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『児童虐待の歴史社会学――戦前期「児童虐待防止法」成立過程にみる子ども観の変遷』

 
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高橋靖幸 著
『児童虐待の歴史社会学 戦前期「児童虐待防止法」成立過程にみる子ども観の変遷』

「序章 近代日本における児童虐待問題への視座」第1節(pdfファイルへのリンク)〉
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序章 近代日本における児童虐待問題への視座
 
第1節 問題の所在
 
1.戦前期の児童虐待問題
 本研究は、戦前期における児童虐待問題を対象に、社会問題の構築という視角から子どもの近代の歴史を明らかにする、子どもの社会史研究である。
 日本の児童福祉(子ども家庭福祉)の成立を戦前の歴史との連続性においてみようとする場合、大正後期から昭和初期にかけての児童保護事業の勃興を重要な契機のひとつとしてとらえることができる。この時期に児童保護事業が進展した背景には、日本の資本主義の危機的状況があった(清水 1990)。大正九(一九二〇)年に生じた戦後恐慌と大正一二(一九二三)年の関東大震災に続き、昭和二(一九二七)年の金融恐慌と昭和四(一九二九)年の世界恐慌が、日本社会に深刻な経済的不況をもたらしたのである。こうした危機的状況のなか、国家の責任として社会事業の法整備が求められ、実際に多くの法律が作られていく。とくに、子どもの問題を中心とした法整備が進められ、昭和期になって「救護法」(昭和四年四月)、「少年教護法」(昭和八年五月)、「母子保護法」(昭和一二年三月)が制定された。そしてこれらと時を同じくして制定されたもうひとつの重要な法律が「児童虐待防止法」(昭和八年四月)であった。
 戦前期に児童虐待防止法という名の法律が存在したという認識は、あまり一般的ではない。児童虐待といえば現代的な問題として想起されるが、戦前期においても児童虐待は法律の制定によって対応を迫らなければならないほど深刻な問題としてとらえられたのである。しかし戦前期の児童虐待は、今日の問題とはその様相を異にするものであった。児童虐待防止法が制定された背景として、当時の内務省社会局長は新聞紙上で次のように語っている。

「この法案を作るに至った根本の思想は子供は十四歳未滿は教育すべきものであって勞働をさしたり使用すべきものではないというところから出發してゐるのです。(中略)日本の現在の社會では、玉のりだとか、かどつけだとか、輕業だとか、色々な方面で兒童が虐待されていて(中略)一般はその虐待を看過しています」(『東京朝日新聞』一九三二年四月二日)。

 上の記事を読んでわかる通り、この児童虐待防止法は、「玉のりだとか、かどつけだとか、軽業だとか」といった、街頭等での特殊な労働などに従事する子どもたちの救済と保護のために作られた法律であったといえる。本法の対象は「十四歳未満の児童で,その児童を保護すべき責任のある者が、児童を虐待したり、児童の監護を怠ったりして刑罰法令に触れるようなことをした場合には保護処分を行うというものであった(第二条)。本法は、工場法、工業労働者最低年齢法などでカバー仕切れない児童労働に対する保護規定の位置をもった」(児童福祉法研究会編 1978:37)のである。戦前期の児童虐待防止法において示されている「児童虐待」の概念は、現代のわれわれの知る「児童虐待」とは少し異なった概念だったことがわかる。
 明治期以降の日本の児童保護の展開のなかで、明治三三(一九〇〇)年の感化法や明治四四(一九一一)年の工場法などが、子どもたちに対する近代的な処遇を早くに実現したことはよく知られている。そうした子どもに対する近代的なまなざしが、昭和期に入って街頭等での特殊な労働に従事する子どもたちにも向けられるようになったのが、児童虐待防止法制定の背景であったとまずはみることができるだろう。先の新聞記事のことばに沿っていえば、子どもは本来労働などの苛酷な状況からは保護され、学校で教育を受けるべき存在であるという認識が社会に広く行き届いたひとつの結果として、昭和八(一九三三)年に児童虐待防止法が成立したということができるのかもしれない。街頭等での労働に従事する子どもたちを保護し、かれらに教育を与える。歴史を振り返る現在のわれわれにとって、この昭和初期の児童虐待防止法の制定は、明治期以降に誕生した「保護と教育の対象として子ども」という近代的な子ども観が、社会に浸透した結果のひとつの到達点としてみえるのである。
 
