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『医学が子どもを見出すとき――孤児、貧困児、施設児と医学をめぐる子ども史』

 
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土屋敦・野々村淑子 編著
『医学が子どもを見出すとき 孤児、貧困児、施設児と医学をめぐる子ども史』

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序章 医学が子どもを見出すとき
 
野々村淑子
 
一 医療救済と子ども
 
 医学史家のウッドワード(John Woodward)は、イギリスのホスピタル史の冒頭をこのように始めている。

西暦九四七年、ヨーク大聖堂の聖職者たちは、聖ペテロ・ホスピタルを設立した。これが、英国で最も初期に正式に認定されたホスピタルである。そしてこの施設は、病人をケアする施設というよりは、むしろ、旅人や巡礼の宿(hostel)としてつくられたのである。後にホスピタルは、医者を雇用し、病人を治療し始めた。というのも、病気は、神の意思の結果であり、その対応は教会メンバーの責任であったからである。……(中略)……教会付属のホスピタルは、治療(cure)よりも介助や世話(care)のためにあった。可能な時には身体の救済(the relief of the body)のためにもあったが、しかし、主としては魂の快復(the refreshment of the soul)のためにあったのである。……(中略)……その後、私たちが今日知っているようなホスピタルの実践を満たしている施設の嚆矢は、ロンドンの聖バーソロミューであり、一一二三年にラーヘレによって設立された。それは孤児や棄児を含む困窮民や貧者への援助、病人や旅行者に対するあらゆる援助を提供した[Woodward 1974: 1]。

ホスピタルは、一二世紀のその始まりから、孤児、棄児等の子どもを含む貧民の医療救済をその主たる役割とした施設として設立された。医の世界はこの時期から子どもに出会っていたのである。そしてその起源は、寄る辺ない人々のための休息の場であるとともに、魂の快復のための場所であった。医療の基層は、人々の心身への配慮を通した司牧の重要な機能として位置づいていたのである。医食を通じ人々を養い治めることは、教会、修道会の信徒への指導、管理と分かちがたく結びついていた。もちろん、本書において確認されるように、一八世紀以降の医療、医学が子どもと関わるときに、必ずしも上記のようなホスピタルからの系譜をそのまま受け継いでいるわけではない。連続性、継承性ではなく、各々の社会的な文脈において、それはどのように立ち現れたのか、を明らかにする必要がある。
 本書は、『孤児と救済のエポック――一六〜二〇世紀にみる子ども・家族規範の多層性』(土屋敦・野々村淑子編、勁草書房、二〇一九年)の後継書として取り組まれたものである。前書において、全体として念頭におかれたのは、子ども、特に貧しい子どもについての「物語」批判であった。カニンガム(Hugh Cunningham)[Cunningham 1991]に依拠しつつ、産業化と過酷な児童労働の進展、科学や啓蒙によるその状態からの救済といった「物語」が子ども史の語りとして位置づいてきたことへの批判的検討を試みたのである。医学は、なかでも子どもの生命や健康に配慮した救済の「物語」の立役者としても位置付けられ得るだろう。いかに子どもは死ななくなったか、健康になったか、ということを、それに関わった医者の努力への顕彰とともに発展史として語る「物語」は、非常に強力に存在している。あるいは逆に、近代西洋医学の権力性、生命への介入を批判し、近代以前の医学知を称える郷愁的歴史観の「物語」も同様に、もうひとつの「物語」であるともいえる。本書は、そのような強力な「物語」から離れ、医学知が子どもを見出していく過程とその多層性を明らかにするという困難に挑む。
 『医学が子どもを見出すとき――孤児、貧困児、施設児と医学をめぐる子ども史』は、そのタイトルにあるように、医学が、その社会におかれた文脈において、孤児や棄児、貧困児などの救済事業に関与した(関与せしめられた)経緯、その具体を、それぞれのフィールドにおいて明らかにすることに注力している。身体や精神に関する専門家である医者や産婆(産科医)、看護者、精神医学者、心理学者たちは、その専門知の精緻化、真理化への志向性を、子どもの生命や精神の保護、救済に重ねた。子ども、特に貧しい子どもの生命、健康が彼らの関心の的となった経緯はどのようなものだったのか。神の領域、超自然的な領域にあった病の領域が、世俗の医療人たちの実践と探究の対象となり、なかでも救済の対象として子どもが注目されたことの意味は何か。子どもを媒介として、その専門知を練り上げるために、彼らは何を思考し、行動したのか。行政は、研究機関は、教会や慈善団体は、あるいは周囲の人々は、そのようなうねりにどう反応したのか、あるいは逆に誘因となったのか。
 前書と同様、本書は、ある一定のストーリーをもって編まれたわけではない。むしろ、医の世界と子どもとの出会い方の多様性、多層性こそがここでの主眼である。連続性、継承性ではなく、各々の章におかれた事象の固有性、特有性が重要なのである。
 
