あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
渡辺利夫 著
『福澤諭吉と後藤新平 渡辺利夫精選著作集第6巻』
→〈「まえがき」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「まえがき」本文はサンプル画像の下に続いています。
まえがき
第6巻には『決定版・脱亜論』(育鵬社)と『後藤新平の台湾』(中央公論新社)を収録する。前者は明治維新期の日本近代史についての私の考え方を平易に述べて、大学での講義テキストとしたものである。幕末・維新期の日本の近代のありようを解説し、これに福澤がどんな意見を開陳したのかを章末に書き込んでやや特異な形の福澤論に仕立ててみた。
明治維新が成ったものの、政権の主導権は薩長人士が握り、その専制政治(「有司専制」)に対する、国民の批判には根強いものがあった。この批判を背に、板垣退助らは「民撰議院設立建白書」を政府に提出した。明治13年(1880)には「国会期成同盟」が結成され、自由民権運動として知られる改革主義的なセンチメントが朝野を覆い、「国権論」と「民権論」を軸とする激しい論争が展開されるにいたった。
国権論とは、国家権力が強ければこそ、国民の権利・自由が保障されるという考えを基本とし、対するに、民権論は、国民の権利・自由が保障され、初めて国権も強化されるというものであった。幼い論争のようにも思われようが、平成27年9月に成立した「平和安全法制」をめぐる与野党間の論戦や、法案に反対する憲法学者のいかにも生硬で猛々しい「立憲主義論」を聞かされていると、日本の政治思想は明治の初年以来、まるで成熟することなく、むしろ劣化の様相を呈しているかの感さえ抱かされる。
福澤諭吉は、自由民権運動をめぐる論争をみつめて、明治13年に『時事小言』なる警世の書を刊行した。天賦人権説や社会契約説の主唱者の福澤は、とかく民権論者だと捉(とら)えられがちであり、そんなふうに記している概説書がいまもあるほどだが、不勉強も甚だしい。私(福澤)はもとより民権論に反対する者ではない。国会開設も必要なことだとは思うが、民権の伸長を図っていかなる「国柄」の国家を創るべきかを論じない民権論などに、与(くみ)するわけにはいかない。「民権伸暢(しんちょう)するを得たり、甚(はなは)だ愉快にして安堵したらんと雖(いえど)も、外面より国権を圧制するものあり、甚だ愉快ならず」。国権そのものが、外国によって屈服させられかねない帝国主義的な国際環境にあって、これに顧慮することのない内治重視の民権論は、ナイーブに過ぎて、到底ついていけないといっているのである。
ここで福澤は、「正道(しょうどう)」と「権道(けんどう)」という用語法をもって、みずからの論理を鮮明に示す。民権論は純理においては天然の正道であり、国権論は人為を加えて造られた便宜上の概念である。つまり、国権論は権道である。権道とは“手段や方法は道義から外れてはいるものの、結果からみれば、正道に適う政治選択である”といった意味合いの概念である。
帝国主義勢力が、アジアに着々と勢力拡大を謀るこの「西力東漸(とうぜん)」の時代にあって、正道を顧みるいとまは日本にはない。権道というべき人為の国権論に「我輩は従う者なり」と福澤は宣言する。そして「眼を海外に転じて国権を振起する方略なかるべからず。我輩畢生(ひっせい)の目的は唯この一点に在るのみ」と喝破したのである。
“青螺(さざえ)が殻の中に収まりすっかり安堵していたのだが、急に外の方が騒がしくなったので、こっそり頭を殻から出して周辺をうかがえば、思いがけないことに、何と自分の身は殻と一緒に魚市場の俎(まないた)の上に乗せられているではないか”というたとえ話を引き合いに、福澤はこういう。「国は人民の殻なり。その維持保護を忘却して可(か)ならんや。近時の文明、世界の喧嘩、誠に異常なり。或(あるい)は青螺の禍(わざわい)なきを期すべからず。」
