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あとがきたちよみ
『現代法哲学入門』

 
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アンドレイ・マーモー著
森村 進 監訳/伊藤克彦、永石尚也、服部久美恵 訳
『現代法哲学入門』

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序論
 
 二〇〇八年の初夏、カリフォルニアのハイウェイには次のメッセージを示す電気標識がたくさん見られた。「七月一日からハンズフリー通話。これは法律です!(Itʼs The Law !)」カリフォルニアの運転者はこの標識が言っていることを正しく理解したことだろう。つまりカリフォルニア州議会はその年のそれ以前に、運転中ハンズフリー装置を使わずに携帯電話を使用することを禁ずる、新しい法律を制定したのである。むろんこれらの標識自体が法律なのではない。これらの標識は、いわば「これが法律だ!」ということを運転者に教え、思い出させただけだ。これは興味深い種類の情報である。なぜならそれは記述的と指令的という二種類の異なったタイプの内容を含んでいるからだ。前者の意味では、このメッセージは、その年のそれ以前に州都サクラメントで起きたある出来事について何ごとかをわれわれに教えている。だがそれは後者の明確な意味で、われわれがある仕方で行動すべきである――つまり、今やわれわれは運転中に携帯電話を使おうと望むならばハンズフリー装置を使わねばならない――ということをわれわれに思い出させる。要するに、今やそれは法(the law)なのだ。そしてむろんのこと、この両者の意味は因果的に関係している。ハンズフリー装置を用いるべしという法的責務は、ある出来事――すなわち、サクラメントにおいてある特定の人々がある場所に集まり、話し合い、挙手し、ある文書に署名した、といったこと――が現実に起きたという事実から、何らかの仕方で生じているのだ。
 内容のこの二重性について考える際に法哲学が生ずる。法というものは、大体において、規範の体系[システム]である。法の本質的性質は指令的だ。つまり、その目的は行為を導き、行動様式を変え、その対象が実践に関して行う熟慮を拘束することにある。一般的に言って、法の目的は行為のための理由をわれわれに与えることだ。言うまでもなく、すべての法律が責務を課するわけではない。発展した法体系の中の大変多くの法律は、さまざまの種類の権利を与え、他の権利や責務を変更する法的権能を提供し、それらの法的な権能や権限を定める組織を設立する。だが法が含んでいる規範のタイプはとても多様だとはいえ、おおむね法規範は指令的な性質のものである。法律は世界の諸様相を記述することをめざしてはいないし、事態のあり方に関する命題からなっているわけでもない。何らかの仕方で、法律は人々の行動への影響あるいは制約を目的としている。そして大部分の場合、人々に行動のための理由を与えることによってそうする。法のこの側面を、その本質的に規範的な性質と呼ぶことにしよう。
 しかしながら、法の規範は典型的には人間の創造物であるという点でかなりユニークな規範体系である。例外があるかもしれないが、大体のところ法は熟慮的な人間行動が作り出したものだ。法規範は立法府あるいはさまざまの機関によって制定されるか、あるいは司法的決定を行う裁判官によって創造される。法は典型的には意志行為の産物である。この二つの観察を組み合わせると、われわれは法哲学者たちを悩ませてきた主要問題を理解し始めることになる。――集団あるいは諸個人によっていわば遂行される、基本的に人間行動・意志行為であるところの時空間内の出来事が持つ、このユニークな規範的意味をいかに説明すべきか? またこの規範的意味は何に存するのか?
