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『ケアリング・デモクラシー――市場、平等、正義』

 
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ジョアン・C・トロント 著
岡野八代 監訳、相馬直子・池田直子・冨岡薫・對馬果莉 訳
『ケアリング・デモクラシー 市場、平等、正義』

「はじめに」「監訳者解説 フェミニスト的なケアの民主的倫理へ」(pdfファイルへのリンク)〉
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はじめに
 
 私は、前著『モラル・バウンダリー――ケアの倫理と政治学』〔1993, 邦訳近刊〕において、ケアを政治的な生の中心に据えると、世界は非常に異なってみえると主張した。前著を刊行してからこの間、いく人かの研究者や活動家がケアを改善する大衆運動を起こそうと何度も試みてきたものの、そうした運動は起こっていない(Engster 2010;Stone 2000)。しかし、当初の議論がなされていたフェミニストの理論枠組みの変化や、テロ攻撃や新自由主義的な諸条件のもとで進行するグローバル化によって不安が深まっているにもかかわらず、よりケアに満ちていて、より公正な社会の構想によって提起される、政治的可能性に私は希望を抱き続けている。本書では、こうした社会を創出するために、私たちはどのように民主主義とケアすることとを今とは異なって理解できるのかを問いたい。すでに、民主主義理論、政治、生の本質について膨大な議論があるにもかかわらず、ケアすることへの責任を、社会がどのように民主主義の政治的議題の中心に置くのかが解き明かされない限り、今後なにもよくならないと論じるだろう。
 こうした議論は、ごく近年の民主的政治理論の文脈には落ちつきが悪いようにみえるかもしれない。多くの政治理論家たちの近年の研究は、近代の自由主義的民主主義がいかに非民主的で残忍なものになったか、また自由民主主義的体制がいかに多くの人びとを「単なる生命」に切り詰めるに至ったかを明らかにすることに費やされている。その他の政治理論家たちは、政治的な生における軋轢をどう記述するのかに関心を寄せるようになった。例えば、民主主義とは闘技的なのか。熟議上の不一致は政治について考えるうえで、より実りある方法なのだろうか。あるいは、政治に関する私たちの思考を再修正するような民主的判断のあり方を追究している理論家たちもいる。これらの問題は重要であり、検討に値するが、政治的な生とは、何ものかをめぐるものでなければならないという事実を見逃している。社会が責任を割り当てるひとつのあり方として、もっとも広く、もっとも公的な形でケアすることを考えることは、閉鎖的でゲームのような政治システムを、市民の真の関心事へと開いていくための実質的な機会を提供するだろうというのが、本書での私の提案である。
 本書は、ひとつの理念について論じたものである。この理念とは、英語で多くの意味をもつ、ある言葉から生まれている。その言葉とは、ケアである。ケアには多くの意味がある。例えば、「気がかりなこと(ケアーズ)と苦悩」と言うとき、「ケア」は重荷を意味する。「あなたのことを気にかけています」と言うとき、私たちは愛情を表現している。ケアは、つねに行動や傾向性を表し、何かに手をさしのべることを意味する。「自分自身を労わる」のように、自分自身について言及するときに使うと、その瞬間に、自分を行為者であると同時に、手をさしのべている相手であると考えている。ケアは関係性を表現している。私たちが「イルカに関心があります」と言うように、私たちの心のもっとも深い信念を表現するためにも使われる。また、広告主が「マクドナルドのケア」というのを耳にするように、私たちが企業を好きになり、おそらくその製品を買い続けるよう、陳腐なやり方でケアは使われたりもする。
