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『セックスする権利』

 
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アミア・スリニヴァサン 著
山田 文 訳
『セックスする権利』

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まえがき
 
 フェミニズムは哲学ではなく、理論でもなくて、視点ですらない。世界をすっかり変えようとする政治運動である。それは次のように問いかける。政治、社会、性、経済、心理、身体の面で女性の従属を終わらせるというのは、どういうことだろう? 答えはこうだ。わからない。試してみよう。
 フェミニズムは、ひとりの女性が自分は性という階級(sex class)の一員だと認識するところから、つまり「セックス」と呼ばれるものにもとづいて劣った社会的地位を与えられた階級の一員だと認識するところからはじまる。セックスは政治に先立って存在する自然なものと思われていて、世界の客観的かつ物質的な土台であり、そのうえに人類文化が築かれているといわれている。
 この自然だと思われているもの、「セックス」を詳しく調べると、そこにはすでにさまざまな意味が含まれていることがわかる。生まれたときに身体は「男性」か「女性」に分けられるけれども、どちらか片方のカテゴリーに当てはめるために損なわれなければならない身体も多く、下された決定にあとで抵抗する身体も多い。このもともとの分類によって、身体に割り当てられる社会的目的が決まる。それらの身体のうち、あるものは新しい身体をつくり、(義務からではなく愛から)洗濯したり服を着せたりほかの身体に食事を与えたりして、ほかの身体に心地よく健康でコントロールできていると感じさせ、ほかの身体を自由な気分にさせる。つまりセックスは自然なものを装った文化的なものである。ジェンダーとは区別するようフェミニストが説いてきたセックスは、それ自体がすでに見かけを変えたジェンダーにほかならない。
 「セックス」ということばには別の意味もある。性別化された身体でわたしたちがおこなうセックスである。ある身体は、ほかの身体にとってセックスするために存在する。ある身体は、ほかの身体の快楽、所有、消費、崇拝、奉仕、承認のために存在する。この第二の意味でのセックスも、自然なもので政治の外に存在すると言われている。フェミニズムはそれもまたフィクションであり、特定の利益にかなったフィクションであることを示す。このうえなく私的(プライベート)な行為だと思われているセックスは、実は公的(パブリック)なものである。わたしたちが果たす役割、感じる気持ち。だれが与え、だれが受けとり、だれが求め、だれが奉仕し、だれが欲し、だれが欲され、だれが恩恵を受け、だれが苦しむのか。これらのルールはすべて、わたしたちがこの世界に生まれるずっと前から決まっている。
 ある有名な哲学者にこう言われたことがある。フェミニストのセックス批判には反対だ。ほんとうに政治の外にいると感じ、ほんとうに自由だと感じるのは、セックスの最中だけだからと。わたしは尋ねた。あなたの妻はそれについてどう言うだろうと(直接尋ねることはできなかった。彼女は夕食の場に招かれていなかったから)。セックスが自由になりえないということではない。フェミニストはずっと性の自由(sexual freedom)を夢見てきた。フェミニストが受け入れるのを拒むのは、その虚像である。つまり平等であるがゆえではなく、どこにでもあるがゆえに自由だと言われているセックスだ。この世界では、性の自由は当然のものではなく獲得されなければならないものであり、つねに不完全である。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、より自由なセックスの実現を夢見て『第二の性』にこう書く。

たしかに、女の自律は、男たちから厄介事をなくすとしても、同時に、さまざまな便利さまで奪ってしまう。また、たしかに明日の世界では、ある種の性的な冒険を生きるやり方は消えてしまうだろう。しかし、そうだからといって、愛や幸福や詩まで追い出すことにはならない。私たちの想像力のなさがいつも未来を貧しくすることに気をつけよう。[…]男女のあいだには私たちには想像がつかない肉体と感情の新しい関係が生まれるだろう。[…]男と女が具体的に同類になったら[…]不品行、エクスタシー、情熱が不可能になるなどと主張するのはばかげている。肉体と精神、瞬間と時間、内在の目くるめきと超越への呼びかけ、快楽の絶対性と忘却の虚無などの対立は、けっして消えることがないだろう。セクシュアリティには、つねに、存在することの緊張、苦しみ、喜び、失敗そして勝利が具現化されるだろう。[…]それどころか、人類の半分の奴隷状態とそれにともなう偽善のシステム全体が廃止されれば[…]人間のカップルはその本当の姿を見つけるだろう。

