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『「批判」の政治理論――ハーバーマスとホネットにおける批判の方法論』

 
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成田大起 著
『「批判」の政治理論 ハーバーマスとホネットにおける批判の方法論』

「序章 批判的な政治理論と批判の方法論――再構成的批判とは何か」(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 批判的な政治理論と批判の方法論――再構成的批判とは何か
 
1 問題関心と主張
 
 本書の目的は、「批判の方法論」という観点からユルゲン・ハーバーマスとアクセル・ホネットの政治理論の全体像を概観し、他の政治理論と比較してその独自性や利点を示すことである。ハーバーマスとホネットの政治理論は「批判理論」とも言われるように、批判の実践を理論の重要な構成要素として位置づけている。規範的に正しい社会のあり方を示すのが政治理論の主要な役割であるとすれば、両者は正しい社会を実現するために批判が不可欠だと考えている。ここで問われるべきは、批判が何を意味するかである。ハーバーマスもホネットも、批判がどのような営みであるかについて、部分的には語っている所がある。しかし、「批判理論における批判」が意味するものの全体像は、彼らの著作を一見しただけでは明らかにはならない。というのも、批判の意味を捉えるためには、理論と批判の実践とを関係づけるための、様々な方法論的問題が生じてくるからである。
 第一に、批判を行う主体は誰かという問題がある。一方で批判は、日常的な行為主体、すなわち社会の参加者たちによって行われる。私たちは、友人の悪行、職場での不遇な扱い、あるいは国家の不正行為などに対して日常的に批判を行っている。他方で批判は、理論家の営みとして、例えば、私たちの批判的な反省を可能にする前提である理性能力自体を明らかにする試み(カント)、あるいは私たちの批判的な反省を妨げる社会構造的な要因や「イデオロギー」を暴露する試み(マルクス)としても理解されてきた。社会の「参加者」と「理論家」という批判の二つの主体が存在するとすれば、正しい社会を実現するために両者がどのように相互に交わるかを示す必要がある。
 第二に、批判の対象は何かという問題がある。この問題を扱うためには、参加者と理論家の認識能力の違いを考察する必要がある。一方で、理論家が社会の外側に立って真理を認識でき、参加者たちに対して人間や社会の真のあり方を批判によって啓蒙することができると想定するならば、そうした理論は「権威主義」的な理論と言える。権威主義的な理論からすれば、参加者たちは偏見やイデオロギーに囚われており、不正の存在や真なる正しさを適切に認識できない。権威主義的な理論にとって、批判の対象は参加者の偏見である。この場合、批判を行う理論家は、哲人王のごとく、現実に直接介入するような政治的特権を持つことになってしまう。
 他方で、参加者と理論家の間に認識能力の非対称性を一切認めないならば、理論は文化的慣習に埋め込まれた参加者の主張を――たとえ偏見に満ちたものであっても――無批判に再生産することになる。そうした理論は、「慣例主義(コンベンショナリズム)」や「相対主義」的な理論と言える。相対主義や慣例主義にとって、批判の対象は参加者たちが日々行う批判の内容に完全に依存する。
 後に(とりわけ第五章で)示すように、権威主義は参加者たちの自律を否定する点で、慣例主義は現状肯定的である点で、共に不十分な立場である。批判的な理論が権威主義と慣例主義という両極端を避けようとするならば、参加者を完全に無知で無力な存在として描くのでもなく、かといって参加者の主張を全面的に追認するわけでもない形で、批判の対象を定めなくてはならない。
