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『道徳的知識への懐疑』

 
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野上志学 著
『道徳的知識への懐疑』

「まえがき」「序章 道徳懐疑論にむけて」(第1節)(pdfファイルへのリンク)〉
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まえがき
 
 アルブレヒト・デューラーの『測定法教則』の第四書末尾では,3 本の糸を用いた正確な素描法について解説され,それによってリュートを素描する2人の男の姿が木版画として付されている.
 獲物を狙う禽獣のような眼差しで椅子に座る男の前には,窓のような木枠がある.この「窓枠」には,ちょうど片方に軽く開け放たれた窓の扉のごとく,画板が蝶番で取り付けられている.そして,枠の上部と側部にはそれぞれ1 本ずつ糸が留められている.さて,この男の背後の壁には鉤が打ちつけられており,その鉤からは先に鉛の錘のついた糸が垂れている.糸の反対の先はまっすぐに「窓」の中を通って,確と立つもう一方の男のもつ短い棒の先に向かっていき,鉤と棒とを張り詰めて結んでいる.リュートに反射する光が,結ばれた糸に並んで走っていく.
 糸の結いつけられた棒の先端を,持ち手の男がリュートの表面に置けばその都度,壁から伸びた糸が窓枠を貫く点は移動していくだろう.まさにその点において交わるように,座った男は窓枠に留められた2 本の糸を窓枠に留めなおす.すると,その交わりは,長い糸が窓枠を通過する位置を指し示すようになる.最後に,壁からの糸を緩めて窓の扉を閉じ,窓枠の2 本の糸の交わるところを画板に印そう.これでやっと,リュートの表面の1 つの点が画板の上に繫ぎ止められた.同じようにリュート上の点を繫ぎ止めるように繰り返せば,ちょうど壁の鉤に眼があるときに見えるリュートが,画面に精密に写し取られていくに違いない.
 むろん,このようにリュートを写し取るには途方もない時間がかかるだろう.そして,そもそもリュート上の点は無限にあるのだから,これらをすべて「最後のラッパ」が鳴り終わるまでに写し取ることはできない.それにもかかわらず,この方法は我々を,完全に正しいリュートの姿へと際限なく接近して行けると確信させてくれる.リュートの正確な認識が原理的には可能であることを明らかにするこの木版画は,いわばリュートの認識論でもあるのだ.
 リュート以外のものについても適切に方法さえ変えれば,精密に写し取ることはできるだろうか.むろん,眇たるもの,いやに大きなものでなければ,同様にこれは可能である.だが,そのような退屈なものではなく,もっと何か我々の興味をかき立てるものを写し取ることはできようか.たとえば,善悪や正邪を写し取ることはできるのか,完全に正しい道徳について我々を確信させる方法は存在するのか.本書ではこの問いを追跡することになるだろう.
 答えは自明にみえる.いかに比喩的にそう語られてきたにせよ,善そのものからの「光線」は我々には届きようもないように思われ,したがって,この木版画のようには認識論が与えられるべくもない.とはいえ,本書が哲学書である以上,これが自明であると言って済ませるわけにはいかない.我々は,当人にとってとうに自明となった結論に当人にとってすら自明とは言えない仕方で向かうという,哲学の様式に従うことにしよう.さまざまに描かれてきた画の不味さを我々は指摘するだろう.そして,そもそもそうした画はうまく描きようがないことを示すよう試みる.
 ところで,なぜ,この道徳の認識可能性についての問いが重要なのか.道徳とは我々自身の生を導くのであり,道徳は「よき生」について教えてくれるがゆえにこの問いが重要であるのだ,というのは1 つの答えである.そしてたしかに,あえて道徳について云々する有閑で内省的な人々にとっては,「よき生」への問いの中心性は疑うべくもないし,その煩悶はむろん否定すべくもあるまい.
 だがこの描像は,道徳が人間に受肉した姿をほとんど歪めて捉えてしまっている.道徳はしばしば,密やかな内省にとどまらず,他者への道徳的介入というかたちで現れるからである.そして,善行を褒め称える道徳的賞賛は印象的であるにせよ,こうした賞賛のもつ意義は限定的である.むしろ,他者の行為を制御するための道徳的非難こそが,道徳が我々の社会において果たしている主たる役回りであろう.本書は,道徳的信念の正当化,道徳的知識の可能性について問うている.道徳的信念の正当化が明らかな問題になるのは,道徳的非難や処罰に代表される,道徳的信念に基づく他者への介入という事情があるからにほかならない.いかなる正当性をもって介入するのか,その道徳的信念は真であるのか,あなたはどうして知っているのか.介入者に対して常に我々はこう問いかけるだろう.この問いに答えられないのであれば,すぐさま介入を停止すべきであろう.
 本書の結論は多義的である.道徳について知ることは困難であり,少なくとも現行の方式においては道徳的実践を放棄せねばならない.だが,仮に一定の道徳的実践が我々にとって有益であるならば,適切に調整された内容の道徳をフィクションとして再導入することもできよう.とはいえ,そのように道徳が有益であるとは限らない.そのとき我々は道徳を廃絶することになるだろう.簡単に言えば,これらが本書で議論されることである.
(注と傍点は割愛しました。pdfでご覧ください)
 
