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『生命と身体――フランス哲学論考』

 
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檜垣立哉 著
『生命と身体 フランス哲学論考』

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まえがき
 
 本書は、筆者がその都度、機縁をえて著してきたフランス哲学関係の論文をまとめたものである。冒頭部分、とくにバトラーの『物質=問題となる身体』をあつかった箇所は書き下ろしである。他の諸章はもともと独立した論考であり、たまたまこれまでの私の著作に未収録のものである。その意味で諸章は、一冊の書物に収録されることを念頭におかれて書かれてはいない。本書のとりまとめにあたっても、基本的な表現の統一を図った箇所はあるが、多くの部分は、それぞれの元の論文のスタイルを残してある。
 とはいえこれは筆者の、ほぼ三〇年にわたる、フランス現代思想という領域を巡って書かれた思考の軌跡でもある。『生命と身体』という、いささかおおげさな書名をつけさせていただいたのも、そうした筆者の思考の理路を提示するのに、もっとも適したものだとおもわれたからである。
 本書は、テーマにしたがって四つの部に区切っているが、おおまかには、冒頭から年代を遡りつつ論文が配置されてもいる。こうした四つの部のテーマ設定は、それぞれの時期における「身体と生命」というテーマが焦点化するものをあつかっている。
 第Ⅰ部の「ジェンダーと身体」は、いわば身体生命論の現在型である。とりあげられるバトラー、グロス、その上世代のイリガライなどはすでに一九八〇年代以前から活躍しているのだが、生命や身体というテーマについて、理論的な水準で、包括的に理解する作業がはじまったのは、日本においては近年においてである。そこではジェンダー論が、インターセクショナルなかたちで人種論、障害論、動物論、さらにそれらを統合する政治の理論にむすびつけられていく。それはフランス思想というよりも、アングロサクソン化された「フレンチ・スクール」の思考であるともいえる。
 ただし今回は、こうした「進むべき先」については、冒頭のグロスの論考で触れるのみにとどまった。一連のインターセクショナルな思考は、世界水準においても現在進行形のものである。そこでは、身体の自然性や「唯物論性」、生態系的展開などが問題となっていることが強く関心をひく。本来であれば、「マルチスピーシーズ」の議論に火をつけたハラウェイや、ポストコロニアル的な身体をジェンダー論的にも押さえるスピヴァクなどの仕事も、ここで総合的に参照されるべきだろう。だがそれらは、「今後の」課題とさせていただいた。この領域が、一面ではレヴィナスの特異な生殖論と関連もし、それ自身が現代フランス哲学をバックボーンとしている事実の一端が示せればとおもう。
 第Ⅱ部の「動物と人間」は、フランス現代思想において明確になった、人間身体の「動物性」に焦点を当てるものである。デリダ後期の動物論や、フーコー後期の生政治論は、そもそも「人間」という近代的構成物を解体した「あと」や、その「境界」の向こう側に何がたち現れるのかをひとつの論点としていた。ここで詳細に論じられてはいないが、それはドゥルーズ=ガタリの「動物になること」とも連関し、「動物性」こそが人間のあり方を掘り崩すものとして、現代思想においてひきたてられてきた流れがある。それは先の、生態系的な思想の探究につながるし、また生命科学や脳科学がおおきな進展をとげる二一世紀の思考にもむすびつく。フランス現代思想の論者が、一面ではレトリカルな要素を含めつつ「人間を解体する」と主張した内実が、今や具体的に進行しているともいえる。ここでも本来書かれるべきは生態系論・動物論・脳論の将来であり、政治や倫理への展開であろう。ここでは、フランス現代思想がそうした「方向性」をもつポテンシャルを示すことが重要におもえた。
 第Ⅲ部の「生の哲学」は、上記の議論にかかわる「生の哲学」の論者としてのベルクソンおよびドゥルーズ等の論じる個別のテーマをあつかったものである。全体として、人類学、テクネー、記憶といった問題が(筆者自身もあまり意識しないうちに)これらの議論からたち現れている。一連の議論は、とりわけ近年のものとしては拙著の『バロックの哲学-―反―理性の星座たち』(岩波書店、二〇二二年)に執筆した思想史的作業と連関しており、参照願えれば幸いである。
 第Ⅳ部は、すでに三〇年も昔の論考を含む、自己の思考の端緒となった論考群である。それらは、おもに現象学的身体論であり、筆者が八〇年代に大学で学んでいた日本のアカデミックな思想状況と一致しもする。現象学的身体論は、身体や生命の議論において、フランス思想として原初に位置づけられるものである。もちろんこれらの思想は、今となっては古めかしさを感じさせもする。ただし、現象学的な論点が、二一世紀的な諸議論のなかで再び生かしなおされることは、近年のメルロ=ポンティのもちいられ方をみても明らかだろう。ベルクソンの思想が、ドゥルーズという媒介項を経て、ポストモダンの諸領域に影響を与えなおしたように、メルロ=ポンティ、あるいはサルトルといった現代思想以前の思考は、一周巡って現代の最前線において必要視される可能性もある。そうした意義を期待しつつ、これらの論考を採録した。
 以上で明らかなように、本書は「中間報告」にすぎない。フランス現代思想は、二一世紀のアングロサクソン化の波のなかで、「フランス語圏」という枠組みを超え、様々な領域に拡散し、膨大なアイデアを供給している。私が残りの人生でそれらにどこまで追いつき、さらに自分の思考としてとらえなおしうるのかはわからない。だが、フランス現代思想は、実は現時点において、ようやくその本領を発揮する「とば口」にたったのではないかという感触をもちもする。「現代思想」という、もともと「あらゆる時代の今の思想」を示す言葉が、一九六〇年代を中心としたドゥルーズ・フーコー・デリダによって「専有」されたことが意味することもそれにかさなる。これらの思想は、すでに主著の刊行から半世紀たち、それぞれの論者の生誕百年が近いという点からみても、もはや「古典哲学」である。私がこれらの思想に向きあってきた三〇年間は、そうした「現代思想」の「古典化」がはかられるという、パラドックスのような時代でもあった。だがそこでは「当代流行りの思想」としてもてはやされた読解ではなく、二一世紀思想を準備するそれらがもつポテンシャルが、まさに解放されてくる作業がなされてきたといえる。「古典化」とは、予想もできない思考がでてくるスプリングボードを描くこととしてのみ意味をもつだろう。
 こうした「未来の無限の拡がり」が、溢れんばかりの重要性をもって視界に入ってきたという意味で、この書物は、まさに「折り返し」の「中間報告」なのである。いってみれば、すべてが「これからだ」、という段階である。実際には、「これからだ」といっているうちに私自身の生は尽きるだろう。しかしそれは何ひとつ問題ではない。書かれたものは、見知らぬ者、場合によってこの世で生をともにしない他者に、「これからだ」という声をひきつぐことでもある。ここでの乏しい成果が、そうして「誰か」につながってくれることを、ただ願うのみである。
 
 
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