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『世界遺産都市ドゥブロヴニクを読み解く――戦火と守護聖人』

 
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武田尚子 著
『世界遺産都市ドゥブロヴニクを読み解く 戦火と守護聖人』

「はじめに 世界遺産都市ドゥブロヴニクと守護聖人」「序章 中世都市の現在」(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに 世界遺産都市ドゥブロヴニクと守護聖人
 
アドリア海の真珠
 「アドリア海の真珠」と称えられるクロアチアのドゥブロヴニクの風景をどこかで目にし、記憶に残っている人も多いだろう(口絵2)。中世以来の海洋交易都市ドゥブロヴニクは、歴史的な存在意義と風光明媚な環境が調和し、一九七九年にユネスコ「世界文化遺産」に指定された。
 晴れわたる地中海の青い空、心がすいこまれそうな紺碧の海、貴石のように輝いて海にそそり立つ異国の街。アドリア海の風が吹いてくるような光景のなかに、真珠のように凝縮された魅力が人々の心をとらえる。
 空路、ドゥブロヴニクに着くと、まなざしの先に憧憬の街を望みながら、一路バルカンの坂道を下っていく。やがて、真珠の小粒のように街がきらめいてみえたのは、周囲をぐるりと城壁が取り囲み、その白い壁がまぶしい陽光を反射していたからであることに気づくだろう。まさに「アドリア海の真珠」は手の届くところにある。
 やがて、だいだい色の屋根の家々が、城壁に抱かれてねむるように固まっている情景が目に入ってくる。おとぎの国のような街なのに、不釣り合いなほど堅牢な城壁が海にそびえていることに軽い驚きを感じるかもしれない。城壁の上に据えられた大砲の砲口は陸上の自動車道に照準が合わせられている。自分が下ってきた坂道は、敵が街に襲いかかった道でもあった。
 紺碧の海に臨んで、ドゥブロヴニクがいまも真珠のような硬質の輝きを放つことができるのは、敵との攻防戦に屈しないこの城壁があったからこそである。白く輝く城壁は籠城に耐えて、街を守り抜いた誇りの象徴でもある。
 それは古い話ではない。まさに現代史、一九九一〜九二年にあったバルカンの都市攻防戦である。一九八九年に「ベルリンの壁」が崩壊し、東欧諸国の政治体制は劇的に変化した。バルカン半島ではユーゴスラヴィアの解体が進んだ。クロアチアの独立をめぐって、クロアチアとセルビア・モンテネグロ軍の間で激しい戦闘が起きた。ドゥブロヴニクと周辺地域は激戦地の一つである。
 城壁は現代の砲撃戦にも耐えた。ドゥブロヴニクは死守され、いまもクロアチア領で在り続けている。クロアチアの一部として独立できたことがいかに有り難いものであったかは、ドゥブロヴニクがクロアチア共和国の飛び地であることに端的に示されている。紛争の火種が尽きないバルカンの現状を鑑みると、ドゥブロヴニクの城壁は「過去」のものではなく、未来においても不可欠の共同防衛の要である。
 
戦火と守護聖人
 はじめてドゥブロヴニクを訪れたとき、街の中心にある聖ヴラホ教会に入って、私は衝撃をうけた(口絵3)。ドゥブロヴニクの守護聖人ヴラホが、「城壁に囲まれた街」を胸に抱きしめている。激しい攻防戦のなかで、守護聖人ヴラホはいかに人々の心の支えであったことだろうか。聖人像は現代の攻防戦よりはるか古くに作られたものであるが、ヴラホの姿はドゥブロヴニクの人々の心のうちを映し出して余りある。
 願いを聞き届けるかのように、聖人は「城壁の街」を胸に引き寄せて、天に祈りを捧げている。堅い貝殻が「アドリア海の真珠」をおおうように、天の加護がドゥブロヴニクを守り抜いてくれることを念じている(図表a)。
 現代の戦火に耐えて、ドゥブロヴニクの人々が戦禍から立ち上がろうとしたとき、まず何よりも先に手をつけたのがこの聖ヴラホ教会の再建である。これまで幾度も天災人災にうちのめされたドゥブロヴニクの人々に「復活」の導き手として寄り添ってきたのが聖ヴラホである。
 ここドゥブロヴニクにおいて、「城壁」と「守護聖人」は中世都市の歴史的遺産なのではなく、現代においても、「実戦の支え」と「精神の支え」である。軍事的シンボルと宗教的シンボルは現代都市においても生活を守り抜く拠りどころである。
 現代史のなかに生き続ける都市の「城壁」と「守護聖人」の持つ意味を深く掘り下げてみたいと思ったのが本書執筆の動機である。
 
