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白川俊介 著
『移民の政治哲学 主権とグローバル正義の相克を越えて』
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はじめに
本書を手にとられた読者の多くは、近年の日本社会において「外国人」をめぐる問いが、かつてないほどの切実さをもって立ち現れていることを強く認識されていることだろう。事実、二〇二五年夏に行われた参議院議員選挙から九月の自由民主党総裁選挙に至るまで、労働力不足を補うための外国人材の受け入れ拡大、逼迫する国際情勢下で急増する難民への対応、地域社会における「共生」のあり方といった論点は、主要な政策課題として繰り返し議論の的となってきた。
経済界からは「国を開く」ことへの期待が語られ、人道的な立場からはより寛容な外国人の受け入れを求める声が上がる一方で、文化的な同質性や社会の安定が損なわれることへの懸念、あるいは「国益」を盾に厳格な管理を是とする主張もまた大きな影響力を持つ。こうした政治的言説は、「理想」と「現実」という単純な二項対立の様相を呈し、われわれはその間で思考の袋小路へと陥りがちである。
ところが、日々展開される政治的言説の背後には、自由民主主義がその誕生以来抱えつづけてきた、普遍的かつ根源的な問いが横たわっている。すなわち、すべての人間の道徳的平等を謳う普遍主義的な理念と、ネイション(国民)という境界で区切られた共同体の自己決定を重んじる個別主義的な要請とをいかにして調和させるかをめぐる、リベラリズムに内在するアポリア(理論的難問)である。本書が取り組むのは、まさにこの一見すると解決できないように思われる哲学的課題に対し、現代におけるグローバルな人の移動という文脈から、理論的な道筋をつける試みにほかならない。
本書は、安易な「国境開放論」にも、排他的な「国境閉鎖論」にも与しない。「責任ある主権」という新たな規範的ヴィジョンを提示することで、ネイションや国家の自己決定権を絶対的な特権としてではなく、その正統性が内外に対する責任の履行に依存する「条件つきの道徳的地位」として再定義する試みである。それは、主権国家がみずからの共同体の価値を守るという正当な権利要求と、自国の外側の人々や世界に対して負う責任とを、いかにして両立させうるのかという問いに対する原理的応答を探究するものである。
本書で展開される理論的探究は、決して学術的な議論の紹介にとどまるものではない。むしろ、これからの我が国の社会の輪郭、とりわけ「外国人との共生」という理念を、単なるスローガンや場当たり的な政策の継ぎはぎに終わらせず、首尾一貫した正義の構想のもとで真に実りあるものにするために不可欠な知的営為である。国境を管理するとはいかなる責任を引き受けることなのか。われわれが守るべき「共同体」とは、本来どのようなものであるべきなのか。
本書が、この困難な時代における我が国の行く末をめぐる誠実かつ真摯な思索の一助になることを願っている。
序章 リベラリズムのパラドックスと国境の倫理
リベラリズムの政治理論は、その基盤に「すべての人間の道徳的平等」という普遍主義的理念を据える。しかしながら、この理念は、主権国家から成る現代世界の現実、すなわち、国籍という「道徳的に恣意的な」境界線に基づいて人々を「内部者」と「部外者」とに峻別し、後者を組織的に排除するという現実と、つねに深刻な緊張関係をはらんできた。フィリップ・コール(Phillip Cole)が指摘するように、これはリベラリズムの政治理論に内在する、深刻で容易に解決しえない矛盾である(Cole 2000)。すべての個人が道徳的に平等であるとすれば、なぜ出生地という偶然が、個人の基本的な自由、機会、人生の展望をかくも決定的に左右することが許されるのであろうか。この問いに対し、国境管理を擁護する多くのリベラル理論は、ナショナル・アイデンティティや同胞に対する特別な義務といった、その正当化こそが問われるべきものを暗黙裡に前提しており、「論点先取の誤謬」を犯しているのではないか(Cole 2014: 519-520)。さらにコールは、多くのリベラル国家が採用する「出国の自由は認めるが入国の自由は認めない」という非対称的な立場(「リベラルな非対称性」)が、概念的な矛盾をはらんでいると批判する(Cole 2000: ch.3)。この根本的な問いこそが、本書の哲学的探究の出発点となる。
