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デイヴィッド・エドモンズ 著/森村 進・森村たまき 訳
『デレク・パーフィット 哲学者が愛した哲学者(上・下)』
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はじめに 重要なこと
「何のお仕事をされてるんですか?」。アメリカ人の看護師がイギリス人のデレク・パーフィットに訊ねた。二〇一四年の秋にこの哲学者がニュージャージー州で入院したときのことだ。パーフィットは大変な状態にあった。激しく咳込み肺が機能しなくなり、ほとんど死にかけていた。消耗しきって、七十一歳で生涯を終えるかのようだった。ほとんど話もできない。そこへ心配した見舞客たちがこの白髪の患者に会うために列をなしてやってくる。何事かと思った彼女がそう訊いたのだ。彼はしわがれ声で答えた。「私は重要なことについて仕事をしています」。
* * *
『重要なことについて』はパーフィットの二番目の著書であり、最後の著書でもある。最初の著書は『理由と人格』だ。つまり著書はわずか二つということになるが、その二つだけで「この一世紀に現れた最も偉大な道徳哲学者の一人」という評価を、政治哲学者や道徳哲学者にすっかり定着させたのだ。もちろん、誰もが賛同するわけではない。辛辣な批判者もいた。しかしこの評価は広く受け入れられている。それどころか、パーフィットを同邦の哲学者ジョン・スチュアート・ミル(一八〇六-七三)、ヘンリー・シジウィック(一八三八-九〇)以来、最も重要な道徳哲学者だと考える人たちもいる。だがパーフィットがそもそも一冊でも刊行できたことは、彼のことを知る人にとっては驚きだった。「パーフェクト」という言葉は中世英語の「parfit」に由来すると言われる。まさに究極の完璧主義者だった彼にふさわしい名前だ。パーフィットの完璧主義はいつもトラブルを招き寄せることになった。原稿に満足できないと言っては、締め切りもくり返し破った。
『重要なことについて』は最終的に全二巻千四百四十ページ(死後刊行の第三巻も入れると千九百ページ)に及ぶ。『理由と人格』はだいぶ軽量級で、たった五百三十七ページしかない。しかしパーフィットの著書は不朽の名著だと評されている。さらにパーフィットは約五十編の論文も残し、平等や「人格の同一性」――ある人格を時間経過を通じて同一の人物たらしめるものがもしあるとしたら、それは何か――を含め、数多くのテーマの出発点となる重要な貢献をなした。パーフィットの思考はすべての人間に関係して日常的にも使われる可能性があり、刑罰や資源の分配、未来への計画について、私たちの考え方をも変えることになる。
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本書は、二十世紀後半から二十一世紀初頭の大学生活と哲学研究の肖像画であるとともに、成人したパーフィットが生涯の大部分を過ごしたオール・ソウルズ〔・コレッジ〕というユニークな組織の素描でもある。だが本質的には一人の人物についての本だ。
パーフィットは伝記作家にとって難題だった。本書を書きはじめた頃、私はパーフィットがどんな人物か完璧にわかったつもりでいた。パーフィットの性格も行動も態度の理由も、理解できていると思っていたのだ。しかしパーフィットについて話してくれる人たち、特に哲学者になる前の彼を知っていた人たちが増えれば増えるほど、最初の見立てが根本的に間違っていたと思うようになり、頭をかきむしりながら書き直すことになった。それからもパーフィットの生涯にまつわる物語は私を悩ませつづけた。最後に私はもう一度決心し直した。「人格の同一性は重要なことではない」と主張した人物の性格と格闘する伝記作家とは、なんたる皮肉だろうか。
伝記作家にとって、パーフィットは悪夢であり、かつ理想でもある。彼の人生は見方によれば何の変哲もない。回廊に閉ざされた生涯だった。文字どおり、イートンの回廊から、ベイリオル、オックスフォード、ハーヴァード、オール・ソウルズという回廊に至る人生。そこにあるのは、哲学の書物と論文の読書と討論と執筆だ。これでは刺激的な本にはなりそうもない。だがその一方、パーフィットの少なくとも後半生は桁外れの奇人伝だ。愛すべき人物であると同時に、変人だったのだ。私は膨大な逸話の海で溺れそうになった。
