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あとがきたちよみ
『男性学基本論文集』

 
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平山 亮・佐藤文香・兼子 歩 編
『男性学基本論文集』

「巻頭言 男性性役割の社会化から、男性性による不平等の正当化へ」「Ⅰ 男性、男性性、そして援助要請の文脈」(抜粋)(pdfファイルへのリンク)〉
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巻頭言 男性性役割の社会化から、男性性による不平等の正当化へ
 
平山 亮
 
 男性性(masculinity)とは何か。本書のタイトルに含まれる「男性学」にとっても、そして、男性性が研究対象であることが明らかな「男性性研究」にとっても、この概念は、それなくしては何もはじめられないような、基本中の基本概念のはずである。
 しかしながら、この男性性という概念は、その定義が驚くほどに真っ向から論じられていない概念でもある。たとえば二〇二〇年に刊行された男性性研究のハンドブック[Gottzén, Mellström, & Shefer 2020]のそれぞれの章を見ても、男性性の定義は明示されないまま論考が始まっている。いったい男性性とは何なのか。男性学において、あるいは男性性研究において、男性性とは何だと考えられているのか。
 本書をはじめるにあたって、この基本概念である男性性をめぐり、どのような議論がなされてきたのかを駆け足で振り返っておきたい。それはまた、本書に収められたそれぞれの論文が、どのような学術的背景のもと、何を企図して書かれたものなのか、そしてそのようなプロジェクトにはどのような意義があるのかを、学説史的な文脈において理解するための不可欠な枠組みにもなるはずだからである。
 
