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長谷部恭男 著
『歴史と理性と憲法と 憲法学の散歩道2』
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あとがき
マックス・ウェーバーは戦後の日本で、おそらくは西側社会全体でも、社会科学者のモデルと目されてきました。方法論に関する彼の重要な論稿に「社会学と経済学における『価値自由』の意義」があります。この論稿の冒頭で彼は、学問上の認識と実践的価値判断とは論理的に区別されるとする一方、大学教育の場で、教師が実践的価値判断を表明することが許されるかは、それ自体、実践的価値判断の問題であって、科学的に結論が得られるものではないと言います(事実の認識については、少なくとも原理的には、科学的に結論が得られることは当然の前提です。何が事実かもSNS上の多数決で決まるというポスト真実の二一世紀とは違いますから)。
学問上の認識と実践的価値判断との区別は、Sein とSollen の区別として語られる論理的な問題ですが、教育現場で、両者の関係をどのように扱うべきかという実践的問題については、論者の実践的立場に応じて、また社会状況に応じて、さまざまな回答があり得るというわけです。
法律学に関して問題をさらにややこしくするのは、同一の言明が、人の行動を方向づける規範としても、また、そうした規範を認識し記述する命題としても働くことです。「Aの行為は窃盗だ」という言明は、一箇の認識であると同時にAはそんなことはすべきではなかったという評価も示しています。実践的関心と無関係な法学上の概念はそうそうないでしょう。法学の世界で、認識と評価を整然と区別することは至難の技です。
同様の事態は、経済学が描く純粋な市場モデルについても起こります。市場モデルは現実とかけ離れた前提にもとづく理念型で、社会の実態とそれとの距離を測ることで実態を分析するための道具立てです。しかし、現実にはあり得ないこの理念型をあるべき社会の「自然な」姿、実現すべき理想として扱う人々もいます。Sein を認識する道具であったはずが、思考の混乱の末にSollen として祭り上げられます。
Sein とSollen とが論理的に異質だという前提からは、Sollen について客観的な判断が不可能だという結論は出てきません。ウェーバーが価値について客観的な判断は不可能だと考えたのは、価値が多元的に分裂し、相互に激しく闘争する状況を前提としていたからです。宇宙全体を覆う一つの魔法が解けてしまった近代以降の世界では、「客観的」な価値判断はあり得ず、個々人が自ら特定の価値にコミットし、それによって世界を意味づけ、それぞれの価値観に彩られた世界像を自ら切り拓いていくしかないというわけです。人のあらゆる重要な活動は、いや全生涯は、自らの魂をもってする究極的な価値選択の連続だとウェーバーは言います。
価値判断は主観的な決断でしかあり得ないというこうした見方は─そうした決断へと立ち向かう自身の勇敢さにわずかな慰めを見出しているのかも知れませんが─その後、フランスの実存主義哲学へ、そしてオクスフォードの言語哲学へと伝播し、時代精神(Zeitgeist)となります。こうした見方がどのようにしてヨーロッパの地で生成したのか、本書に収められた論稿のいくつかは、その跡をたどっています。リベラリズム、立憲主義等、今日の世界で広く共有されている世界観は、客観的価値判断があり得ないという前提はとっていません(あり得ないとすれば、立憲主義を擁護すべきだとの結論も客観的にはあり得ないことになります)。しかし、価値が多元的に分裂し激しく対立するという事実を前提としてはいます。
ボシュエ、ロック、ヘーゲル、ヒューム、トクヴィル、ニーチェ、ヴェイユ、ネイミアなど本書で取り上げられたさまざまな論者の思想は、それぞれ特定の立場にもとづいた、他と相容れない、強烈な世界像・人間像を提示します。強烈な像に魅入られた人は、自分をそれと重ね合わせ、それに捉えられます。一つの像を捨て去っても、また別の像に捉えられ、像の向こう側にある現実を見失うこともしばしばです。ジョン・メイナード・ケインズが指摘するように、思想の力は、普通想定されているより、はるかに強力です。
思想は、それを描き出す主体が置かれた具体的状況の産物です。ウェーバーの上述の議論も、第一次世界大戦中にドイツの大学で社会科学を講ずる研究者が置かれた特殊な状況と切り離して理解することはできません(ですから、それを現在の日本に直輸入するわけにもいきません)。また、同じことばが使われていても、その意味合いが現在とは全く異なることもあります。それぞれの思想の淵源をたどり、その射程を測定することも重要です。本書に収められた諸論稿は、魅惑的なさまざまな思想をそれぞれ一貫させたときに浮かび上がる姿とともに、それらがどのような具体的状況から生まれたものかも描こうとしています。
『神と自然と憲法と─憲法学の散歩道』と同様、本書の刊行にあたっても、勁草書房編集部の鈴木クニエさんと関戸詳子さんに行き届いたお世話をいただきました。篤く御礼申し上げます。
二〇二三年二月
Y・H