この理論的なアポリアは単なる抽象的思弁の対象ではない。二一世紀の今日、それは喫緊の実践的・政治的課題として顕在化している。経済のグローバリゼーション、技術の進歩、人口動態の変動は、人の国際移動を世界規模で加速させている。高所得国では高齢化と労働力不足が移民への持続的需要を生み出す一方、低・中所得国における経済格差、政治的不安定、激化する気候変動の影響は、強力な「プッシュ要因」として多くの人々を故郷から押し出している。
このグローバルな人の移動は、受け入れ社会に深刻な緊張をもたらし、ナショナル・アイデンティティやネイションの自己決定をめぐる激しい政治的対立を惹起してきた。こうした不安と変化を背景に、過去十数年来、民主主義諸国ではいわゆる「右派ポピュリズム」や「ネイティヴィズム(排外主義)」が劇的に台頭した。近年の実証研究が示すように、この現象の根底には、急速な価値観の変化に対する「文化的バックラッシュ」が存在する(e.g., Inglehart and Norris 2018)。そこにある不安の中核をなすのは、経済的な懸念以上に、移民がもたらす民族・文化的変容に対する強い懸念である(Margalit, Raviv, and Solodoch 2025)。ブレグジットからトランプ現象に至るまで、これらの政治運動は、「国境の管理を取り戻す」という主権の再主張をスローガンに掲げ、移民をしばしば実存的脅威とみなし、国家主権の絶対性を排他的な形で擁護している。
かくして、リベラリズムに内在する理論的矛盾は、グローバルな人の移動という現実と、それに対するポピュリスト的反動との間で顕在化しているといえる。移住ガヴァナンスは、もはや政策課題にとどまらず、現代社会の中心的問題であり、厳密な哲学的分析が不可欠である。本書が取り組むのはまさにこの喫緊の課題である。すなわち、リベラリズムは人民による集団的自己決定という正当な要請を、グローバルな正義や個人の自由といった普遍的要請といかにして調和させうるのか。そしてその均衡点は、国境管理という主権の行使にいかなる道徳的制約を課すのであろうか。
この問いは、ロールズ的リベラリズムにおける、公正な社会構造(正)と多様な善の構想(善)との間の古典的かつ今日的な緊張関係を、移民という現代的な文脈において再検討する試みでもある。かかるリベラリズムの根本的矛盾をめぐる問いは、近年の政治哲学において活発な議論の蓄積を生んできた。この広範な議論は、概して「国境開放(open border)」か「国境規制(closed border)」かという単純な二分法で語られがちであるが、実際にはより複雑で多様な理論的立場が存在する。だがその多様性にもかかわらず、議論の基本構造は一つの中心的な対立軸、すなわち、すべての個人の平等な道徳的地位を重視する「普遍主義(universalism)」と、固有の政治共同体の価値や自己決定権を擁護する「特殊主義(particularism)」との間の原理的な対立を軸に展開してきた。そしてこの対立こそが、現代の移民正義論を深刻な「理論的行き詰まり」へと導いている。
議論の一方の極には、国家による国境管理の権限を厳しく制限、あるいは原理的に否定する普遍主義的議論が位置する。これらの議論は(第1章、第2章で詳述)、主として二つの哲学的基盤に依拠している。第一は、個人の「自由」に基づく議論である。リバタリアニズムの論者は、国境管理を同意なき「有害な強制(harmful coercion)」の一形態であると批判し、それは個人の自己所有権や結社の自由を侵害すると論じる(Huemer 2010; Kukathas 2021)。また、ジョセフ・カレンズ(Joseph Carens)に代表されるコスモポリタニズムの論者は、国内における移動の自由が、論理的整合性の観点から、国境を越える移動の自由をも含意すると主張する(Carens 2013)。これらの立場によると、自由な移動が基本的な状態であるべきであり、それを制限する国家のいかなる行為もきわめて重い正当化責任を負うことになる。
第二の論拠は、グローバルな「正義」に基づく議論である。この議論の中核をなすのは、出生地という道徳的に恣意的な要因が個人の人生の展望を決定づけるべきではないというロールズ的な直観である。カレンズが論じたように、豊かな民主主義諸国の市民権は、「封建的階級特権の現代的同等物」として機能しており、その特権を国境管理によって維持することは根本的に不正である(Carens 1987)。この指摘は、アイアレット・シャハール(Ayelet Shachar)が市民権を世代を越えて特権を継承させる「限嗣相続財産(entailed estate)」とみなす分析によって、さらに精緻化された(Shachar 2009)。グローバルな機会の平等や運の平等主義の観点からは、この不正義を是正するための不可欠な手段として、国境を越える移動の自由が要請されるように思われる。