 第三に、対象をどのように批判するかという問題がある。ここでは、規範的な議論と記述的な議論の双方が問題になる。社会制度や慣習に問題があり変革が必要だと批判することには、それらを変革すべきであるという規範的な主張が含まれる。そうした批判は、社会構造や社会実践の正しさを規定する規範的基準を参照することで、現状に問題があると主張する。その時、批判を行う者は誰であれ、その規範的基準が社会の他のメンバーも受け容れ可能であることを説得力のある仕方で示さなければならない。他者に受け容れられることのない批判は、社会を変えることができないか、あるいは右で見た権威主義的立場になる。他のメンバーを考慮しない権威主義的立場を避けようとするならば、批判者は説得力のある規範を練り上げなければならない。
 他方で、社会の不正や人びとの苦境を克服するためには、それらが生じた原因を明らかにすること、さらにはそれらの改善が進まないでいる要因を特定することも必要になる。例えば、経済的な格差が不当に広がっているにもかかわらず、人びとが自らの苦境を自己責任と感じている事態があるとする。その事態を批判し、変革するためには、特定の規範(例えば正義の原理)を参照して現状の不正さを示すだけでは不十分である。人びとがその事態を「自己責任であり、仕方がない」と思っているのだとすれば、社会を変革する第一歩は、苦境の原因が人びとにあるのではなく、社会の側にあるのだと記述的に明らかにすることである。そうだとすれば批判的な理論は、規範的な議論と記述的な議論とを組み合わせた批判を展開する必要がある。
 本書は、ハーバーマスとホネットの著作の読解を通じて、こうした方法論的な問題に取り組んでいく。本書が両者に着目する理由は、本書でこれから示していくように、彼らがこれらの問題と向き合いながら批判のための有力な政治理論を形成しているからである。また本書にとって最大の課題は、ハーバーマスもホネットも、右で見たような方法論を端的に示しているわけではないという事情にある。そのため本書は、批判を介して理論と実践とが関わる方法を「批判の方法論」として提示し、ハーバーマスとホネットが右に挙げた問題にどのように応えているかを明らかにする。
 また、本書はハーバーマスとホネットの批判理論を規範的政治理論として位置づけることで、様々な政治理論の立場と比較検討を行い、彼らの理論の方法論的な特徴を示す。なぜならば、理論と実践の関係や、規範的基準を導出し正当化する方法論について取り組んできたのは、英米圏を中心とする近年の政治理論だからである。これによって、ジョン・ロールズ、ジェラルド・A・コーエン、マイケル・ウォルツァー、リチャード・ローティといった英米圏の政治理論、さらには近年フランクフルトで理論研究を牽引するライナー・フォアストらの政治理論に対し、ハーバーマスとホネットの「批判的」な政治理論が持つ強みを明らかにする。
 本書の主張は、大きく言うと次の二つである。一つは、ハーバーマスとホネットが「再構成的批判」と呼ばれる批判の方法論を用いて、理論を展開していること。もう一つは、この方法論を用いることで、彼らの理論は社会の参加者たちに対する「正当化可能性」と、理論の「実現可能性」という点で、その他の政治理論と比べて優れた立場であること。この二つを論証することによって、本書はハーバーマスとホネットの批判理論における批判の意味を解明するだけでなく、彼らの理論が持つ政治理論的な独自性と利点を示していく。批判理論と政治理論の対話を通じて、本書は批判の方法論を解明し、それによって規範的政治理論が持つ批判的役割、すなわち人びとに公共的に受容されて社会変革の指針となるという役割を明らかにする。
 本章の以下では、先行研究と比較しながら、本書の位置づけを明らかにする。その上で、ハーバーマスとホネットが右記の三つ――批判の主体、対象、方法――の問題にどのように応えているかを確認しながら、本書の骨格部分にあたる「再構成的批判」と呼ぶ批判の方法論について説明する。
 