取材で集めた膨大な情報をきれいにまとめあげるのはかなりの大仕事だった。大まかには年代順の時系列で話は進むが、一九七〇年頃からパーフィットの生活にはいろいろな恒例行事が入り込んできた。毎年のベネチアとサンクトぺテルブルク写真撮影旅行しかり、ハーヴァードとニューヨーク大学とラトガースでの講義しかり。学生たちもいた。こうした話を行ったり来たりしてしまわないように、後半生については一部、テーマ別にしている。
パーフィットの生涯を描くにはこの構成があっていたようだ。前半生はいろいろなことに興味をもち、好奇心にあふれ多種多様な活動をしたが、後半生は数少ない限定的な対象にのめり込み、それらともしだいに断絶するようになっていった。若い頃にはたくさんの生命があり、長じてからはたくさんの哲学があった。パーフィットの哲学以上に私が彼に惹かれるのは、価値あるなにかしら――彼の場合は重要な哲学的問題を解決したいという衝動――を、ほかのどんなことよりも実際に優先させてみせてくれた極端な実例でもあるからだと思う。
パーフィットはほかの哲学者たちとの学問上の意見の相違に、最後の二十五年間を苦悩して過ごした。特に、多くの哲学者が真剣に「道徳を支持する客観的な根拠は存在しない」と考えていることにますます困惑するようになっていった。そうしてパーフィットは「世俗的道徳――神なき道徳――は客観的であり、そこには理性的な基礎がある」ということを自分が証明しなければならないのだと思い込むようになった。動物や花や滝や書物やパソコンについての事実があるのとまったく同じように、道徳についても事実があるというのだ。
もし自分がこの証明に失敗したら自分の存在は無意味だったことになる。パーフィットは本当にそう信じていた。それも自分の存在だけではない。もし道徳が客観的でなかったら、人間の生はすべて無意味になってしまう。そして「道徳を支持する客観的な根拠は存在しない」という主張を論駁し、道徳を救い出さなければならないという強迫にも似た思いは、彼の知性だけでなく感情にも重い負担となった。パーフィットがどのようにこの重荷を背負うようになったのか、またその重荷が早熟で外向的な歴史学専攻の学生から、道徳の最難問の解決にとりつかれた隠遁的な哲学者へとどのように彼を変えたのか。これが本書の主題である。
* * *
デレク・パーフィットと私の個人的な関係を告白しておかなければならないだろう。彼とごく親しかったわけではないが、彼は私が一九八七年にオックスフォードの哲学学位(BPhil)をとった際の、論文の共同指導者だった。彼に論文指導を依頼するような勇気が私になかったことはたしかだから、もう一人の指導教員であり、私の学部生時代の恩師、サビーナ・ロヴィボンドの発案だったにちがいない。彼女はパーフィットとはみごとに異なるタイプの思想家でもあった。しかしデレクを選ぶのは理の当然だった。私がテーマに選んだ「未来の人びと」――いまだ生まれていない人びと――に関する倫理的な問題についてデレクが果たした役割はとても大きく、彼が道徳哲学のこの分野を作り出したのだ。その後、この論文の目標は「非対称性問題を解決する」になり、自分では解決できたつもりだったのだが、デレクの意見は違った。
本当のことを言うと、当時会ったときのことを私はほとんど記憶していない。実際に会ったのはおそらく三回か四回にすぎなかっただろう。覚えているのは、オール・ソウルズのバッククァッド〔中庭〕第十一階段の石段を登っていくときの緊張である。どういうわけか、自分が座ったソファだけは覚えている。彼の赤いネクタイも思い出す。そして長く、波打つ、すでに白くなりかかった髪を。そのときパーフィットはまだ四十代だったのだが。
私もむろん『理由と人格』を読んでいた。わずか三年前に出版されたばかりだったが、大多数の人たちと同じく、私もわくわくし、そして衝撃を受けた。この偉大な人物に対する畏怖の念はごく大きかった。だがそんなに不安がる必要はなかったのだ。彼は私の原稿を注意深く読んで、辛抱強く私と議論してくれた。相手がただの大学院生にすぎないということは、彼にとってはどうでもいいことのようだった。