二 家族、子どもを介した統治と医学
 
 本書は、医学による子どもへの関与の歴史を対象としているが、それぞれのフィールドにおける小児科学の系譜、その展開の歴史、あるいはその一部を論じることを目的としているわけではない。そうではなく、医学の子どもへの関与を通して、子どもや家族に関する規範がいかにしてつくられたのか、という前書の問いを引き継いでいる。すなわち、子どもの救済、保護事業の展開、福祉制度、子どもを取り巻く救済、保護、支援、福祉のネットワーク、保護や福祉の複合体のなかで、医学がどのように機能したのか、そして子どもや家族の価値観、その規範や分類の基準を提供してきたのかを、それぞれの場面において明らかにすることが、本書の趣旨である。
 ここで、この趣旨をより明確にするために、子ども、家族に関する社会史研究において重要なドンズロ(Jacques Donzelot, 1943-)の言葉を改めて参照することにする。ドンズロによる一九八〇年代に発表された研究『社会的なものの発明』[ドンズロ 2020]が、近年翻訳刊行された。この書は『家族に介入する社会』[ドンズロ1991]においても議論されていた「社会的なるもの」についての論考が収められている。これは「フランスで「福祉国家」の名により展開した一連の統治実践をめぐる思想史的考察として、すでに古典の位置を占めて」いるものである[ドンズロ 2020: 314]。この翻訳書の巻末に収められている、真島一郎による「ドンズロの問いをひらくために―訳者解説に代えて」には、インタビュー等を参照しながら、フーコーとの関係が、その影響や確執などを含めて論じられる。下記は、ドンズロ自身の発言からの紹介部分である。

自分の博士論文のことでは、フーコーに質問さえしなかった。かれとはじつに親しい間柄にあったから、むしろ自分は自分でオリジナリティを探さなくてはという気になっていた。じっさいわたしは、かれの思考のシステムに賛同するより、その欠落がどこにあるかをさぐっていた。そして家族という領域こそ、フーコーの論証が危うくなる当の欠落ではないかと考えた。監獄を社会の規律化にとってのプロトタイプとみなす『監獄と処罰』の論理にしたがえば、まるで学校や病院や工場とおなじく家族もまた、パノプティコンを差し向けるべき影のような場になってしまう。しかし、家族はたとえ外部から規律に貫かれたとしても、だからといってみずからに内在する諸権限まで失ったわけではない。「家族の統治」というアンシアン・レジーム期の定型句のかわりに、こうしてわたしは「家族をつうじた統治」という表現に思い至った[ドンズロ 2020: 325]。

真島は、その上で、フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)の「生政治」の議論と対比しつつ、ドンズロの「内政」について論じている。少し長いが、そのまま引用する。