 セックスがほんとうに自由になるには、何が必要なのだろう。まだわからない。試してみよう。
 
 ここに収めたエッセイは、この世界でのセックスの政治と倫理について書いたもので、いまとは異なる世界への希望に動かされている。また、セックスを政治的な現象として、まさに社会批判の対象として考えるのを恐れないかつてのフェミニズムの伝統に連なっている。この伝統に属する女性――シモーヌ・ド・ボーヴォワールからアレクサンドラ・コロンタイ、ベル・フックス、オードリー・ロード、キャサリン・マッキノン、アドリエンヌ・リッチまで――は、「同意」という狭い枠組みをこえたところでセックスの倫理を考えるよう迫る。それに、次のように問いかけることをわたしたちに強いる。女性の〝イエス〟の背後にはどのような力があるのか。同意が必要とされること、そこからセックスについて何がわかるのか。セックスを支えられない〝同意〟の概念が、精神、文化、法律の面でなぜこれだけ重視されるようになったのか。そして彼女たちは、もっと自由なセックスをともに夢見ようと呼びかける。
 同時にこれらのエッセイでは、セックスの政治的批判を二一世紀にあわせてリメイクしようと試みる。セックスと人種、階級、障害、国籍、カーストの複雑な関係を真剣に受けとめ、インターネットの時代にセックスがどう変わったのかを考えて、資本主義国家と監獄国家の権力を発動させてセックスの問題に取り組むことが何を意味するかを問う。
 これらのエッセイは、おもにアメリカとイギリスの状況をふまえて書いている。またインドにも多少目を向けている。ひとつにはこれは、わたし自身の生い立ちを反映してのことだ。けれどもこれは、意識して選んだ結果でもある。ここに収めたエッセイは、何十年ものあいだ世界中で最も目をひくとともに、きわめて強力な形態のフェミニズムだった英語圏の主流フェミニズムの思想と実践におおむね批判的だ(もちろん英語圏の主流の外で活動してきたフェミニストは、本人たちやそのコミュニティでは目をひかなかったわけでも「非主流」だったわけでもない)。最近この支配的状況が弱まりつつあると書けるのはうれしい。それはとりわけ、フェミニストのエネルギーが近年ひときわ刺激的に表れているのが英語圏以外のコンテクストだからである。これを書いている時点での例をいくつか挙げると、右派の連立政権が人工妊娠中絶の法規制を強化したポーランドでは、フェミニストが先頭に立って国内各地で広く反対の声をあげ、五〇〇をこえる都市と町で抗議がおこなわれた。アルゼンチンでは「ニ・ウナ・メノス(Niuna Menos)」(「ひとりの女性も犠牲にしない」)のスローガンのもと、フェミニストが五年にわたってデモをして、議会を動かし中絶を合法化させた。いまも中絶がおおむね違法であるブラジル、チリ、コロンビアのフェミニストも組織化してあとにつづこうとしている。スーダンでは女性が革命的な抗議運動を率いてオマル・アル=バシールの独裁政権を転覆させ、二〇代はじめの若きスーダン人フェミニスト、アラア・サラー〔一九九六―。デモで伝統的な衣装をまとい、車上で演説する姿がSNS上で広がり「革命の象徴」と呼ばれた〕が国連安全保障理事会に要求して、女性、抵抗組織、宗教的少数派をスーダンの暫定政府へ同じ条件で参加させた。
 セックスワーカーの権利、監獄政治の破壊的な性質、現代のセクシュアリティの病など、一部の問題については、本書のエッセイは断固とした立場をとる。けれどもほかの問題では、入り組んでいてむずかしいことを単純化して簡単なものにしたくないので、どちらともつかない立場をとっている。フェミニズムは容赦なく真実を語らなければならず、フェミニズム自体について語るときにはとりわけそれが当てはまる(労働史研究者のデイヴィッド・ローディガーが書くように、「自身について率直に語る」ラディカルな運動は「「権力に真実を語る」よりもはるかに重要な活動」である)。フェミニズムは、利害関心はかならずひとつにまとまる、計画が予想外の不本意な結果につながることはない、政治は居心地のいい場所である、といったファンタジーに甘んじていてはならない。
 フェミニストの研究者で活動家のバーニス・ジョンソン・リーゴン〔一九四二―。歌手・作曲家でもある〕は、前世紀に今世紀のことを語り、真にラディカルな政治は――つまり連合体(コアリション)の政治は――そのメンバーにとってホーム〔わが家〕にはならないと警告する。