本書の執筆にとりかかったとき、私は自分の論文をまた読み直してみた。それは短い謝辞から始まる。
私は心からの感謝を、共同指導教員のサビーナ・ロヴィボンドとデレク・パーフィットに捧げる。両者があらゆる根本的な論点についてことごとく意見を異にするという、ほぼ超能力のような不思議な能力に慣れてからは、彼らの公平で詳細な批判から多くを得ると同時に、非常な熱意に励まされた。
哲学へのデレクの熱意は少しも冷めることがなかった。
私の歩んだ道は長いことふたたびデレクと交わらなかったが、しばしば彼の声だけは聞いていた。私はBBCに就職したものの哲学への思いを捨てきれず、社会人をしながら博士課程に入り直したのだ。今度のテーマは差別の哲学で、指導教員はデレクのパートナーであるジャネット・ラドクリフ・リチャーズだった。北ロンドンのタフネルパークのジャネットの家で議論をしていると、いつもオックスフォードからの電話が割り込んできた。デレクの特徴的な、バリトンというにはやや高く、テノールというのにはやや低い声が電話越しに聞こえてきた。「今は話せないのよ。デイヴィッド・エドモンズがいるの」とジャネットは言ってくれたが、デレクが私のことを覚えていたかどうかは疑わしい。
博士課程にいたのは一九九〇年代だった。二〇一〇年になって、私はジャネットに照会状を書いてもらって「実践倫理のためのウエヒロ〔上廣〕センター」に加わった。このセンターはオックスフォード大学哲学部の一部門で、ジャネットは二〇〇七年にそこに異動していた。私はセンターの卓越研究フェローの資格をもらい、最初の数年間は毎週通って、共有オフィスに入るたびにドアに印刷された四人の名前を見ては、小さなドーパミン効果に浸っていた。というのも、そこには私とジャネットの名前と並んで、D・パーフィットの名前もあったのだ。ただし姿はまったく見せない。自宅の方がよかったのだろう。ときどきは、自分が(決して現われない)同僚と同じオフィスにいることを自慢させてもらった。
もう一つ個人的な逸話を書いておこう。『タイムズ』に書いたパーフィットの追悼記事で短くまとめた話だ。二〇一四年のこと、『プロスペクト』誌で世界で最も重要な思想家を選ぶ投票があった。その最初の候補者リストにはジャネットとデレクの両方の名前が載っていた。この手の企画によくあるようなけっこういい加減なリストで、ジャネットはひねくれて腹を立てた――自分の名前があるのはポリティカル・コレクトネスとアファーマティブ・アクションのせいだと言って。そんなこともあったにせよ、私は『プロスペクト』に連絡して、そのリストにある二人がごく親しいことを知っているかと聞いてみた。編集部は知らなかった。そこで私は長文の記事を依頼され、編集部はその記事に「理性とロマンス――世界一知性的な結婚」というタイトルをつけた。
この記事の取材で、私はジャネットとデレクをタフネルパークに訪れた。デレクは個人的な質問も受けてくれたがすぐに退屈がって、哲学の議論になると楽しげに身を乗り出してきた。そんな哲学話を私は持参のノートパソコンで必死になってメモした。
しばらくして原稿を仕上げ、ジャネットとデレクのところに送った。事実関係に誤りがないか確認したかったからだ。書き上げるまでに数日かかり、かなりの重労働だったが、自分では書き上げて満足していた、いや、出来もよいと思っていた。送信後、私は妻と散歩に出てゆっくり歩き回り、丘の頂上に登ったところで、自分の携帯電話にeメールが届いているのに気づいた。デレクからのメモだった。
親愛なるデイヴィッド
お元気だと思います。
メッセージを添付します。気に入らない内容ではないかと恐れています。その点をお詫びします。
敬具 デレク
激しく動揺した私は、家に駆け戻って添付ファイルを開いた。そこにはこの記事の公表を思いとどまってほしいという依頼と、誤りと誤解を指摘した長大な一覧があった。胸をどきどきさせてその指摘を読みはじめるうちに、私の不安は当惑に変わる。最初の「誤り」なるものは原稿になかったからだ。二番目の「誤り」もなかった。三番目のも。さらには四番目も五番目も。私は自分の当惑を説明してデレクに書いて送った。
