あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
中島弘二 編著
『帝国日本と森林 近代東アジアにおける環境保護と資源開発』
→〈「序章 なぜ日本帝国の森林なのか」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「序章」本文はサンプル画像の下に続いています。
序章 なぜ日本帝国の森林なのか
中島弘二
1 「帝国と環境」をめぐる近年の環境史・科学史研究の展開
近年の環境史における「帝国と環境」に関する研究において、グレゴリー・バートンの『帝国林業と環境主義の起源』(Barton : 2004)は環境主義と帝国主義の関係についての包括的な議論を提起したという点で画期的な著作であった。バートンは同書において、「環境主義は、いつ、どこで始まったのか?」という問いに対して、一九世紀の英領インドにおける植民地官僚による新たな森林管理システムの導入にその答えを見出している。英領インドで森林総監査官を務めたディートリヒ・ブランディスは統治の必要性、経済的な収益性、そして生態学的な必要性を調和させる多目的な森林管理システムを導入することで、新たな帝国林業のモデルを作り上げることに成功したとしている。そしてこうした英領インド初の帝国林業モデルは、その後、アフリカやオーストラリア、そして北米など世界中の英連邦領に広がり、国際的な環境主義の思想の普及につながっていったとしている。帝国主義と環境主義の関連性については、すでにGrove(1995)やKatz(1995)、Rajan(1998)等による問題提起がなされていたが、バートンはこの問題をさらに発展させて、英帝国による植民地経営の国際的なネットワークを通じて、その後の国際的な環境主義思想の発展につなげて理解した点は高く評価される。
また、バートンは一九四五年以前の環境主義においては資源の適正利用をめぐる功利主義的な保全概念が中心であり、この功利主義的な環境主義は帝国の文脈で発展したこと、そしてこの新しい帝国的な自然管理は、国家権力の大幅な拡大と植民地科学の発展という新しいタイプの進化を伴うものであったことを指摘し、この点に帝国主義と環境主義の歴史的な結びつきを見出している(Barton : 2001, 542︲543)。Worster(1994)やLavigne(2006)によれば、米国における環境保全のルーツには、大きく二つの潮流が見出されるという。一つは英国の牧師・博物学者ギルバート・ホワイトに始まるロマン主義的な環境保全の流れであり、ミューアに代表される後の米国の保護主義的な保全(protectionist school of conservation)につながるものである。もう一つは英国の法学者・哲学者フランシス・ベーコンに始まる功利主義的な環境保全の流れであり、ギフォード・ピンショーに代表される後の米国の進歩主義的な保全(progressive conservation)につながるものである(図序︲1)。バートンが指摘したのは、この後者の進歩主義的な保全概念(バートンの言葉を借りれば功利主義的な環境主義)が、英帝国による植民地経営と植民地ネットワークの広がりの中で発展していったという点であるが、Lavigne(2006)が指摘するように、こうした進歩主義的な保全概念こそが一九八〇年代以降の持続可能な開発概念につながっていったと考えられる。その意味において、バートンが指摘した環境主義と帝国主義の結びつきは、形を変えて現代の「持続可能な開発」概念にも受け継がれていると言えるだろう。
いずれにしても、環境主義思想の起源を西欧列強の植民地開発の思想と実践、植民地科学の展開を通じた環境に関する新たな知の生産とネットワークの形成に求めるという問題設定は、例えばRajan(2006)や水野(2006)、Beinart and Hughes(2009)、Bankoff(2009)など、その後の多くの研究によって受け継がれ、さらに発展してきている。とりわけ、植民地科学のあり方をめぐっては、西欧から非西欧への植民地科学の一方向的な「拡散」や帝国支配の「道具」としての植民地科学といった固定的・対立的な視点から理解するのではなく、むしろ西欧的な知と植民地のローカルな知の相互作用や、植民地科学者や植民地官僚間のネットワークを通じて環境に関する新たな知や認識が形成されてきたことが注目されている(Bennett and Hodge 2011)。そうした観点から水野(2020)は、英帝国の植民地体制において形成された「エコロジカルな開発」概念と植民地科学者間のネットワークが、第二次世界大戦後の国際開発援助体制の成立過程で途上国の資源開発に対する技術援助において大きな役割を果たしたこと、そしてこのような植民地科学者による調査・研究の展開と国際的な開発援助への積極的な関与によって開発と環境のバランスをとることの必要性が強く意識されるようになり、そのことが一九七二年の国連人間環境会議へとつながったことを指摘している。
このように、近年の環境史における「帝国と環境」に関する研究においては、現代の環境主義思想の起源が帝国主義時代の植民地経営における開発と保護をめぐる思想と実践に求められること、そしてそうした思想と実践が第二次世界大戦後のポストコロニアルな文脈においても継承されていることが明らかにされてきた。この点は、本書「まえがき」に記した現代の森林問題を考えるうえでも十分に検討されるべき視点だと思われる。
2 なぜ、日本帝国の森林なのか
