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渡辺利夫 著
『さまよえる魂 渡辺利夫精選著作集第7巻』
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まえがき
本巻には『神経症の時代─わが内なる森田正馬』(文春学藝ライブラリー、2016年)ならびに『放哉と山頭火』(ちくま文庫、2015年)を再録した。前者は、思いもよらなかったことだが、10刷、10万を超える販売部数となった。この著作で私は開高健賞の正賞を授けられた。販売部数の伸びはこのことに関係があるのかもしれない。開高健賞創設5年目にして私が初の受賞者だという。この著作のポイントがどこにあったのかを記して「まえがき」としたい。
広く知られているフロイトの精神分析学の基礎は、おそらく「無意識の意識化」なのであろう。人間の心の中には、当人も気がついていない「無意識」の領域が存在し、これが神経症発症の素地となるとフロイトはみなした。フロイトによれば、無意識は症者の過去の心的外傷経験(トラウマ)に関連する。心的外傷は意識されたくはない過去の不快な衝動の記憶であるがゆえに、無意識の領域へと抑圧されたものだという。症者がもっている人間生活上の欲望、特に性衝動とこれを意識すまいとする抑圧との葛藤が神経症発症の原因だとフロイトは考えた。すなわち、フロイトにおいては神経症が形成されるためには、心的外傷の衝動経験が抑圧されてつくられた無意識領域が存在しなければならず、その無意識が意識化されれば症状は消失するというのである。
無意識を意識化するには、症者の心の抑圧機構を解除し、症状形成の原因である心理的葛藤から症者を解放する必要がある。療法的にいえば、症者の記憶を症者と医師との精神分析的な対話によって探り、抑圧によって無意識化されていた領域にたどり着き、症者の抑圧が成立した因果関係に医師が解釈を与える。「無意識の意識化」を図って症者の心理的葛藤を消失に導くのである。
フロイトは人間精神の最も奥深いところにある無意識的領域を白日のもとにさらし、本能的で衝動的な精神作用の拘束から人間を解放し、人間を理性と主体性をもつ存在たらしめようと考えたのであろう。確かにこれは一つの革命的な考えである。しかし、その逆に、「意識の無意識化」という経路もあるのではないかと考えた分析者もいる。日本人の森田正馬(しょうま)である。
森田正馬は、大正年期、日本における精神医学の草創期に「森田療法」として知られる独自の療法を編み出し、神経症者の救済に顕著な業績をあげた臨床医である。正馬は神経症をこう捉える。すなわち、神経症とは特定の病覚に主観的にとらわれて膠着した心の状態である。そのとらわれから放たれて精神が流露していくとともに神経症は消失する。神経症の治癒とは、症状に対する「とらわれ」からの解放であって、症状それ自体が消滅することはないという。
例えば心悸亢進性の神経症の症者には、これが治癒した後でも心臓は鼓動を止めることはないから、死の恐怖それ自体が人間の心の底から去ってしまうことはない。不安は恒常的なものだといわざるを得ない。心悸亢進を何度か経験し、これを恐怖した人から症状を拭い去ることはできない。
症状自体は存在していても、それにのみとらわれるのではなく、「生の欲望」に則り人間としてなすべきをなすという態度が形成されること、これが神経症の治癒であると正馬は繰り返す。逆説的にいえば、人間生活をまっとうする過程で起こるべき時期と境遇に応じて起こる感情のすべてにとらわれて、一点への執着から離脱することが肝心だというのである。
神経症とは、過去の意識性が特定の一点のみに極限され、その一点以外への意識性が希薄化した心の状態である。したがって、人間感情のすべてに意識が万遍なくゆきわたり、特定の一点への意識集中が相対的にその「水位」を下げていくことが、すなわち神経症の治癒なのである。症状が消えるのではない。症状は探し出せばまごうことなく存在する。しかし、それへの意識がなくなること、これが治癒である。正馬にとっての神経症の治癒とは、帰するところ「意識の無意識化」なのである。
意識を無意識化させる方法が、森田にあっては「仕事」である。仕事とは、字義通り「事に仕(つか)える」ことであり、人間が自然に働きかけ、自然と合一することができる唯一のものである。活動こそが自然であり、無為は自然に反する。人間の器官は、これを存分に機能させることによって強化され、機能を用いなければ劣化する。活動の中心が仕事である。