 
序章 中世都市の現在
 
❖水先案内――都市共同体と都市空間
 歴史都市の魅力は、何といっても、空間的な佇まいの美しさにある。重厚な雰囲気の歴史的建造物、自然環境と歴史的景観が調和して醸し出す風格など、自分の足で探索する醍醐味は深い。ドゥブロヴニクの歴史的重層性を実感させる都市景観は、時の経過のまま残ったものではない。戦乱のなか人々が守り抜き、戦災から蘇らせた風景である。
 中世期、ドゥブロヴニクは自治的な都市共同体であった。自治都市の機能は、人々が諸活動を行うことによって実現される。繰り返される定まった活動は、それに適する都市空間を創り出す。
 ドゥブロヴニクの風景のどこに、都市共同体としての機能や、活動した人々の軌跡を読みとることができるだろうか。都市は固有の環境のなかで、独自の歴史をたどる。都市空間に刻印された歴史的蓄積を読み解くことによって、街に対する人々の愛着、暮らしをいつくしむ心情について理解が深まることだろう。
 
1 中世都市の見取り図
 
一望できる城壁都市
 日本からクロアチアのドゥブロヴニクは遠く感じるかもしれない。日本から空路の直行便はなく、ヨーロッパの主要都市で乗り換えてドゥブロヴニクに降り立つことになる。バルカンの坂道を下れば三〇分で市内に入るので、飛行機の乗り換えはあっても、意外に楽な旅路である。ドゥブロヴニクはアドリア海沿岸のダルマチア地方にあり、海上を航行する船に乗って沿岸部を移動する方法もあるが、いまは緑の樹木がほとんどない岩山にへばりつくように延々と続く坂道を車で移動するのが一般的である。
 ドゥブロヴニクに近づくと、このような坂道から眼下に街を一望できる(口絵2)。街の空間的構成は基本的に一七世紀前半のドゥブロヴニクとほぼ変わらない(図表0-1)。城壁が街をぐるりと取り囲み、城内の街の様子を眺めわたすことができる。ヨーロッパ広しといえども、手にとるように眼前に、中世以来の城壁都市の全体像を見てとれるのは希有である。この点でもドゥブロヴニクは都市を歴史的に解読する格好の対象である。
 現在は城外にも市街地が広がっている。ドゥブロヴニク都市圏の人口は四万二六一五人(二〇一一年時点)、そのうちドゥブロヴニク市の居住人口は二万八四三四人(二〇一一年時点)である。内戦前は城内に約六〇〇〇人が居住していたというが、復興にともない新市街地への転出が進んだ。本書では中世以来の城壁都市、すなわち市壁に囲まれた「旧市街地」に焦点をしぼり、適宜、ドゥブロヴニク、市内、城内、都市等々の語を用いて記すが、これらはすべて「旧市街地」のことを指している。
 
中世都市の空間構造――共同利益と共同防衛
 ヨーロッパ中世都市の空間構造を理解する際に、まず最初におさえておきたい空間的ポイントは四つある。「城壁」「広場」「行政庁」「教会」である。
 「城壁」は都市外周部にあって、軍事的に共同防衛の機能を果たす。「広場」は都市中心部にあって、経済的交換の機能を果たす。すなわち交易の中心である。ヨーロッパの都市を歩いていると、折々に中心部にある広場で季節感あふれるマーケットにめぐりあう。都市とはモノが集積し、売り買いされる場所であることを実感する楽しい機会である。
 都市の基本的機能はこのように人口と物資の集積という点にあり、集積量が大きくなれば取引量も多くなり、経済的利益は増大する。都市とは集積効果を生かして共同で利益を生み出す場所である。
 経済的に裕福な都市を支配下に治めることは権力者にとって有利なことで、このような都市は軍事的争奪の対象になりがちである。そのようなリスクに備えて共同防衛の対策を固めておく必要があり、実戦的な防御施設が城壁である。「共同して利益を生み出すこと」と「共同して防衛に当たる」ことは密接に関連しており、都市の基本的機能の両面である。
 「都市」がなぜ必要とされているかというと、人々の暮らしがある程度合理的に営まれていくために、集積効果の高い「市場交換の拠点」があったほうが便利だからである。このような都市の最重要機能である「共同利益」と「共同防衛」を実行する物理的空間が、中心部「市場」と外周部「城壁」である。
 