こうした普遍主義的な議論に対し、特殊主義の論者は、「集団的自己決定(collective self-determination)」の価値を対置する。彼らによれば、境界づけられた政治共同体は恣意的な制度ではない。それは民主的な自己統治、社会的な信頼、分配的正義といったリベラルな価値を実現するのに必要不可欠な基盤である。マイケル・ウォルツァー(Michael Walzer)による、政治共同体をその成員資格の決定権を持つ「クラブ」になぞらえる類推はこの自己決定権の本質を捉えている(Walzer 1983)。デイヴィッド・ミラー(David Miller)は、共通の公共文化こそが熟議民主主義の基盤であると論じ(Miller 2005)、クリストファー・ウェルマン(Christopher Heath Wellman)は、結社の自由というリベラルな権利から国家の排他的権利を導出する(Wellman 2008)。これらのアプローチは、人民がみずからの行く末を決定する集合的な権利を重視し、国境管理をその不可欠な手段とみなすのである。
この対立はある種の理論的行き詰まりを形成している。なぜなら、双方がそれぞれに重要な道徳的洞察を提示するものの、互いの中心的な主張に十全に応答できないという構造的な欠陥を抱えているからである。普遍主義的な議論は、個人の権利と道徳的平等を擁護するうえで強力であるが、民主主義や連帯といった価値ある人間の生に不可欠な価値を実現する基盤となる「境界づけられた政治共同体」が持つ規範的重要性を過小評価しがちであり、それらをみずからのなかに取り込めていない。他方、特殊主義的な議論は、共同体の自己決定の価値を強調するものの、その権力行使によって直接的かつ深刻な影響を受ける「排除される部外者」に対し、その排除の道徳的正当化について、説得的な説明を体系的に提示できていない。その正当化は多くの場合、共同体の内部的価値観に依拠するにとどまり、部外者に対する説得力を欠いているのである。
かくして、移民正義論は理論的に行き詰まっている。一方は共同体の価値を、他方は普遍的な個人の権利を擁護するが、両者を首尾一貫して統合する枠組みを提示できていない。こうした行き詰まりは、新たな規範的枠組みの必要性を強く示唆する。普遍主義が重視する個人の道徳的地位と、特殊主義が擁護する政治共同体の価値、その双方の洞察を統合しうる包括的理論が求められているのである。この課題に応えるため、本書は、「開かれた国境」か「閉ざされた国境」かという非生産的な二分法そのものを超克し、対立の根源にある「自己決定」という原理自体を根本から再考する「第三の道」を提示する。その核心をなすのが本書が展開し擁護する「責任ある自己決定」という規範的枠組みである。
「責任ある自己決定」の基本的な前提は、国民国家の自己決定権が、絶対的かつ固有の、あるいは政治以前の特権ではないという点にある。むしろそれは、その正統性がつねに問われつづける条件付きの道徳的地位である。その正統性は、共同体内部の民主的プロセスを通じてのみ付与されるのではなく、外部に対する責任を一貫して履行することを通じて、継続的に獲得・維持されねばならない。このような視座の転換を図るため、本書はアレン・ブキャナン(Allen Buchanan)の分析枠組みを援用し、国家の正統性を「内部的正統性」と「外部的正統性」とに分析的に区別する。従来の自己決定論が、その正当化根拠を共同体内部の価値や民主的意志(内部的正統性)に求めてきたのに対し、本書の「責任ある自己決定」モデルは、国境管理という部外者に対する強制的権力の正統性は、その行為によって影響を受ける人々に対して負うべき責任の履行(外部的正統性)に決定的に依存すると主張する。
この外部的正統性を具体化する中心的メカニズムが、ジリアン・ブロック(Gillin Brock)の議論から着想を得た「制度的補完性」および「制度的応答性」の原理である。すなわち、国家による制限的な国境管理という主権の行使が道徳的に許容されるのは、排除に伴う危害を緩和し、移住の深層にある構造的不正義(不公正な貿易構造や気候変動への歴史的責任など)に対処するために設計された、公正な国際的制度レジームに対する積極的な貢献と不可分に結びついている場合に限られる。これは、議論の焦点を国家固有の「権利」から、国家が果たすべき具体的「責任」へと根本的に転換するものである。要するに国家は、出生地に関わりなく、すべての個人の基本権と機会が保護されるグローバル・システムに対して、みずからの公正な役割を果たすことによって初めて、人々を排除する権利を正統に「獲得する」のである。