しかしながら、このような近年の環境史における「帝国と環境」に関する研究のほとんどは西欧帝国主義、中でも英帝国主義に関するものである点は注意しなければならない。インドやアフリカなどの非西欧地域も、それらが英帝国の植民地である限りにおいて取り上げられてきたのである。歴史上、帝国主義の形は様々であり、そこでの環境への関わり方もまた多様であることが推察される。とりわけ、近代以降の非西欧諸国における唯一の帝国主義国家であった日本は、その歴史的地理的状況によってヨーロッパのそれとは全く異なる帝国主義の道をたどり、多くの点でユニークな特徴を持っている。マーク・ピーティ(2012)が指摘するように、隣接するアジア地域への勢力拡大という日本帝国主義の特徴は地政学的戦略性に貫かれたものであり、この点において先発の欧米帝国主義による植民地拡大とは大きく異なっていた。「日本を海外帝国の建設に踏み切らせた要因の中で最も突出し、決定的であったのは、島国としての安全保障上の利益であったことが明らかである。(中略)近代植民地帝国の中で、これほどはっきりと戦略的な思考に導かれ、また当局者の間にこれほど慎重な考察と広範な見解の一致が見られた例はない。」(ピーティー:2012, p. 26)そして、総力戦を戦うという観点から帝国圏が有機的に位置づけられ、人的資源を含む様々な資源が動員されたところに、日本帝国の際立った特徴があるとされる。
森林の保護と開発を考えるうえでも、これらの点を念頭に置く必要があるだろう。英帝国における植民地の森林政策とは異なり、日本帝国においては日本本土の森林政策、林業政策との密接な関係のうえに植民地や支配地域の森林経営がおこなわれていたと考えられる。とりわけ、総力戦体制のもとでは日本を中心として植民地の樺太、北海道、朝鮮、台湾から、日本の勢力圏とされた満州、中国、東南アジアまでを包含する「大東亜共栄圏」のすべての資源を総動員して戦争を戦い抜くことが求められたのであり、森林資源もそうした総動員体制の中に組み込まれていったのである。このような近接するアジア地域への植民地拡張という日本帝国の特徴は、Morris-Suzuki(2013)が指摘するように、中心(本土)と周辺(植民地・支配地)との環境的な相互作用の可能性を高め、西欧帝国主義とは異なる植民地科学と資源利用のネットワークを形成したことが推察される。Morris-Suzuki(2013)は、そうした日本帝国の森林政策の特徴として合理主義とロマン主義の混在を指摘し、その点に日本帝国主義による植民地的近代性(colonial modernity)の核心を見出している。すなわち、科学的な専門知識や分類、計測、地図化を旨とする科学的林業の合理主義が支配的となる一方で、「愛林思想」の普及に典型的に見られるように「森を愛する民族」としての日本人という自然と人間との特殊な結びつきのうえに国民的アイデンティティを構築しようとするロマン主義も併存する点に、西欧の帝国林業とは異なる日本の帝国林業の特徴が見出されるというものである。
このような合理主義とロマン主義が混在する日本の帝国林業において、森林の保護と開発はどのように理解されるのだろうか。本書第六章の朝鮮における帝国林業の性格規定をめぐる問題でも検討されているように、これまで植民地における日本の森林政策については、植民地から土地や資源を収奪したとする「収奪論」と、植民地の経済や社会を近代化させたとする「近代化論」の間で揺れ動いてきたように思われる。しかし、このような収奪か近代化かという二元論では、実際の帝国林業の様態を適切に理解することは難しい。例えば、台湾総督府林業試験場技師で後に九州帝国大学教授となる金平亮三は植物学者として植物標本の収集・分類に心血をそそぐと同時に、大東亜共栄圏の森林資源開発を促進するための応用的・実践的な研究も行った。また、朝鮮総督府殖産局山林課初代課長を務め、後に自らの林業事務所を開業した齋藤音作は、植民地官僚として朝鮮の山林緑化に尽力したが、そうした緑化事業を日本帝国の中国大陸への進出の「試金石」と位置付け、内地の日本人に朝鮮での植林事業への投資を呼びかけていた。このように、帝国林業をめぐる思想と実践は複雑であり、収奪―近代化の単純な図式にはあてはまらない。そこでは、植民地の荒廃した林野を緑化し森林を保全することと、日本帝国の資源開発政策のもとで植民地の森林資源を活用することが両立しているのである。この点に西欧帝国主義とは異なる日本帝国主義と環境主義との結びつきの一端を見出すことができるだろう。
次に、総力戦体制のもとで帝国圏が有機的に位置づけられ、様々な資源が動員されたという日本帝国主義の特徴を考えるうえで重要になるのが、森林の「資源化」という視点である。農業史の野田公夫らの研究グループは植民地や支配地域を含む旧日本帝国においては総力戦体制と結びついて総体として自然の「資源化」が促進され、これがその後の資源利用の基礎を形作ったと指摘する(野田:2013a, b)。「資源化(resourcing)」とは、自然的素材が生産・消費活動の対象として位置づけられるようになることを意味するが、「とりわけ日本においては総力戦体制と抱き合わせで軍と政策サイドによって積極的に採用され、いわば政治的に、国を挙げて「資源化」が促進されたところに大きな特徴があった。」(野田2013a : 2 )とされる。なぜなら、「総力戦体制のもとでは、国力を担保するものとして資源こそが決定的な意味を持つとともに、国力というトータルな概念に対処すべく資源概念自体が包括的なものへと拡張された。」(野田:2013a, p. 5)からである。ここでは、自然的素材が経済活動の対象として位置づけられるようになるだけでなく、国力を構成する要素としても位置付けられるようになったことが指摘されている。「帝国の自然」という問題を考えるとき、この指摘は重要である。単に資本主義的発展のための素材としてだけでなく、軍事的、政治的、社会的、文化的な潜在力の増強をトータルにとらえる中で「帝国の自然」が位置付けられるようになったことは、とりわけ日本における森林資源の保全と開発の歴史を考えるうえで重要であると考えられる。