そしてすぐ事情はわかった。私がデレクに送ったのは記事の原稿ではなくて、タフネルパークでの議論を聞きながら私がとったノートとメモだったのだ。『タイムズ』の追悼記事に書いたように、デレク・パーフィット以外誰一人として――誰一人として――「この不可解な文章が雑誌に掲載されるものだとは思わないだろう。しかしもし誰かが彼に、『意味をなさない文章の寄せ集めが高名な雑誌に載ることになっている』と言ったら、彼はそれをそのまま信じるのである」。
この件は無事に一件落着した。パーフィットは原稿を読んで喜んでくれたのだ。要求された唯一の変更点は、ジャネットの最新刊『臓器移植の倫理│なぜ不注意な思考が命を奪うのか』への絶賛書評、「『本書は最高の応用倫理だ』ピーター・シンガー」といったフレーズをいくつか入れてほしいというリクエストだけだった。
* * *
『プロスペクト』誌はパーフィットを世界で最も重要な思想家に入れたが、彼は「フィロソファーズ・フィロソファー」であって、世に知られた哲学者でもなければ、万人向けの哲学者でもなかった。世の中には、特別に深遠ではないものの、広く関心を集める事柄について話題を振りまき、有名になった哲学者もいる。公的な発言や活動をすることによって知名度をあげた重要な思想家も何人かいる。近年ではバートランド・ラッセルがそうした思想家の一人だろう。ラッセルの名声を築いた高度に専門的な哲学書を読んだ人はほとんどいないはずだ。パーフィットは教室のドアの外側にある現実の問題を基礎に思考を続けたが、メディアのインタビューに答えたり、論壇で論説や意見を書いたり、政治家や政治オタクに教えを垂れたりすることで話題に加わりはしなかった。社会運動をしなかった。ソーシャルメディア上に存在しなかった。決して名声を求めなかった。それゆえ哲学の外界では事実上知られていない。
私は本書によってこの不公正な現実を少しでも匡正したいと望んでいる。そしてまた、あのニュージャージー州の看護師への返事が真実だったのだと証明したい。彼は本当に重要なことについて仕事をしたのだ。
デイヴィッド・エドモンズ
(注は割愛しました)
パーフィット先生の思い出
森村たまき
「あなたたちはミスター・パーフィットを知っている? 世界で一番スウィートでラブリーな人なの」
一九九〇年から一九九二年まで、本書の共訳者である夫の森村進がハーヴァード大学哲学科に客員研究員として在外研究する機会を得た。結婚したばかりだった私も夫と一緒にはじめてのアメリカ、ニューイングランド生活に臨んだ。
ケンブリッジに到着してすぐ、ティム・スキャンロン先生に会った。夫の前に井上達夫さんと深田三徳先生がお世話になり、私たちもそのご縁でスキャンロン先生のスポンサーシップで哲学科に出入りできるようになったのだ。哲学科のすぐ近くにあるシーフード料理店のランチではじめて会ったスキャンロン先生は大柄で、ムール貝が大量に蒸しあげられた料理を召し上がりながら、「今度は家に招待しよう」と言ってくださった。
それからすぐ、私たちをご自宅に招いてくださって、陶芸家である夫人のルーシーさんと娘のサラさんとジェシカさんを紹介してくださった。スキャンロン夫妻は幼い頃からサラさんを全米各地で開催される哲学関係の集まりに連れて行くのが常だったそうで、サラさんはアメリカ中の哲学者をよく知っているらしかった。それで、「誰々教授を知っている?」とよく聞かれたのだ。で、初対面の私たちにサラさんは、「パーフィット先生を知っているか?」と聞いた。彼は世界で一番スウィートでラブリーな人なのだと。
夫は結果的にパーフィット先生の全著書を翻訳することになったのだが、留学当時はパーフィット先生の人格の同一性論に大いに触発されて書いた『権利と人格』(創文社)を刊行したばかりだった。もちろんパーフィット先生の名前は知っていたけれど、会ったことはない。そうか、そんなにスウィートでラブリーでいい人なのかとうれしかったものだ。
ハロウィンの頃にはハーヴァードのファカルティ・クラブで、ジョン・ロールズ先生夫人のマーガレットさんの水彩画展があった。「場所と顔」と題していたが場所はごくわずかで顔、顔、顔ばかりの展覧会だった。ロールズ先生はじめ、アメリカ哲学界を代表する哲学者たちの水彩肖像画がずらりと展示され、ロバート・ノージックやスタンリー・カヴェル、アマルティア・センといったハーヴァードの教授たちのなかで、真っ白な長髪と若々しい精悍な顔がアンバランスなデレク・パーフィットの肖像はひときわ目を引いた。