2.子どもの近代の歴史を問う視点
 ここには,近代になって「可愛がり」と「激昂」の感情とともに,保護と教育の対象としての「子供期」が誕生したというフィリップ・アリエスの説明(Ariès 1960=1980)に通底する観点をみとめることができる。アリエスは、一九六〇(昭和三五)年にフランスにて『アンシァン・レジーム期の子供と家族生活L’enfant et la vie familiale sous l’Ancien Régime』を出版し、そのなかで「中世の社会では、子供期という観念は存在していなかった」(Ariès 1960=1980:122)と述べ、現代の西欧社会に浸透する「子供」の観念が、一五世紀以降に長い歴史を経てかたち作られたものであることを明らかにしたのだった。
 中世の伝統的な西欧社会においては、現代の子ども期に相当する期間は、もっともか弱い状態で過ごさなければならない期間、自分ひとりではまったく何もすることのできない期間に切り詰められていた。子どもは身の回りの自分の用を足すことができるようになると、身体的に大人と見做されて、「小さな大人」として、親密な共同体のなかで大人たちと衣食住や労働や遊びなどの生活を共にしたのである。
 その後、社会の人びとの子どもに対する意識と感情に変化が生じ、子どもには大人の社会へ迎え入れる前に学校での教育が必要であることが認められるようになっていく。時代の変遷とともに、子どもたちへの教育は徒弟的な修行に代わって、より広範な知識を教授する学校がその役目を果たすようになっていった。同時に、ブルジョワジーという新たな社会階層の親たちがそうした学校教育の重要性を認め、子どもたちを自分たちの手元に置いて特別な配慮を払うようになっていったのである。このようにして子どもは、労働や遊びを大人たちと共にしていた共同体での生活からは切り離されていくようになっていく。子どもは、特別な保護と教育を受けるべきという人びとの心性の広がりのなかで、大人とは異なる子ども独自の世界が作られていき、そこに囲い込まれるようになっていったのだった。
 これが、アリエスが提起した、近代社会と子どもの歴史の概要である。アリエスによる近代的子ども観の誕生を探究する研究は、その後多くの論争を呼ぶこととなり、現在へとつながる子どもの社会史研究の礎となった。それと同時に、アリエスの研究以降、近代的な子ども観のありようを教育と家族の歴史的な変容に着目して考察することが、子どもの社会史研究の重要な主題にもなっていったのである。
 しかしながら、子どもの近代の歴史は、教育と家族の史的展開を追うだけで、果たして十分に描くことができるものだろうか。教育と家族の史的変遷のなかから近代的な子ども観の誕生としてみえる事象を追うことのみで、子どもの近代の歴史をみたことになるのだろうか。たとえば、日本の小学校教育の普及の変遷をおった清川郁子(2007)の研究は、大正中期から昭和初期を公教育成立の第三局面として位置づけ、それが児童保護事業の成立とともに展開したことを指摘する。とくに、東京市においては「都市化の急進とともに小学校令の法令がとどかない細民地区や木賃宿に住む児童、工場法の適用されない町工場や商店に働く児童、一般家庭に女中や子守として働く児童等々、不就学、不完全就学の児童の問題」(清川 2007:615)が顕在化し、その結果として都市の一部スラム地域の公教育がこの時期に地域社会の児童保護事業に支えられて展開したことを明らかにするのである。この清川の指摘は、教育の制度の整備のみならず児童保護事業の展開が、教育の対象としての「子ども期」を保証することになった戦前期の時代の変化を物語っている。
 だが、清川の研究がこの時代の児童保護事業として取り上げるのは、「師範学校出身の教師達の地味な活動、各区小学校の後援会、そして方面委員に代表される町内会の指導者達の地味な児童保護活動」(清川 2007:615)であった。そこには、同時代に誕生した児童保護に関する法律、とくに児童労働に対する保護規定の位置をもった児童虐待防止法が、教育とどのような関係にあったかについての考察はみられない。確かに、清川の研究は、日本の近代公教育の成立の歴史を描く研究であり、子どもの近代の歴史の解明を直接の主題とするものではない。しかしながら、子どもの歴史を研究の主題とする場合に、たとえ「教育の対象としての子ども」の誕生を学校教育制度の変遷を軸に描くのだとしても、近代公教育の成立の歴史を追うのみでなく、同時代の別の領域の子どもを対象にしてその歴史を探究する必要があることを清川の研究は示してくれている。公教育制度の成立と浸透によって近代的な子どもの誕生としてみることのできる歴史の過程でも、教育以外の領域で、子どもの近代の歴史に関してどのような展開があったのか。子どもの近代の歴史を明らかにするためには、教育や家族の歴史を軸にして論じる以外にも、別の水準の軸を設定してさらに丁寧に読み解く必要がある。
 