その点、家族に対する一九世紀の介入的統治をめぐって、ドンズロがフーコーの名を直接あげながら言及する「内政」は、一八世紀以後に出現した生政治のそれ、いいかえれば「人口の質と国民の力の成長にむけたあらゆる手法をふくみこむ、きわめて広い語義」における内政のほうであった。家族に対する一九世紀の統治実践をこの意味での内政として捉え返すなら、生政治の客体=主体としての「家族」の背後には、親密圏をこえた統治の問いとして一九世紀に出来する社会的なものの姿が望見されてくるだろう。――「家族は、社会的なものの女王でありかつ囚人である」。
 ドンズロは、社会的なものを統治の系譜学のうちへと具体的に位置づけるうえで、もはや露骨な規律を労働者階級に強いるのではなく効果的な助言を通じて柔軟に介入していく一九世紀流「博愛」の戦略、またソーシャルワーク/社会調査に代表される、特定の「モラル」をふまえた後見的な実践に目を向ける。政治的意図を表向き漂白したこれらの領域では、国家に要求すべき扶助の「権利」に代えて、節約と貯蓄のモラルが家族に向けて説かれ、さらにかれらの貯蓄行動を間接的にうながす公役務/公共サービスとしての労働者用団地(社会住宅)が用意されることで、来たるべき社会的なものの基盤が固められる。貯蓄を奨励し、衛生と教育の規範を普及させることで最終的にめざされたのは、それゆえ家族の「危機」とはほど遠い事態、家父長的な依存のネットワークから女性や子どもを解き放ち、家族を主体として機能させるための効果であったことになる。家父長権力の排除から成立する新たな実践の装置としてみずからが名づけた「後見の複合体」の典型を、ドンズロは特に一九世紀末以降の少年裁判所に見出していた。そこでは当時の精神医学、精神分析、社会学の知をふまえたソーシャルワークが、法と刑罰からなる司法的なものを教育的なもので代置していく過程が確認される。……[ドンズロ 2020: 328-329]。

明示的で暴力的な規律化ではなく、家族や子どもが自律的に社会規範に相応しい生き方をし、そのこと自体によって社会を統御する近代統治技法のメカニズムとその経緯についてのドンズロの議論は、改めて強調するまでもないかもしれない。ここで確認しておきたいのは、「内政」およびそれ以降のドンズロによる「社会的なもの」あるいは「社会の動員」を軸にしたフランスの福祉国家制度に関する問いは、自由主義、民主主義国家における福祉の課題、あるいはそのなかに埋め込まれた貧困や格差、分断の問題と子どもについての考察に、今なお示唆に富むものであるということである。
 しかし、ドンズロがフランス史に即して辿っているような「内政」についての経緯や、家族というメカニズム、それを通した社会統治の仕組みは、それぞれの地域においてどのように立ち現れるのだろうか。このような仕組みがうまく機能するには、個々の子どもや家族が自らそのメカニズムに沿うように規範的に振る舞うか、あるいはそれが不可能だったときには自らが誤っているか、正常ではないからであるという認識が社会に浸透し、共有されていることが必要である。それは、いかにして可能となったのか。
 