森林も、ただジャングルの中に自生しているだけでは利用の対象とはならず、ゆえに資源とみなされることもないが、ひとたびそこに利用価値が見出されれば、開発のための潜在的な資源としてまなざされることとなる。そして、そうしたまなざしが最も顕在化してくるのが総力戦下の総動員体制においてなのである。野田らの研究グループのメンバーとして近代日本における森林の資源化について検討した大田(2013)は、しかしながら、総力戦下の国家総動員体制のもとで木材増産が強引に進められた結果、森林資源の劣化が進行したと指摘し、明治後期から昭和初期にかけて動き出した森林資源化の動きは総力戦体制のもとで崩壊したと位置付けている。確かに、計画的・規則的な伐採と植林に基づく近代的な森林管理を通じて将来にわたって持続的な木材生産を可能とするという保続林業の考え方(そして、それは日本の近代林学の中心にあった思想である)に基づけば、軍需用材供出のため過伐を繰り返し日本本土の森林荒廃を引き起こした戦時下の森林利用はお世辞にも持続可能性があるものとは言い難い。しかし、日本が総力戦の時代に突き進み出した一九三〇年代以降は、第三章で見るように御大典記念緑化運動や愛林運動、挙国造林運動など国家を挙げて緑化運動が進められた時代でもある。また、第八章で見るように、不足する日本本土の森林資源の代わりとなる新たな森林資源を求めて南方へと進出した時代でもある。それらは、日本帝国林業の全体の中で相互に関連し合いながら展開されていたのである。それらも含めて日本の帝国林業の全体を見た時に、やはり総力戦体制のもとで森林の「資源化」が進行したと見ることができるだろう。
Morris-Suzuki(2013)も指摘するように、日本帝国の森林・林業に関する研究は必ずしも多くはない。『北洋材経済史論』(萩野:1957)、『南洋材経済史論』(萩野:1961)、『朝鮮・満州・台湾林業発達史論』(萩野:1965)、『日本軍政と南方占領地林政』(萩野:1997)、『日露国際林業関係史論』(萩野:2001)など、萩野敏雄による一連の経済史的研究は徹底して一次資料に基づいて実証をおこなうその緻密な分析手法とともに、この分野における先駆的な研究として高く評価されるものであるが、その発展段階論的な視点は先述のような現代へと繫がる環境主義の問題や帝国林業の問題、総力戦体制のもとでの資源化の問題等を把握するには必ずしも十分ではない。一方、近年においては本書と問題意識を共有するような研究も少しずつではあるが現れつつある。例えば、世界各地の森林破壊の歴史を多角的に検証した井上貴子らの研究グループの研究(井上:2011)は、先に紹介した海外の環境史研究の成果をふまえながら日本帝国を含む世界各地の森林破壊についてその要因や背景を多角的に検討している。とりわけ、編者の井上(2011,pp. 26︲27)による「近代の帝国本国/先進国および植民地・従属国/途上国における森林破壊あるいは保全の実態を把握し、通時的な視点から再検証することが必要であろう」という指摘は本書の問題意識と共通している。
日本帝国内の個別地域における帝国林業の展開に関する研究は、本書の執筆者によるものも含めて、近年着実に蓄積されつつある。竹本(2009)は近代日本における学校林の形成と展開を森と教育をめぐる共同関係という視点から歴史的に検討したものであるが、そこでは日本本土や朝鮮における緑化運動の実態が詳細に明らかにされており、前掲の井上(2011)所収の松本(2011)による植民地朝鮮における緑化主義に関する検討とも関連して、たいへん興味深い問題を提起している。米家(2019)は、歴史地理学の視点から近世から近代に至る焼畑の変遷を明らかにしたが、近代以降の焼畑については国土の植生管理という観点から近代林学が焼畑をどのようにみなしていたのか、また植民地朝鮮において環境保全の文脈から焼畑がどのようにとらえられていたのかを明らかにしており、本書の問題意識を先取りしたものであると言える。なお、同様の視点からKomeie(2006, 2021)は植民地朝鮮や植民地台湾の植生、とりわけ焼畑や原野などの植生を日本の林学者・林業官僚がどのようにまなざしていたのかを検討している。また、近年のすぐれた研究成果の一つとして、Fedman(2020)による植民地朝鮮における日本の森林保全に関する研究が挙げられる。Fedman は、日本帝国によってもたらされた造林や育林、そして愛林運動などの諸実践が植民地朝鮮における国家権力の重要な側面として機能していたことを明らかにしており、日本帝国林業研究の重要な成果と言えるだろう。また台湾に関しては、中島(2021)が日本帝国の南方関与の歴史における台湾の位置付けという観点から、台湾林政の推移を検討するとともに、台湾総督府の林業試験研究機関における試験研究の検討を通じて、帝国林業における森林管理の一端を明らかにした。しかし、植民地台湾の帝国林業については台湾人研究者によって多くの研究成果が出されており、例えば一九一〇年代に実施された林野調査によって区分された「準要存置林野」が、当時の台湾における行政空間と林業空間、そして先住民族の生活空間の重層的関係の中でどのように生み出されていったのかを批判的に検討した洪ほか(2019)の研究は、帝国林業と台湾先住民との関係を考えるうえでたいへん興味深い。樺太については中山(2013, 2014)が農業史や移民史研究の視点からいくつもの研究成果を上げてきており、その中で樺太林業の位置付けについても言及している。一方、満洲については、永井(2011, 2013)が日本による満州での森林開発の実態と、それが満洲の森林に与えたインパクトについて検討している。