スキャンロン先生一家は、私たちの家に何度も来てくださった。とりわけ最初の年に「忘年会」という日本語を直訳してお招きしたときにはひどく面白がって、「年を忘れる」というのは、英語ではその年は悪い年だったなあ、忘れてしまおうといったネガティブな意味なのだけど、「私は悲観主義者だから、その表現に深く心動かされた」と喜んでいただいたのだ。
その年末にはボストンの劇場でモリエールの『タルチュフ』が上演された。スキャンロン先生夫妻は観劇したが、あまり感心しなかったそうだ。タルチュフがいかにも悪そうな小悪人で面白みがなかった、と不満げだった。スキャンロン先生が考えるタルチュフはもっと悪魔的で、善悪どちらでもありうる、デレク・パーフィットのイメージだという。「私はミスター・パーフィットこそがタルチュフ役にふさわしいと思う」、とスキャンロン先生はおっしゃった。
スキャンロン先生はパーフィット先生の招きでオール・ソウルズ・コレッジに滞在したときの話もしてくれた。イギリスではこれが正装だと思って蝶ネクタイを結んでいったのだけど、ミスター・パーフィットに、「そういう格好はここでは怪しげに思われる」からやめるよう言われてやめたのだ、とか。翌一九九一年の春学期には、パーフィット先生の講義があった。パーフィット先生は真っ白い髪で、いつも白いワイシャツに赤いネクタイをして紺のズボンを履いていた。大人気でいつも院生たちが取り囲んでいて、なかなか声をかけられなかったのだけど、夫といっしょに挨拶ができた。パーフィット先生は「あなたは何を書いていますか? あなたの書いたものを見せてください」と誰にでも言っていたから、夫は英語の論文を渡し、先生は持っていたスターマーケット(ポーター・スクウェアにある大型スーパーマーケット)の薄茶色いビニール袋にそれを入れた。先生は学内でも配布物や論文や草稿がどっさり入ったスターマーケットのビニール袋を持って歩いていた。授業の資料もスターマーケットの袋から取り出して配っていらっしゃった。スターマーケットの袋も幸せ者だと思ったものだ。会えば「グッデイ」と笑って挨拶してくださる。えも言われぬ優しさと品とかわいらしさがあって、なるほどサラさんが言っていたのは本当だとうれしかった。
パーフィット先生はうちに一度夕食に来てくれた。お招きすると快くOKして、「住所を教えてくれれば『バイク』で行きます。ただし私はフィッシュ・ベジタリアンで魚は食べるけれども肉は食べません」とおっしゃった。
それで本当に約束の日の約束の時間にパーフィット先生は自転車に乗って家に来てくれた。ドアベルが鳴って降りてゆくと自転車を入り口脇の柵にチェーンでロックしようとしているところで、にっこり笑って階段を上って二階の我が家に来てくださった。
居間に案内すると、夫が買ったクロード・ロランの画集を見て、自分もクロードが好きだとおっしゃって、「これは持っていない」と、手に取られた。「先生もクロードが好きだなんて、なんて偶然でしょう!」と私は言ったのだけど、パーフィット先生は「これは偶然ではないのですよ」と言ってくれて、夫はとてもうれしかったようだ。「クロードは建築を大変うまく描くのだけれど、人物はうまくない、たとえばこの絵は」、と、ロンドン・ナショナルギャラリーにある「クピドの宮殿の外にいるプシュケ」の絵の真ん中に描かれたプシュケを指して、「この女性の腕は太すぎる」とおっしゃった。ロンドンにある絵だから、何度も直接見たことがあるのかと思ったら、そうではないそうで「私はほとんど実物を見ることはない。ほぼすべて画集で見ている。大変だった一日の終わりには書店に立ち寄って美術書コーナーで画集を開いて、心を安らげるのです」と言いながら、「今日の私の授業の説明はうまくいかなかった」と振り返られた。その日の授業は「一人で百人助けられる人がいて……(Single-handedly と腕を振るって力を込めて言う言い方が印象的だった)」というようなトロリー問題のいろいろなパターンを比較する話だったのだが、パーフィット先生は、面白くてクレバーな思考実験としてこういう話をしているのではなく、救える命の数の多寡を本当に切実な問題として考えているんだと思って心動かされたのを覚えている。