2 本書の研究史上の位置づけ
 
(2節本文は割愛します)
 
3 再構成的批判とは何か
 
 ここからは、本書の骨格部分の主張である再構成的批判が何であるかを概観する。後の章で見るように、ハーバーマスとホネットは、その理論形成の過程で、再構成的批判という方法を洗練させている。ここでは再構成的批判について、第1節で述べた三つの問題、すなわち批判の主体、批判の対象、批判の方法をめぐる問題に、再構成的批判がどのように応えるかを示す。
 批判の主体という第一の問いについてのハーバーマスとホネットの答えは、最終的には参加者たち、つまり苦境に陥っている当事者たち自身である。理論ないし理論家が行う批判は、参加者たちが批判を行う上での助力にしかならない。社会の変革は、批判的な態度を取る参加者たちの手で、社会を理性的に規定する自律的行為の中で行われなくてはならないからである。この主張を正当化するために、ハーバーマスもホネットも、参加者たちが自らの苦境を批判的に反省し、自らの理性の力でそこから解放されることに対して関心を持つことを前提としている。

社会の中には病的脅迫そのものと一緒に、それを除去することに対する関心もまた措定されている。社会的諸制度の病理は、個人的意識の病理と同様に、言語ならびにコミュニケーション的行為の媒体に定着して、コミュニケーションの構造的な歪みという形式を取るから、あの苦しみの圧力とともに想定されている関心は、社会的なシステムにおいてもただちに啓蒙への関心である――そして反省は、この関心が遂行される唯一の可能な運動である(Habermas 1968, 349-350/303)。
 
実際、私の目から見て明らかなのは、批判理論は、抑圧された諸集団がいつもすでに日常的な闘争において認知的な活動によって成し遂げているはずの事柄を、方法論的に制御されることで獲得された知識を手段として、継続するだけだということである。その事柄とは、ヘゲモニー的な解釈範型を脱自然化し、その諸集団を動機づけている関心を露わにすることである(Honneth 2020, 319)。

参加者たちは、自らの苦境から解放されるべく、理性的な反省を行うことに対する根本的な関心を有する。参加者たちにとって批判とは、解放のために苦境の原因や不正な社会秩序の改善策を反省する実践である。そうした実践は、ハーバーマスならば「討議」、ホネットならば「承認をめぐる闘争」という形で描かれる。討議を通じて、あるいは承認をめぐる社会闘争を通じて、参加者たちは自らの苦境や社会の不正を日常的に批判しているのである。
 再構成的批判の「再構成(Rekonstruktion)」が意味しているのは、参加者たちによって行われる批判の実践を理論的に再構築すること、つまり討議や承認をめぐる闘争の実践を支える規則や規範的原理などを、参加者の視点に立って描き直すことである。

しかし、能力あるあらゆる発話者の基礎にある直観……は、シンボル的言明や表現の妥当性にかんする一般的で必然的なさまざまな条件に重点を置く、形式語用論的な分析を一瞥するためのきっかけを、ともかく与えてくれる。そのさい私が意図しているのは、妥当な言明を生み出すと考えられ、そして自分自身でも、妥当な発言とそうでない発言を少なくとも直観的に区別できると思っている、そうした言語能力および行為能力を持つ主体たちのノウ・ハウの、合理的再構成(rationale Rekonstruktion)である(Habermas 1983, 40/54)。
 
そのような批判手続きは、私が好む用語法では「解釈」ではなく「再構成」と名づけるが、その理由は私の議論の次の歩みで明確となる。それはさしあたり、マイケル・ウォルツァーがそうしたように、与えられた社会(Gesellschaft)の社会的(sozial)実践に根づいた道徳的規範を再構成する方法において、社会批判の規範的基礎に到達する試みを意味するにほかならない(Honneth 2007, 61/72-73)。

ハーバーマスもホネットも、再構成という方法に依拠することで、社会制度や慣習を自律的に規定しなおすという参加者が日常的に行っている実践――討議と承認をめぐる闘争――と、それを支えている規則や規範とを描き出す。そのようにして理論は、参加者たちが行う日常的な批判の延長線上に「社会批判の規範的基礎」を見出す。
 しかし、彼らの理論は、後の章で論じるウォルツァーのように、再構成を行うことが全てではない。参加者たちが行っている批判を〈一階の批判〉と呼ぶならば、理論はこの一階の批判がうまくいっていない、あるいは機能不全に陥っている現象を批判しようとする。この意味で、ハーバーマスとホネットの政治理論は、「批判の批判」、あるいはクリストファー・ツルンの言葉を用いるならば、〈二階の批判〉とも呼ぶべき議論を行っている(Zurn 2011)。
 経済的な格差が不当に広がっているという先に挙げた例で考えてみたい。参加者たちは、討議や社会闘争の実践によって、その格差を不正義として、すなわち妥当な理由によって正当化しえない、あるいはその格差によって承認が毀損されたとして批判する(〈一階の批判〉)。だが、人びとが自らの苦境を自己責任であり仕方ないと受け止め、批判を行うのを自ら控えてしまったとする。その場合、格差が不正義であったとしても、参加者たちはそれを社会の不正義として捉えることができていない。この例において理論は、自己責任論によって〈一階の批判〉が行き詰っている事態を分析し、批判を行うのである(〈二階の批判〉)。
 ホネットは、参加者たちによる〈一階の批判〉が上手くいっていない事態を指して、「社会的病理(soziale Pathologie)」と呼んでいる。少し長い文になるが引用したい。