 
 
序章 道徳懐疑論にむけて
 
1 道徳懐疑論の簡潔な分類
 
 本書では道徳懐疑論を擁護し,その帰結を追跡する.多くの道徳懐疑論者が断ってきたようにあらかじめ行儀よく断っておくとすれば,我々は不道徳とされる行為を推奨するわけではない.また,したがって,不道徳なるがゆえにわれ愛す,というインモラリズムを唱導するものでもない.あらぬ誤解を避けるために,まずは,道徳懐疑論を簡単に3 つに分類し,我々が扱うところの対象を明確にしておこう.
 第1 に,道徳的真理についての懐疑論は,「錯誤説(error theory)」とも呼ばれるが,これは「あらゆる実質的な道徳的命題は偽であるか非真である」と主張する.「実質的な」というのは,「アンナの姦淫は不正である」,「ゾシマは有徳である」,「19 世紀末ロシアの社会の状態は悪い」といったように,道徳的性質を行為や人,事態といった対象に帰属させる原子命題を論理的に含意するような命題だと理解しておけばよい.典型的には,「道徳的性質は奇妙である」とか,「道徳的命題は定言的理由の存在を導くが実際は定言的理由は存在しない」といった議論によって錯誤説は支持される.この錯誤説については,本書では擁護を試みることはしない.
 第2 のタイプの道徳懐疑論は,道徳的真理が仮にあるとしても,我々はそれを知ることができない(あるいは少なくとも現在の我々は知らない)とする.知識が真理を含意する以上,この懐疑論は錯誤説から導かれるが,逆は成り立たない.本書の大部分(序章から第4 章まで)を使って擁護する懐疑論は,この認識的懐疑論である.我々がたんに「道徳懐疑論」と言うときには,この認識的懐疑論を指すものとする.
 第3 のタイプの懐疑論としては,道徳的実践の実践的合理性ないし有益性についての懐疑論がある.これは,道徳的実践は実践的に不合理ないし有害である,という主張である.これを「実践的懐疑論」と呼んでおこう.実践的懐疑論の論拠としては,たとえば,道徳は既存の秩序を固定化するとか,対立する意見の調整や妥協を困難にするといった論点がある.ここから進んで,これらの有害性を考慮すれば,総合的にみて,我々は道徳的実践を廃絶した方がよい,という主張は「廃絶論(abolitionism)」と呼ばれる.実践的懐疑論および廃絶論は,本書の第5 章で議論することになる.実践的懐疑論は明らかに,錯誤説や認識的懐疑論と論理的に独立であることに留意されたい.
 本書の主部では道徳に関する認識論的問題を扱うと述べたが,その前に我々は,その主題として考えられているところの道徳的認識について,いくつかの明晰化と分類を与えておく.この分類は,後の議論のいくつかの部分において使用される.読者は本章の第3 節までをいったん飛ばして必要に応じて戻ってくるのでもよい.
(以下、本文つづく。注は割愛しました。pdfでご覧ください)
 
 
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