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『科学で宗教が解明できるか――進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生』

 
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藤井修平 著
『科学で宗教が解明できるか 進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生』

「序論 問いと視点、研究方法と先行研究」(pdfファイルへのリンク)〉
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序論 問いと視点、研究方法と先行研究
 
1 本書の問いと目的
 本書は、二十世紀末から二十一世紀にかけて新たに生み出された進化生物学や認知科学の知見を用いた宗教に関する理論を対象に、その方法論と思想およびそれと関わる社会的変化を明らかにすることを試みるものである。
 二十一世紀に入って、二〇〇一年の人類学者パスカル・ボイヤーのReligion Explained(『神はなぜいるのか?』)、二〇〇六年の動物行動学者リチャード・ドーキンスのThe God Delusion(『神は妄想である』)、二〇〇六年の認知科学者ダニエル・デネットのBreaking the Spell(『解明される宗教』)に代表される、自然科学の知見を用いて宗教現象を解明するという試みが活発に見られるようになった。こうした研究において参照されている自然科学的知見とは、主に進化生物学と認知科学を指している。進化生物学はこれまで人間以外の動物の行動や生態、過去の形態の研究を行ってきたが、ある時から人間も対象に含めるようになった。そのような人間行動に進化生物学の視点を応用する分野として進化心理学や文化進化論が登場しており、宗教についてもこれらの分野から研究がなされている。他方で認知科学的知見を取り入れたものとしては、「宗教認知科学(cognitive science of religion, CSR)」と呼ばれる分野が二十一世紀初頭に成立し、二〇〇六年に「国際宗教認知科学会(IACSR)」が設立されるなど大きく発展している。
 本書では、進化生物学および認知科学の知見を用いた宗教理論を「科学的宗教理論」と呼び、研究対象とする。このうち「科学的」とは、何らかの基準に基づき客観的に規定されるものとしてではなく、対象となる言説が科学であることを自ら主張しているという意味で用いる。科学の語はしばしば指摘されているように曖昧さが多く、なおかつ自然科学に限らず人文科学、社会科学と幅広い対象を指しうるため、「科学的」と呼びうる宗教理論は本書で扱うものに限られない。しかし、本書が対象とする宗教理論は自ら科学的であることを強調し、後述する「モダニスト」の視点を有している点で共通しており、なおかつこの点において他の人文・社会科学における宗教理論とは十分に区別することが可能である。そのため、そのような自認を行っているものとしての「科学的宗教理論」という包括の仕方には、一定の意義が存在する。
 このような対象について本書が提示する問いは、宗教研究の分野に科学的宗教理論が登場したことが、理論的・社会的・宗教的にいかなる意味を持っているのかというものである。この問いは本研究が三つの視点を包含していることを示している。理論的な視点からは、科学的宗教理論の既存理論との差異や、科学的宗教理論に対する批判とそれへの応答を検討する。社会的な視点からは、科学的宗教理論がいかに周囲の社会状況と結び付いているかを論じる。宗教的な視点からは、科学的宗教理論がさまざまな宗教思想に対して与えた影響を扱う。
 さらに本書では、二十世紀後半から二十一世紀にかけて、自然科学の諸分野の発達によって学術領域で起きたさまざまな変化を「知の変動」と呼ぶ。そして進化生物学や認知科学の知見を応用した宗教理論が登場したのも、この知の変動がもたらした帰結だと位置付ける。すなわち、こうした宗教理論の登場の背景には、より大きな学問状況の変化が存在しているのである。そのような背景がいかなるものかを明らかにすることも、本書の目的である。
 