社会的な不正義の本質は、こんにちでは社会的協働の過程に等しい権利を持って参加するための機会から排除されるか、その機会が損なわれるという、諸々の不必要な状況にある。この社会的な不正義とは異なって、そうした諸々の病理は、社会的再生産のより高い段階で効果を持ち、その段階では主要な行為システムや規範システムへの反省的なアクセスが重要となる。すなわち、幾人か、あるいは全ての社会のメンバーが、さまざまな社会的な原因によって、これらの慣行や規範の意味を適切に理解することがもはやできない状態にある場合にはいつも、「社会的病理」という言葉を用いることができる。その限りで、社会的病理とともに想定されているさまざまな誤った発展や障害は、クリストファー・ツルンの提案に従うなら「二階の障害」である。問題となっている合理性の欠損とは、一階のもろもろの確信や慣行が、二階においては当事者たちに、もはや適切に習得されることも、用いられることもできないという点にある(Honneth 2011, 157/164)。

〈一階の批判〉を行うために不可欠な規範へのアクセスが遮断され、批判的実践に参加することができない時、参加者たちは社会的病理に陥っていると言うことができる。そうした事態が生じる要因として、先に見た自己責任論のような「イデオロギー」や、その他諸々の心理的バイアスや社会構造的要因が考えられる。理論家はそうした病理現象を参加者たちに暴露すること(〈二階の批判〉)によって、参加者たちの手で行われる社会変革の実践(〈一階の批判〉)に貢献しようとするのである。
 再構成的批判とは、〈一階の批判〉を再構成し、その議論をもとに〈一階の批判〉が機能不全に陥っている社会的病理の現象に対して〈二階の批判〉を行う、そのための方法論である。すなわち、参加者パースペクティヴの再構成と、理論的な病理分析を関係づける方法論である。理論家の〈二階の批判〉は、参加者たちの手で行う社会の自律的な組織化や理性的な自己反省、すなわち〈一階の批判〉を後押しする。この点で、社会を自らの手で変革する行為は、最終的に参加者たちに委ねられている。
 第二の問題、すなわち批判の対象は、一階と二階の批判でそれぞれ異なっている。〈一階の批判〉を行う参加者たちは不正義や苦境を批判の対象とし、〈二階の批判〉を行う理論家は社会的病理を批判の対象とする。だが、こうした描き方は、参加者と理論家の間に著しく非対称的な認識能力を想定することにつながる。批判理論は、無知な参加者と啓蒙する理論家という権威主義的な図式を導入し、批判の主体をこの二者へと実体化、固定化することにならないだろうか。
 この問題に対してハーバーマスは、理論家は政治的特権を持つことはないと考える。というのも、理論家の権威は、最終的に参加者たちが〈二階の批判〉を受け容れることができるかどうかに依存するからである。

批判は自らの適用連関を予期することによって、ホルクハイマーが伝統的理論と呼んだものから区別される。批判は、自らの妥当要求が、啓蒙のうまくいっている過程の中でのみ、すなわち当事者たちの実践的討議の中でのみ満たされうると自覚している(Habermas 1971, 10/564-565)。

〈二階の批判〉が病理現象を正しく記述できないか、あるいは参加者たちの視点から受け容れることができないものであった時、理論は妥当性を失うことになる。批判理論は、参加者の頭上で社会を変革しようとする特権を標榜してはならず、参加者たちの〈一階の批判〉と自己反省に貢献するものでなければならない。参加者が理論家と同じ視点に立つことができ、〈一階の批判〉と〈二階の批判〉の区別が無くなる時に、理論は実践的意義を持つことができる。レイモンド・ゴイスが論じたように、参加者たちによる批判の「反省的受容可能性」こそが、批判理論における妥当性の指標である(Geuss 1981, 63)。
 それでも、理論家は病理を認識でき、参加者はそれを認識できないという想定、つまり両者の認識能力の非対称性という問題は残り続けるのではないか。これに対し再構成的批判は、理論家と参加者の間には自律的な反省能力の違いがあると想定しない。むしろ、ツェリカテスが述べるように、参加者は自らの苦境を解釈して公共的に分節化し、その原因を知り、改善に向けた手段を講ずる「潜在的」な能力を理論家と対等に有する(Celikates 2009, 168-173)。社会的病理とは、社会構造的な作用によって、苦境の原因や改善手段についての社会的な知識が欠如し、参加者たちが批判の能力を発揮できないでいる状況である。〈二階の批判〉は、ある種の知的なエンパワーメントとして、〈一階の批判〉を行うための能力を「顕勢化」するのである。参加者は反省能力の点で本質的に劣っているのではなく、その能力を発揮することを妨げる構造的な制約を受けている。そうだとすれば、参加者と理論家の関係は固定的なものではなく、流動的なものになる。批判は、フェミニズムによる「コンシャスネス・レイジング(意識高揚運動)」のように、苦境を不正義として言語化し、その原因を見定め、改善策を提案するための知的な協働実践として捉えられうる。
 ホネットもまた、参加者が理論家と対等な反省能力を有すると考える。参加者たちは、自分の苦境や苦痛をうまく分節化するための知識や言語を持たない場合であったとしても、自らの理性的な能力が制約されることに対し、否定的な感情を経験するからである。