現在の中国は、国際法秩序を無視して、力による海洋の現状変更に強硬な態度を崩さない。ハーグの常設仲裁裁判所は中国の強硬な態度に抗議したのだが、中国は国連常任理事国にあるまじきまことに野卑な言動をもってこれに応じた。中国が信奉するものは力のみであり、力によって新勢力圏を創出しようというのが、その真意である。北朝鮮が核実験を次々と敢行し、かくして積み上げられた技術的成熟により核兵器の小型化・弾頭化の可能性が高まり、韓国、日本はもとより、米国を射程に入れた核搭載弾道ミサイルを掌中にするのは、時間の問題だと専門家はみなす。
明治11年(1878)の『通俗国権論』において福澤は、「大砲弾薬は以(もつ)て有(あ)る道理を主張する備そなえに非(あら)ずして無き道理を造るの器械なり」という。
「無き道理を造」ろうとしている中国と北朝鮮に、国際法を遵守せよといっても、所詮は“蛙の面(つら)に水”である。「苟(いやしく)も独立の一国として、徹頭徹尾、外国と兵を交(まじ)ゆべからざるものとせば、猶(なお)一個人が畳の上の病死を覚悟したるが如く、即日より独立の名(めい)は下(く)だすべからざるなり」という。
外交が重要であるのはいうまでもないが、弓を「引(ひ)きて放たず満を持するの勢を張る」国民の気力と兵力を後ろ盾にもたない政府が、交渉を通じて外交を決することなどできはしない、と福澤はいう。極東アジアの地政学的リスクが、開国・維新期のそれに酷似する極度の緊迫状況にあることに思いをいたし、往時の最高の知識人が、何をもって国を守ろうと語ったのか、真剣な眼差しでこのことを振り返る必要がある。
後藤新平は、内務省衛生局長に就任以来、初代台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁、内務大臣、外務大臣、東京市長などいくつもの要職を務めてきた。それぞれにあって、変幻自在な政策の建議・立案・施行を指揮した稀有の官僚政治家である。多彩な政治的経歴を後藤ほどダイナミックに展開した人物は、日本の近代史の中でもそうはいない。後藤の縦横無尽の人生には一個の信条が貫いていた。揺らぐことのない信条があればこその自在な人生であった。
後藤の信条は衛生局長の時代、明治22年(1889)、32 歳の時に著した『国家衛生原理』(国会図書館デジタルコレクション)の中に顕現される。この著作の執筆を通じてみずからの思考が言語化されて思想となり信条となり、これが後藤の人生を方向づけた。後藤は政治家にしては多作の人だが、この著作ほど自身の人間観、国家観、世界観を力動的に説いたものは他にない。
著作のベースとなったのはソーシャル・ダーウィニズムと称され、一世を風靡した社会進化論である。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』によって説き明かされた生存競争、適者生存を基礎概念とする生物学的進化論が、生物学の域を超えて社会思想にまで深甚な影響を与えたのである。
生命体としての個体が次世代に継承されていくためには、みずからを取り巻く環境にうまく適応しようと個体相互の間で競争が生まれ、この生存競争の過程で環境に適用できた個体が生き延び、適応できなかった個体は自然淘汰され、かくして生命体は進化をつづけるとダーウィンは説いた。この生物学的進化論を社会進化論として提起したのがハーバート・スペンサーである。適者生存というのはスペンサーの造語である。
社会が進歩するという思想はスペンサー以前にあっては希薄であった。しかし、当時の欧米諸国を巻き込んだ技術革新と産業革命の波は社会に大きな変動をもたらし、この社会変動には何か説明さるべき固有の方向性があるのではないかと考えられてスペンサーにいたった。後藤を深く捉えたのもスペンサー流の社会進化論であった。後藤はこういう。“生存競争の道は瞬時たりとも途絶えることはなく、適者生存の道理から離れることもできない。それゆえ、いやしくも生を授けられた者は競争の攻撃に抵抗し、これを克服し、みずからを養い、生殖をつづけなければ生をまっとうすることはできない。人間だけはそうではない、というわけにはいかない。人間も生物の一つだからである。