 法哲学者たちはこの問題が二つの主要な問題からなっているということを理解してきた。一つは合法性、あるいは法の効力[妥当性](legal validity)という観念そのものに関する問題、そしてもう一つは法の規範性(legal normativity)という概念に関する問題である。もう一度カリフォルニアの道路標識を考えてみよう。それはわれわれに、今やわれわれが従うべきことがあって、われわれは「これが法律です!」という理由によってそうすべきである、と述べている。前者の法の効力に関する問題は、この規範的内容(あなたが運転中はハンズフリー装置を使用すべきだということ)を実際に法たらしめるものは何か、という問題だ。そして後者の問題は、そのような規範が指令する「べし」の性質に関するものである。
 法の効力という概念から始めよう。われわれは「Xだということが法である」とか「法はあなたにXを要求している」とかそれに似たことを言うとき、暗黙のうちに法の効力という観念に依拠している。いかなる規範的内容についても、それは特定の時点の特定の法域(jurisdiction)において法的に有効か、法的に有効でないか、あるいはもしかすると法的に有効か否かが疑わしいものでありうる。しかし道徳や論理の効力と違って、法の効力という観念は場所と時間にしっかりと結びついている。ハンズフリー携帯電話を使用せよという要請は、今はカリフォルニアでは法的効力があるが、ネヴァダではそうでないし(そこではそのような法的要請が当てはまらない)、カリフォルニアで今は効力があるが、二年前にはそうでなかった。要するに、法がこれこれしかじかであるということが示唆されているときはいつでも、時と場所の問題が重要なのだ。しかしそれにもかかわらず、ある規範的内容を法的に有効なものたらしめる条件が一般的に何であるかを決定する哲学的説明があるはずだ、と広く想定されている。ある規範的内容が特定の時と場所において法である、ということを真ならしめるものは何か? そのことを決定するファクターの種類は何か? 別の言い方をすれば、法の効力に関する哲学的な問題はこうだ

X[何らかの規範的内容]はC[特定の場所そして/あるいは人々]についてtの時点で法である」という形式の命題を真(あるいは偽)たらしめる一般的な条件は何か?

 この問題の一般的な性質が何より重要だということに注意してほしい。どんな法律家も、たとえば何がカリフォルニア道路交通法の内容を法的に有効にするかを知っている。それは、この法律はカリフォルニア州憲法が定める手続に従ってカリフォルニア州議会によって正当に制定された、という事実だ。しかし哲学者が関心を持っているのはこの問題のはるかに一般的な側面である。われわれが理解しようとしているのは〈法の効力という観念を構成する諸条件は一般的に何か?〉というものだ。これらの条件は、特定の時と場所で起きた行為や出来事のような社会的事実にとどまるものか? もしそうだとしたら、他の行為ではなしにこれらの行為だけを法的に意味あるものたらしめるのは何か? また法の効力の条件はおそらくそのような事実に尽きるものではなくて、まだ何か他にも規範的考慮が必要なのかもしれない。当該の規範が創造されるに至った仕方だけでなく、その内容もまた法の効力に関係するのか? さらに、法の効力がその規範を創造した行為や出来事と必然的に結びついているわけではないという可能性もある。高名な法哲学者の中には、規範の法的効力は時として道徳的推論から導き出されることがありうると論じてきた人がいる。ある規範的内容が法的に効力を持つのは、それが道徳や他の類似した考慮に基づく推論によってこの状況下で妥当しているとわれわれが結論づける内容だからである、ということがありうる。これらが、合法性という観念自体に関して生ずる一般的な問題だ。われわれが明確化しようとしているのは、規範の法的効力を構成する一般的諸条件の説明なのである。
 大ざっぱに言うと、法の効力の条件に関する一般的諸問題に対する回答においては、三つの主要な学派が生じてきた。法実証主義と呼ばれる一つの学派が十九世紀前半に発生し、それ以後かなりの影響力を保持しているが、それによると、法の効力の条件は社会的な事実によって構成される。合法性を構成するものは、人々の行為と信念と態度に関する事実の複雑な集合であり、法の効力の諸条件は基本的にそれらの社会的事実に尽くされる。われわれが最初の二つの章で見るように、ここにおける論争の極めて重要な側面は、還元が可能か否かにかかわる。つまり、法の効力の条件は非規範的なタイプの事実に還元できるのか?