連合体の仕事はホームでする仕事ではない。連合体の仕事は街頭でしなければならない。[…]それに心地のよさを求めてはならない。なかには連合体にやってきて、そこでいい気分になれるかどうかで連合体が成功しているかどうかを評価する人もいるだろう。その人たちは連合体を求めてはいない。ホームを求めているのだ! 求めているのはミルクがはいった哺乳瓶とおしゃぶりで、連合体にそんなものは存在しない。

 リーゴンの考えでは、多くのフェミニズムで排他的な矛盾を招いているのが、政治は完璧なホームであるべき――完全な帰属の場、リーゴンが言う「子宮」であるべき――という考えである。「ホーム」と想像されたフェミニズムは、あらかじめ存在する共通性にこだわり、仲間内の牧歌的な調和を乱す者はすべて脇へ追いやる。真に包摂的な政治は、快適でも安全でもない政治である。
 本書に収めたエッセイでは、必要に応じて不快と葛藤のなかにとどまろうと試みた。これらのエッセイはホームを提供しない。けれども、一部の人には承認の場を提供するはずだと願っている。あわせて読んでもらっても、それぞれ別に読んでもらっても問題ない。何かについてだれかを納得させたり説得したりするつもりで書いてはいないけれど、納得し説得される人がいてもかまわない。これらは多くの女性と一部の男性がすでに知っていることをことばにする試みである。フェミニズムはずっとそれをしてきた。語られていないこと、かつては語ることができなかったことを、女性たちはともにことばにしてきた。最も望ましいとき、フェミニズム理論は、女性が自分たちだけでいるときに考えること、ピケラインや組み立てラインや街角や寝室で互いに口にすること、夫や父親や息子や上司や選挙で選ばれた公職者に一〇〇〇回くり返し伝えようとしてきたことに根ざしている。最も望ましいとき、フェミニズム理論は、女性の格闘に潜在する彼女たちの生の可能性を明らかにし、その可能性をたぐり寄せる。けれどもあまりにも多くの場合、フェミニズム理論は女性の具体的な生から切り離され、高みから女性の生のほんとうの意味を女性にただ語るだけだ。ほとんどの女性は、そんなうぬぼれに用はない。やらなければいけない仕事がたくさんあるのだから。
 
二〇二〇年、オックスフォードにて。
(注は割愛しました)
 