男性性役割ではないものとしての男性性
 ところでさきほど、男性性とは何かがきちんと示されていないことが多いと述べたが、実のところ、男性性ではないものについては触れられていることはしばしばある。そして、それに関する記述には共通点がある。すなわち、男性性はある時点より、男性性役割(male sex role)に代わって用いられるようになった、という記述である(たとえば[Messerschmidt 2018 ; 多賀2019])。国内の文献でも国外の文献でも、男性性という概念は男性性役割の概念では言えなかったことを言うために、あるいはその限界を乗り越えるために、男性性役割に代わって使われるようになったという記述が散見される。だとすれば、男性性とはどのような概念かを考える上で、男性性役割の概念を改めておさえておくことは不可欠だろう。とくに、男性性役割というアイデアのどこがどのように問題視されたのか、なぜそのように批判されたのかは、男性性の概念が求められた理由、すなわちその概念の意義に繫がっているはずだからである。
 男性性役割は言うまでもなく、男性とされる者に関する、あるいはそういう者に適用される、役割のことである。性役割というと一般的には、「男は仕事、女は家庭」でおなじみの「性(別)役割分業」が思い起こされることが多いかもしれない。しかし、ここでいう役割は、そういう「あてがわれた仕事」のことを指すわけではない。ここでいう役割とは、社会学の役割理論でいう役割、つまり、特定の地位―立場と言ったほうが一般的にはわかりやすいかもしれない―に関する規範のことである。規範とは「〇〇はふつう、どのようなものか」という標準についてのアイデアのことだから、男性性役割とは私たちが共有する次のようなアイデア、つまり、「男性(とされる者)は、どのようなことをする/しないのがふつうで、どのような状態にある/ないのがふつうである」というアイデアのことと理解して差し支えないはずである。
 このような男性性役割の概念は、一九七〇年代から八〇年代にかけ、フェミニズムに対して親和的な考えをもつ男性たちに積極的に採用された(たとえば[Brannon 1976])。この概念は、性に関して平等な社会を目指すために、男性が何をすべきか、どうあるべきかを論じる上で必要だったためである。
 運動であれ、研究であれ、性の平等を実現しようとする男性たちの活動が依拠していたのは、当時のフェミニズム理論における性役割の概念だった。その当時、性役割を性の不平等のメカニズムとして据えた、フェミニズムの理論が次々に打ち出されていたためである。たとえば、ケイト・ミレットは、ラディカル・フェミニズムの記念碑的著作である『性の政治学』のなかで、性役割の社会化が、性の不平等を再生産することにつながっていることを主張した[Millet 1970=1985]。それまで性の不平等は、公的な領域における法制度が原因となってつくられている、と考えられていた。しかしミレットは、不平等が維持されるメカニズムは、家庭という私的な領域にあると述べたのである。家庭において、人々がくりかえし「女とは、男とは、ふつうこういうものである」という性役割を教え込まれた結果、人々はそれを行動の規準とし、その性役割を体現するようになる。他方、その性役割において「ふつう」とされているのは、女性については相手を立たせるようなあり方であり、男性については相手の上に立つようなあり方である。したがって、そうした性役割を前提に女性と男性が関われば、女性は「すすんで」男性に従属的な立場をとろうとするし、男性は「自然に」女性を自分の下に置こうとすることになる。性役割はこのように、性の不平等を人々が維持してしまうのはなぜかを説明するために用いられたのである。
 フェミニズムの主張に賛同し、性の不平等を男性の立場から(も)是正しようと動いた当時の男性たちもまた、性役割の概念を自分たちの活動の基盤として採用した。すなわち、男性が女性の上に立つことを当然と考え、それを前提に、あるいはそれを目指して行動しないためには、その原因となる男性性役割を問題にすべきだと考えたのである[Brannon 1976]。そのため、当該の社会において「男性とはふつう、このようなものである」とされているアイデアを同定し、個人の常識からも社会の常識からもそのアイデアを排していくことが、性の平等につながる男性側の変化に不可欠だと位置づけたのである。
 しかしながら、男性性役割も含めた性役割の概念は、性の不平等のメカニズムとしてのその説明力が疑問に付されるようになった(たとえば[Kimmel 1987 ; Messner 1998])。
 第一に、この概念を用いた説明はトートロジーだからである。男性優位の社会であるのは、男性が優位に立とうと動機づけられているからであり、その理由は、この社会で男性が優位に立とうとすることが「ふつう」だと考えられているからだ、というロジックは、結局のところ「そういう状態が「ふつう」だから、そういう状態になっている」以上のことを言っていない。つまり、何も説明していないに等しいためである。
 第二に、男性(とされる者)は一枚岩ではないからである。その当時より、ある社会における男性の位置づけや、男性について「ふつう」と考えられていることは、階級や人種などにより一様ではないこと、むしろ、その間には矛盾や対立があることが指摘されていた。たとえば、非白人の男性にとっての望ましい姿のなかには、白人の男性にとっては「はしたない」「ああはなりたくない」姿が含まれていた。ある男性にとっての「ふつう」が他の男性にとっては避けるべきあり方だとすれば、男性たちが皆そろって社会化され、それゆえに社会のあちこちに性の不平等をもたらすはずの男性性役割とはいったいどこにあるのか。それが不明になったのである。