 自然法と呼ばれる、ずっと古くからの伝統に発する別の学派によれば、法の効力の諸条件は――時空内の行為と出来事に必然的に結びついてはいるが――法律を作り出すそれらの行為と出来事によって尽くされるものではない。規範として想定されているものの内容、たいていはその道徳的内容も、その法的効力と関係する。道徳的受容可能性の最小限の閾値も満たさない規範的内容は法的に効力を持つことができない。聖アウグスティヌスの有名な言葉が言うように、lex iniusta non est lex(不正な法は法ではない)。この見解はトマス主義自然法の伝統に帰することができるとしばしば言われてきた。それが正しいかどうかは論争の余地のある問題だが、私はここで詳しく考えることはしない。またそれが今でも哲学的に支持を受けている見解であるかどうかは疑わしい。
 法の効力の諸条件に関する第三の見解は、自然法の伝統からいくらかのインスピレーションを受けてはいるが、それとは基本的な点で異なるところがあって、道徳的内容は合法性の必要条件ではないが十分条件でありうるとする。この見解によると、時として道徳- 政治的推論は、ある規範的内容が法的に効力を持ち、それが特定のコンテクストで法の一部をなすという結論を十分導くことができる。第4章で見るように、この見解には二つの主要ヴァージョンがある。その一つはロナルド・ドゥオーキンが明確化したものであり、もう一つは伝統的な法実証主義のかなりの変形として生まれたものである。
 法実証主義もそれに対する諸批判も、法の効力に関する統一理論を形成してはいない。法理学のこれらの伝統のいずれの中にも、重要な変形や異なる見解がある。だがそこには繰り返して生ずるテーマがある。それは、この論争は〈法の効力を構成する諸条件を、規範として想定されているものの内容評価から分離することが可能か〉という問題を中心としている、ということだ。法実証主義は効力の条件が内容から分離できるとみなすが、この伝統の批判者たちは非分離説をとる。後者の見解によると、何が法であるかは、ある重要な意味におけるべしの意味において法があるべき姿に、部分的に依存しているのだ。
 法がわれわれの行為の理由を提供することをめざしているということには、誰もが同意する。あるいはそう思われる。法の本質的な規範的性質についてはいかなる深刻な疑いもない。疑いが存在するのは、法的規範がいかなる種類の理由を提供するかという問題についてである。たとえば、法的責務という単純な観念をとってみよう。――ある法的規範が「Fという特徴を持つすべての人は、Cという状況下ではφすべし」と規定しているとする。この「べし」の性質は厳密には何か? またそれが、道徳的な「べし」ともし関係しているとしたら、どのように関係しているのか?
 ここで肝要な第一のステップは、われわれが持ちうる二種類の異なる関心を区別することだ。一つの関心は、法的責務に従うべき道徳的責務の問題に関係する。法がφすべき責務を課そうとするという事実は、〈それゆえφすべしという道徳的責務がある〉ということを必ずしも含まない。あるいは別の言い方をすれば、法的な「べし」は、必ずしもすべてを考慮した上の「べし」ではない。人がφすべき法的責務を負っているということは、その人が道徳的に、あるいはすべてを考慮した上で、φすべきか否かという問題を解決するわけではない。しかしながら〈法的責務を順守すべき道徳的な責務があるか〉という問題は道徳的な論点であって、法の性質に関する論拠によって決められるものではない、ということは広く認められている。道徳的な論点はわれわれが法の性質とその規範的性質をどのように理解するかに部分的に依存しているかもしれないが、結局のところ、法に従うべき一般的な道徳的責務があるかどうか、またいかなる状況下でそうなのかは道徳の問題であって、道徳的な根拠によって決せられるべきものだ。
 だが法哲学者が関心を持っている問題はそれとは異なる。それは法的責務(と法的指令の他のタイプ)が何に存するかに関する問題だ。法がその対象に課そうとする「べし」の性質は厳密には何なのか? それは道徳的責務のようなもので、単にそれを別のパースペクティヴから見たものにすぎないのか? それともある条件下における道徳的責務の一種なのか? それとも法的な「べし」は〈もし人が法的責務を順守しなければ、その人はある望ましからざる帰結を引き起こすことになるだろう〉という予言的言明に還元されるべきなのか?
