例を提供してくれる。
黒人女性史における暴力も、広範囲かつ多面的である。暴力は肉体的なものだと理解しているが、私たちは人種差別的なイメージや誇張〔カリカチュア〕された人物画の使用といった表象の形での暴力があることも認めている。また、本書は排除という暴力も考察している。黒人女性がいかに社会的にも政治的にも参加や保護を否定されてきたかについて触れているためだ。貧困という暴力も、どれだけ強張してもし過ぎることはない。
アクティヴィズムと抵抗は黒人女性史に深く埋め込まれている。黒人女性はレイプ魔の奴隷主〔エンスレイヴァーズ〕から身を守り、より良い生活様式を求めて子どもたちを北部に移動させ、騒々しいパーティで自分たちを称え、洗濯人や女性クラブ運動家として組織化してきた。この闘争の遺産は、奴隷制廃止あるいは投票権に向けての努力であれ、警察暴力への抗議であれ、「ブラックパワー」の宣言であれ、公職選挙への立候補であれ、黒人女性の政治的活動にも見られる。黒人女性がしばしば熱心かつ勇敢にそうするように、彼女たちがありのままの自分を受け入れることに抵抗が染み込んでいるのである。
労働と起業家精神ほど、この国の黒人女性の運命を形作るのに大きな役割を果たしたものはほとんどない。奴隷化〔エンスレイヴメント〕によって誘拐されたアフリカ人女性は強制的に畑や屋敷へと送られ、男たちと並んで骨折り仕事をさせられた。差別と貧困のため多くは奴隷解放後もそこにずっととどまることになったが、それにもかかわらず社会は黒人女性が骨折り仕事を占領していると汚名を着せたのだ。屋外で働いていたために、黒人女性は品行方正〔リスペクタブル〕な女性らしさという、一般的に受け入れられていたあらゆる考えに従って扱われることから事実上排除された。しかし黒人女性は、白人性を特別扱いする女らしさや美徳の普遍的シンボルに抗議した。まさに不正な経済状況によって黒人女性が料理、掃除、種まき、裁縫を担うことを強いられているからこそ、いかに白人女性が服を洗濯することも白人の子どもの世話をすることも全く気にせずに家にいて淑女でいられるかを、多数の黒人女性は力強くはっきりと指摘したのである。
アメリカ合衆国が再び英国王室からの分離を確かなものにした一八一二年戦争の間、メリーランド州の黒人年季奉公人だった一三歳のグレース・ウィッシャーは、あるアメリカの旗を縫うのを手伝った。グレースは彼女を召使として縛りつけていたメアリー・ピッカースギルと、ピッカースギルの娘キャロライン、姪のひとりと並んで作業をした。この女性グループが「その旗をデザインするのを手助けした」のだが、後にこれに「触発されて、フランシス・スコット・ケリーが国歌を作詞する」ことになる。ひと針ひと針、糸と針を手に、グレースは赤、白、青の布を使って作業し、アメリカの最も偉大なシンボルのひとつであるアメリカ国旗という国宝を作った。グレースのような黒人少女や黒人女性は、私たちの国史の著名な場所や舞台裏に、文字通り自分たちの存在を縫い込んできたのである。
その上、いつの時代でも、奴隷身分〔エンスレイヴド〕であろうが年季奉公人であろうが、黒人女性は起業家となる道を見つけた。奴隷制時代には作物を育てて売ったり、植民地時代にはフィラデルフィアのコンゴ広場でそうしたように、ペッパーポットシチュー〔牛肉と胡椒や野菜などを煮込んだフィラデルフィア名物のシチュー〕のような調理品を行商したりした。奴隷解放後、黒人女性起業家たちは黒人女性の独特な肌や髪の手入れのニーズを満たすような美容品店を開いた。黒人女性は美容院で髪を縮毛矯正したり染めたり横に撫でつけたりしてもらえたが、大声で笑い、外聞の悪い噂話のやりとりもできた。そうしている間に草の根のアクティヴィズムを育んだのである。
これらの見事な起業家としての努力は、とりわけ実に多くの黒人女性が職場で激しい試練に直面していたので、経済的に生き残るためには必須だった。奴隷制廃止から一九五〇年代まで、黒人女性の大多数は農作業か家事労働のどちらかに閉じ込められていた。工場での仕事を得ることができた者はほとんどいなかった。メイドの仕事は、黒人女性たちが白人家庭内で性的暴行に遭いやすくなったり、白人が支配する司法でたちまち有罪にされてしまうような窃盗の言いがかりに晒されやすくなったりすることから、黒人女性を危険に陥れるものだった。