フロイトと同様に批判理論においてもまた、苦悩には「自我の[能力の]喪失」に耐えることができないという感覚が表れると考えられているのである。ホルクハイマーからハーバーマスにいたるまで批判理論を導いているのは、社会的な合理性の病理は、とりわけ合理的な能力の喪失という痛みを伴う経験に表れる侵害を引き起こすというテーゼである(Honneth 2007, 52/62、[ ]は原文)

例えば先に見たように、参加者たちは経済格差を甘受し、格差を不正義と見極めることができなかったとする。それでも格差やそれを自らの手で改善できない現実は、参加者に否定的な感情を抱かせることになる。たとえ支配的な自己責任論を受け容れ、それに対抗する言説が不在であったとしても、参加者たちはどこかで違和感や苦痛を経験する。そして既に述べたように、参加者はその否定的感情を表現すべく「理性の完成への関心」(Honneh 2007, 55/66)を保ち続けることができる。この点で参加者は、潜在的に理論家と対等な能力を持つのである。
 第三の問題として、再構成的批判は規範的かつ記述的な議論を用いる。ハーバーマスとホネットは、参加者が日常的に行っている〈一階の批判〉の実践――討議や承認をめぐる闘争――と、それを支えている規範を再構成する。後の章で見るように、そうした規範は、討議の原理や承認の原理という形で描かれる。これらの規範的原理は、日常的な批判の実践が正常に生じている社会状態を表現していると同時に、実践の参加者にとっての不正の意味を明らかにしている。
 例えば討議の原理に従うならば、社会制度や慣習の正しさが参加者たちにとって疑わしいと感じられた時には、納得できる理由を挙げて正当化しなければならない。この原理は、討議という実践――理由を挙げて正当化を行うこと――を構成する規則であると同時に、不正義とは妥当な理由によって正当化しえない社会制度や慣習であることを表現している。同様に承認の原理は、親密な関係、平等な法的関係、社会的価値評価といった社会関係の中で、各人のアイデンティティが適切に承認されるべきであると主張する。この原理は、承認をめぐる闘争という批判的実践を構成する規則であり、不正義とは適切に承認されてしかるべきだという期待が裏切られる事態であることを表現している。
 再構成的批判は、こうした〈一階の批判〉の実践や原理を再構成すると同時に、その実践が社会的病理によって機能不全に陥っている状況を記述的に分析し、参加者たちに対して〈二階の批判〉を試みる。〈二階の批判〉は、不正が生じている事態、すなわち妥当な理由によって正当化しえない社会制度が存在するか、参加者たちが適切に承認されていない事態にもかかわらず、討議や承認をめぐる闘争といった〈一階の批判〉が生じていないことを指摘する。

その批判は、ある社会のうちで暗黙のうちに既に主体たちの価値特性に対する反応の基礎となっている承認の諸規範を再構成するが、それは批判の名宛人とやりとりするなかで、事実として今ある実践や社会秩序が、暗黙のうちに実行に移されているこの諸々の理念と、いかなる点において矛盾しているかを明らかにするためである(Honneth 2003b, 340/279)。