 法の規範性の性質に関するこれらの問題に対して哲学者たちが与えてきたさまざまの答えを特定の諸学派の下に区分することはとても難しい。〈合法性の概念に関する別々の学派は、法の規範性の概念の概念についてもそれに対応する別々の見解を含んでいる〉と考えたくなるかもしれないが、残念なことに必ずしもそうではない。しかしながら次のような一般的な関係がある。――法的責務を道徳的責務の一種、あるいはそれと同等のものとみなす傾向が強ければ強いほど、法の効力と道徳の分離に抵抗する傾向も強くなる。つまり別の言い方をすると、ここにはある圧力がある。――もし人が法について、それをわれわれに道徳的な行為理由を与える種類の規範的内容を持つものとして考えるならば、人は〈合法性自体が何らかの道徳的内容に条件づけられている〉と考える傾向がある。人がそれとは反対に、合法性の条件が法の道徳的内容から分離していることがあると認めるならば、〈法は必然的に、あるいは典型的に、われわれに道徳的な行為理由を与える〉という見解を採ることは難しい。確かにこれは圧力にすぎない。この圧力に抵抗する方法があるかどうかは、これからいくらか詳しく見ることになる問題である。
 法の性質に関するこの二つの問題――法の効力の条件と法の規範性に関する問題――は、今日の法哲学の中に別の種類の論争を最近生み出した。それは法哲学という営為自体の性質に関するものだ。もし実際に法の事実的な側面がその規範的な内容から分離できないとしたら、法とは何かに関する哲学的な説明は、法に帰される規範的な内容から分離できないということになるだろう。この非分離説によると、法哲学は必然的に規範的なタイプの哲学――つまり、あるべき法に関する問題に必然的に従事するタイプの哲学――である。だからここでわれわれは法哲学の性質に関する論争に至った。――それは何かを記述し、それが何であるかを述べることだけをめざす種類の理論なのか、それとも
物事がいかにあるべきかに関する何らかの見解を必然的に含む種類の哲学なのか? 法哲学の性質に関するこの方法論的論争は今日の法哲学の中で中心的なテーマの一つになってきた。驚くべきことではないが、法の事実的側面と規範的側面の間の関係について非分離説をとる人々は、法哲学の記述的要素と評価的要素についても非分離説をとる傾向がある。この二つのタイプの非分離説が必然的に結びついているか、またそうだとしたら厳密にはどのように結びついているかは、本書の別々の部分で取り上げることになる難問だ。
 この二つの主要テーマ、すなわち事実と規範の関係と、実体と方法の関係とが、本書の主要な議論に浸透している。実体と方法の両方における分離の可能性、そして両者間の微妙な関係に関する論争が前世紀の法哲学の理論活動の多くに浸透していた、ということを私は示したい。私はまた、これらの論争のかなりの部分は還元の可能性という問題をめぐっているということも示したい。
 第1章において、私は法の「純粋」理論[純粋法学]を提示しようというハンス・ケルゼンの影響力ある試みと、その失敗の理由を論じる。ケルゼンの純粋法学は、方法と実質の両方における完全な分離説の最もめざましい――そして多くの点で、今でも最も興味深い――擁護論である、ということを私は示したい。このプロジェクトの失敗の主たる理由は、それが分離説を反還元主義と同一視したことにある、と私は論ずる。つまりケルゼンは〈法の性質に関する理論は、法的事実を他のいかなるタイプの事実にも――社会的事実にも道徳的事実にも――還元してはならない〉と考えていたのだ。
 第2章において、私は法哲学へのH・L・A・ハートの貢献のいくつかを示す。ハートの『法の概念』は二十世紀の法哲学への単一の貢献として最も重要なものであると広くみなされている。実際のところ、私はハートの理論が法と法哲学における分離説の展開の最も首尾一貫した試みであり、それは徹底的に還元的なものである、ということを示したい。だがここで私はまた別の分離を導入することになる。それはハートの理論が試みたが私見ではそれほど成功しなかったもので、法と国家主権との分離だ。ホッブズから十九世紀の主要な実証主義者に至る法実証主義の伝統は、法を政治的主権の道具として見てきた。それは近代国家の誕生から大きな影響を受けたものだ。この見解によると、法は政治的主権者の命令からなっている。法と国家主権とのこの同一視は根本的に間違った発想であると示そうとしてハートは苦労した。実際、ハートは伝統的な法実証主義がここで方向を誤ったと論じた。法は政治的主権から発生するのではない、なぜなら政治的主権というわれわれの観念自体が部分的に法規範に依存しているからだ、というのである。私は、われわれの法の理解を主権概念から分離させようとするハートの試みは部分的にしか成功していない、と論ずる。われわれは法と国家の間にあまりにも緊密な関係を作り上げるのを避ける必要があるという点で、ハートは正しい。しかしジョゼフ・ラズが示したように、法と権威の間には本質的な関係があるということも同じように重要だ。法の本質的に権威的な性質の分析、そしてそれを社会的ルールに基づくハートの法の捉え方と調停させる試みが、第3章のトピックとなる。この章において私は法の性質に関するハートの主要な洞察のいくつかとラズの洞察を一緒にして、〈法の基礎を慣習によって説明することが、この二人の最善の洞察を取り込むことができる――少なくともいくらかの変更を加えれば〉と論ずる。
