『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
ルーヴル美術館に、興味深い一枚の素描がある(図1)。1775年にフランス王室によって購入された時、この作品はミケランジェロの「手」によるものだとされた。実際に描いたのはミケランジェロではなくてバルトロメオ・パッサロッティであったとする説、あるいはアンニバーレ・カラッチであったとする説もある。いずれにせよこの素描の「手」が誰のものなのかを最終的に決定づける見解は示されていない。
わたしのラップトップにはおもちゃ箱のようなフォルダがいくつかあり、その中にこうした自己言及的な手の図像を集めたものがある。自らを描く手のモチーフは歴史の中で決して一つの系譜として存在するわけではないが、ときおりふと出会うそれらのイメージを眺めていると、世界を知覚する人間の認識能力や、その身体性との関わりへと向けられた作者の内省に引き込まれる思いがして愉快な気持ちになる。
物理学者エルンスト・マッハが1886年の著書『感覚の分析』に掲載した素描の一つに眼をとめてみよう。そこにマッハは、長椅子に座った自らの脚を鉛筆で描く、自身の手を描きこんでいる(図2)。
一見すればこれは自己の視覚を再現する素描に見える。イメージの右端を歪めているのは彼の鼻であり、そこには口髭まで見える。彼自身の身体は部屋の空間に比べて大きすぎるようにも見えるが、それは彼が自身の身体に視点を集中させており、その主観的な性質が表されているからなのだろう。彼自身もまた、著書の中でこの図像について、自身の左目からの眺めを描いたものであると説明している。それは片目が捉えた、「見える限りでの私の身体の一部とその周囲」である*1。
それは網膜に映る視覚を写真のように記録しただけのイメージではない。図像に関する一節を読んでみよう。このヴィジョンにおいて、「私の身体」は他人のそれから区別されるのだが、それは第一に、「活発な運動表象が直ちに私の身体の運動となって現れ」るからであり、また第二に、私の体に「触れる」と「他の物体に触れた場合に比べて一層目立った変化が生ずる」からだ。そして第三に、そこでは「自分の体が一部分しか見えず、とりわけ頭が見えない」。つまり運動と知覚(ここでは触覚と視覚が問題とされている)とが「自我」を意識させる、というのである*2。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
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第1回 緒言
第2回 自己言及的な手