先にも述べたように、日本帝国主義はその地政学的特徴において西欧帝国主義とは大きく異なり、そのことが植民地や支配地域における森林の開発と保護にも大きく影響していると考えられる。また、日本帝国のもう一つの特徴として、日本本土へ近接した東アジアから東南アジアへと広がる中で北は亜寒帯から南は熱帯まで、その環境的多様性が極めて大きい点である。もちろん、世界最大の勢力圏をほこる英帝国も寒帯のクイーンエリザベス諸島(現カナダ領)から熱帯雨林気候のシンガポールまで多様な環境条件を有しているが、世界各地に分散していることもあり、それらすべてを有機的に結びつけて植民地経営をおこなうことはなかった。しかし、日本帝国においてはこうした環境的多様性をふまえたうえで、それぞれの地域の森林資源を有機的に結びつける必要があった。その結果、森林の保護と開発にあたっては、それぞれの地域の環境条件をふまえつつも有機的な連関が求められるという難しい舵取りが必要とされたのである。こうした点も、日本の帝国林業を考えるうえでは重要なポイントになると思われる。
以上のように、西欧帝国主義を中心とするこれまでの「帝国と環境」の議論を十分にふまえたうえで、それらを相対化し、東アジア・東南アジアにおける森林の保護と開発を日本帝国主義との関係から批判的に捉え直すことが本書の課題である。本書では朝鮮、台湾、北海道、樺太、満洲、東南アジアなどの日本帝国の植民地・支配地域における森林の保護と開発の実態をふまえたうえで、森林の「資源化」の諸相を明らかにすることで、①東アジア・東南アジアにおける森林の開発と保護を日本帝国の地政学的枠組みとの関連で解明すること、②西欧帝国主義を中心とする「帝国と環境」をめぐる議論を日本帝国主義の文脈から捉え直すことを目的とする。これらの作業を通じて、現代の東アジア・東南アジアにおける森林の開発と保護を考えるうえでの新たな視点を提供することができれば本望である。
3 「帝国林業」、「帝国日本」、「森林保全」
本書では「帝国林業」という言葉を用いている。これは英語で書けば“empire forestry”である。この言葉は前掲バートンの書籍にもタイトルとして用いられており、少なくとも英語圏では決して特別な言葉ではない。本書収録の水野によるコラム「イギリス帝国と森林」でも記されているように、「帝国林学会議(Empire Forestry Conference)」や「帝国林学雑誌(Empire Forestry Journal)」などの名称として用いられていたものである。しかし、英語の“forestry”という語には「林学」と「林業」の二重の意味が込められており、それは文脈に応じて使い分けられている。このことは、“forestry”が常に知と実践が混じり合ったものとして存在していたことを含意しており、その点にわれわれは特段の注意を払う必要があると思われる。
一方、日本帝国においては財団法人「帝国森林会」や同会発行の統計書『帝国林業総覧』などを除けば、一部の林業ジャーナリズムにおいて「帝国(の)林業」ないし「帝国(の)林学」という言葉がたまに用いられる程度で、「帝国林業」はあまり一般的な言葉とはいえなかった。この点に、植民地と本国の間、および帝国内の植民地間で相互に関連しながらも、英国本国における林業や林学からは相対的に区別されながら、それぞれの植民地において展開されていた英帝国の植民地林業・林学に対して、本土の帝国大学を中心とする林学アカデミズムと植民地林業官僚、そして林業資本が独特なかたちで階層的に結びついていた日本帝国の林学・林業との違いを見いだすことができるかもしれない(この点についてはあらためて別の機会に論じてみたい)。
いずれにしても、本書では「帝国林業」という言葉を当時の日本における一般的な用語としてではなく、ある学術的な意味を持つ言葉として用いることとしたい。それは文字通り日本帝国において展開された林業をめぐる知と実践の総体と定義されるものだが、本書がこうした言葉を用いる背景には、「植民地林業colonial forestry」との区別がある。植民地林業は文字通り植民地において展開された林業の意味だが、これを字義通りにとらえると、日本の公式的な植民地とされた朝鮮や台湾以外の樺太や北海道、琉球、日本の租借地とされた中国関東州、日本の傀儡政権が置かれた満洲、日本の委任統治領となった南洋群島、太平洋戦争において日本軍によって占領された東南アジアの諸地域など、日本帝国が実質的にその勢力下においた地域が含まれないことになってしまう。しかし、先述のように、日本帝国主義はまさにこうした帝国の勢力圏にあった資源全体を有機的に結びつけて動員しようとするところにその特徴を有していたのであり、その意味で、日本帝国の勢力圏全体において展開された林業を包括的に意味する言葉として「帝国林業」が必要であると考えた。