したがって、本書の中心テーゼは、自由民主主義諸国の国境管理権は「責任ある自己決定」という原理によって道徳的に条件づけられる、というものである。この枠組みは、急進的なコスモポリタニズムと排他的な国家主義双方の限界を克服する。それは、コスモポリタニズムとは異なり、固有の政治共同体の価値を肯定するが、国家主義とは異なり、無条件の排除権を認めない。かかる探究の射程は移住の倫理のみにとどまらない。それは、相互依存が深まる世界において、主権がいかにあるべきかという問いに対し、「責任ある主権」という新たなヴィジョンを提示するものである。
本書は、上記の理論的隘路を乗り越えるため、以下の構成に基づいて「責任ある自己決定」・「責任ある主権」という中心的主張を体系的に展開する。
まず第1章「『自由』は国境開放を要請するか」では、国境開放論の第一の柱である個人の「自由」に基づく議論を批判的に検討する。国内移動の自由からの類推や、国境管理を不当な強制とみなすリバタリアニズムを分析し、いずれも政治共同体の価値を看過しており、自由という価値だけでは国境開放を正当化しえないと論じる。
続く第2章「『正義』は国境開放を要請するか」では、より強力な道徳的要請である「正義」に基づく議論を検討する。「生まれによるくじ」の不正義の匤正を求める主張を吟味し、その論理的限界や実践的課題を指摘したうえで、正義は国家に重い義務を課すものの、必ずしも国境開放を要請するわけではないことを論証する。
このように国境開放論の限界を明らかにしたうえで、第3章「自己決定は排他的権利を正当化するか」は本書の理論的転換点となる。ここでは、国境規制を擁護する「集合的自己決定」論を、「外部的正統性」の欠如という観点から批判し、その隘路を乗り越える理論的基軸として「責任ある自己決定」を提示する。自己決定を、外部に対する制度的責任の履行に条件付けられた地位として再定義し、国境管理の新たな倫理的基礎を構築する。
この新たな理論的枠組みの妥当性を検証するため、第4章「文化の保護とリベラルな正当性」では、最も論争的な「文化の保護」という論点に「責任ある自己決定」モデルを適用する。保護対象を「国民主義的な憲法体制」(Orgad 2015)に限定し、いかなる文化的配慮も四つの厳格な規範的条件を満たさねばならないとする「倫理的防壁」を提示し、その倫理的妥当性を示す。
こうして理論的基盤を固めたうえで、議論は非理想的状況の分析へと進む。第5章「『移動の自由』から『留まる権利』へ」では視点を転換し、「頭脳流出(brain drain)」という出国側の倫理的課題を扱う。ここでは「移動の自由」の絶対性を問い直し、構造的な「強制移動」に抗する「留まる権利」を保障するための「社会の存立基盤を支える市民的責務」を提示する。これは、金銭的補償では代替不可能な「暗黙知」を持つ専門職に課される、共同体存続のための最後の手段としての限定的な責務である。
共同体の内部における責任を探究したのに続き、第6章「気候変動と『場所』の喪失」では、視点をグローバルな構造へと広げ、「気候変動による避難」という喫緊の課題を分析する。議論の焦点を、人々の移動から、かけがえのない善としての「場所」に留まる権利の保護へと移し、「責任ある主権」とは、他者の「場所」の存続を積極的に支援する責任によって定義されると論じ、主権概念そのものの変革を迫る。
これまでの各章で多角的に展開された「責任ある自己決定」の原理は、最終章である第7章「『責任ある主権』の構想」において、一つの包括的なヴィジョンへと統合される。このモデルを「国家システムの正統性にまつわる理論」(Sharp 2020)の文脈に位置づけ、主たる批判に応答したうえで、現実世界の非理想的な条件下におけるその適用を「原理に基づいたプラグマティズム」として規定し、本書の探究全体を総括する。
こうした体系的な探究を通じて、本書が最終的に目指すのは、自己統治を行うナショナルな政治共同体の正統な権利要求が、グローバルな文脈においてすべての人々に対して不可避的に負うべき責任と、本質的に結びついていることを論証することである。それは主権を擁護する議論であるが、制度的責任とグローバルな正義の追求によって再定義された主権論にほかならないのである。