 第4章において、私は法の性質に関する実体的非分離説の今日の諸ヴァージョンを考察する。すでに述べたように、この見解は二つの主要な形をとる。ドゥオーキンの影響力ある理論によると、法の内容は規範的考慮から決して分離できない。何が法であるかは――常に、そして必然的に――法がいかにあるべきかに関する、ある評価的考慮にかかっている。この非分離説のもっと穏健な一ヴァージョンによると、法の内容が規範的考慮から分離できるか否かは偶有的な問題であって、それはある法システムの中でたまたま通用している規範にかかっているので、非分離説は少なくとも時として真である、ということになる。この章の主要な議論は、これらの見解は両方とも間違っているというものだ。しかしここでの議論が完結するのは最終章になってからにすぎない。その前の第5章において、私は非分離説の方法論的ヴァリアントを考察する。このヴァリアントによると、法の性質に関するいかなる哲学理論も、法実証主義も含めて、あるべき法に関する何らかの規範的見解を必然的に含意することになる。この主張にはいくつかのヴァージョンがある。私はそれらを区別して、このタイプの非分離テーゼのあるヴァージョンは実際にはハートの法哲学の記述主義の意図と衝突するわけではなく、衝突するヴァージョンはそれ自体として欠点がある、と論ずる。適切に理解すれば、ハートの方法論的分離説は擁護できるのである。
 第6章は法の内容の理解における言語と解釈の役割に焦点をあてる。この議論を動機づけたのは、われわれは解釈なしには法の言うことを決して理解できないというドゥオーキンの議論だ。彼の論ずるところでは、解釈というものは部分的に、とはいえ必然的に、評価を含むので、法が何を要求しているかの理解は必ず何らかの評価的考慮に依存しているというのである。私はこの章で、法の指令を理解するということをこのように捉えるのは、言語と言語的コミュニケーションに関するある誤解に基づいていると論ずる。法が言っていることの意味論的・語用論的側面のいくつかを解明しようとする試みが、この章の主たる目標である。一つの目的は、適切な仕方で言語学的考慮を取り入れれば、解釈は法が言っていることを理解するための標準的形態ではなくて逆に例外だとわかる、ということを示すことだ。この章の別の目的は、〈発話状況の理解の特定の語用論的側面をどのように利用すれば、法が言っていることを理解することと解釈することとの間の相違を明確にできるか〉を示すことだ。そしてこの最終章は、方法と実体の両方における、法の性質に関するかなり強い分離説の擁護を完成させることになる。
 法哲学は本書で論じた種類の論点だけに限られるわけではない。哲学の仕事のかなりの部分は、不法行為や契約や刑事責任や刑罰や法律と憲法の解釈やその他の多くの個々の法領域に関係する。本書は法の一般的性質に関する哲学的論争に焦点をあてた。不法行為の哲学や契約の哲学などもそれぞれで一冊の入門書に値する。さらに、〈法の性質に関する哲学的な理解が、いかなる特定の法分野の性質の哲学的探究のためにもプロローグでなければならない〉などと主張したら、それは僭越だろう。刑法や不法行為法や契約法といった分野の中で哲学者の興味を引く論点の多くは、特定の法的ドクトリンの基礎にある正当化に関する道徳的論点であることがほとんどだ。そういうわけで、それらの論点は法の一般的性質に関するいかなる特定の理解にも本当は依存していない。法の効力は社会的事実に還元できるか否かという問題を本書はいくらか詳しく論ずるわけだが、単純にそれは、刑法で用いられるさまざまの責任観念をどうしたら一番うまく説明できるかとか、不法行為法の主要なドクトリンは矯正的正義によって理解するのが最善かといった問題に影響を及ぼさない。これらの探求は互いに全く独立している。