もちろん、このような包括的・体系的な日本帝国林業が近代の最初から完成していたわけではない。本書で示されるように、日本帝国林業は時代によって少しずつ変化してきたものであるし、地域によってかなりその性格を異にしていたことは言うまでもない。それは帝国主義そのものがそうであるように、常に帝国の中心から周辺への一方向的な支配や収奪として展開したわけではなく、時に周辺からの抵抗や反発、妥協や交渉などを通じて次第に形成されていったと考える方が妥当だろう。森林・林業に関して言えば、当初、豊かな森林資源と日本への木材移出が期待されていた朝鮮(特に鴨緑江周辺地域)や台湾(特に山間地の豊富な原生林)、パルプ材の供給地として期待されていた樺太などが、その後に開発の困難さや統治の難しさ、実際の資源量の少なさ、そして山火事や虫害、過伐による森林枯渇など、予期せぬ事態に遭遇することで、帝国林業のあり方そのものの再編を余儀なくされることとなった。その結果、これまでもっぱら一部の民間企業による経済的開発の対象とみなされてきた南方の森林資源が、それらに代わりうるものとして、帝国による新たな開発の対象とみなされるようになってきたのである。これはほんの一例だが、本書で試みようとするのは、このような帝国林業が有する包括的・体系的特徴と、それぞれの地域における林業の地域的・個別的な特徴の両方を可能な限り示そうとすることである。その意味で、「帝国林業」という言葉は多義的なものであると理解していただきたい。
次に、本書のタイトルにもなっている「帝国日本」という言葉について、一言付言しておきたい。本文では、むしろ「日本帝国」という言葉を用いることの方が多いが、タイトルにはあえて「帝国日本」を用いた。本書のタイトルを決める時に念頭に置いていたのは、本書と同じく勁草書房から刊行された『帝国日本の科学思想史』(坂野・塚原:2018)であった。同書の編者の一人、塚原東吾氏が主宰した「科学と帝国」に関する国際ワークショップに、本書執筆者のうち何人かが参加し、議論をおこなうなかで一定の問題意識を共有していたこともあり、本書のタイトルもすんなり「帝国日本」を採用することとなった次第である。しかし、個人的には、この言葉はもう少し深い意味を持っていると考えている。端的に言えば、「日本帝国」が当時の国名としての「大日本帝国」に由来しながら、その勢力圏全域に対して影響力を及ぼす政治的権力の総体を示すものとして用いるのに対し、「帝国日本」はそのような帝国主義の時代にあった日本を表す歴史的な言葉として用いている。それは同時に、そうした帝国主義時代の日本において形成された森林・林業をめぐる知と実践が、その後の日本の森林・林業を考えるうえでも重要な意義を有するという含意を有するものである。先述の総力戦体制のもとでの森林の「資源化」は、一九四五年の日本の敗戦によって終わってしまったのではなく、その後の「ポスト帝国」期の日本における森林・林業にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。そして、もちろんそれは単に日本国内の問題にとどまらず、その後の東アジア、東南アジア諸地域の森林・林業のあり方にも大きな影響を与えていったことは言うまでもない。そのような視点から、本書のタイトルでは「帝国日本」という言葉を用いた。
最後に、「森林保全(forest conservation)」という用語についても注釈を加えておきたい。西欧における「保全」概念の歴史については本章冒頭でも触れたし、さらに第一章において竹本が日本の森林・林業分野における「保全」概念について検討を加えている。それによれば、日本の森林・林業における「保全」は「保護(protection)」と「復旧(restoration)」の両方の概念を含む言葉とされている。具体的には、現在の森林植生を破壊(伐採)することなくそのまま維持していくことは「保護」であり、過伐や災害等により樹木が失われた裸地や草生地に植樹して造林することは「復旧」である。しかし、この後者の「復旧」はそれ自体が開発過程の一部として組み込まれることもある。例えば戦後の国土緑化運動においては、原野(草生地)に植林をおこなう拡大人工造林や、天然林を伐採して跡地にスギ・ヒノキの植林をおこなう林種転換造林が精力的に進められたが、それらは開発であると同時に復旧でもあった。なぜなら、放牧や採草のための原野も、「雑木林」と呼ばれて経済的価値が著しく低いとみなされていた天然林も、きちんとした手入れ(すなわち近代的な森林管理)のなされていない「荒廃地」とみなされ、その改善が求められていたからである。同様のことが、日本統治下の朝鮮や台湾にもあてはまる。第六章や第七章で示されるように、いわゆる「火田民」や先住民族がおこなう焼畑や、あるいは燃料獲得のための薪炭林利用によって、朝鮮や台湾の山林は著しく荒廃してしまい、そうした荒廃した山林を近代的な森林管理によって健全な山林に蘇らせることが植民地林政の課題の一つだと考えられていたのである。そこでは、復旧と開発とは表裏一体の関係にあったのであり、その意味で、「保護」と「復旧」の両方を含む日本の森林・林業における「保全」概念は保護と開発の両方の側面を有していたといえる。
4 本書の構成
以下、本書の構成を概略的に紹介しておこう。
本書は大きく「第Ⅰ部 帝国林業の全体像」と「第Ⅱ部 日本帝国の植民地・支配地における森林の開発と保護」の二部構成となっており、第Ⅰ部では日本帝国全体の森林・林業政策と森林利用の概要を明らかにするとともに、日本の帝国林業の特徴の一つである「緑化」の歴史的変遷を示した。続く第Ⅱ部は、各論として日本帝国のそれぞれの地域における帝国林業の実態を明らかにした。そして最後に、これらをふまえて日本の帝国林業とは何だったのか、そしてそれがもたらしたものは何だったのかについての考察をおこなう。