 
訳者あとがき
 
山田 文
 
 〝セックスする権利〟はあるのか。エリオット・ロジャーのようなインセルが主張するセックスする権利は、もちろんない。著者アミア・スリニヴァサンの答えは明確である。「セックスする権利はない」(p. 132)。「ほかのだれかとセックスしなければならない義務など、だれにもない」のであって「これはあまりにも自明の理である」(p. 121)。
 だが、そこで話は終わりではない。
 ロジャーがセックスできなかったのは、ひとつには彼が殺人を犯すような人間であり、自分はセックスできてしかるべきすぐれた人間だという考えにこだわっていたせいでもある。しかし他方で、わたしたちの欲望が家父長制とレイシズムの規範にもとづいた性的魅力の基準に沿って形成されていることもまた事実ではないのか? 「だれの身体がセックスする相手にステータスを与えるのか」(p. 118)を反映した〝ファッカビリティ〟によって、性的に求められる者と求められない者が決まっているのもたしかなのではないだろうか。エリオット・ロジャー事件へのフェミニストのコメントでは、そうした欲望のありかたについて、つまり「男性の欲望と女性の欲望、および両者のイデオロギー的な形成について」(p. 107)はほとんど語られなかったとスリニヴァサンは言う。
 もちろん、「あなたの欲望はほんものの欲望ではなく、家父長制、レイシズム、資本主義によって形成されている」と説く欲望のイデオロギー批判は、説教じみたものになりかねない。実際、そうした主張を展開する一九六〇年代と七〇年代の第二波フェミニズムの一派に反発し、イデオロギー批判よりも女性個人の選択を優先させて「同意」を基準にセックスを考える〝プロ・セックス〟のフェミニズムがその後は優勢になる。
 スリニヴァサンも一方でイデオロギー批判がモラリズムに陥りかねないことを認める。しかし他方でこうも論じる。「欲望の政治的批判を完全に放棄するフェミニズムは、おそらくフェミニズムを最も必要とする女性たちを苦しめる排除や誤承認の不正義についてほとんど何も語らないフェミニズムである」(p. 127)。欲望は実際に家父長制やレイシズムや資本主義によって歪められ、それらを通じて形成されているのであって、そこに目を向けないフェミニズムは、ほんとうに苦しい立場に置かれた女性の役には立たない。
 「したがって問題は、この相反するふたつのあいだにいかにとどまるかだ。つまり、ほかの人を欲望の対象とする義務はだれにもなく、欲望の対象にされる権利もだれにもないと認める一方で、だれが欲望の対象になり、だれがならないのかは政治的な問題であって、この問題への答えは多くの場合、支配と排除のより一般的なパターンに見いだされることも認める、ということである」(p. 127)。
 「相反するふたつのあいだ」にとどまろうとすること。それこそが、本書でスリニヴァサンが展開する議論の特徴にほかならない。つまり、説教じみたものになるのを避けながら構造的暴力の批判を継承しようとするのがスリニヴァサンであり、それに取り組むにあたっては、多様な立場のフェミニズム思想を幅広く援用し批判的に受容する。アンジェラ・デイヴィスやベル・フックスといった思想家だけでなく、キャサリン・マッキノンやシュラミス・ファイアストーンといった第二波のフェミニストやシルヴィア・フェデリーチら社会主義フェミニストなど、いまとなってはやや時代遅れと見なされがちな論者たちも真剣に受けとめる。それは彼女たちの(解決策にではないにせよ)問題提起に有益なものを認めるからだ。
 スリニヴァサンは、いずれかのフェミニズムの立場を完全に斥けることもなければ、無批判に受け入れることもない。それはフェミニズム思想のこれまでの蓄積に豊かさを見いだし、さまざまな立場にフェアに向きあうことでフェミニズムの内部で生産的な対話をすべきだと確信しているからである。たとえば『ラディカル・フィロソフィー』誌でのインタビューでは次のように語っている。「フェミニストの意見の相違の輪郭を描きだすことは知的に生産的だし、スリリングですらあることを学生に示すこと。読み、解釈し、議論するという厳しく細かい作業を通じて個人が大きく変化することが可能になるのだと学生に示すこと。それがわたしの目標のひとつです」。
 「個人が大きく変化する」のをあと押しする――さまざまなフェミニスト思想家と向きあうことによって、スリニヴァサンが本書で試みているのもまさにそれだと言える。いま理解され感じられている欲望はあまりにも狭く限定され固定されていて、それが不平等で不自由な性関係および社会関係の根底にある。
 欲望はいまのかたちである必要はまったくない。
 「性についての好みは変えられるし、実際に変わる」とスリニヴァサンは言う。「さらにいうなら、性的欲望はかならずしも自分自身の感覚ときれいに一致するわけではない。〔…〕欲望は政治によって選ばれたものに逆らい、欲望そのもののために選ぶことができる」(p.128)。
 その先にこそ、いまとは異なる、より自由な社会の可能性がある。
