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『絵画の哲学――絵とは何か、絵を見る経験とは何なのか』

 
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清塚邦彦 著
『絵画の哲学 絵とは何か、絵を見る経験とは何なのか』

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序論 予備的な考察
 
 絵とは何かという問いについては、改めて探究するまでもなく、ある意味ではすでに誰もが答えを知っている。すなわち、物体の平らな表面に彩色や線描を施すことで、様々な事物の姿を見えるようにしてくれたもの、それが絵であると。とはいえ、この答えは、問いの終着点であるよりも、むしろ新たな出発点なのである。
 私たちは絵のもとに様々な事物の姿を見るのだと言うけれども、それらの事物は、目の前の絵の表面上に現実に存在しているわけではない。絵の表面ならば、眼で見るだけでなく、手で触れたり叩いたりもできるのに対して、そこに見えてくる事物のほうは、触れることも叩くこともできない。そもそもその事物はそこには存在していないからである。ではあるが、絵の表面の形状に目を向けていると、そこに一定の事物の姿が見える。言ってみれば、絵とは、そこにあるものを人目にさらすことで、そこにないものを見せる装置である。ヴィーナスの絵は実在しない女神の姿を、また建築予想図はこれから建つはずの家の姿を見せてくれる。さらに、テレビやインターネットにつながれたディスプレイに目を向ければ、眼前で起きているわけではない世の中の様々な出来事を目の当たりにすることもできる。本書で行いたいのは、ある意味では分かり切ったこの〈そこにないものを見せる〉働きについて、その正確な本性と由来を探る仕事である。もちろんそこには、〈そこにないものを見る〉心の働きの本性をどのように理解すべきかという問いかけも関連してくることとなる。
 考察を展開する手掛かりとして、本書では、主に現代の分析哲学における関連議論を参照するが、そこでの呼び名に従えば、本書の主題は「描写(depiction)」あるいは「画像表象(pictorial representation)」の理論ということになる。少しかみ砕いて、「絵による表象」と言い換えてもよい。ちなみに、哲学の世界では、「表象」と言えば何ごとかを思念する心の働き(いわば内的な表象)を指すことが多いが、本書で問題にするのはむしろ外的な表象、つまり言葉や絵のような外的な事物が一定の内容を表すという働きである。
 これらの「描写」や「表象」という言い方についてあらかじめ断っておかなければならないのは、それらが翻訳語であり、専門用語であることである。そのことは「表象」ついては明らかだが、日常語と字面が共通する「描写」のほうは返って紛らわしい。日常語では、絵による描写に加えて、音や身振りによる描写だとか、言葉による描写といった言い方に何も違和感はない。しかし、本書で言う「描写」はあくまで‘depiction’ の訳語であって、平面的な絵やレリーフなどを主に念頭に置いている。それは、物体の平らな表面上の色や形(動画像の場合にはそれらの動き、またレリーフの場合には凹凸)を通じて、目に見える事物の姿を再現する類の意味作用を指すものとご理解いただきたい。
 絵の場合のこうした描写の働きが、通常の辞書や文法書に準拠した言語的な記述(description)の働きとどのような点で異なるのかについては、追っていくつかの観点から見ていく。もちろん、絵と言葉とが基本的な意味作用の点で対照的な性格を持つことに加えて、両者のあいだに多くの興味深い中間事例があることも明らかである。例えば象形文字には絵画的な描写の性格が認められるし、擬音語や擬態語の発話は音声や身振りによる描写の性格を持つと思われる。逆にまた、絵文字の類は絵でありながら言語の文法に服する場合もあろう。絵の場合の描写の働きが、言語やその他の音や身振りの場合にどのような現れ方をするのかという点は、たいへん興味深い検討課題である。とはいえ、さしあたり本書はその前段階、つまり、そもそも絵による描写とはどのような働きなのかという点の解明に専念することとなる。
 本書では、第一章から第五章まで、絵による描写の本性に関する代表的な諸見解について順を追って紹介・検討していく。しかし、それに取り掛かる前に、絵による表象とはおおよそどんなものであり、そのどこがどのように問題なのかについて、あらかじめの理解の内容をもう少し明確にしておく必要があるだろう。この序論が取り組むのはそうした下準備の仕事である。
 
(中略)
 