第一章では、主に統計資料を用いて帝国林業の全体像を明らかにすることを試みた。一九一二年から一九四二年の三〇年間に、日本本土(内地)と北海道、朝鮮では森林面積が増加し、特に朝鮮では森林(立木地、成林地)の割合が倍増している。この背景には第六章で述べるように朝鮮における記念植樹事業や砂防事業、民有林での造林事業の進展等があると考えられる。一方、台湾および樺太では森林面積が減少している。台湾では林野調査事業とその後の官有林野整理事業によって「不要存置林野」に区分された山林は民間へ払い下げられ、伐採や開墾の対象となった。樺太では、先述のように山林火災や虫害、過伐による森林の減少が深刻であり、そのことが樺太庁による木材の移出制限につながった。日本帝国内の各地域の特徴を見ると、台湾における森林政策の特徴として、森林と原野を問わず先住民族の居住地域とされた「蕃地」の割合が大きかったことと、水源涵養や土砂防備のための保安林の割合が日本帝国内の他の地域に比して大きかったことがあげられる。一方、朝鮮では林野が「森林」と「原野」ではなく、「成林地」、「稚樹発生地」、「無立木地」に三区分され、さらには「立木地」、「散生地」、「未立木地」、「火田」、「開墾適地」、「放牧適地」、「採草適地」、「除地」に変更された。こうした細分化は、他の地域で「原野」と区分された土地を状態別にさらに細かく分けることで、その管理を徹底させ、立木地(成林地)への転換をはかろうとしたものと考えられる。その結果が先述の森林割合の増加につながったのである。このように、主に統計資料の分析をおこなうことによって、日本帝国における森林の状況はそれぞれの地域で異なっており、それに応じて帝国林業の内容も地域的に多様であったことがわかる。
第二章では、このような日本帝国内における森林・林業の多様性を、数多くの各種地図を駆使する歴史地理学的な方法を用いて、森林植生の空間的な分布や広がりに着目する「土地被覆」の観点から明らかにすることを試みている。その結果、日本帝国における亜寒帯気候(針葉樹林気候)は樺太と満洲北東部に限られており、そのため針葉樹林(タイガ)のまとまった森林もそれらの地域に偏在していたこと、また日本本土においても針葉樹と広葉樹が地域的に偏在し、また二次林としての広葉樹や焼畑の休閑地や採草地などの人為的な植生が広く分布していること、台湾の高地と朝鮮の北部には一部にまとまった針葉樹の森林が見られるものの、いずれも人為的な火入れによって植生の改変が進んでいたこと、満洲では朝鮮との国境地帯に位置する長白山脈の混交林地帯は早くから林業開発が進んでおり、満洲国が設置された段階では決して無尽蔵の資源とは言いがたい状況にあったことなどが明らかとなった。このように、日本帝国全体の森林資源の分布を総括すれば、それは著しく多様で不均衡であったが、そうした状況の中で「帝国林業」がとるべき選択肢は、①より豊富な森林資源、とりわけ優良な針葉樹林帯を求めた帝国の拡張、②帝国外からの木材の輸入(米材や北洋材、南洋材など)、③針葉樹のみならず南方の広葉樹を含めた多様な樹種の活用、そして④造植林を通じた帝国領内での針葉樹林帯の創出の四つであった。このように、日本の帝国林業の展開は帝国における森林資源の地域的な偏在性や樹種の構成と密接に関連していたことがわかる。
第三章では日本の帝国林業の特徴の一つである緑化運動について、一八九五年の文部省による学校植林に関する指導に始まり、その後の御大典記念緑化運動(一九二八年)や愛林運動(一九三四〜一九四九年)、挙国造林運動(一九四二〜一九四四年)へとつながり、「ナショナル・イベント」として展開された緑化運動の思想と実践を具体的に明らかにした。一九世紀末における米国のArbor Day の学校林への導入を端緒として始まった近代日本の緑化運動は、一九一〇年代(大正期)地方山林会による普及活動を経て、一九二〇年代末頃から次第に統一的な全国的キャンペーンのもとに統合されていった。そのきっかけとなったのは一九二八年の「御大典記念緑化運動」であり、その後、一九三四年から始まった「愛林運動」において近代日本の緑化運動は一つのピークを迎える。学校や官公庁、地域組織、民間企業などの様々な団体による植樹活動、そして新聞、ラジオ、ポスターなどのさまざまなメディアによる啓蒙・宣伝活動などを通じて一種の国民運動として展開された愛林運動は、林業発展や水源涵養などの具体的な効用を目指したばかりでなく、何よりも「森林愛護」それ自体を自己目的化した点で一種の環境運動でもあり、それは戦後の国土緑化運動につながるものでもあったが、総力戦下の総動員体制のもとで次第に戦争遂行のための森林資源造成や国民精神修養の場という役割をも合わせ持つものとなっていった。一方、植民地朝鮮においては、日本本土に先駆けて二〇世紀初頭より全道を挙げてのキャンペーンとして植樹行事が展開され、その後の緑化運動へとつながっていったが、それは朝鮮民衆による野蛮で野放図な林野利用により荒廃した朝鮮の山林を回復させるために、朝鮮の民衆に近代的な愛林思想を啓蒙普及させるという役割を担うものであり、森林の保全が植民地主義と表裏一体の関係のもとに展開したことを示している。
第四章では、北海道・樺太の林業および林政の展開が日本帝国林業の中でどのように位置づけられるのかを検証するとともに、現地の住民が森林とどのような関係を築き、また森林資源をどのように認識していたのかを探ることで、帝国の森林としての北海道・樺太の森林の姿を明らかにすることを試みた。北海道・樺太の針葉樹林はとりわけパルプ材の供給源として不可欠の資源とみなされ、地域内消費だけでなく日本本土の製紙工場に向けた移出用材として開発された。また、北海道では枕木用材や工芸品用や造船用材、炭鉱用の坑木としても開発され、日本本土のみならず満洲や清、朝鮮にも輸出された。その大半が国有林であった北海道と樺太の森林資源は北海道庁や樺太庁などの重要な財源となっただけではなく、木材伐採業や製材業、パルプ製造業などの関連産業の発展や定住人口の増加など、「開拓」政策においても重要な資源となった。一方、北海道と樺太の両地域の現地社会が、森林資源をどのように認識していたのかという点については、北海道庁による「愛林樹栽日」の制定や北海道林業会による啓蒙普及活動の検討を通じて愛林思想涵養と造林奨励が結び付けられながら論じられたこと、樺太山林会は日中戦争を境に主な活動を「防火」の呼びかけから「緑化」の呼びかけへ、森林の意義を「島民の森林」から「帝国の森林」へと変転させ、樺太森林資源保護への島民の「協力」を促そうとしたことが明らかにされた。