 本書の考えをできるだけ簡潔に示すと、こうである。市民であることとは、市民をケアすることであり、民主主義そのものをケアすることである。私はこの実践を、「共にケアすること」と呼んでいる。ケアすることと同様に、シティズンシップは、(ケアを必要とする人びとに政府が支援を提供する場合のような)支援を表現すると同時に、重荷、すなわち政治制度やコミュニティの維持や保護に手を貸すような負担でもある。実際にそのような民主的なケアに関わるには、市民は自己や他者への責任について熟慮しなければならない。そして人びとは、政治を、単に選挙戦としてではなく、やがて国を前へと導いていく集合的な活動として考えることを要請されるだろう。「長い目で見れば、我々はみんな死んでいる」とのジョン・メイナード・ケインズの発言は的を射ていたが(1971 [1923], 65)、人びとは常にいかに行為するかによって未来を形づくっている。民主主義の未来について関心をもつことは簡単ではない。さらに、私がここで考えている民主主義という構想は、たんに利益を集約し、政治的リーダーを選ぶためのシステムとして民主主義を考えるものではない。しかし、後で述べる理由により、私はここで、民主的な生と実践に関する十全でオルタナティヴな理解を提案することに焦点を当てるつもりはない。それは、民主的な社会における市民たちの課題のように思えるからだ。
 私は、ラテン語のMihi cura futuri を校訓として掲げるハンターカレッジで三〇年間、教鞭を執ってきた。その校訓は、あえて訳すなら「未来は私の手のなかにある」と、あるいは、もっと意味を汲んで、「未来をケアする」と理解されていた。ほとんどのひとは二〇〇三年まで、この一節を一九世紀に人気のあったラテン語風に作られた一例だと考え、大学周辺ではもっぱら、「一九世紀のへんくつな衒学者が作ったまがいもの」だと思われていた。古典の研究者であるジリアン・マレーは、このフレーズが正統なラテン語であることを解明した。これは、オウィディウス『変身物語』一三巻に登場する。ユリシーズとアヤックスが、殺されたアキレスの鎧を誰が手に入れるべきかについて議論しているとき、ユリシーズは彼の敵と自分とを辛辣に比べたのだ。「あなたの右手は戦争に役立ちます。それは才能です……。しかし、あなたは考えなしに人びとを率います。未来のケアは私のものです[mihi cura futuri]」(Murray 2003)。「考えなしに人びとを率いる」ことは、短期的にはより成功するかもしれないが、未来をケアする必要がある場合は、違うふうに行為しなければならない。ユリシーズはそのように論じ、自分こそがアキレスの真の後継者であると主張する。
 私たちは、あまりにも多くのリーダーが「考えなしに人びとを率いる」時代に生きている。しかし、この現在の思考のなさのなかでも、重要であるにもかかわらず、しばしば見過ごされてきた側面について焦点を当てたい。すなわち、ケアに対する私たちの関心にいったい何が起きているのだろうか、と。なぜ人間の生や政治の多くが、利己心、貪欲、利益についての議論に変わってしまったのだろうか。ありとあらゆる形の政治的な言語は、なぜ経済学の言語に取って代わられたようにみえるのだろうか。
 「ケア」というこの小さな言葉が、別の重荷を背負っているのが、ここである。何が間違ってしまっているかについては本論のなかで論じるが、私たちは、「経済」の世界以外の、人間存在の別の側面を見失ってしまった。労働者と消費者としての経済的役割に加え、市民は他のふたつの領域に生きている。ひとつが、世帯、家族、友人からなる輪という親密なケアの世界。もうひとつが、政治の世界である。本書で私は、私たちは政治を、経済学の世界の一部であるかのように誤解していると訴える。そうではなく、政治は世帯の一部、すなわちケアの領域と考えているものに、歴史的には近く、そして正しくはそうあるべきなのだと、私は論じたい。「母的思考」に対するフェミニストの批判にもかかわらず(e.g., Dietz 1985)――私も「母的思考」の支持者も、政治的関心と家庭的関心との間に完全な一致があるとは論じてはいないのだが――、政治思想家が家政を政体にたとえてきたことには正当な理由があるのだ。家政も政体も、人びとが自己利益を追求するときに生じるものとは異なる結びつきを頼りにする制度なのだ。民主主義では、政治は私たちのケアを必要とする。そして、私たちのケア実践のすべてに対する一定の支援を、私たちは国家に期待してしかるべきである。政府とは、私たちが大切に思っている(ケアアバウト)ものであるとともに、私たちにも「ケア」を提供することによって相互作用するものなのである。
(傍点は割愛しました)
 