 いうまでもなく、スリニヴァサンの議論は行為遂行的(パフォーマティヴ)だ。現在の欲望のありかたおよび欲望の捉えかたの狭さと限界をことばによって明らかにし、さらに広い可能性に道をひらく。実際これはフェミニストがずっと取り組んできたことにほかならない。
 フェミニズム思想とセックスをめぐる諸問題を論じ、よりよい世界のありかたを追求するにあたって、スリニヴァサンは「入り組んでいてむずかしいことを単純化して簡単なものにしたくない」(p. xii)と言う。しかし一部の問題では「断固とした」立場をとる。その価値判断を支えているのが、インターセクショナリティの視点である。これは「単なる差異への配慮」としてのインターセクショナリティではない。「どの解放運動であっても――フェミニズムでも、反レイシズムでも、労働運動でも――関係する集団(女性、有色の人びと、労働者階級)の全員が共有するものだけに焦点を合わせる運動は、その集団の最も恵まれた人たちにいちばんプラスになる運動だ」(p. 24)と考えるインターセクショナリティである。
 「家父長制の抑圧の「純粋な」事例だけを――カースト、人種、階級の要因によって「複雑化されていない」事例だけを――扱うフェミニズムは、結局のところ豊かな白人やカーストの高い女性のニーズに資するものになる」(p. 24)という視点、それがスリニヴァサンの議論の根底にある。たとえば、「女性を信じよう」というすべての女性の側に立つように思われる主張は、黒人男性に対する不当な告発を増やし、黒人のとりわけ貧しい女性の生活に否定的な影響を与えることにつながりかねないとスリニヴァサンは警告する。
 また同様のことはポルノやセックスワークの問題にも当てはまる。全女性の解放や家父長制の解体の名のもとにポルノを規制したりセックスワークを犯罪化したりすると、それらの産業で働く(多くの場合すでに弱い立場にいる)女性たちの生活がさらに厳しくなる。「フェミニストとして、わたしたちは政治の名のもとに人びとをひどい目に遭わせたくはない」――コンバヒーリバー・コレクティヴの声明書からこのくだりを引用したうえで、スリニヴァサンは次のように主張する。「いま生きている人の生活をよくすることと、よりよい未来を目指すための主張を譲らないこと、そのどちらかを選ぶ際には、前者を選ばなければならない」(p. 223)。この視点が、監獄主義および国家権力と法律の使用に反対する彼女の「断固とした」立場を支えている。
 ジェンダー、人種、階級などにおいて最も弱い立場にいる人の現実の生活をつねに見すえつつ、フェミニズムの豊かな蓄積をふまえて、家父長制、レイシズム、資本主義がいかにセックスをめぐる現状をかたちづくっているのかを浮き彫りにする。説明と解釈、規範的な視点とひらかれた姿勢を組み合わせながら、論理的かつフェアに建設的な批判を展開する『セックスする権利』は、セックスをめぐるフェミニズムの思想と運動の歴史、およびセックスをめぐる現代の問題を概観するのにきわめて有用な一冊である。簡単でわかりやすい答えを示してくれるわけではない。しかし本書が言語化するものは、「世界をすっかり変える」ために「試してみる」(p. vii)にあたって、また「女性の格闘に潜在する彼女たちの生の可能性を明らかにし、その可能性をたぐり寄せる」(p. xiv)にあたって、信頼できる出発点を提供してくれる。
 
 著者のアミア・スリニヴァサンは、二〇二〇年にオックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジ社会政治理論チチェリ講座教授に初めての女性、非白人として最年少(三十六歳)で就任した。アイザイア・バーリンやチャールズ・テイラーら著名な思想家が就いてきたポストである。
 研究者としてのスリニヴァサンのバックグラウンドは分析哲学であり、それはかならずしも直接的にフェミニズム思想と結びついていたわけではない。しかしスリニヴァサンは大学院生のときに友人からすすめられて『第二の性』を読み、それをきっかけにみずから課外の読書会をつくって、ジュディス・バトラーなどフェミニストの文献に親しんだという。査読つきの学術誌に論文を発表するほかに、一般向けにもさまざまなテーマでエッセイや批評を書いていて、たとえば日本でも話題になったピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題』(夏目大訳、みすず書房)の書評は二〇一七年のベストエッセイとしてニューヨーク・タイムズ紙のシドニー賞を受けた。『セックスする権利』は最初の著書であり、英米をはじめとする世界中の主要媒体の多くでインタビューや書評が掲載されてすでに高い評価を得ている。現在は認識論および批判的系譜学の歴史と政治についての単著を執筆中である。(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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