美術談義はもう少し続いて、初期ターナーはいいけれど後期ターナーは苦手とか、クロードやプッサンもいいけどガスパール・デュゲもいいとか、ハーヴァードのフォッグ美術館にあるドゥッカーレ宮殿とベネチアを描いたカナレットの絵の話とか、ガウディは機械的すぎるとか……。私が描いたボストン美術館裏手の公園の絵にも目を留めて、前途有望だと実力以上にほめてくださった。(以下、本文つづく)
訳者あとがき
本書はDavid Edmonds, Parfit: A Philosopher and His Mission to Save Morality (Princeton University Press, 2023)の全訳である。訳者からの問い合わせに応じて著者から示された訂正箇所が十数か所あるが、いずれも比較的軽微なものなので、訳文ではいちいち断らずに取り入れた。
「はじめに」でも書かれているように、この伝記の主人公であるデレク・パーフィットは『理由と人格』と『重要なことについて』(全三巻)によって知られるイギリスの重要な現代哲学者である。彼は専門家以外のために書くことがめったになかったため、哲学界ではつとに畏敬すらされていたのに対して、一般には知られていなかった。
生前のパーフィットの知己を得る機会があり、その画期的な著作だけでなく特異な人柄にも魅されていた著者は、二〇一二年のパーフィット没後からあまり時期を置くことなくその伝記執筆を計画し、おそらく手を尽くしうる限りと思われる膨大な資料調査とインタビューをおこなった結果、原著で四〇〇
ページ近い本書を執筆した。
本書はパーフィットの哲学をすでにいくらか知っている読者はもちろん、二十世紀後半以降の英米哲学の世界に関心ある読者には尽きせぬ興味をもつ書物だろう。さらにそれ以外の一般読者にとっても、パーフィットという絵に描いたような変人天才哲学者の生涯と生活が、エドモンズの手にかかるとページを繰る手を止めさせない読み物になる。
本書は刊行直後から多くの絶賛を受け、すでに現代哲学者の伝記のなかで最も優れたものの一つとしての地位を確立している。たとえばアメリカの作家ジョイス・キャロル・オーツはこう書いている。
「デレク・パーフィットは自分の仕事に没頭してユニークな隠遁的生活を送ったが、エドモンズの共感的ではあるが無批判的ではない伝記が示すように、彼の生涯にはドラマがあった。本書は、この抵抗できないほど興味深い、不撓不屈の、そして最終的にはとらえがたい思想家――多くの人びとにとって、現代の最も重要な道徳哲学者――の決定的な伝記になるだろう」。
またパーフィットの友人でもあった哲学者のピーター・シンガーはこう書いた。
「私が出会ったことのあるあらゆる人びとのなかで「天才」という名が最もふさわしい哲学者について読んで楽しい伝記を書くということは大変な仕事だ。エドモンズはこの徹底的に調査され見事に書かれた書物のなかでそれをなしとげた。本書はまた過去六十年間のオックスフォードにおける専門哲学と生活を瞥見させて読者を魅了する」。
本書はパーフィットの一生に関する比類ない伝記だが、それだけでなく、大部で詳細すぎることもあって多くの読者にはなかなか手を出しにくいパーフィットの著作の、最も核心的な部分をわかりやすく解説することによって、彼の哲学への入門書としての役割も果たしている。著者はその際、パーフィットの道徳哲学の不偏的・非人格的・客観主義的な性質を正当に強調する。ただしこれらの性質が、第23章後半で検討されている彼の特異なパーソナリティといかに結びつくかは、哲学というよりは心理学の問題だろう。パーフィットは自分の哲学的主張の一部が世人の常識やほかの哲学者の見解とは異なるということを認めても、誰でも偏見や歪曲から離れて理性的に考えるならばその正しさは否定できないと考えていたはずだ。
訳者二人は幸いいずれもハーヴァードとオックスフォードでパーフィットと親しく話をする機会があったので、その思い出を森村たまきが寄稿した。
森村進はパーフィットの著書のほとんどを勁草書房から訳出してその訳者解説のなかで彼の哲学と人となりについてすでにいくらか書いたので、ここではそれをくり返さず、まだ書いたことがない情報だけを記しておくことにする。