中世都市の社会構造――秩序統合と共同祈願
 都市においては、市場交換の秩序を維持するしくみが重要となる。「秩序」を維持させる機能が集中している物理的空間が「行政庁」である。都市運営の要であり、たいていは中央部の広場に面して「行政庁」が設けられている。都市の規模や政治体制によって、そこを何と呼ぶかは各都市それぞれであるが、自治的性格の強い都市であれば「市庁舎(シティホール)」や「タウンホール」、封建的性格の強い領主に領有されている都市であれば宮殿など呼称はさまざまである。
 秩序の維持には、商取引の監視、交換単位の調整、税金徴収、立法、紛争解決などが含まれる。つまり現代でいうところの行政、立法、司法が未分化のまま「行政庁」で実行されていたり、さらに交易対象の外国使節を迎える外交儀礼や式典が挙行されることもあった。このような都市運営のトップに当たる人物の呼称は各都市の状況や政治体制によって異なる。自治都市であれば市参事会が「市長」を選出したり、また世襲的権力が強ければ「王侯」として「宮殿」に君臨した。いずれにしても「行政庁」は都市の秩序を維持し、社会的統合を図る機能を担った物理的空間である。
 人口の集積が多ければ、社会秩序はヒエラルキー的構成で管理される。つまり、社会的に優位な集団と劣位の集団に分化する。共同で利益を生み出すために、どの層のどの集団も不可欠な存在であるが、都市は過酷な状況で働く人々を必要とした。搾取される貧困層が常に存在していたのが、残念ながらこれまでの都市の現実である。
 何のためにこのような苛酷な現実世界に生きているのか。根源的な疑問を投げかけ、応えを求める相手が必要で、このような精神的問いかけの場所が「教会」である。現世で解決しない矛盾は、天国での救済に期待するように導き、宗教的に昇華させる。都市を維持するためには不満の暴発をくいとめ、内部からの崩壊を防ぐ手段が必要とされた。そのような精神的統合を図る「共同祈願」の場所が「教会」である。教会もたいていは中央部の広場に面している。
 以上のように中心部にあって「秩序統合」と「共同祈願」を実行する物理的空間が「行政庁」と「教会」である。大勢の人が混乱なく同一目的に向かうには時間管理が重要である。つまり、集団の秩序維持には時間を統制する手段が必要で、町の広場にある「行政庁」または「教会」のどちらかには高くそびえる塔があり、時計が取りつけられている。
 
歴史都市の探索
 探索しようとする歴史都市で、軍事的「共同防衛」機能の城壁、経済的「市場交換」機能の広場、行政的「秩序統合」機能の行政庁、宗教的「精神統合」機能の教会が、空間的にどのように配置されているのかを読み解くことが、歴史都市フィールドワークの第一歩である。
 各都市にはそれぞれの地形的特徴、固有の歴史がある。かならずしもモデルのように整序されているわけではない。それぞれの都市には独特のかたよりがある。その要因を探ることによって、その都市ならではの魅力、独自性、固有性により深く迫ることができるだろう。
 ちなみに中世都市の四つの基本的機能は、現代の国家を理解する際にも役に立つ。国境で囲われ、現代の私たちはパスポートを持って出入国する。境界内では「共同利益」の産出に励み、「秩序統合」を担う行政省庁があり、議論はあるが基本的な「共同防衛」機能をもち、各種の「精神統合」機関があって、季節ごとの行事で時間の節目を実感する。国ごとに標準時間が設定されており、たとえば交通機関が予告した時刻表の発着を遵守できないと社会的混乱を引き起こしていることで行政指導を受ける。
 中世の歴史都市について学ぶことは、現代国家の軍事、経済、行政、宗教の在り方や、それぞれのルーツについての省察を深め、現代の国内状況、国際関係を理解するうえで示唆に富む。各国で元首や民主的に選出された政治的代表の呼称がさまざまであるように、中世都市について一元的な説明を求めてもあまり意味はない。大事なことはその都市固有の在り方に着目し、現代につながる地脈について洞察が深まるように、固有性、独自性を生み出している要因を探っていくことである。
 現代国家と歴史都市のアナロジーから、社会構造を掘り下げていくための着眼点が引き出せる。現代の私たちはパスポートを持って出入国するが、その国の国籍保有者であるか否か厳しく選別され管理されている。国籍を保有している者には相応の権利が国内法で保障される。国籍による区別が現代社会にはある。歴史都市における「市民」と、市民ではないが市内に居住していた人々とはどのようなものであったのだろうか。ドゥブロヴニクの社会構造については、この本でおいおい探っていくことにしよう。
 