三 本書の構成
 
 本書の構成は、以下の通りである。第Ⅰ部「「医学」による「子ども」の発見」においては、一八世紀を起点に前項で述べたような「家族を通じた統治」の網の目を構成し始めた時と場に注目し、医学、医療が子どもを見出していく具体にせまる。第Ⅱ部「医学調査と衛生管理」では、二〇世紀初頭に「社会問題」の医学的解決を構想した社会医学が、子どもを直接的に調査し、診断し、治療や管理の在り方を規定していく過程を明らかにする。さらに、第Ⅲ部「発達心理学・児童精神医学」では、子どもの知能、欲求、情動といった心理や精神に関する科学が、子ども自体や、子どもの養育関係を理論化し、その適用を通して、「非行」、「逸脱」、「精神薄弱」、「虐待」などを定義づけ、対応、養育、養護についての価値観を普及し、定着させていく場に焦点をあてる。
 まず、第Ⅰ部「「医学」による「子ども」の発見」は次の三章から成る。
 第一章の乙須翼「一八世紀末アメリカの医学と子ども・家族の交差――ベンジャミン・ラッシュの医学理論と社会改革思想、家庭生活の連関に着目して」は、アメリカ建国期の代表的医者であり、独立宣言署名者であり、共和主義思想、教育構想の担い手でもあったラッシュの医学理論と社会改革思想、さらに社会改革の要としての家庭像の連関を、『書簡集』によるラッシュ自身の家庭生活に対する叙述を含めて考察する。その上で、家族に関わるラッシュの理論や思想が、彼自身の家庭生活と往還しながら形成されたことを明らかにする。
 近代医学の揺籃期、養生論的な身体観を残存しつつ展開されたラッシュの医学理論と、産業化のなかでこちらも成立期にあった家族論、家庭生活の考え方、そして新しい共和主義社会で期待された家族の役割は、内的に連動していたという。衣食や気候などの生活習慣や環境、慣習、職業等も含めた物質要因や刺激、環境が、身体や精神の不調あるいは全体の均衡の崩れをもたらす、というラッシュの養生論的な身体観と、生活環境や環境を整え、心身の健全を維持する場は家庭であり、女性がその役割を担い、男性は家長として家族の統治を担う、という近代的家族イメージの連関がここにある。そして、それによって社会が改良される、という「内政」、「家族を通した統治」の形の萌芽を看取することができるだろう。
 第二章の野々村淑子「一八世紀イギリスの助産救貧をめぐる産み育てる身体の科学化――子どもの生命への配慮と女性産婆」は、生命の始まりへの配慮が社会的関心の的となり、男性産婆/医師による医学的な知や実践が権威をもち始めた時期の、出産の世界と女性産婆に焦点をあてる。
 死産など危険な出産への鉗子等の道具による介入を除き女性産婆が担っていた出産領域に、実習や解剖が可能な救貧医療の場を足掛かりにしつつ、男性が、その責任者、後継者養成の担い手として位置づき始めた。そして、子どもの生命保護を争点としながら、男女どちらが出産の場に相応しいかという論争が繰り広げられた。その前後の時期に書かれた女性による産婆術書の語り口から、出産を超自然的なものではなく自然として捉え、産み育てる身体の器官と機能を科学として習得することを後押しする文脈を読み取ることができる。健康な子どもの養育環境を整えるのみならず、孕み育て、胎外に産みだすまでの環境としての自身の身体を維持管理する知識を得ることが女性の役割であるという自負の言葉が、そして、その自覚を女性たちに促す言葉が、女性向けの助言書に、女性によって書かれるのである。「家族を通した統治」を女性が動かしていくメカニズムが生成するモーメントである。
 第三章の稲井智義「一九〇〇年前後の岡山孤児院における看護と病気――看護婦の経歴と仕事に注目して」は、明治期日本における最初の孤児院である岡山孤児院において看護婦として働いた女性たちの経歴、職務、養成所での学び、さらに岡山孤児院に設立された看護科の概要を明らかにする。日本における家族制、小舎制を採用し、家庭的モデルによる施設養護の先駆である岡山孤児院において、子どもたちの看病や世話をする女性が、看護婦養成学校に通い資格を取得して配置されたことは、当孤児院の「家族生活」における女性(母)役割への期待とみることができるだろう。