理論家は、〈一階の批判〉の実践を構成する原理を基準として、その実践が正常に生じていない事態である社会的病理を明らかにする。つまり、参加者の直観や日常実践に内在する規範を根拠として、その規範が実現されていないという矛盾を明らかにする。そしてまた理論家は、社会的病理がいかなる原因で生まれてきたか、そしてなぜその事態が適切に認知されていないかを記述することで、参加者たちの手で行われる批判と社会変革の実践に貢献しようとする。再構成的批判という方法を図式的に説明するならば、図1のようになる。
 再構成的批判は、参加者たちによる批判的な日常実践に着目し、そこに含まれる規範的理念を再構成するところからはじまる。理論家は、その実践が機能不全に陥っている状態、すなわち社会的病理を分析する。その上で理論家は、理論的記述と再構成された規範的理念を基準として、〈一階の実践〉の障害を批判する。参加者たちが理論家視点を引き受けることができるようになり、理論家と参加者との間の認識能力の非対称性が解消された時に、社会的病理は克服されうる。そうしてまた、参加者たちは〈一階の批判〉を正常に遂行することができる。もっとも、こうした再構成的批判の図式は理念的なものであり、実際には参加者と理論家の視点を厳密に区別して実体化することはできないだろう。上で述べたように、両者の能力の非対称性は決して固定的なものではなく、〈一階の批判〉と〈二階の批判〉の違いは流動的なものとなりうる。
 以上が、ハーバーマスとホネットの政治理論が再構成的批判という方法論を共有しているという本書の骨格部分の主張である。この主張は、目下のところ結論を先取りし、概略として示したにすぎない。この主張を論証するために、本書の第Ⅰ部では、ハーバーマスとホネットの諸々の著作と照らし合わせながら、彼らの再構成的批判と理論形成を辿っていくことになる。
 
4 本書の射程
 
 ハーバーマスとホネットにおける批判の概念に着目する本書は、方法論研究と政治理論研究に焦点を当てている。そのため、彼らの思想を歴史的、人物史的コンテクストに即して思想史的に検討することは、本書の主たる目的ではない。例えば、アドルノやホルクハイマーの批判理論との連続性からハーバーマスやホネットを読解する研究、あるいはドイツにおける政治的、社会的コンテクスト――ホロコースト、左派による社会運動、ベルリンの壁の崩壊等――あるいは「フランクフルト学派」の人間関係から両者の思想形成を論じることは、本書の目的ではない。
 だが、コンテクストの理解は、ハーバーマスとホネットが社会的病理を分析する際に関わってくる。社会的病理を分析するためには、例えば福祉国家の拡大と新自由主義的改革によるその解体、さらには彼らがターゲットとしている近代の資本主義社会それ自体のあり方を捉える必要がある。そのため、本書は理論的なアプローチを取るものの、批判の対象を考察する際に彼らの理論の背景となるコンテクストに着目することになる。
 