2 ドゥブロヴニクの空間的特徴
 
海際の広場
 ドゥブロヴニクでは、どのような点に空間的特徴を見出すことができるだろうか。城壁内部に入る前に、坂の上からドゥブロヴニクを眺め、おおよその特徴をつかんでおこう。だいだい色の屋根が広がるなか、ひときわ高くそびえるいくつかの塔や、教会のドーム屋根が目に入るだろう。それらを目印に「城壁」「広場」「行政庁」「教会」をおさえていくと、次のようなドゥブロヴニクの空間的特徴がみえてくる。
 最も特徴的なのは「広場」の位置である。市の中央ではなく、港に面した開口部に「広場」がある。これは海港都市によくみられる特徴で、海側がメインの入口で、船に乗って人々が出入りし、物資が搬出入されたことによる。物資が陸揚げされる場所の近くに広場が形成され、市場が開かれる。
 たとえばイタリアの海洋都市として名高いヴェネツィアのサン・マルコ広場も海側に入口がある(図表0-2、0-3)。船から上陸すると、広場にヴェネツィアの守護聖人マルコを象徴するライオンが載った円柱があり、ドゥカーレ宮殿、サン・マルコ大聖堂と鐘楼などが建ちならぶ。海に向かって開かれたサン・マルコ広場の優美で開放的な空間は幾多の絵画に描かれてきた。
 ところが、ドゥブロヴニクの広場はこれとは違う。海側へ向かって開かれていない。海際に広場があるのだが、海と広場を遮るように建物がある(図表0-4)。これはドゥブロヴニクのアーセナル(軍用船造船所)である。建物の上部は城壁で、現在も通行可能である。つまり、街を取りまく城壁はぐるりと一周できるようになっており、海際でも城壁が途切れることがない。戦闘のとき、城壁の上を縦横無尽に走り回ることができるようになっている。実戦で敵と勝負するには、城壁とはこのようでなければならないと実感するつくりになっている。
 海側の表玄関にふさわしい空間とはどのようなものか。ヴェネツィアのサン・マルコ広場のように見ばえが良い開放的空間がよいのか。敵の襲来に耐えうる堅固な空間がよいのか。海際の広場のつくりは都市によって違い、ドゥブロヴニクの人々が何を優先したかは一目瞭然である。海から到来するものは富を生み出す珍奇な物産だけではない。好まざる者の来襲がいかに脅威であったかは、ドゥブロヴニクの閉じた広場が示している。
 海と広場を遮断するアーセナルは二〇世紀には軍事目的で使用されることはなくなり、カフェとして利用されるようになった(現在も同様である)。フランスの歴史学者ブローデルは一九三〇年代にドゥブロヴニクの古文書館で史料解読にいそしんだが、研究の合間、アーセナルを改造した天井の高いカフェで一服し、海の風景を眺めて気分転換をした(図表0-5)。
 かくてドゥブロヴニクの広場は海際にあるにもかかわらず、城壁に囲われ、やや狭小で閉鎖的な空間である。そこに重要施設が集中しているのだが、それぞれ建設時期が異なるうえに、天災人災によって修復・再建が繰り返されている。さまざまな要素が入り組み凝縮した密度の濃い空間が形成されている。
 これを読み解いていくのがドゥブロヴニクの醍醐味の一つである。
 