第五章では、満洲における日本帝国林業の実態について、満洲の森林開発過程と林野政策の展開を明らかにするとともに、中朝国境地帯を流れる鴨緑江流域おける林業開発の担い手であった日中合弁の林業会社「鴨緑江採木公司」を事例に取り上げ、満洲において日本帝国林業の持つ問題点について検討した。満洲国建国以前は特に鴨緑江流域の森林利用権をめぐってロシアと日本の企業が競合していたが、満洲国成立後は林業行政を一元化させるべく林場権の解消、林政機構の改編、木材の生産・流通が規制された。一方、東清鉄道本線沿いの地域では一九一〇年以降、鉄道燃料用の薪や枕木、車体や橋梁用の木材などのほぼすべてを沿線の森林から調達した結果、一九三〇年代には沿線の森は伐採しつくされてしまった。このような急速な林業開発の結果、満洲地域の森林被覆率は一九世紀末の時点では六〜七割だったものが、一九四九年には二〇〜三五%以下にまで低下し、この約五〇年間で満洲森林の約半分が消失したと推測されている。こうした状況に対して、林政の方では中央と地方との直結による二段階機構をとり、営林局のような中間組織を置かず、業務の迅速化を図る、技術面では森林の構成状態から天然更新本位で林利の永続を図る、さらに運営面では官行斫伐事業を広く実施し、国有林野事業特別会計制度を施行するなどの施策を導入し、保続的林業の確立と国土の保全、およびその他公益を保持することなどを目指した。また、林政の整備とともに林野局林野試験室などの研究機関も開設し、近代林学に基づく科学的・合理的な林業経営を導入しようとした。これらの林業政策や林業試験期間の一部は、その後の新中国にも引き継がれ、現代中国の森林・林業行政の礎となっていった。また、一九〇八年に日中合弁会社として設立された鴨緑江採木公司は鴨緑江流域右岸側の森林で直接採伐事業を経営する他、それらの周辺で他の企業によって産出される木材も全て鴨緑江採木公司が買い上げる特権を有していた。このように鴨緑江採木公司は伐採と買収(買回)を主な事業内容としていたが、森林資源枯渇に伴う伐採事業の行き詰まりにより収入の大半は後者の買収(買回)によるものであった。また、植林事業については永久的な森林支配に繫がるという点から中国側から認められず、結局、持続的な木材生産を可能とする保続林業を実現することはできなかった。このように、長期の林場権(森林利用権)が認められず植林・造林事業に乗り出すことができなかったという状況は、南方での日本企業による森林開発が一部の例外を除いてごく短期の伐採権しか認められず、結果的に伐採事業や買材事業に終始したことと共通していると思われる。
第六章は、朝鮮における林野所有区分の経緯を踏まえて、国有林野における「入会」と「保護」の問題について検証し、次いで愛林思想の普及過程について学校林を中心に検討するとともに、朝鮮の森林保全における砂防事業の位置付けを明らかにし、最後に火田と北鮮開拓事業の問題から植民地朝鮮における帝国林業の特徴に言及した。以下では、国有林野における「入会」と「保護」の問題について議論の概要を紹介したい。一九一一年から始まった国有林区分調査において「不要存置林野」と区分された林野のうち第一種は払い下げの対象として一般に開放され、森林令による貸付、売却、譲与、交換といった処分の対象となった一方で、第二種は慣習により森林法施行以前から占有していて引続き禁養するもの、その他特別の縁故関係を有するものとされた。しかしながら、国有林区分調査による区分結果に対しては地元住民からの訴訟や請願が相次いだため、一九一八年の「朝鮮林野調査令」に基づいて再び林野調査事業が実施され、国有林野についても縁故の有無を問わずに改めてすべて申告させることになった。そして、「縁故者ある国有林野」と査定されたものは、最終的には一九二六年の特別縁故森林譲与令の施行を待って私有林あるいは共有林として縁故者へ譲与されたのである。次に、一九一〇年に朝鮮総督府によって施行された森林令の第八条においては、入会慣行とは国有森林の一定区域において地元住民が共同で部落用あるいは自家用のためにする副産物採取や放牧利用の慣行であることが詳細に説明されており、国有林野における入会慣行を認めるものとなっている。この点は、国有林野における入会を認めなかった日本本土と大きく異なるところである。一方、同じ森林令の第十条では入会とは関係なく地元住民に国有林野を「保護」させ、その報酬として森林産物を譲与すると定められている。つまりここでは旧慣の存在を条件としない簡易委託林に近い形で地元住民に国有林野の利用を認めたと考えられる。著者の竹本は本章冒頭で植民地朝鮮をめぐる「収奪論」と「近代化論」の対比に言及しているが、本章で明らかにしたような国有林野の利用をめぐる朝鮮総督府の対応は、このような「収奪論」と「近代化論」の対立や「緑化主義」の議論に対して一定の再考をせまるものであるだろう。しかしながら、竹本自身も指摘するように、こうした議論がともすれば総督府や本国側の認識や情報に依存してきたことを考えると、地元住民や植民地側の目線を考慮に入れたさらなる議論の展開を待たねばならないだろう。