 重病で入院治療が必要な場合は近隣の病院に入院していたことや、看護についての専門的な知識と技能を身につけた看護婦が、具合の悪い子どもたちを、他の子どもとは離れた別室で面倒をみて、元気になったら戻していたこと、病室は、むしろ養生室というほうが適当であるとされたことなどからも、院内の「家族生活」の一部に組み込まれていたことがわかる。日本初の施設看護婦であり、岡山孤児院創設者石井十次の後妻となった吉田辰喜は著名であるが、その他の孤児院で育ち、働いた女性たちの経歴などの具体について、著者が長年その整理に関与してきた岡山孤児院の資料に寄り添い、光をあてたことは意義深い。
 次に、第Ⅱ部「医学調査と衛生管理」は以下の三章から成る。
 第四章の杉原薫「二〇世紀初頭ドイツにおける「危険にさらされた子どもたち」の保護と医療の介入――「ドイツ児童保護センター」での取り組みを中心に」は、一九〇七年にベルリンに設置された機関に着目する。センターは、援助を必要としている子どもたちがおかれた状況を調査し、その状況にあわせて適切な機関・個人に支援を要請する調査・判断・仲介役割を負っていた。医師は、センターが行う各事案の個別調査において重要な医学的診断をし、対応についての助言をする。
 援助申請の内容には、怠惰な生活、病気や障害といった子ども側の事情もあったが、両親による子どもの虐待や搾取、ネグレクト、アルコール中毒や投獄、貧困や病気、死といった親側の事情、なかでも親の貧困、病気、アルコール中毒が多く、小児科ではなく精神科医による対応が主だったという。精神医学による基準、指標、それによる診断が、支援の前提とされていく。医者による個別の診断が積み重ねられ、子どもに支援が必要かどうか、危険にさらされているかどうかの基準線を引いていく。児童保護を目的としたセンターであるが、医師は、子どもの診断や治療だけではなく、親、特に母親の心身への配慮と、両親の収入源の補完などの対応を助言した。子どもを通じた家族の規範化の文脈であるといえるだろう。
 第五章の草野舞「二〇世紀転換期イギリスにおける子どもの栄養をめぐる「科学的」な議論――学校給食実施過程に焦点をあてて」は、一九〇六年に制定されたイギリス学校給食法の実施過程で医師や医療検査官等によって論じられた子どもの体力衰退、栄養不良問題、その解決のための食事の量や栄養素などに関する議論を追う。栄養状態を判断する指標、つまり身長と体重、皮膚や顔の表情、髪や歯の状態など、さらに体格によって給食で提供する食事の量と栄養素、メニュー例などが、医者や医療調査官らによって提示されるのである。
 給食の導入に際し、親役割を奪ってしまい親の自覚を削いでしまうのではないかという議論がなされたことは知られているが、ここでも家庭で与えられる食事が、議論の対象となる。あくまで学校給食は、家庭での食事の不足分を補うためのものだという前提から、食事の提供にあたっては、各家庭での食事の状況、経済的事情が考慮されたという。日本の学校給食制度はこのイギリスの学校給食法からの影響が指摘されている。学校給食が開始されていくプロセスにおいて、どのような子どもにどういう条件で学校で食事を供するかという議論を重ねるなかで、各家庭が配慮すべき子どもの栄養状態、食事の提供の量や方法、マナーなどに関する規範がつくられていく、重要な道筋である。
 第六章の田中友佳子「植民地朝鮮における都市細民「土幕民」の社会医学的調査――「生れながらの土幕民」の発見」は、一九二〇〜三〇年代植民地朝鮮において農村から都市に流入して河川敷や丘陵に貧民街を形成した土幕民に関して、京城帝国大学医学部衛生学・予防医学研究室を中心に実施された調査を中心に、特に子どもに関する衛生調査に着目する。
 土幕民に「特異」な点が、調査官が予想していたほどには衛生調査においても生活調査においても現れなかったことについて、調査を忌避する人々の存在など、調査の曖昧さが当時指摘されたという。その一方で、子どもの体格において特徴が見出された。そこから称された「生れながらの土幕民」というレッテルは、太平洋戦争下において都市郊外に強制移住させた土幕民の統制、管理の前提とされていく。調査者の予想を裏切るものであったとはいえ、土幕民の生活や衛生の状況、家族の生活や子どもの育ちの実態が、企業の経費援助のもとで帝大医学生によって調査され、数量的な結果と共に、土幕民についての記述がなされた。この調査の植民地統治における目的や利用の仕方とともに、この調査を通して、一般民、一般朝鮮人との違いが前提とされ、その特徴が想起、想定されていくことも興味深い。
 最後に、第Ⅲ部「発達心理学・児童精神医学」は下記の四章から成る。