二つの聖堂
 坂上からドゥブロヴニクの広場を見おろすと、二つのクーポラ(教会のドーム屋根)があることに気づくだろう(口絵5、6)。広場の中心に近い位置にあるのがあるのが聖ヴラホ教会、広場の南側にあるのが司教座聖堂(カ テドラル)の聖マリア・マジョーレ教会である。一〇二二年にローマ教皇庁から大司教座にする通知を受けた[Carter 1972: 76-77][Krekic 1972=1990: 115]。
 広場に複数の教会があることは珍しいことではない。しかし、ドゥブロヴニクの広いとはいえない中心広場に、なぜ二つの教会が在り続けているのか。しかもローマ教皇庁の権威で承認された司教座聖堂よりも中心的な位置に聖ヴラホ教会がある(図表0-6)。これはドゥブロヴニクの独自性の一つであり、掘り下げるに値する。
 司教座聖堂と守護聖人聖堂の関係については、やはりヴェネツィアのサン・マルコ広場が参考になる。ローマ教皇庁が任命するヴェネツィアの司教座は長らく市の東端の教会におかれていた。その一方でヴェネツィア政府による宗教的儀式や政治的儀式はサン・マルコ広場にある守護聖人聖堂、すなわちサン・マルコ大聖堂で執り行われていた。司教座聖堂と、都市のシンボルをまつる守護聖人聖堂は並立可能であった。サン・マルコ大聖堂に司教座が移されたのは一八〇七年である[宮下2016]。ヴェネツィアでは司教座聖堂と守護聖人聖堂は一体化した。
 しかし、ヴェネツィアと違って、ドゥブロヴニクではいまも守護聖人聖堂と司教座聖堂は一体化していない。ここから街の人々のどのような精神生活がみえてくるだろうか。
 広場はルジャとよばれ、その一画に「行政庁」がある。ドゥブロヴニクでは「総督邸」という。また、港で陸揚げされた物資を管理する「税関」が広場の海側にあり、「スポンザ館」とよばれた。これら行政機関とならんで「時計塔」がある。既述したように軍用船造船所である「アーセナル」が海と広場の間にあった(図表0-6)。
 このようにドゥブロヴニクの広場は狭小であるにもかかわらず、二つの聖堂、行政庁、税関、軍用施設など、重要施設が凝縮し、まさにドゥブロヴニクの心臓部であった。
 
三角を固める修道会
 広場から目を転じ、外周部の城壁に沿って城内を眺めてみよう。城壁を図表0-7のように簡略に模式化し、空間的特徴を明確にしておこう。城壁は変則的な四角形に近く、そのうち三つの角には敷地面積の大きな建物がある。フランチェスコ会修道院、ドミニコ会修道院、イエズス会の聖イグナチオ教会である。
 フランチェスコ会修道院の建物はもともと城壁の外にあったが、防衛施設として利用できるように、城壁の修築と併行して、城壁内にとりこまれた[Krekic 1972=1990: 88-90]。軍事拠点の一つになるように空間的に再編成されたのである。ドゥブロヴニクでは宗教施設について、宗教目的にとどまらず、共同防衛の視点から理解することが必要とされる。
 この点で注目しておきたいのが「水」の問題である。「洗礼」の儀式に象徴されているように、カトリックの宗教儀礼では聖水を使う。教会や修道院では聖水用の「水」は欠かせない。二つの修道院にはそれぞれ回廊式の中庭があり、中庭の中央に井戸があった。ドゥブロヴニクが籠城した際に修道院で「水」を調達できるようになっていた。
 三つの角の一つ、海側の一隅をイエズス会が占めている。教会と修道士が学修するコレジオ(学校)があった。現在も宏壮な建築の教会があり、敷地面積は広い。戦闘の際には多目的に活用できる空間である。また、城壁の残りの一角にあったのは市の穀物倉庫である。いざというときにそなえて食糧が備蓄されていた。
 このように城壁に沿って各修道会が一つずつ規模の大きな拠点を設け、計画的に配置されていた。ちなみにベネディクト会が最も早くドゥブロヴニクに到来した修道会で、沖合にうかぶロクラム島(図表2-1参照)に修道院があった。海防の最前線で、沖合を守っていたともいえるし、万が一ドゥブロヴニク陥落の際は逃げ込む避難場所が用意されていたともいえる。
 ドゥブロヴニクではこのように宗教施設が計画的に配置され、軍事と宗教が密接に関連した都市空間が形成されていた。街の中央広場には司教座聖堂(カ テドラル)と聖ヴラホ教会という二大宗教拠点があり、街の中心から四方へむかって、城壁の角には各宗教施設が守りを固めていた。ローマカトリックで統一された宗教空間は都市防衛の空間でもあった。ローマ教皇庁の勢力下にあり、「共同防衛」と「共同祈願」の統一されたしくみが都市空間に反映されている。
 バルカンの紛争の火種の一つは昔から現在に至るまで宗教問題である。ドゥブロヴニクは空間構造的に「カトリック」都市であることを明確に示し、バルカンにおけるローマカトリックの拠点都市として重要な存在意義があった。
 