「人類も亦(また)実に生物の一(ひと)つなり」。こう見定めたことが後藤の出発点であり、到達点でもあった。この文章につづいて後藤は、人間が生きていくことの目的についてこう述べる。“生体を傷つけるものに抵抗し、これを克服し、公正を保ちながら給養と生殖を営み、心と体を健全に発達させるのに十分な生活状態、すなわち「生理的円満」を確保することこそが人間の生の目的に他ならない。”
人間も生物の一つであるがゆえに、さまざまな外装をすべて取り払って最終的になお残る人間生存の究極的な目的は、生理的円満の確保にある。そして人間がこの生理的円満を求めるのは、人間の中に本来的に埋め込まれている「生理的動機」のゆえであり、これは人間に「固有セル一種ノ天性」だともいう。生理的動機にもとづいて生理的円満を求め、これを手にすることが人生の最終的な目的である。正邪とか善悪とかいう倫理は、この最終的目的を獲得するための「仮称」に過ぎない。後藤はこういう。“社会のことがらについて正邪だとか正不正だというのは、実は健全なる生活を営むのにそれが適正であるのか否か、つまりは生理的円満に資するのか否かだということに他ならない。”
価値の徹底的な相対化である。
後藤の唱える「衛生」の概念は通例のものよりは広い。人間の生存を保障する社会的機能、法や制度や組織、医療、上下水道を含むインフラ全体を指す。人間の生理的円満を満たすための法や制度、組織のことごとくが衛生に関わり、国家とは実は衛生を保障するための「衛生団体」だというのである。どうしてそうなるのか。人間の生理的円満は個々の人間の力では到底確保できない。個々の人間の力を超えた「公共ノ力」が欠かせない。各々が生理的円満を放縦に追求してもこれを手にすることはできない。個々の人間の生理的円満を満たすには公共的秩序が不可欠である。公共的秩序の形成者がつまりは国家なのだと後藤はいう。人間に内在する生理的円満への欲求が国家の存在を必然的に求める、そういう思考の回路が後藤のものであった。後藤の国家起源説である。
個々人の私的利益の追求が自己運動を重ねていって最適解にいたるといった予定調和的な世界観とはきわだって対照的な世界観が後藤のものであった。この世界観を現実のものにしようという試図が後藤の台湾開発であった。
後藤は台湾住民が生理的円満を得ようとどのような慣行の中で生きてきたのか、まずはこのことを徹底調査することから始めねばならないと考えた。児玉から総督就任に際しての施政方針演説のための草稿を認したためよと命じられた際、後藤があの児玉に対して、今は施政方針を表明する時期ではありません、と述べたという。総督がまずやるべきことは、総督がその統治を委任された台湾の住民生活のありよう、台湾社会のグラスルーツに古くから伝わる慣行、つまりは「旧慣」を調査することであり、そのうえで「生物学の原理」にもとづく統治を開始しようではないかと諄々説いたのである。
個々の生物はそれぞれ固有の生態的条件の中で生きている。一国の生物を他国に移植してもうまくはいかない。個人や集団の中に古くから伝わる固有の習慣、制度を無視して権力を一方的に行使してはならない。そうではなくて、権力が行使される「場」の習慣、制度を十分に尊重し、これとできるだけ齟齬(そご)をきたさないような政策が必要だと考えたところに、後藤の思想の練磨(れんま)があった。後藤の広く知られている語りに、“鯛(たい)の目と比目魚(ひらめ)の目”がある。そこでは「社会の習慣とか制度というものは、みな相当の理由があって長い間の必要から生まれてきているものだ。その理由も弁(わきま)えずに未開国に文明国の文化と制度を実施しようとするのは文明の逆政(ぎゃくせい)というものだ」という。
後藤は第4代総督の児玉源太郎という権威において比類なき軍政家に仕え、その厚い信頼を得た。しかも帝国憲法や帝国議会の制約からも離れてフロンティア台湾の白いキャンパスのうえに年来の思想「生物学の原理」にもとづくアヘン漸禁策、土匪招降策、旧慣調査、土地制度改革、衛生事業、インフラ整備事業などを次々と展開していった。台湾近代化の基盤形成は後藤の思想と政策によって幕が切って落とされたのである。言及する暇(いとま)がなかったが、諸事業のための人材抜擢、抜擢された人間への全幅の信頼、信頼に応える技術者、官僚の後藤への献身が台湾統治成功の物語を彩っている。