 お気づきのとおり、ここにはインターセクショナリティの概念の影響が見てとれる。一九八〇年代の後半、フェミニズムのなかの人種的階層性が非白人のフェミニストにより問題提起され、「私たち同じ女性」よりも/ではなく、女性(とされる者)のあいだの多様性と不平等を前提としたフェミニズムが目指されるようになった(たとえば[Crenshaw 1989 ; hooks 1984])。同時に、さまざまな不平等の重なりと、性別以外の社会的位置により異なって経験される性の不平等を「見える化」するインターセクショナリティの視点が、不平等な社会関係を分析する上で不可欠とされるようになったのである。性の不平等につながり、それゆえ変えなければいけないとされた男性性役割の見直しが図られたのは、その概念を基盤とした運動や研究の担い手たちが、こうしたインターセクショナリティの視点を共有し、男性という性別カテゴリー、とりわけ、その内部の同質性についての仮定を、問題にしはじめたからである。
 さらに言うと、その当時、注意を向けられるようになったのは男性間の違いだけではない。男性内の違い、すなわち、場面により相手により、同じ男性であってもまったく一貫性のない行動をとることのエビデンスが、心理学をはじめとする研究において蓄積されてきたのである[Addis & Mahalik 2003]。また、男性にとって標準とされるあり方があったとしても、それに対する男性たちの態度はまちまちであり、その場、その時の自分のニーズや得られうる利益に応じて、標準に自らを合わせようとすることもあれば距離を置くこともあることが示されるようになった(たとえば[Wetherell & Edley 1999])。
 男性内の違いは、男性特有の行動パターンの存在を疑わしくさせるものである。そしてこの違いもまた、性の不平等を説明する枠組みとしての性役割理論を揺らがせるものとなった。というのも、一定の行動パターンが男性には見られるという前提のもと、それを生み出す原因として男性性役割が措定されたはずなのに、同一個人の男性であってもその行動に一貫性が見られないのであれば、性役割によって説明される対象そのものが失われてしまうからである。そしてそれは、性による不平等が変わらない原因が、男性たちに共通する行動パターン―自身の優位を保つことにつながる行動パターン―にあるとすることへの挫折でもあった。
 男性性が男性性役割へのこうした疑問を受け、それに代わって使われているのだとしたら、その男性性で性による不平等を考える際には、性役割を用いた場合とは違った説明が求められるはずである。具体的に言えば、男性性を男性の行動の原因、すなわち、男性が自らの行動の規準とする何かとして用いてはならない、ということである。ふるまいのレベルで男性たちには共通する何かが必ずしもないにもかかわらず―それはもちろん女性たちにも言えることである―、それでも集団としての男性に社会的な優位が続いているのはなぜなのか。それを解きほぐすためにこそ、現在の男性性の概念が必要とされている。
(中略)
 以上、大まかにではあるが、男性「かくあるべし」という男性性役割ではないものとしての男性性の概念とその意義について、それを、ヘゲモニックな男性性という概念がジェンダー研究にもたらした貢献を軸として、検討してきた。前述のとおり、ヘゲモニックな男性性はその意味が必ずしも一貫しておらず、どの時点での誰の議論を参照してこの概念を捉えるかによって、その用法は必然的に異なる。しかし他方で、ヘゲモニックな男性性や、この概念に依拠して行われてきた男性性研究が一貫して目指してきたのは、男性性役割の理論の乗り越えであり、また、そうではないしかたでの性の不平等がつくられるメカニズムを解明することである。「男たちが「男らしさ」にとらわれているから、性別秩序は変わらないのだ」といった見方は(逆に言えば、「男たちが「男性かくあるべし」から解放されることで、不平等なジェンダー関係は解消される」といった見方は)、性役割理論をそのままなぞっている、という意味でヘゲモニックな男性性以後の男性性研究にはなじまない。
 もっとも重要なことは、その男性性研究が何を目指しているか、ということに尽きる。というのも、ヘゲモニックな男性性は、何よりも性の不平等が正当化されるメカニズムを明らかにするためにこそ提案され、また精緻化されてきたからである。したがって、単に「男性とはどのような存在か」を語るのに終始するのであれば、それは、コンネルらが取り組んできた男性性の探求とは「似て非なるもの」となるだろうし、むしろ、そのようなヘゲモニックな男性性の枠組みによって批判的検討の対象になるべきものだと言えるだろう。「男性とはどのような存在か」という言説は、それ自体、男性についてのリアリティ、すなわち男性性になるのであり、男性がそのように理解され、それが所与の前提、ないしは紛うことなき事実とされることによる政治的効果こそ、性の不平等を討つ上で男性性研究が分析してきた当のものだからである。
 男性性とは、性の不平等がつくられ、それが巧妙に維持されるプロセスを「見える化」するための分析ツールである。本書に収められた論文は、ヘゲモニックな男性性をどのように理解するかを含め、必ずしも一貫した理論的立場をとるものではないが、他方で、この「見える化」のプロセスをあばくというスタンスにおいては一貫した論考ばかりである。このようなスタンスのもと、それぞれの領域において男性性という概念がどのように用いられてきたのか、そして、男性性という概念を用いることは、性別秩序の腑分けにいかに有効なのか。性の不平等を討つための概念としての男性性概念が適用可能な領域の幅広さと、分析ツールとしてのその切れ味の鋭さを、本書を通して存分に味わっていただけたら幸いである。
(傍点は割愛しました。pdfでご覧ください)
 