2 理論研究の三つの方向性
 本書の内容は宗教についての理論を研究対象とするゆえに、宗教学理論研究と呼ぶことができる。そのような研究における方法論として、既存研究を大きく三つに分類できる。
 第一の方法は、評価を目的とした分析である。これは理論研究として最も標準的な方法といえる。田丸徳善は、学説史研究の方法について、「研究作業についての記述」「その分析や説明」「その評価」(田丸 1985 : 3)という三段階の手続きが存在すると述べている。最初の段階は文献の収集や目録作成であり、次の段階はそれを元にした検討であるが、第三段階の評価については、「学説(史)研究は、承認するにせよ批判するにせよ、そもそも評価をぬきにしては意味をなさない」(田丸 1985 : 4)としている。
 だが、こうした学説の評価はいかなる基準に基づいて行いうるのだろうか。田丸はその点に言及していないが、評価とは一つの視点に立った上で初めて可能となるものである。評価を伴う分析は、誰もが同じ方法論ないし視点を共有している場合には妥当なものとなりうるが、とりわけ本書の対象はさまざまな分野にまたがるものであるため、必然的に複数の視点が混在するものとなり、それぞれの視点間の優劣の判断ができないゆえに、本書の方法としては問題があるといえる。
 それに対して、近年見られるようになった第二、第三の方法は、より研究対象そのものの理解に主眼を置いている。その一つが、ラッセル・マッカチオンの研究に代表される批判的理論研究である。彼はミルチャ・エリアーデを対象とした研究において、エリアーデの理論にいかにイデオロギー的・政治的側面が存在するかを明らかにしている(McCutcheon 1997)。彼は自らの方法について、「学界を戦場として記述する」(McCutcheon 2004 :162)手法だと述べるが、その姿勢は、学術領域も社会から切り離された中立的なものではないとし、学術領域における「研究対象の境界画定の方法、その適切な研究方法、データと方法の双方を取り巻く研究機関の種類をめぐる論争を、多くの利害関係を含んだ争いとして理解する」(McCutcheon 2004 : 162)ものである。こうした批判的理論研究は、対象の批判という形での評価が含まれている点では第一の方法と共通だが、学説をそれを取り巻く社会的・政治的文脈の中に位置付け、そうした社会的・政治的要素との結び付きを考慮する点において特色がある。
 第三の手法は、宗教学理論を思想とみなして理解を試みるものである。山崎亮(2001)のデュルケム研究、奥山史亮(2012)のエリアーデ研究、江川純一(2015)のペッタッツォーニ研究は、いずれもこれらの宗教学者の「宗教思想」を対象としている。ここでは、それぞれの理論が正しいのかどうかという評価は見られず、その代わりに思想としての意義を積極的に見出すという姿勢が取られている。奥山はそのような姿勢を取る理由について、エリアーデに対して思想的偏向が存在するという批判が行われている状況について触れ、そうした批判を引き受けつつ「エリアーデの諸活動をひとつの思想として理解し、その現代的な意義を模索する」(奥山 2012 : 6)意図があると述べている。すなわち、エリアーデに思想的偏向があるゆえに宗教理論としては欠陥があるという批判への反論は行わず、その思想に新たな意義を付与するということである。この点において第三の手法は、批判的理論研究とは正反対の方向性を有しているともいえる。このような視点はマッカチオンと同様、理論の社会的・政治的文脈を綿密に検討するものであるが、その宗教理論としての側面の検討を避ける点は、容易には賛同することはできない。他方で、宗教理論が宗教思想、ひいては「宗教」でもありうるという視点には、大いに学ぶところがある。
 これらの方法は互いに対立しているものの、必ずしも両立不可能というわけではない。それぞれの長所を取り入れることで、より包括的かつ偏りのない理論研究の方法論を構築できると考えられる。本書は、上述の第一の方法からは方法論上の検討および評価の手法を、第二の方法からは理論への批判的視点と、理論の社会的・政治的文脈やイデオロギー的側面を考慮することの重要さを取り入れ、第三の方法からは、理論が時には宗教思想と結び付きうるという視点を取り入れる。このような包括的視点に立つことによって、対象となる理論を十全に分析できるのである。
 