3 本書の狙いと構成
 以上を前置きとして、以下、本書では、主に分析哲学において提唱されてきた一連の代表的な学説を手掛かりに、描写の本性に関する検討を行う。序論の結びとして、ここで簡単に本書の狙いと構成について整理しておきたい。
 通例の理解では、描写の理論が目標とするのは描写概念の本質的特徴の解明である。それは、絵がある事物を描いていると言えるためにはどのような条件が必要であり、またどのような条件があれば十分なのか、という描写の必要十分条件の解明という形を取るのだと考えられてきた。本書も基本的にはそのような理解に沿うものである。とはいえ、そうしたいわば定義の探究に加えて、本書で取り上げる理論の多くは、絵を見る経験の本性に関する分析という性格を担っている。絵を見る経験は他の知覚経験とどのようなつながりと特異性を持つのか、またそれは描写の理解とどのように連関するのか。
 定義の探究と絵の知覚の分析という二つの動機がしばしば混在するのは理由のないことではない。それは意図的なものである。描写の分析に取り組んできた論者の多くは、描写の本質を究明するためには絵を見る経験の分析が不可欠だと考えてきたからである。言葉が何を意味するかを決めるのは言語的な慣習だが、絵が何を描写しているかを考えるさいには、関連する慣習や文脈情報に加えて、その絵がどのような見え方をしているかという知覚の事実が大きな役割を演ずるのだ、というわけである。本書ではそのような考え方を大まかに「知覚説(perceptualism)」と呼ぶ。それは、ウォルハイムによる特徴づけを借りれば、「絵画が表象するものを、表象が適切な予備知識と感受性を持った鑑賞者に引き起こす種類の視覚経験に基づける見解」ということになる。本書で取り上げる一連の見解は、グッドマンのそれを除けば、おおむね知覚説の系統に属する。その点は、本書が知覚説を支持する立場だという事情にも一部起因するが、基本的には、現在の研究状況のおおむね忠実な反映だと考えている。
 次に、取り上げる予定の諸説について、取り上げる予定順に見出しを並べてみよう。