 
Ⅰ ミクロな社会分析としての男性性
1 男性、男性性、そして援助要請の文脈

 
マイケル・E・アディス、ジェイムズ・R・マハリク/本山央子[訳]平山亮[監訳]
 
 男性は、生活上の困難に直面しても助けを求めようとしないものとされている。道に迷っても人に尋ねたがらず、傷ついた感情を友人や家族とさえ分かち合うことができず、必要なアドバイスを専門家に求めようとしないというのが、一般に浸透している男性のステレオタイプである。膨大な経験的研究も、男性たちは保健の専門家に援助を要請しようとしないという、一般的イメージを裏打ちしている。男性は女性に比べて、鬱や薬物依存、身体的障害、生活上のストレスなど多様な問題について援助を要請したがらない[Husaini, Moore, & Cain 1994 ; McKay, Rutherford, Cacciola, & Kabasakalian-McKay 1996 ; Padesky & Hammen 1981 ; Thom 1986 ; Weissman & Klerman 1977]。これらの研究や多くの人々に共有されている、助けを求めない男性というイメージは、心理学者および他の社会科学研究者にとって、重要な問題を提起している。なぜ男性たちは助けを求めることが困難なのだろうか。男性性に関わる規範やステレオタイプ、イデオロギーと、助けを求めるという行動には、いかなる関係があるのだろうか。心理学者や他の保健専門家は、男性による保健サービスの利用分析に、男性性に関わる社会的規範とイデオロギーに関する理解を、どのように取り入れることができるだろうか。
 本稿では、男性の援助要請行動に関する既存の研究について、三つの視点から検討を加える。第一に、これらの研究は、男性が保健専門家に援助を要請する多様なあり方を説明しうるような理論的枠組みに、どの程度もとづいているだろうか。第二に、既存の理論は、援助要請行動の決定要因に関して、経験的に実証可能な予測をもたらしてきただろうか。第三に、既存のアプローチは、精神的・身体的保健サービス提供者への適応的援助要請を促進するような介入を発展させるための基盤を、どの程度つくることができているだろうか。先行研究の多くが保健専門家への援助要請に焦点を当てているため、本稿でもこのタイプの行動に限定して分析を行うが、人々は実際には、より多様なやり方で専門家以外にも援助を要請している。また援助要請は、しばしば生活上の様々な困難を解決する第一歩となるため、効果的な保健サービス提供の連鎖における重要なリンクとなる。このように、男性の援助要請行動に関する研究は、男性と女性の生活を改善し、国の保健コストを削減し、ジェンダーの心理学に裏打ちされた効果的な介入を発展させるうえで、直接的な意味をもっている。この問題に関する研究はまた、より広い男性の心理学および男性性に関わる重要な理論上および方法論上の問題についても示唆をもつ。
 これらの問題について論じるにあたり、以下ではまず、生活上の様々な問題に関する援助要請行動にみられる性差に関する先行研究のレビューを行う。次いで、男性的ジェンダー役割の社会化と援助要請との関係に関する理論および研究について検討を行う。そしてこのふたつの主要な研究体系について、(a)男性の援助要請を司る心理的プロセスを明確化する、首尾一貫した理論的枠組みの発展への貢献、および(b)適応的な援助要請を促進する介入を発展させるための有用な理論的および経験的基盤の提供という観点から評価を行う。われわれは特に、それぞれのアプローチにおいて、援助要請と男性性とが概念化されるあり方に注意を払う。たとえば、男性性を個人的な差異の変数として概念化し測定するやり方は、男性の行動に関する理解を制限するような一連の想定をもたらすことになり、それゆえに援助要請をしやすくする介入方法を考えるうえでも制限をもたらす可能性がある。最後に、男性と援助要請の状況に関して、より多様なあり方を想定しうるような文脈的枠組みが、男性性と援助要請行動に関する理論と研究にとって有用であることを論じる。
 