5 本書の構成
 
 本書の主張は、ハーバーマスとホネットが再構成的批判を用いた理論を展開していること、そして彼らの政治理論の独自性と長所を他の政治理論との比較から示すことであった。この主張は前半部分と後半部分に分かれる。前半部分は、批判をめぐる諸々の課題に応答しようとしているハーバーマスとホネットの理論形成を著作ごとに辿るという、研究史的文脈に関わる(第Ⅰ部第一章〜第四章)。そして後半部分は、再構成的批判という方法論を用いた批判的な政治理論が他の政治理論と比較してより優れたものであることを論証するという、政治理論的な文脈に関わる(第Ⅱ部第五章〜第八章)。
 第一章・第二章では、初期から現在に至るハーバーマスの著作を、再構成的批判の形成過程という観点から分析する。第一章では、六〇年代に書かれた『認識と関心』から『行為の理論』に至るハーバーマスの再構成的批判の確立過程を見る。『認識と関心』では、〈一階の批判〉の実践も、〈二階の批判〉を行うための規範的基準も、社会的病理についての仮説も、十分論じられていなかった。これに対し、『行為の理論』に至る過程の中で、ハーバーマスは語用論的規則の分析によって〈一階の批判〉をコミュニケーションの実践として理論化し、社会システム理論を部分的に受容することによって社会的病理の理論を形成する。
 第二章では、『事実性と妥当』を中心にハーバーマスの再構成的批判の展開を辿る。彼は討議理論を展開することで語用論的諸規則の規範性を正当化し、それらの規則を法的に制度化するための条件を再構成することで、『事実性と妥当』のデモクラシー理論に向かっていく。批判の方法論という点から見ると、彼の「熟議」デモクラシー論もまた再構成的批判という枠組みによって形成されていることが明らかになる。
 第三章・第四章では、八〇年代から現在に至るホネットの著作を再構成的批判の形成過程という観点から分析する。第三章では、承認論と社会的病理論を中心に、ホネットによる再構成的批判の確立過程を見る。一方で彼は、『承認をめぐる闘争』をはじめとした承認論で〈一階の批判〉についての理論を形成している。参加者たちが行う〈一階の批判〉は、承認が毀損された経験をきっかけに動機づけられる抵抗運動として描かれる。さらに、『物象化』をはじめとした社会的病理論では、〈二階の批判〉についての分析が行われる。ここでは知覚の歪みや資本主義経済の作用によって、いかにして〈一階の批判〉が封じ込められてしまうのかが分析される。
 第四章では、『自由の権利』を中心にホネットの再構成的批判の展開を検討する。ここでホネットは、近代の社会進化の過程を歴史的に分析することで、承認関係の発展や社会的病理の原因を明らかにし、これまで取り組んできた承認論と社会的病理論を統合する形で再構成的批判を展開している。本章ではホネットが『自由の権利』を描いた背景を論じた上で、彼の〈二階の批判〉はハーバーマスの植民地化批判を承認論的に発展したものと理解できることを論じる。
 第Ⅱ部では、政治理論の論争の中にハーバーマスとホネットの再構成的批判を位置づける。第五章では、彼らの再構成的批判が政治理論として有する独自性と長所を示す。ここでは、政治理論は「正当化可能性」と「実現可能性」を示すための方法を考察しなければならないというロールズの議論が参照される。そこから、批判の規範的基礎の正当化可能性、そして批判が受容されて実践(実現)される可能性という点から、様々な政治理論を批判の方法論として区分する。その上で、コーエンとフォアストの「外在的批判」、ウォルツァーとリチャード・ローティの「文脈主義的批判」、ロールズの「構成主義的批判」を、それぞれ再構成的批判と比較する。これによって、再構成的批判が正当化可能性と実現可能性の点で、他の批判の方法よりも優れていることを論証する。
 第六章では、ハーバーマスとホネットの再構成的批判に対して寄せられた異論に応答する。再構成的批判に対しては、K・O・アーペル、エイミー・アレンらによって、根拠づけの不十分さや西洋中心主義への暗黙の依拠といった、正当化可能性をめぐる異論が提起されている。これらの論点に対し、ハーバーマスとホネットの正当化の議論を詳細に検討し、応答を試みる。ここでは両者がともに、道徳的な規範の再構成、経験的な理論、さらには批判の名宛人との間での「整合説」な正当化の方法を用いていることを明らかにし、アーペルやアレンの異論に応答できることを示す。
 第七章・第八章では、両者が個別に行った政治理論論争を扱う。第七章ではハーバーマスとロールズの間で行われた論争を方法論の観点から分析することで、両者が互いの理論を「誤読」していたこと、それにもかかわらず論争に生産的な意義があったことを明らかにする。ハーバーマスとロールズは、互いを権威主義的な哲学的パターナリズムに陥っていると非難しているが、方法論的に見ると、両者の非難はともに誤りである。それにもかかわらずハーバーマスは、ロールズとの論争の結果、自身の理論に哲学的パターナリズムの余地を残さぬように、理論と実践の関係をめぐる問題に取り組むことになる。
 第八章では、ホネットとフレイザーの間で行われた論争を取り上げ、両者の方法論の相違から、どのように「再分配」と「承認」が異なる仕方で捉えられるかを検討する。主に概念分析の方法を用いるフレイザーは、再分配と承認を「参加の平等」という根本規範を実現する二つの条件として分析する。これに対しホネットは、〈一階の批判〉の本質的な構成要素として承認を捉えている。本章では両者の論争が方法論の次元においてすれ違っているだけでなく、両者が互いの指摘を受けて理論を発展させ、資本主義に対抗的な政治理論を描こうと共闘していることを論じる。
 終章では、ハーバーマスとホネットの間にある相違点を挙げ、それをどう評価できるかを考察する。本書は両者が再構成的批判という共通の方法論を採用していることを手がかりに、基本的にはその共通性に着目する。だが終章では、両者の相違を「感情と倫理の位置づけ」「社会進化論の位置づけ」という点から分析し、両者の理論の長所や短所について個別に評価を行う。
(図と注は割愛しました。pdfでご覧ください)
 
 
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