3.本研究の目的
 こうした子どもの近代に対する問題関心から本研究は、戦前期における児童虐待防止法の制定が、労働に従事する子どもの保護にどのような現実をもたらしたのかについて検討を行う。そのための本研究の課題は、工場法の対象外とされた児童労働がどのような経緯から虐待を取り締まる法律の適用の対象となったのかを明らかにすることにある。その試みは、教育と労働の両方の制度からとりこぼされ、長いあいだ就労の担い手となっていた子どもが、いかに近代的な「子ども期」の枠組みへ囲い込まれていったかの一端を明らかにすることになるだろう。これは、日本における戦前期の児童虐待の歴史とともに、子どもの近代の歴史を解き明かす取り組みとなる。
 本研究は、「生物学に属していると同時に社会的な意識のあり方(mentalité)にも属し、自然に属すとともに文化に属してもいるこれらのカテゴリーの現象」(Ariès 1960=1980:ⅰ)という、子どもの概念に関するアリエスの知見を基盤とし、日本における子どもの近代の形成の一局面を明らかにすることを目的としている。その際に、本研究が具体的な研究の対象として取り上げるのが、戦前期における児童虐待の問題である。子どもを労働という虐待から保護し、教育の世界へと導くことを主要な目的とした児童虐待防止法が成立するまでには、人びとのあいだで子どもに関して様々な議論が展開されたはずである。子どもとはどのような存在であり、社会は子どもとどのように向き合うべきか。それらの議論の経過を詳細に分析することによって、子どものあり方をめぐる社会の人びとの概念の形成を読み解くことができるだろう。本研究は、近代国家の形成が始動した明治期から法律制定の昭和初期までを対象に、児童虐待と子どもの問題をめぐる様々な議論を分析し、日本の子どもの近代の歴史の研究に新たな知見を提示することを目指したい。
 では、本研究は、日本の児童虐待の歴史研究及び子どもの近代の歴史研究のどのような点に学術的な意義をもつ研究となるのか。その点を、本章において、先行研究の整理のもとに論じたい。以下、本章2節では、子どもの社会史研究の今日的な動向を整理し、近年、この分野の研究に社会学の立場から「構築」という視角の有効性が提起されていることを示す。3節では、戦前期の児童虐待問題を扱った先行の研究を整理し、本研究の具体的な研究課題を提示する。4節では、3節の課題に対して、本研究が分析方法として採用する社会問題の社会構築主義の視角について論じる。最後に5節では、本研究で扱う歴史資料と本研究全体の構成について説明する。
(以下、本文つづく。注は割愛しました)
 
 
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