 第七章の松本由起子「保護複合体と愛着理論――「論争」期の精神分析的子ども像をめぐって」は、ジョン・ボウルビィが提唱した「愛着理論」の展開を、二〇世紀前半から半ばにかけてのイギリスで福祉に関わる多様な専門家による「保護複合体」を軸に追いつつ、フロイトの継承をめぐって生じた論争における子ども像との対比を試みる。
 ボウルビィが国際精神分析誌に研究を発表した一九四〇年代から、愛着理論とホスピタリズム論との乖離を指摘しつつ、ロンドン児童相談クリニック、非行の科学的治療のための研究所、あるいはハムステッド戦時保育所等の「保護複合体」において、中産階級型の望ましい母親像として受容しやすい形の愛着理論が拡散されたことを確認していく。子どもの相談、診断、治療が、専門家チームのネットワークによって対応されるなかで、愛着理論は、階層性や経済的環境の影響を曖昧にし、普遍的な母子の心理的関係として定着していくという。病的な子どもでもなく病的な家庭の子どもでもなく、正常な子どもの壊れやすい感情生活という認識が構築され、子どもの感情を守るための家庭生活を規範化していく。愛着理論が、精神分析の一部の概念を保護複合体の動きに沿って普及されたものであったのに対して、精神分析に関する当時の先端的研究は、子どもの精神分析に距離をとるか、子どものもつ関係性の複雑さに向きあうか、という点で論争を展開していたことは、非常に重要な知見である。
 第八章の大森万理子「アメリカ少年司法における医学の導入と展開――フィラデルフィア市立裁判所の医療活動(一九一四年〜一九二七年)に着目して」は、全米保護観察協会における議論とペンシルベニア州フィラデルフィア市立裁判所の事例をもとに、医学、精神医学、心理学がいかに少年司法の非行児童対策に受容されたかを検討する。
 全米保護観察協会の議論からは、少年非行についての考え方が、遺伝的要因によるものから矯正、治療可能性のあるものに、そして保護観察官の役割が保護対象者に対する積極的関与へと変化したことに、精神科医や心理学者が関わっていたことが示される。ここで重要なのは、精神科医や心理学者が、非行に繋がる要因として、遺伝や過去の病気や永久的な心身の悪化と共に、因果関係を変えることのできる要因として、家庭環境を挙げたことである。実際に、フィラデルフィアでは少年裁判所外部局を設置し、保護観察中の者についての調査、診察を行う保護観察官として医者を採用、家庭訪問と治療助言を担った。さらに、一般医、心理学者、精神科医、婦人科医に加え、医学的観点から保護観察を実施するために医療ソーシャルサービス部局(のちに医療部局)が設置された。非行問題への医学的対応は、刑罰ではなく矯正、治療モデルへと少年司法の態度を変えていく。家庭環境は、少年非行の要因として言及されることとなったのである。
 第九章の野崎祐人「「戦災孤児」への心理学的関心――第二次世界大戦後の近江学園における知能検査と教育実践に着目して」は、終戦後一九四六年に滋賀県大津市に戦災孤児、生活困窮児、精神薄弱児の収容および教育を目的として設立され、児童福祉法施行により養護施設兼精神薄弱児施設として認可された近江学園に注目する。
 心理学者による知能検査の実施によって、戦災孤児の知能の問題が発見され、その後の対応が変化せしめられた経緯について、近江学園の刊行物や初代園長、糸賀一雄ら三人の主要人物の著作集等から読み解く。知能検査の実施は、徐々にその数値を施設運営者たちに正確で正当な基準として認識され始め、施設養護児童、孤児や生活困難児たちのなかに精神薄弱児が混在していることが気づかれていく。それによって、学級編成など教育現場での対応や施設の役割が見直されることとなる。孤児、浮浪児、生活困窮児と、精神薄弱児の区分が、知能検査という心理学ツールによって再編成されていくのである。近江学園の歴史においては、前史として位置づけられてきた創設期から一九五〇年代初頭の「戦災孤児の時代」に注目し、知能検査導入と共に、子どもへのまなざしが交錯した様相を解明する論考である。
 第一〇章の土屋敦「愛着理論の再浮上と施設養護の「家庭化」――一九九〇〜二〇〇〇年代における乳児院の変遷を中心に」は、社会的養護、施設養護において大きな変化があった二〇〇〇年代前後において、乳児院にくらす子どもに対する病理概念の形成を、近代家族規範からの「偏差」の病理化という視座を軸に明らかにする。第七章でイギリスでの展開が論じられた愛着理論の、日本での近年の動きである。