白く輝く大通り
 坂上から街へ下りて、中心の大通りを歩いてみよう。城壁にうがたれた門は四つで、古くからある門はそのうちの三つである。西側の陸路から入るピレ門、東側の陸路から入るプロチェ門、海路から港に上陸し街に入るポンテ門である。
 陸路から入る門はいずれも堅固な二重構造になっている(図表0-8)。城壁の外周に深い壕がめぐらされ、跳ね橋が架けられていた。昔は毎晩巻き上げられたという。跳ね橋を渡って外門からなかに入ると要塞で、高い壁に囲まれる。さらにその先に内門がある。万が一、敵が外門を突破して入ってきた場合、要塞の上から熱した油や石、矢を浴びせ、内門が突破されるまでの時間をかせぐ構造になっている。内門の幅は狭く、人が二人ならんでようやく通れるほどの狭い幅である。敵を防ぐための備えが周到に施されており、敵の襲来が切実な問題であったことを実感させる。
 堅固な門は現在も維持されている。車は許可された小型の業務車輌のみが早朝にプロチェ門から出入りする。徒歩で城門を通り抜け、城内に入ると車がないので安心して歩き回ることができる。
 街を東西に貫く大通りがあり、ストラドゥンという。ストラドゥンの東端がルジャ広場である。西側のピレ門から入り、ルジャ広場まで行くことにしよう。ピレ門の跳ね橋、外門から中に入ってみよう。高い壁に囲まれた要塞空間で、街なかを見通すことは全くできない。しかも足元は「く」の字に曲がった階段である。その先にある内門は小さい。実用に使われている門であるが、現在も完全に外敵を防ぐ構造が保たれていることに少なからず驚くことだろう。
 内門をくぐって城内に入ると、一転して目にまぶしい白く輝く大通りが広場まで一直線に伸びている(口絵7)。視線の先には高くそびえる時計塔、さらにその向こうには青く澄みわたる大空、まさに「アドリア海の真珠」ここにありの光景である。
 内門を通り抜けて経験する鮮やかな視野の転換には息をのむ。ストラドゥンの白い石灰岩を敷いた石畳が、長年の間に通行人の足で磨かれて、まるで大理石のように光っている。海側から上陸したとき、視野は城壁で遮られて見通しがきかない。しかし、陸路のピレ門から入ると眼前にすばらしいランドスケープが開放的に広がる。まなざしの集中点は高さ三一メートルの時計塔で、時計盤のほか銅鐘もある。定時ごとに銅製の鐘撞き男が撞く響きがいにしえへと誘う。音と風景が見事に一致した都市ランドスケープで、城壁に囲まれた都市防衛と文化的爛熟が調和した空間になっている。
 
ランドスケープとトポス
 ピレ門から市内に入るとすぐ脇に大きな水場があり、「オノフリオの噴水」という。「水」の汲み口がいくつも備えられている。ピレ門入口と水場を守るように立地しているのがフランチェスコ会修道院とクララ会修道院である(図表0-8)。フランチェスコ会とクララ会はともにイタリアのアッシジ発祥で、ブラザー・シスター関係にある修道会である。クララ会修道院の建物は城壁・要塞と一体化している。外敵襲来の際は防御の拠点になる構造である。両修道院が一体になってピレ門と水場防衛に当たる空間的布置になっている。
 ストラドゥンをルジャ広場まで進むと、突き当たりに小噴水がある。これは行政庁の建物のなかに組み込まれる構造になっている。つまり、ストラドゥンの両端に水場が確保され、それぞれ宗教施設と行政庁が「命の水場」の守りを固めている。
 ストラドゥンは日々、ドゥブロヴニクの人々が行き交う生活の道であると同時に、聖ヴラホの祭典では荘厳かつ華やかな式典が繰り広げられる舞台である。日常と非日常が交錯するドゥブロヴニクの中心的トポスである。
 
3 「城壁」と「守護聖人」の現代性
 
 このように、「城壁」「広場」「行政庁」「教会」を手がかりにすると、ドゥブロヴニク固有の都市空間や都市ランドスケープの特徴がみえてくる。都市空間の骨格は中世期に形成されたもので、自治的な都市共同体、独立した都市国家を運営していくための都市基盤であった。このような空間を構築していたことによって、ドゥブロヴニクはヴェネツィアとならぶ地中海の代表的な交易都市として長く存続することができたのである。
 中世から現代に至るまで、独自の歴史を歩んできたドゥブロヴニクの歴史的変容について一貫した視点でとらえることができるように、次の第1章では都市社会学、歴史社会学的視点に基づいて「読み解きの枠組」を示すことにしよう。そのあと第2章以下で、ドゥブロヴニクで起きた具体的な歴史的出来事にふれながら、ドゥブロヴニク独自の時間的変遷、社会構造の探究へと進んでいくことにしよう。
(図と注は割愛しました。pdfにてご覧ください)
 
 
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