 
監訳者解説 フェミニスト的なケアの民主的倫理へ――No Feminism, No Democracy
 
ジョアン・トロントについて
 本書『ケアリング・デモクラシー――市場・平等・正義』([2013]2024)は、ケアの倫理の嚆矢となったキャロル・ギリガン『もうひとつの声で』([1982]2022)に思想的な刺激を受け、政治的合理性についての論文で一九八一年にプリンストン大学にて博士号を取得した直後から、政治学の領域でケアとは何か、ケア活動の社会的位置づけ、そして、ケアの倫理を政治理論として文脈づけることを試みてきたジョアン・トロントの主著である。トロントは、ニューヨーク市立大学ハンター校、ミネソタ大学教授を経て、現在では両大学の名誉教授となり、ケアの倫理・理論に関する国際的な研究ネットワークのコア・メンバーのひとりとして活発な研究活動を展開している。
 本書が出版されてから一〇年が経過した後、こうしてトロント政治理論の集大成ともいえる本書が日本語で公刊される意味を監訳者として次のふたつの点から、後書きに代えて論じておきたい。それは、フェミニスト政治理論家としてのトロントの功績を紹介することでもある。ひとつは、トロントの研究によって、ケアの倫理が大きく政治理論へと展開したこと、そしてふたつめには、既存の民主主義論に対して新たな挑戦を理論的にも、実践的にも突き付けていることである。
 なお、トロントは本書公刊によって、ペンシルヴァニア州立大学マッカートニー民主主義研究所より、ブラウン民主主義賞を授与されている。この賞は、世界的に民主主義を独創的な方法で活性化させようと尽力してきた団体および個人に贈られるものであり、書籍の公刊が功績として認められることは稀である。その受賞を機に執筆された『ケアするのは誰か? Who Cares?』[2015]は、拙訳により二〇二〇年に邦訳されている(トロント・岡野(2020)、トロントによる受賞記念本の訳を第一章に収録、その他の章を岡野が執筆した共著)。トロントとの共著『ケアするのは誰か?』で私は、「訳者まえがき」としてトロント自身の簡単な経歴を、また第2章において、民主主義の再生を試みるトロントの思索の歩みを、一九八七年に公刊したトロントの論文「ジェンダーの差異を越えて、ケアの理論へ」に遡りながら論じた。したがって、トロント自身の研究来歴のなかでの本書の特徴については、そちらに譲り、ここではむしろ、トロントの議論がその他の研究者たちに与えてきた思想的インパクトを中心に、『ケアリング・デモクラシー』の意義を論じることにしたい。
 
ケアの政治理論へ
 トロントの研究なしには、現在のケアをめぐる理論的、規範論的興隆はあり得なかったといっても過言ではないだろう。本書第1章においてトロントは、ケアとケアリングの定義を主に社会学の議論を参照しつつ概念的な精緻化をはかりつつも、概念はあくまである特定の目的のために設計された道具にすぎないと訴える。「ケアの規範的適切さは、その概念の明確さからではなく、それがおかれる、より大きな政治的・社会的理論から生じる」と(三一頁)。この主張は、前述した一九八七年のケアの倫理に関する初めての論文以降、彼女のもうひとつの主著である『モラル・バウンダリー――ケアの倫理と政治学』([1993]邦訳近刊)にいたるまでの彼女の研究を通じて導き出されたものであり、その後多くのフェミニストたちが携わるようになったケアの倫理研究のあり方を大きく転換させた。八七年論文でトロントはすでに、以下のように論じている。