まず『理由と人格』の邦訳について――本書第15章の冒頭によると、この本は「〔初版刊行後〕修正を反映した新版が一九八四年に刊行された。さらに修正を加えたペーパーバック版が一九八六年に刊行され、それから一九八七年にそれまで以上の修正を入れて別のペーパーバック版が出された」とのことだ。私(森村進)は一九九〇年代後半にこの本を翻訳したとき自分が持っていた一九八六年のペーパーバック版を用いた(ただしその際スペース上の理由から短縮化されていた原注は初版のまま残した)が、その後の変更はないかとパーフィットにエアメールで問い合わせたところ、一九八七年版でいくらか修正したという返信があって、それには修正個所のコピーが同封されていた。そこで私はこの修正個所を訳書に取り入れたのだが、最近になってから、一九八七年版の修正個所はそれ以外にもあったということを知った。パーフィットが送ってくれた修正個所のリストは不完全だったわけである。結果として私の訳書は一九八六年版と一九八七年版の中間形態を示していることになる。
次にパーフィットの授業について――私はハーヴァードで一九九一年秋学期の単独の講義およびセミナーと、二〇一五年冬から春のセリム・バーカーとの合同セミナー(第23章のはじめの方で言及されているもの)の一部に出席した。一九九一年の講義ではシジウィックの『倫理学の諸方法』と彼自身の『理由と人格』が教科書として使用され、セミナーでは「平等か優先か」の草稿にあたるものが利用された(しかし本書下巻五五ページのようなエピソードは記憶にない。私はそのとき出席していなかったのだろう)。二〇一五年には『重要なことについて 第3巻』の草稿が使用されたが、これはまだ書物化された最終段階のようにテーマごとにまとめられておらず、十三本の批判論文それぞれに対する十三篇の回答という単純な形をとっていた。個人的なチュートリアルの場は知らないが、これらの授業は真摯ながら、学生を問い詰めるような緊張した雰囲気がなく、ごく和やかだったように記憶している。
これらの授業の際、寒い日もあったにもかかわらず、パーフィットが上着を着ていた記憶はない。彼はいつも白いワイシャツと赤いネクタイしかしていなかったという印象がある(二〇一五年にはネクタイもしていなかった)。パーフィットはよほど寒さに強かったのだろう。ちなみに徳仁(なるひと)親王(当時)のオックスフォード滞在記『テムズとともに』(学習院教養新書・一九九三年)にはオックスフォードの学者について「見かけからしていわゆるエクセントリックな先生がいる。真冬でもワイシャツ一枚で出歩いたり(以下略)」(一〇八ページ)という記述があるが、著者はその頃研究指導を受けるためオール・ソウルズ・コレッジをしばしば訪れていたのだから、ワイシャツ姿のパーフィットを真冬に見かけたのかもしれない。
デイヴィッド・エドモンズは一九六四年生まれの哲学者かつ文筆家で、一般読者向けに書かれた哲学書をあらわし、そのいくつかは多くの国語に翻訳されている。日本語に訳されているものとしては、
『哲学がかみつく』(ナイジェル・ウォバートンとの共著)佐光紀子訳・柏書房・二〇一五年
『哲学と対決する!』(ナイジェル・ウォバートンとの共著)菅靖彦訳・柏書房・二〇一五年
『太った男を殺しますか?』鬼澤忍訳・太田出版・二〇一五年
『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い10分間の大激論の謎』(ジョン・エーディナウとの共著)二木麻里訳・ちくま学芸文庫・二〇一六年
がある(最初の二冊はエドモンズがウォバートンと共同で運営しているポッドキャストでおこなわれた哲学者たちとのインタビューをまとめて書籍化したもの)。
翻訳の担当は第1│7章、第10-11章、第13-15章が森村たまきによるものであり、それ以外が森村進によるものだが、最終的には両者が相談して全体を確定した。
最後に勁草書房編集部の鈴木クニエさんには、この訳書の出版を積極的に後押ししただけでなく、訳文を読みやすくするために無数の提案をしていただいたことについて訳者二人は感謝する。
二〇二四年 立秋の日
森村 進