3 科学的宗教理論を取り巻く背景
 科学的宗教理論に注目することにはどのような意義があるのだろうか。また、現代においてなぜ科学的宗教理論を研究する必要があるのだろうか。その理由は、とりわけ日本の宗教研究において、進化生物学的宗教理論および宗教認知科学に対する関心がほとんど見られず、これらの分野からの貢献がほぼ無視されているためである。
 国内においても、本書で扱う認知科学の分野や「科学と宗教」の主題に対する研究が皆無だったわけではなく、とりわけ宗教の神経科学(脳科学)的研究や、心の哲学との関わりについては先行研究が存在する(芦名・星川2012 ; 星川2012 ; 芦名 2018 ; 冲永 2018)。しかしこうした研究は、本書が対象とする科学的宗教理論とは十分な重なりを見せていない。というのも、第3章で詳述する宗教認知科学は、同じ認知科学の名を冠してはいるものの、心の哲学の扱う心身問題といった側面にはほとんど言及しておらず、他方でこれらの先行研究にも宗教認知科学への参照は見られないからである。
 科学と宗教の関わりをめぐっては、とりわけ二〇〇七年のドーキンスの『神は妄想である』の邦訳刊行と前後して、進化論とキリスト教の関係が論じられるようになっている(大谷2001 ; 芦名 2008 ; 金 2009)。同時に、主にキリスト教神学者による科学と宗教に関する著作の翻訳も積極的に行われた(ポーキングホーン 2000 ; バーバー2004 ; マクグラス 2009)。本研究が扱う科学的宗教理論の片方の軸は進化生物学であるため、進化論とキリスト教という主題はそうした理論の社会的側面と関わっている。そのためこれらの研究は、科学的宗教理論の社会的意義を検討する第5章・第6章で参照する。
 一方で、科学的宗教理論そのものを扱った研究についてはどうだろうか。日本の宗教研究者にとって、科学的宗教理論の観点からの発表が数多く行われた国際宗教学宗教史会議(IAHR)の二〇一〇年トロント大会は、そのような視点に接する重要な機会だった。当大会の報告を行った澤井義次は、「人文科学や社会科学さらには自然科学の視座から提示された宗教の理論や仮説を検討することによって、宗教をめぐって様々な討議をおこない、宗教研究の新たな枠組みを模索することが、この大会の主要な目的であった」(澤井 2010 : 162 – 163)と述べている。さらに、二〇〇八年にボイヤーの『神はなぜいるのか?』が、二〇一一年にニコラス・ウェイドの『宗教を生みだす本能』が、二〇一二年にジェシー・ベリングの『ヒトはなぜ神を信じるのか』が翻訳出版され、一般社会にもこうした研究が浸透し始めていたといえる。
 実際にこの大会の後に科学的宗教理論に着目した研究者はおり、井上順孝は「認知宗教学」を提唱してこうした視点の導入を積極的に行っているが(井上 2012 ; 2014 ; 2018 ; 2019)、他の研究者による言及はわずかに数えるのみであり(アラム 2011 ; 中野 2014)、それ以外の研究者はこの主題に対してほぼ無関心であったといえる。
 このような状況は偶発的に生じたものではなく、日本の宗教研究が依拠する知の伝統と、科学的宗教理論が依拠するそれとが根本的に異なっていることが、科学的宗教理論の等閑視を生み出している。その点は、前述のIAHRトロント大会についての藤原聖子の見方からも明らかである。藤原は、当大会は「このところのポスト植民地批評志向からの一八〇度の転換、すなわちネオ普遍主義、白人男性再中心化を示すもの」であり、当大会の「科学主義的客観主義は、宗教擁護的な宗教学(その代表と見なされるのがエリアーデ・シカゴ学派)を、過剰なまでに警戒し、宗教学から駆逐しようとする勢力から生まれてきたものである」(藤原 2011 : 1)と述べている。ここで藤原は、「ポスト植民地批評志向」とトロント大会の「科学的客観主義」の姿勢が正反対のものであるとするのと同時に、後者とエリアーデ・シカゴ学派もまた対立するとしている。ここには三つの軸が存在しているが、それらの関係性を整理することは科学的宗教理論が現れた背景の理解にとって重要であるため、第1章で詳しく論じる。
 