男性は女性よりも専門家の援助を求めないのか
 
 過去三〇年間に、医療や精神保健、薬物依存の問題に関する援助要請に見られる男女間の差異について、多くの研究が行われてきた。これらの研究の結果は驚くほど一貫しており、年齢[たとえばHusaini et al. 1994]、国籍[たとえばDʼArcy & Schmitz 1979]、民族・人種的背景[たとえばNeighbors & Howard 1987]に関わらず、男性は女性に比べて、あまり援助を要請しないことを示している。かかりつけ医やその他の保健医療の専門家にかかる回数が、女性に比べて男性は少ないことを示す研究もある[Griffiths 1992 ; Gijsbers Van Wijk, Kolk, Van den Bosch, & Van den Hoogen 1992 ; Jackson 1991 ; Neighbors & Howard 1987 ; Rafuse 1993]。医者にかかるときも、男性は女性より少ない質問しかしない[Courtenay 2000]。さらに、男性はより深刻な薬物依存に陥りやすく[Kessler et al. 1994 ; Robins & Regier 1991]、アルコールや薬物使用による精神的問題を抱えやすい[Robbins 1989]にもかかわらず、アルコールやコカイン依存症について支援を求めようとしない[McKay et al. 1996 ; Thom 1986]。
 男性は女性に比べ、精神科を受診したり心理セラピーやカウンセリングを受けることが少ないということも確認されている[Gove 1984 ; Gove & Tudor 1973 ; Greenley & Mechanic 1976 ; Howard & Orlinsky 1972 ; Vessey & Howard 1993]。ケスラー(Kessler)らは精神科受診に関する四つの大規模調査のデータにおける性差を分析し、同程度の精神的問題を抱えている場合、女性の方が男性よりも継続的に、より高い頻度で援助を要請すると結論づけている[Kessler, Brown & Boman 1981]。さらに援助要請のプロセスをいくつかの段階に分けて分析すると、女性は男性に比べ、それが悩みであるとはっきりわからないような感情を覚えた段階でも、自分は援助が必要な感情的な問題を抱えていると認識し、現状に問題ありと把握する傾向があることがわかる。医学生[Dickstein, Stephenson, & Hinz 1990]、大学生[Gim, Atkinson, & Whiteley 1990 ; Leong & Zachar 1999 ; M. OʼNeil, Lancee, & Freeman 1985]、教員が多数を占める大学職員[Carpenter & Addis 2000]、およびカナダ人コミュニティ[DʼArcy & Schmitz 1979]について、同様の傾向を指摘する研究もある。とくに鬱に関しては、男性は専門家でない友人にさえ助けを求めようとしたがらず、心理セラピーの相談に行こうとは思わないと答える者が多い[Padesky & Hammen 1981 ; Weissman & Klerman 1977]。
 
援助要請における性差から考えられること
 これらの先行研究は一貫して、年齢やエスニシティ、社会的背景の違いに関わらず、男性たちは平均的にいって女性よりも、身体的・精神的健康上の問題について、専門家の援助を求めようとしないことを明らかにしている。援助要請に消極的である一方、男性たちはきわめて多くの深刻な問題に直面している。たとえばアメリカの男性は、女性より平均寿命は七歳近くも短く、一五の主要な死因について、女性より高い割合を示している[Courtenay 2000]。専門家への援助要請を含む健康維持行動は、男性の生活を明らかに改善しうる方法のひとつであり、保健サービスの利用における明らかな性差を示す調査は、男性が援助要請において直面する障害について、公衆衛生の関係者に注意を喚起するために用いることができる。男性たちが一般的にサービスを活用しない傾向にあるという認識を高めることは、医師やコミュニティのリーダー、家族、男性たち個々人にとっても便益となるだろう。
 