第七章は、日本統治期の台湾の林政と林業について、「科学的林業」と「帝国林業」の視点から検討したものである。具体的には、初期の林政の特徴と、とりわけ森林の「荒廃」に関する理解がどのように形成されてきたのかを検証し、台湾における植民地林業を牽引した樟脳生産と樟樹林の管理、および三大林場に代表される中央高地の林業開発と森林管理の実態を空間的な視点から把握することを試みた。台湾では日本による領有直後からその豊かな森林資源が期待されたが、実際には低平地における樹林があまり多くないことや、原生林の巨木が分布する中央高地においても先住民族による人為的な植生改変が進んでいること、施業予定地までの取り付け道路や搬出路が未整備なことによる資源アクセスの困難さなどが確認され、実際の森林開発はスムーズには進まなかった。また、こうした台湾の森林の状況が明らかになるにつれて、本多静六や賀田直治などの林学者・林業官僚により先住民族による焼畑利用や華人による乱伐によって台湾の森林は荒廃しているという認識が形成されていった。そしてこのような森林荒廃の原因となる先住民族や華人による原始的で無計画な森林利用をあたらためて、より合理的で近代的な林業に基づいた保続林業を確立していくことが台湾林政の課題とされた。また、最初期の台湾総督府の林業技官であり植物学に感心の深かった田代安定は台湾海峡の澎湖諸島の植物調査をおこない、樹林の乏しい澎湖諸島の植生をふまえて亜熱帯の環境に適した植樹の必要性を唱えている。このような田代の認識はその後に台北苗圃の開設や恒春熱帯植物殖育場、嘉義護謨苗圃、そして林業試験場などの設置へとつながっていった。とはいえ、台湾林業の現場で実際に(亜)熱帯性樹木の造林や育林がおこなわれることはなく、それらはもっぱら南方における熱帯林業の可能性を探るための試験研究として展開していった(中島:2021)。
また、台湾の森林開発の特徴の一つとして樟脳生産と樟樹造林の展開があげられる。当時世界的に需要が高まっていたセルロイドの原料として樟脳が利用されていたことを背景として、台湾における輸出用樟脳の生産は台湾総督府の貴重な外貨獲得の手段となっていた。そのため、台湾総督府は一八九九年に樟脳生産を専売化し、総督府の直接的な管理下に置いた。しかしながら樟脳原料となる樟樹は台湾の山岳地域に多く自生し、その分布が先住民族の居住地域と重なっていたことから、樟脳生産は同時に樟脳の自生地を管理するために先住民族統治政策である「理蕃政策」とも密接に結びついていた。また、台湾では「三大林場」と呼ばれた阿里山、太平山、八仙山において総督府の直営林業が営まれた。これらの三大林場はいずれも日本による領有当初は先住民族が居住する「蕃地」とされたところであるが、そこで植民地政府の直営林業が可能になったことは、その後の台湾における「帝国林業」を方向づけていくことになった。
最後に第八章では、日本帝国が唱えた「大東亜共栄圏」における「周辺」として位置付けられ、太平洋戦争開戦後は日本軍によって占領された東南アジアを対象として、二〇世紀前半における日本企業による南方林業の展開を明らかにするとともに、当時の日本の林業関係者が南方の森林資源をどのようにとらえていたのかについての批判的検討を通じて、東南アジアにおける日本の森林資源開発と帝国林業の関係について検討をおこなった。まず、戦前期に最も多くの南洋材を日本へ供給したフィリピンでは、日本人移民が多く暮らしていたミンダナオ島ダバオで一九一六年に日本人実業家が伐採事業を始めたのが最初であり、その後、多くの日本企業がフィリピンで伐採事業に乗り出すこととなったが、一九三〇年代よりフィリピン政府の方針により外国企業単独での伐採権の獲得は認められなくなり、フィリピン資本あるいはアメリカ資本との合弁による事業展開を余儀なくされた。一方、英領北ボルネオでは英国資本の英領ボルネオ木材会社(B・B・T)が公有林の伐採権を独占しており、同社設立以前の一九一〇年代に長期の伐採権を獲得していた一部の日本企業を除くと、それ以降に森林開発事業を開始した企業はすべてB・B・Tの短期サブライセンスを購入して、伐採事業をおこなわなければならなかった。また、オランダ領ボルネオでも一九一〇年代後半には日本企業が進出し、伐採事業をおこなっていたが、オランダ領ボルネオ植民地政府は一九三〇年代に入ると日本企業の伐採事業に対してさまざまな条件や制約を課すようになった。そして一九四一年七月にはフィリピン政府、英領北ボルネオ政府、オランダ領ボルネオ政府はいずれも対日資産凍結令を出したことで、現地の日系木材会社は操業停止を余儀なくされた。このような日本企業による東南アジアでの森林開発事業は、当初はそれぞれの企業による民間ビジネスとして展開されていたが、一九三〇年代以降になると国策会社の東洋拓殖や南洋拓殖による資金援助を得て次第に日本帝国林業の一翼を担うようになっていった。
こうした南方林業を取り巻く状況の変化は南洋材に対する日本の林業関係者の認識を大きく変えていった。その一つが南洋材を「準国産材」とみなし、東南アジアの森林資源を日本の権益の対象とみなすようになったことであり、もう一つは東南アジアの森林を日本本土の森林の代替とみなすようになったということである。先述のように、樺太における山火事や虫害による森林資源の減少や日本本土での過伐による森林減少により、一九三〇年代以降の日本帝国は森林資源の不足に直面していた。そうした中で、パルプ材や軍需用材の新たな供給源として、そして疲弊した日本本土の森林を休養させ、回復させるための代替材として、南洋材が位置付けられるようになっていったのである。アジア太平洋戦争下の総力戦における総動員体制のもとで、南方の森林資源は大東亜共栄圏の枠組みに組み込まれ、中枢たる日本本土の森林資源の涵養と共栄圏内の木材需給に資することが求められていったと考えられる。
終章においては、これらの各章の内容をふまえて、日本の「帝国林業」とは何だったのか、英帝国林業との比較をふまえて検討をおこなうとともに、そこから導かれる今後の研究課題についても言及したい。
(図版と注、文献は割愛しました。pdfでご覧ください)