 一九九〇年代以降、児童虐待問題の構築と連動して再浮上した母性的養育の剥奪論/愛着理論についての議論の後、乳児院の児童のなかに「愛着障害」が読み込まれていくと共に、養育者―子ども関係、特に母子関係が医療化していくプロセスが明らかにされる。愛着理論は、国連子どもの人権委員会からの勧告という「外圧」を受けた、里親委託推進や施設の小規模化/「家庭化」とともに、近代家族の規範を両サイドから補強した。一方では、「あってはならない家族」への問題視を強調しつづけることによって、他方では、家庭的な養育が、子どもの人権に応える世界水準であり、望ましいものだと強調することによって、である。また、より多様な愛着対象者が位置付けられる欧米圏の愛着理論とは異なり、従来型の近代家族規範に閉じた愛着理論が日本の社会的養護行政において前提とされている点が指摘されている。このことは、外圧による家庭的養護の推進と併せてみると、非常にアイロニカルな状況であるといえるだろう。
 以上のように、本書では、医学が子どもへの関心を高め、調査、診察、治療の対象としての子どもが、その調査、診察、治療の行為そのものによって分類、区分され、治療や配慮の必要性が強調されていく様相が描かれる。また同時に、子どもの健康、衛生や栄養などの管理、精神や心理に配慮した養育を行う場としての家庭が、あるいはそれを主に担う女性たちの生が、さまざまな場面で規範化されていく様相が確認されるだろう。医学、医療が、かつて教会の領分であった身体の救済と魂の快復において、家族をいわば理想化、神格化しながら、その子どもへの配慮の知や技術を司る正統性を獲得する経緯の断片である。
 従来、子どもへの医療、医学の関心とそのポリティクスについて看過されてきたわけではない。各章に、それぞれの論考の前提となる先行研究については言及されているため、ここでは、本書の私たちの問いに繋がる、複数の国や地域の歴史研究を重ね合わせる形で、比較史的にまとめられた重要な諸研究書類に触れておきたい。まずは、比較教育社会史のシリーズがある。『身体と医療の教育社会史』[望田、田村 2003]は、医療による子どもや教育、出産への関与に関する論考集である。また、『福祉国家と教育』[広田、橋本、岩下 2013]、『保護と遺棄の子ども史』[橋本、沢山 2014]、『教育支援と排除の比較社会史』[三時、岩下、江口、河合、北村 2016]には、子どもの生命に関わる政策、制度、支援団体や事業などに関する非常に重要なモノグラフが多く収められている。さらに、別の共同研究グループによる文献では、人々のライフコースにおける生命リスクへの医療戦略を軸に、二〇世紀の日本、ドイツ、イギリスの疾病構造の変化、病院化過程、オルタナティブ医療や精神疾患等を事例にその歴史的展開を追った、『分別される生命――二〇世紀社会の医療戦略』[川越・鈴木 2008]がある。人生過程に視野を広げているが、医療戦略という文脈では本書の試みに深い示唆を与えている。同書の姉妹書である『生命というリスク――二〇世紀社会の再生産戦略』[川越・友部 2008]は妊娠・出産、乳幼児死亡といった生命の再生産とそこに派生する衛生政策、人口政策、家族政策などにポリティクスについての日本とドイツを対象とした比較史的考察である。子どもの生命への関与という文脈では、後者に収められている諸論考は、本書の関心に近い。また、『身体と環境をめぐる世界史』[服部 2021]も食や衛生、健康に関わる医療の介入に関する、日本、ドイツ、アメリカ、イギリス、スイス等の諸国にわたる研究が収められている。
 本書は、なかでも医学、医療が、子どもの生命、身体や精神の健康、衛生に近づき、調査、診断、治療のための正統化された知とその権限をもって、子どもと子どもの育ちのための関係性や環境についての規範を普及し、真理として定着させていく具体に迫る複数の試みである。先にも触れたように、全体として子ども史、医療史の流れが語られるわけではない。それぞれの章による断片が、歴史叙述の流れに対し、その流れをより速く滑らかにするというよりは、小さな堰となるか、あるいは少しでも波紋を生じさせるようなものであることを願っている。それが、本書の「物語」批判としての意義であると同時に、「右側に「作製段階の科学」、左側に「完全にできあがった科学」あるいは「既製の科学」という「双面を有した」ヤヌス」[ラトゥール 1999: 7]を意識したメタの視線に接近する試みとしての証左であると考えている。
(注、文献は割愛しました。pdfでご覧ください)
 
 
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