犯罪者化と収監も黒人女性の人生に著しく関係していた。窃盗犯罪での有罪であれ風俗犯罪であれ、あるいは賭博、占いであれ、法制度における黒人女性の経験は国家権力との衝突を強調している。彼女たちの前科からは、本質的に偏っていて不当に適用されるものだとよく分かっていた法律の外で生きようとする野心や動機も垣間見られる。たとえそうだとしても、性取引行為を続ける黒人女性もいれば、共済組合などから金を巻き上げる者、さらにはメイドのふりをして裕福な白人家庭に接近する者もいた。初期の歴史ではこれらの人びとは窃盗に限定されていたが、二〇世紀後半には多くの黒人女性が「麻薬との戦争」に捕まることになる。こうした歴史と刑罰国家への彼女たちの反応もまた、本書の主題である。
黒人女性芸術家や芸人、作家、歌手、舞踏家は疑いなく、私たちの文化を定義し豊かにするのに強力な役割を果たしたが、彼女たちは往々にしてその過程で抑圧に反抗した。黒人女性の精神生活の真実を表現し、黒人コミュニティ内外の闘争を示すだけではなく、私たちのユーモアや創造性を明るみに出すのには、黒人女性芸術家の助けがあった。植民地時代の詩人フィリス・ウィートリーから現代の文豪トニ・モリスンまで、黒人女性作家は私たちの人間性に声を与え、アメリカ文学の古典を再編する作品を生み出した。黒人の表現文化は性的快楽にも貴重な響きを与えているが、それは無節操な性関係や迫害や異性愛といった狭い範囲を超えるものである。
黒人女性の性行為や性欲は黒人女性らしさと歴史を考察するのに必須である。黒人女性がセクシュアリティをうまく操るために独特な実践を育んだ例もある。彼女たちの歴史には、リスペクタビリティ(品行方正さ)を展開することや、歴史学者のダーリーン・クラーク・ハインが「秘匿の文化(culture of dissemblance)」と呼ぶ─つまり望まない、ともすれば暴力的な性的誘惑を避けるために自身のセクシュアリティを意図的に隠す習慣─を実行することが含まれる。しかし、倫理的ではない快楽を大胆に求め、様々なセクシュアリティに身を置く黒人女性たちもいた。
私たちは、貴重な一次史料を所蔵する文書館を捜し回るのに加えて、黒人女性についての豊富な歴史研究群に敬意を払い、これに依拠している。可能な限り、ますますアクセス可能となるオンラインの歴史的公文書記録のレポジトリも利用し、ドキュメンタリー映像のインタビューや黒人女性を特集した映像素材もたびたび引用している。こうしたアプローチによって、本書に出てくる人物や主題についてもっと知りたいと思う読者に、より円滑な手助けができればと願っている。これらの努力をもってしても、歴史的記録が黒人女性の経験を文書で十分に立証できていない場合がある。ほとんど全く記録がないことも時にはある。歴史学者として私たちは、黒人女性によって書かれたのではなく、むしろ彼女たちの遺産を見えなくさせたり沈黙させたりするのに中心的な役割を果たした人びとによって編纂された文書記録に頼らなければならないという難しい立場に、気がつくと置かれていることがよくある。私たちは一方的な記述には批判的に目を通し、黒人女性自身の記録─演説、報告書、運動、組織の議事録、小説、詩、歌、ラップのパフォーマンスなど─とともに、奴隷登録簿や体験記、逃亡奴隷の広告、国勢調査資料、新聞、裁判記録などの史料に依拠して、バランスを取っている。黒人女性の多様な声が本書に生命を吹き込んでいる。なぜなら黒人女性以上に彼女たちの人生の複雑さを効果的に描ける人はいないのだから。学術的で新聞記事的な文章から大胆で耳障りな詩歌まで、黒人女性の声は単純な特徴づけを受けつけないのだ。
そういうわけで、アメリカ黒人女性史は幅広く、美しく、わくわくするようで、忘れられない、この国を理解するのに重要なものである。それは黒人女性の知的豊かさと生命力の証なのだ。この歴史はまた、民主主義を万人に平等なものとするという未だ実現していない約束の説明責任を、国に負わせてもいるのである。
[1]「R・ケリーを生き延びる(Surviving R. Kelly)」はハンプトン監督が二〇一九年に制作したドキュメンタリー番組の題名。R・ケリーは一九九〇〜二〇〇〇年代に人気を博したR&B歌手であり、長年にわたり未成年女性への性的虐待などで何度も訴えられてきたが、裁判ではすべて無罪や示談となっていた。彼から性的暴行を受けた複数の未成年女性にインタビューしたこの番組をきっかけに、警察と検察の捜査が始まり、ケリーは二〇二一年九月に性的虐待や人身取引など九つの罪でニューヨーク・ブルックリン連邦地裁から有罪評決を受け、二〇二二年六月に禁錮三〇年とされた。
(傍点と巻末注は省略しました)