類似説
ゴンブリッチのイリュージョン説
グッドマンの記号説
ウォルハイムの「中に見る」説
シアーの認知説
ウォルトンのごっこ遊び説

 メニューの策定にあたっては、描写の本性に触れた重要な議論と思われるものは漏れなく取り上げることを原則とした。完全に網羅的な概観は意図していないが、現在の論争状況に影響を与えてきた有力な議論はおおむねカバーしているものと思う。また、本書での理解では、これらの諸説は、必ずしも敵対しあうものではない。むしろ、これらの有力学説はいずれも何らかの真理を内蔵しているに違いないというのが本書での見立てであり、最終的にそれらの洞察を収斂させる形で描写の問題についての一定の見通しを得ることが以下における論述全体の目標となる。
 なお、メニューに並べた見出しの中で、冒頭の類似説にだけ「〇〇の」という限定が無いことには理由がある。本書で取り上げる「類似説」は、特に誰の学説ということではなく、絵による描写を事物の似姿の呈示と考える考え方の総称である。それは、古今の専門研究者だけでなく、一般の人々の通念にも浸透した考え方である。しかし、その裏腹として、代表者の名前を特定しがたい。類似説に所有格の限定がないのはこうした事情による。
 代表者を一人に絞れない分、類似説の検討作業は他の章にはない複雑さを帯びることになる。加えて、類似説をめぐる英語圏での論議では、ゴンブリッチやグッドマン、ウォルハイムなど有力な論客が多彩な類似説批判を展開し大きな影響力を揮ってきたという事情もある。それゆえ、類似説の論評は同時にこれらの批判論にも配慮しなければならない。
 こうした複雑な事情を抱えながらも、あえて類似説の検討を最初の章に置いたのは、それが多彩な学説の中で、一般的な支持層の厚さの点では群を抜いていると考えてのことである。というわけで、第一章は、類似説をめぐるいささか手の込んだ考察を展開することとなった。最初に、ビアズリーの古典的な議論の紹介を通じて類似説の理論構造について簡単に確認した上で、次に、類似説への一連の批判論の検討を通じて、類似説が直面している基本的な問題状況を「類似説のジレンマ」という形で整理する。それを踏まえて最後に、従来型の類似説の枠内でジレンマを解消しようとする現時点で有力な三通りの見解について検討する。
 先取りして言えば、従来型の類似説は維持しがたいというのが本書での評価である。しかし、類似性の概念は、形を変えて、他の形の知覚説の議論の中でも重要な役割を果たすこととなる。第二章で取り上げるゴンブリッチの理論もその一例である。
 ゴンブリッチの主著『芸術とイリュージョン』(邦訳名『芸術と幻影』)の大きな特色の一つは多彩な類似説批判である。そこで批判の的になるのは、絵による描写を、すでに出来上がった事物の姿を画布の上に引き写すだけの受動的な作業のように捉える絵画観である。他方、彼自身の積極的な主張は「イリュージョン説」と呼ばれるが、それはしばしば、絵を見て理解する経験を、絵をそこに描かれた事物と取り違える経験として分析した明らかな謬見として批判されてきた。第二章では、そうした誤解を退けつつ、ゴンブリッチが展開した類似説批判、ならびにそれに代わる「イリュージョン」の理論について、『芸術とイリュージョン』での論述を中心に主たる論点の確認を行う。
 本書での理解では、イリュージョン説は、類似説への対案というより、むしろその批判的継承の性格を持つ。その一つの重要な論点は、私たちが様々な事物(例えば壁の模様)を見るときに、しばしば、それらの事物とは異なる別の事物(人の顔)を見るときに生じるような視覚経験が惹起される、という観察にある。それは大まかには「目の欺き」とでも呼ぶべき現象だが、その実質は、ある事物が惹起する知覚経験が、それとは別の事物が惹起する知覚経験と類似する、という認知的反応の類似性にある。その点に注目すれば、ゴンブリッチのイリュージョン説は、反応の類似説と呼ぶこともできる。
 第三章の主役はグッドマンである。彼は、ゴンブリッチと並んで徹底した類似説批判を展開しつつ、ゴンブリッチとは異なる独自の記号論的な見解を展開したことで知られる。このうちの類似説批判の部分は、分析哲学における描写論に非常に大きな影響を及ぼすこととなった。その主だった部分は本書の第一章で取り上げる。第三章で取り上げるのは、グッドマンがより積極的な論点として提示している記号論的な展望である。
 グッドマンが力説するのは、絵による描写の問題が、単体としての絵の問題ではなく、当の絵を含む絵画的な記号システムの問題だという点である。言葉の意味が慣習的な記号システムとしての言語を不可欠の背景としているのと同様に、絵による描写もまた慣習的な記号システムに基づくのだとするのである。とはいえ、グッドマンはけっして、絵を単純に言語に同化したわけではない。正確には、絵画的な記号システムは言語と同様に慣習的だが、しかし、異なる種類の慣習的システムだというのが彼の立場である。それでは、彼の考える絵画的システムの特質はどこにあるのか。その点を見きわめ評価することが第三章の課題となる。
 第四章で取り上げるウォルハイムは、グッドマンの記号論的見解には強く反発するとともに、絵を見る経験を重視したゴンブリッチにも執拗な批判を展開し、独特な形での知覚説を掲げて分析哲学における描写論を牽引した。彼は、私たちが絵を見るときに、その中に多様な事物の姿を「見る」経験の特異性を際立たせるために、「中に見ること(seeing-in)」なる概念を導入した。そして、彼はその経験の特質として、独特な「二重性(twofoldness)」を指摘した。
 二重性の主張とは、絵を見る経験が、絵の表面の形状を見る経験であると同時に、主題対象の姿を見る経験でもあるという二面性を踏まえつつ、それら二つの側面が当事者には同時的に意識されている、ということを主張するものである。ウォルハイムは、この「同時的な意識」の主張を通じてゴンブリッチと激しく対立したのだが、本書における評価では、この点でのゴンブリッチ批判はすっきりとした成功を収めてはいない。しかし、それはけっして、二重性の主張が間違いだということではない。むしろ、それは真理であるに違いないのだが、そのさいの「同時的な意識」の意味や、絵を見る経験の二つの側面の意味と相互関係については、さらに検討の余地があるというのが本書での評価である。そして、本書がその手掛かりと考えたのが、シアーの認知説であり、またウォルトンのごっこ遊び説である。
 そのシアーについては、ウォルハイムをめぐる検討への付録として、第四章の第4節で取り上げる。それは大まかにはウォルハイムと同様の知覚説の一種とも言えるが、シアー理論の焦点は、知覚の当事者が自らの体験として意識する内的な側面よりもむしろ、当事者の意識下で生じている認知過程のほうに置かれており、しばしば「認知説」として「類似説」とは区別される。先ほどの類似説では、絵と描写対象とのあいだの類似性に焦点が置かれたのに対して、認知説ではむしろ、絵を見る経験と、描写対象を対面で見る経験のあいだの類似性に注意が向けられる。こうしたシアーの議論は先述のゴンブリッチのイリュージョン論の一つの発展形態として位置づけることができる。また、別の観点で言えば、絵を見る経験の特異性を力説する先ほどのウォルハイムとは対照的に、むしろ絵画知覚と対象の対面知覚との連続性に注目するものだと考えられる。
 最後の第五章ではウォルトンのごっこ遊び理論を取り上げる。絵を見る経験の特質が、そこにない不在の対象を見る点にあるという事情は、ゴンブリッチのイリュージョン説でも、ウォルハイムの「中に見る」説においても力説されていたが、それをより一般的な虚構的真理の理論の中に位置づけ、特に絵画的な虚構的真理の生成について分析したのが、ウォルトンのごっこ遊び理論である。それは、絵のもとに多様な事物が見えるという経験の実質を、絵の平面的な形状を見ながら、その平面を「見る」経験を、絵とは異なる事物(したがってそこには存在していない事物)を見る経験であるかのように想像する「視覚的なごっこ遊び」として捉えるものである。第五章での検討では、ウォルトンの言う視覚的なごっこ遊びが、絵を見る経験があくまで「見る」経験だという視覚性を、適切に捉えられているかどうかという点が中心的な検討課題となる。この点について、本書では、ウォルトン理論が、実質的にゴンブリッチ=シアー流の認知説の論点を内蔵していることを確認する。と同時に、「視覚的ごっこ遊び」は、絵が引き起こす認知過程を、単に自然的な因果連鎖の一コマとして追認するのではなく、それを社会的・歴史的な文脈の中に置き移し、ごっこ遊びの規則によって指定された想像として意味づけるものでもある。
 以上を前置きとして、いよいよ本論に進もう。
(傍点と注は割愛しました)
 
 
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