4 現状の問題点とその解決方法
 このような現状の分析から、三つの問題点を挙げることができる。それは、(1)科学的宗教理論に対する理解と受容が欠けていること、(2)科学的宗教理論と既存の研究との間に断絶が存在すること、およびその結果として、(3)科学的宗教理論の社会的背景が明らかにされていないことである。これらの問題を解決するために、本書では次のような視点を設ける。
 第一の点はすでに述べたように、とりわけ日本国内においては科学的宗教理論への着目がほとんどなされていない。この点に関しては、何よりも科学的宗教理論が依拠している進化生物学や認知科学、心理学の理論や視点についての知識が欠けていることが原因と考えられる。そのため科学的宗教理論に対し、それらが依拠している諸分野の発展や理論を把握することによって、科学的宗教理論の十全な理解を試みる。
 第二の点は、科学的宗教理論を提唱する研究者と、既存の研究者の間に根本的な姿勢の不一致が存在することを意味している。この点についてはまず、それはどのような不一致なのかについて、宗教学の方法論上の議論の分析から明らかにする。加えて、そうした不一致のために、双方の側の研究者の間で交流がほとんど行われていないこともまた問題である。両者は相容れないものとして互いに批判を行うのみで、両者の一致点が見出されることはない。そこで、科学的宗教理論の視点と既存の視点の「対話」の試みとして、いかなる点において双方が対立するのかを明確化するために、いくつかの論点に分けて科学的宗教理論に対する批判を検討する。
 第三の点は、そのような科学的宗教理論に対する批判を踏まえたものである。批判者が指摘しているように、彼らは自らの理論や研究の「科学性」を強調することでそうした研究が自律的であると主張し、それらを取り巻く社会や権力との関係を見えなくしている。そのため、科学的宗教理論の社会的背景として、同理論と関連して論じられる科学と宗教の関係についての言説が及ぼしている影響に着目する。
 本書は、これらの視点に従って構成されている。第1章「エリアーデ批判以後の日米宗教学の道程と課題」では、科学的宗教理論と既存の視点の間にどのような差異が存在するのかを、方法論上の議論の変遷から明らかにする。第2章「進化生物学における宗教理論の発展」と第3章「宗教認知科学の成立」では、それぞれ進化生物学を用いた宗教理論と宗教認知科学の成立に至る知的背景を詳述しながら、それらの理論を記述する。第4章「科学的宗教理論がもたらした論点」では、両者の宗教理論に対する批判を検討し、いかなる論点において対立が生じているのかを検討するとともに、科学的宗教理論が内包する「宗教」および「科学」概念についても批判的に分析する。続く二つの章では科学的宗教理論の宗教思想への影響を検討するが、科学の発展は宗教的信仰を否定する結果をもたらすのか、あるいは両者は共存可能かという問いへの反応に基づいて対象を二つに分類し、第5章「科学的宗教理論が内包する反宗教思想」では科学を根拠とした宗教の否定および科学に基づいた宗教思想が構築される様子を、第6章「科学と共存する宗教思想」では科学の発展が宗教にとってもよい影響をもたらすとする姿勢を扱う。
 本書の研究対象については、中心となる主対象を設け、それにさまざまな副対象が関連するという形で規定を行う。主対象となるのは科学的宗教理論であり、社会生物学、進化心理学、文化進化論の視点に基づいた宗教理論および、宗教認知科学(CSR)が該当する。副対象となるのはそれらに隣接するものであるが、各章の視点ごとにその対象は異なる。第1章では、科学的宗教理論に親和的あるいは批判的な、宗教学の方法論についての言説を副対象とする。第2章、第3章では、科学的宗教理論の基礎をなしている進化生物学、認知科学、人類学および心理学上の知見が副対象となる。科学的宗教理論への批判を検討する第4章では、そうした批判を行っている同時期の宗教研究の言説が副対象となる。さらに科学的宗教理論に影響を受けた宗教思想を扱う第5章、第6章では、新無神論、宗教的ナチュラリズム、神経神学、宗教心理学などが副対象となる。このような形で分析の視点に合わせて適切な副対象を選択することで、科学的宗教理論を中心として学術領域と社会の双方の繋がりを把握することができる。
 
 
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