 しかしながら、一般的法理学や本書で論じた種類の問題に間接的にでも依存するような、哲学的に興味ある主題はいくつもある。第4章と第6章で見ることになるように、法令解釈の性質に関する主要問題の中には、法の性質やその最善の説明方法に関する主要問題と密接にからまり合っているものがある。法の支配――そしてその美徳――もまた、法の性質に関する一般的な哲学的見解にも依存する論点で、文献において広く論じられている。法の支配について書く人たち――哲学者、法律家、政治学者――のほとんどは、法による支配(rule by law)には何か特別のものがあって、そのためにそれが望ましい統治形態なのだと想定している。だから彼らは、リーガリズムはそれ自体としてある点で善いものであり評価に値する、と想定しているに違いない。しかしむろんのこと、そのようないかなる見解も、リーガリズムとは何かに関する何らかの捉え方に基づいているに違いない。――つまりそれは、法とは一般に何であるか、また何が法を社会統制の特別の手段たらしめているかに、少なくともある程度までは依存しているに違いない。
 本書は過去約一世紀半の間に法の性質に関する哲学で論じられてきた主要な論点のいくつかに焦点をあてている。本書はこの限定された焦点においても包括的であることを意図していないし、法に関心を持っている哲学者たちが論じている論点のほとんどをカバーしているわけでもない。本書は報告書ではなく、特定の立場を擁護する議論として書かれた。私の同僚の多くはこの立場と意見を異にするだろう。しかしながら哲学がめざすものは真理であって、コンセンサスではない。実り豊かな見解の相違が、人が望みうる最善のものである。
 
 私は原稿にコメントしてくれた友人と同僚に多くを負っている。スコット・ソームズとギデオン・ヤッフェは親切にも全体を読んで計り知れない価値があるコメントと示唆を与えてくれた。ジョゼフ・ラズはいくつかの章へのコメントで極めて役に立ってくれた。カイム・ガンズとマーク・シュローダーとスティーヴン・フィンレイとプリンストン大学出版会の査読者たちにもコメントと建設的示唆について感謝する。(注は割愛しました)
 
 
訳者解説
 
伊藤克彦
 
1 経歴
 アンドレイ・マーモー(一九五九―)は、英語圏を中心に広く活躍するイスラエル出身の法哲学者であり、道徳哲学・政治哲学・言語哲学との隣接領域にも強い関心を持つ。マーモーは、出身地であるイスラエルのテルアビブ大学の修士課程を優秀な成績で修了した後、英国のオックスフォード大学に留学し、著名な法哲学者であるジョセフ・ラズの指導の下、博士号(D. Phil.)を取得している。オックスフォード大学で学位を取得した後は、母校であるテルアビブ大学に戻り教鞭をとっていたが、二〇〇三年にアメリカ合衆国の南カリフォルニア大学に移り、同大学に所属する言語哲学者であったスコット・ソームズと共同研究を行い、お互いに学術的な影響下にあった。二〇一五年からは、コーネル大学で、Jacob Gould Schurman 教授に就任し、現在に至るまで精力的な研究活動を行なっている。
 代表的な著作としては、Interpretation and Legal Theory(初版:一九九二年;第二版二〇〇五年)、Positive Law & Objective Values(二〇〇一年)、Law in the Age of Pluralism(二〇〇七年)、Social Conventions (二〇〇九年)、The Language of Law (二〇一四年)が挙げられる。また、近作として社会存在論と制度的事実の問題について論じたFoundations of Institutional Reality が二〇二二年に出版された。
 
2 三つの主たる関心分野
 マーモーの業績は幅広く、近年の主たる関心分野としては、「ハードな実証主義の擁護」、「コンヴェンション論」「法解釈と言語哲学の接点」、の三つを挙げることができ、本書では、この三つのトピックに対するマーモーの主張が反映されている。この解説では、本書の内容も振り返りながら、彼の研究関心と主張を2-1節以下で説明する。
 マーモーに関する国内の議論状況も振り返ることにしよう。まず、マーモーの議論を包括的に検討した本邦の研究書として、濱真一郎の『法実証主義の現代的展開』(成文堂、二〇一四年)が挙げられる。また、憲法学者の長谷部恭男はマーモーの議論に比較的早い時期から注目しており、本書の第6章で展開されている「あらゆるテクストには解釈が必要なわけではなく、解釈には一定の限界がある」という見解や「意味論と語用論の区別は、法解釈にも一定程度当てはめることができる」という主張を肯定的に紹介している。長谷部は、マーモーの議論の意義の大きさにも関わらず、国内ではマーモーの議論に近年注目が集まりにくかった従来の状況に対して、「エンディコットやマルモア[原文ママ]等、法の基礎理論に対する英米系のこうした議論の紹介が、日本ではその意義に比して過小であるように感じられる。」と述べている。筆者としては、法の基礎理論に関するマーモーの議論を、法哲学研究者の側から紹介できる機会を大変嬉しく思う次第である。(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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