ケアは、それが他の諸価値とどのような関係にあるのかが検討されてはじめて、公的な生を評価する批判的な観点として役立ち始めることができるのだ(Tronto 1987, 656)。

 道徳心理学の専門書ともいえる『もうひとつの声で』公刊以降の、ケアの倫理の理論的展開に寄与した研究書については、倫理学、正義論の立場から、エヴァ・フェダー・キテイ『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』([1999]2023)、経済学の分野ではナンシー・フォーブレ『見えざる心――経済学と家族価値』(2001)をあげることができるが、いかにトロントがいち早く政治理論のなかにケアを位置づけるだけでなく、政治理論そのものをケアの視点から再検討しようと試みていたかが了解されるだろう。この三者の理論化によって、正義の射程も(キテイ)、経済学の射程も(フォーブレ)、そして政治学の射程も(トロント)、人間の諸活動を包括的に捉えることで、大きく拡げられることとなった。こうした理論化は、それまでケア活動が織りなすケア関係が対面的かつ個人的であるという固定観念を打ち破り、人間社会全体のなかでケア活動が果たす役割から、ケア関係が生み出す価値や態度の意味を考察することを可能にした。
 ケア概念の精緻化とともに理論化を促したのは、「ケアは人類的な活動」であるという広義のケア概念である(二四頁)。この定義は、トロントがベレニス・フィッシャーとの共著論文「ケア活動のフェミニスト理論に向かって」のなかで初めて提示したものだが(Fisher and Tronto 1990)、その後ケア活動プロセスにおける諸局面の分節化がより緻密になり、ケア理論による批判対象が展開されるなかでもなお、トロントはこの定義に一貫してこだわってきた。
 トロントの研究に大きな示唆を得たドイツの政治学者であるエリザベス・コンラディとヨルマ・ハイアーによれば、こうして定義されたケアは、政治理論の鍵概念として多くの研究者をその後鼓舞することになる。彼女たちは共著論文「ケアの政治理論に向かって」において、政治理論には三つの目的が存在するという。第一に、社会・政治状況を解釈し、それとして理解可能なものとして可視化すること。第二に、既存の概念にひそむ先入観や偏向を分節化する視点から、一般に流通している概念を批判的分析に付すことによって、私たちの現在の思考そのものに埋め込まれた障壁を克服すること、そして第三に、変革のための新たな道筋を描くことで、現状改革に取り組むよう私たちを鼓舞することである(Conradi and Heier 2014)。
 コンラディらが指摘するそれら三つの特徴は、本書が三部構成となっていることとも平仄が合う。第Ⅰ部では、政治理論がこれまで中心的に論じてきた民主主義、責任といった概念がケアの観点から批判的に検討され、第Ⅱ部では、合衆国の歴史を中心にではあるが、私たちが現在行っているケア活動がどのような状況にあるのかを通じて、自由、平等、正義といった理念に照らしながら、現在の社会状況が克明に描かれるのだ。そして、第Ⅲ部では、ケアを民主化するために、ケアを政治的に真剣に考える関心事にすることが提案され、民主主義をよりケアに満ちた制度としていかに鍛え上げるべきかが示される。
 私たち人間はすべて、ケアする/される人間である限り(Tronto 2017)、経済的な生産を中心にした社会から、ケアを中心とした社会への転換は可能であるとトロントは楽観的だ。私たちは、ケアを必要とする存在である点でみな平等であり、自らが大切にするものをケアできるように制度を作り替えていく自由があり、そしてなにより、誰しもがケア負担を一方的に強制されたり、ケアすることで社会の周辺や暴力にさらされやすい状態にとどめ置かれたりしない、という正義を求めるために共に声をあげることができる。人間社会の中心にケアを位置づけるトロントらの定義は、自己責任論や企業的自己像をはじめとして、人間を内面から作り替えるほどの力をもつとされる新自由主義の時代の閉塞感を(Brown 2015)、打破しようとする多くの研究者たちを鼓舞し続けている。
(以下、本文つづく)
 
 
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