両性間の差異を越えて
 男性と女性には、ある一連の行動をとる頻度に違いがあるという事実からは、観察されたそのような差異をもたらす生物学的・身体的・文化的プロセスについてはほとんど何も明らかにならない[Mechanic 1978]。男女間の差異に関する研究の多くは、性別と援助要請行動を結びつける何かを推測しているが、得られるデータがこの仮説上の何かを直接的に明らかにすることはほとんどない。たとえばネイバーズ(Neighbors)とハワード(Howard)は、国籍別に分類されたサンプルを用いて、アフリカ系アメリカ人女性がアフリカ系アメリカ人の男性よりも頻繁に専門家に援助を求めようとすることを明らかにした。彼らはその理由を説明しようとして、女性は男性よりもすすんで自分が問題を抱えていることを認めようとするのではないかと推測しているが、対象者が実際に問題をどのように認識し、名づけているかを測定していないため、この解釈は推測のままに終わっている。鬱症状に関する問題認識における男女差を示す研究もあるが[Veroff 1981 ; Yokopenic, Clark, & Aneshensel1983]、観察された性差をもたらす心理学的・社会的・生物学的プロセスは不明瞭なままで、なぜ集団としての男性が問題を認識しないのかは明らかにされていない。
 また男女間の違いに関する研究は、集団内における違いや、同じ個人における行動の違いをよく説明しうるように設計されていない。すべての男性が同じではないし、個人としての男性が、あらゆる状況で同じような援助要請行動をとるとは考えにくい。臨床上の観点からは、この種の集団内および個人における変わりやすさこそが理解される必要がある。なぜある種の男性は、ある種の状況において、ある種の問題については、援助を要請することができ、またそうしようとするのだろうか。
 男女間の差異に焦点を当てるアプローチのもうひとつの限界は、これらの研究が、ジェンダーに関する本質主義的な解釈を暗に強化してしまう可能性があるということだ。本質主義的解釈とは、ある特質を、集団やカテゴリーの固定化され本質化された要素として扱うことを意味する[Martin 1994]。そのような特質が生じるのは、生物学的要因あるいは社会的要因のためであるのかもしれないが、その要因が何であるにせよ、そうした特質は、ある集団やカテゴリーに際立った要素として扱われるのである。男性と女性を対比するような研究課題の設定は、男性はよりXであり、女性はよりYであるといった結論を容易に導くことになる。しかし、ここでの問題は、そうした研究の結果それ自体ではない。そうした解釈が、両性の間の権力関係を構築・強化することにより、女性と男性に対するステレオタイプと制約を強化するようなやり方で用いられかねないことが問題なのである。たとえば、援助要請における差異は、男性が女性よりも独立しており、自分で何でもできることの反映であると解釈されうるが、こうした解釈は歴史的に、男性を公的な経済領域により適合的な存在として構築するために用いられてきた。この同じ観念は、関係的文脈においては、男性を女性よりも劣る存在として構築するためにも使われうる。男性は過剰な自助意識ゆえに、また相互的関係や感情的な親密さを築くことが難しいために、他者との関係性において問題を抱えた存在として描かれるようになっている。このように、男女間の差異に注目するアプローチは、援助要請行動のパターンにおける男性と女性の差異がなぜ起こるのか説明しえず、集団内や個人の中における変わりやすさを扱うことができず、また男女両方を制約するようなステレオタイプを強化してしまう可能性があるといった限界を抱えているのである。
(以下、本文つづく。註は割愛しました)
 
 
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