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『高等女学校と女性の近代』

 
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小山静子 著
『高等女学校と女性の近代』

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はじめに
 
 かつて高等女学校という学校があった。出身高等学校がもとは高等女学校だったという人や、祖母や母が高等女学校で学んだという人もいるだろうから、高等女学校という名前にはなじみがあるかもしれない。
 高等女学校という名称の学校がはじめて誕生したのは一八八二年、つまり明治一五年のことである(それ以前は女学校と言っていた。ただし、高等女学校ができても女学校という名称の学校がなくなったわけではない)。そして戦後の教育改革によって、高等女学校は一九四八(昭和二三)年三月に姿を消した。したがって、高等女学校という学校は一八八二年から一九四八年までの六六年間、存在していたことになる。
 高等女学校には「高等」という言葉がついているが中等教育機関であり、文字通り女子だけの学校である(男子の中等教育機関は中学校である)。そして女性が進学できる高等教育機関が戦前にはあまり存在しなかったから、高等女学校は女性にとって完成教育機関としての意味ももっていた。高等女学校は義務教育ではなく、進学率は高い時でも十数%にすぎなかったので、現在の女性の四年制大学進学率が五〇%を超えていることを考えるならば、いかに限られた者のための学校であったかがわかる。高等女学校は、経済的にも文化的にも恵まれた階層の女性が入学した学校だった。
 本書では、この高等女学校がどのような学校であったのかを検討し、そのことを通して、女性が学校教育を受けることの意味を考えたいと思っている。こんなことを言うと、高等女学校は、将来結婚して家事・育児に専念する主婦になるような、良妻賢母を養成する学校ではないか、何を今さら明らかにすることがあるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。しかしわたしたちは、高等女学校が良妻賢母の養成を教育目標に掲げていたということは知っていても、それ以上は意外と知らないのではないだろうか。
 良妻賢母教育と一口に言うが、その教育とはいったいどのようなものだったのだろうか。高等女学校に期待されていたのは、婦徳の涵養だったのか、裁縫の技能や家事能力の習得だったのか、はたまた普通教育に基づいた教養の育成だったのか。良妻賢母教育の内実をめぐって、いったいどのような議論が行われ、どのような教育が実施されていったのだろうか。そして高等女学校と対になっている中学校との間には、どのような制度上や実態上の相違が存在していたのだろうか。戦前においては、中等教育段階以降では男女別学が原則であり、それは単に男女が別々に学ぶというだけでなく、教育機会や教育内容などが性別によって異なるという意味で、男女別学体制と言いうるものであった。では具体的には、高等女学校と中学校では教育のあり方にどのような差異が存在していたのだろうか。また高等女学校にも入学試験があったが、中学校のような受験競争が高等女学校にも存在していたのだろうか。そして高等女学校を卒業した女性たちはいったいどのような進路を歩んでいったのか。卒業後に家で花嫁修業をする女性や家業を手伝う女性がいたことは想像に難くないが、それだけでなく、進学や就職をする女性もいたのだろうか。その場合に、彼女たちはどのような学校に進み、どのような仕事に就いたのだろうか。次々に疑問が湧き出てくる。
 すでに多くの女子教育史研究があるにもかかわらず、高等女学校とはいったいどのような学校だったのかと俯瞰的にとらえようとすると隔靴掻痒の感があり、女性が受けた高等女学校教育の全容がなかなか見えてこない。そしてわかっているようで実はわかっていないことが多いことに気づく。
 それに、たとえ良妻賢母教育が行われていたとしても、そもそも教育は多義的な役割をもっており、個々人は教育を通して極めて個性的に様々なことを学んでいく。当たり前のことだが、高等女学校に通うことで、女性は多様な知識を得ることができるし、程度の差はあれ、学校教育は自ら考える女性を育てていくことになる。学校に通学するということは、家で家事や家業の手伝い、あるいは習い事をすることと異なり、女性が家族から離れた「自由」な時間と空間を手にするということであり、学校は友人たちと語らい、自己を形成する場ともなっていった。したがって、高等女学校は良妻賢母を養成するための学校だったと、そう簡単に片づけてしまってはいけないような気がしてくる。女性が義務教育以上の教育を受けることには、どんな意味があったのだろうか。
 一つ例を出してみよう。女性の自我を高らかに宣言して一九一一(明治四四)年に創刊された雑誌『青鞜』は、当初、五人の女性によって編集されたが、彼女たちは全員、当時としては非常に珍しい、高等女学校や女学校に学んだ高学歴女性だった(うち四人はさらに高等教育も受けている)。そのような女性たちが世に送り出した『青鞜』は、家族制度や良妻賢母教育に反逆し、愛と性の自由を求める「新しい女」を生み出していく。すなわち、高等女学校に通うことで、確信をもって良妻賢母となる道を歩んでいく女性が生まれるかもしれないが、逆に『青鞜』に集った女性たちのように、良妻賢母という生き方に疑問をもつ女性が生み出されるかもしれないのである。
 もう一つ、別の例を出してみたい。わたしは以前、自叙伝を通して人間形成のありようを探るという共同研究を行ったことがある(小山・太田編2008)。自叙伝を残した人々は、功成り名を遂げた人が多く、したがって男性が多数をしめ、女性は少なかったが、数多くの自叙伝を読みながら気づいたことがあった。それは、女性にとっての学校教育のもつ意味の大きさである。もちろん、一九世紀末の日本にはすでに学歴主義が成立しており、男性にとっても中等教育や高等教育を受けることの意味は大きかった。しかし男性は家族、地縁・血縁の人々、地域の有力者や学校の教員など、様々な人からの後押しを受け、場合によっては進学に反対する家族を周りの人に説き伏せてもらい、書生として住み込み、奨学金を得ながら、学校教育という機会をものにしている。男性の周りには多くの人々の支援が存在していたといえるだろう。そして学校卒業後、これまた様々な人間関係を活用しながら、男性は自らの社会的地位を形成していった。いわば男性は、多種多様な人間関係に支えられながら(社会関係資本という言い方をしてもいいのかもしれない)、中等教育や高等教育を受け、地位形成を図っているのである。
 しかし、女性はそうではない。女性が義務教育以上の教育を受けようとすれば(義務教育ですらあてはまる場合がある)、家族から反対されることが往々にしてあり、まずは男性の教育が優先され、女性が後回しにされることは世の習いであった(現代でもこのことは否定できない)。また女性の本来的役割は家庭にあるとされ、社会に出て活動すること自体が困難だったし、社会的労働に従事しても家のためや男性の補助と見なされがちであった。そのため女性に手を差し伸べる人もあまりおらず、女性は男性が受けたような周りの人からの応援をなかなか得られていない。そういう中にあって女性が頼みとするものは、勉強したいという強い意志と、学校で培った自らの能力やそこでの人間関係であり、女性はそれを梃子として自らの社会的地位を形成していかなければならなかった。多少大袈裟にいえば、女性が頼りとするものは学校教育しかなかったのであり、男性以上に、女性にとっての学校教育の意味は大きかったように思う。(以下、本文つづく)
 
 
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