療法的にいえば予期恐怖にとらわれて行動を忌み嫌う神経症者に、ともかく一つでも仕事を成し遂げさせ、そうして抑鬱的な気分の中にあっても何事かをなし得たという体験的な自信を与え、心身機能を発揚できたことの爽快を感じさせる。この反復により、己の精神の内界をみつめて煩悶の人生を過ごしてきた症者の「即我的態度」を、仕事という具体的な対象の中に没入することによって得られる「即物的態度」へと、つまり内向から外向へと変化させる。症者が仕事に我を忘れるようになった時、症状は嘘のように消滅していることを森田は何度も観察し、仕事を通じてなされる心身機能の発揚が神経症の克服にとっていかに大きな意味をもつかを強く悟ったのである。「意識の無意識化」である。
『放哉と山頭火』については、私がこの著作を書くことになったきっかけについて記しておこう。
法隆寺勧学院に学び、満鉄調査部で働き、戦後は独学でアジア研究の道を開いた碩学が、原覺天である。私は大学院の時代から覺天翁を師と仰ぎ、玉川学園近くの翁の自宅の書斎に出入りしていた。三〇に手の届く頃のこと、翁の書斎の本棚にちょこんと挿されている『草木塔』と題する小ぶりの句集に目を留めた。作者は種田山頭火とある。山頭火という何やら激しさを漂わせる名前に惹かれてページを繰った。聞けば覺天先生は山頭火の長いファンだという。その頃の私は鬱的な気分に悩まされていた。そのこともあってか、内面の苦悩を絞り出すかのような山頭火のいくつかの句に引き込まれて以来、山頭火は私の心の友となって半世紀が経つ。
山頭火は『層雲』に集うた自由律の俳人の一人である。『層雲』は、子規に始まる近代俳句に反旗を翻した河東碧梧桐を戴き、明治44年4月に創刊された句誌である。碧梧桐は季題と定型が人間の情緒を膠着させ、人間の自然への自由な接近を妨げるとみなしてラディカルな新傾向俳句運動を展開した。これに応じたのが碧門の俊秀・荻原井泉水である。井泉水は自由律句の中に作者の徹底した内面性と私(わたくし)性を求めた。
出口を求めて這いずりまわる得体の知れない苦悩に身を焼かれていた男が、山頭火であった。苦悩の内面を季題や定型にこだわらず自由に表出し、しかもこれが俳句の求める規範だというのであれば、自由律句こそが自分に適した自己表現の方法に違いないと山頭火は考えた。そして、井泉水を師としてこの道にのめり込んでいった。
山頭火は、父の放蕩、母の自裁、弟の縊死、兄弟姉妹の早世、家族の瓦解、己を取り巻くことごとくの崩落に打ちのめされ、その暗鬱から逃れようと漂泊を繰り返した。しかし、死の直前にいたるまで暗鬱から解放されることはなかった。鬱から次の鬱に転じる短い精神の晴れ間に、山頭火はみずからの寂寥、絶望、不安、焦燥、恐怖を吐息のように詠って、その堆積が彼の膨大な句集となった。波打つ内面を抱えて放浪をつづけた山頭火の自由律句が、その主唱者の碧梧桐、井泉水のそれよりもなお強くわれわれの心を揺るがすのは、山頭火の苦悩が主唱者の二人に比べのっぴきならないものであったからなのであろう。
私の目に映る山頭火は神経症者である。神経症が高い文学的才能と結びついて山頭火は山頭火たり得たのだと思う。山頭火がいかに高度の資質をもつ俳人であっても、それだけではわれわれの情念に共振をもたらすあの名句が作り出されたとは考えられない。
過去の悲運への執着、ふりほどこうとあがけばますます頑固にこびりついて離れない執着。炎天下、無限の緑の九州山地を放浪し、一つの緑の山を通り抜けるや、また別のもっと深い緑の山に分け入ってしまう。この緑はほどこうとしてほどけない自分の過去への執着だ。呻くように山頭火はつぶやく。
分け入つても分け入つても青い山
山頭火は歩く。ひたひたと歩く。流転する自然の彩りの中に苦悩を溶け込ませようとひたぶるに歩く。しかし、苦悩は溶けない。歩いている自分が自分のようには感じられない。魂の抜け出た自分の影ではないか。二つの自分が切り離されてしまい、二つの間に灰色に煙る時雨が舞っている。
うしろすがたのしぐれてゆくか
山頭火を煉獄の業から解放し、見据えて進む精神の方位をこの男に与えたものは死であった。
もりもりもりあがる雲へ歩む
山頭火のあまたの句の中で、最も力強くその律動を詠いあげたものがこの辞世の句である。死を眼前にしてついに山頭火が掌中にした救済と解放への讃歌が、この句だったのに違いない。山頭火の人生は人間の業のごとき煩悩、煩悩からの救済のありようを象徴的に示しているのであろう。昭和十五年松山にて没。享年五十八。
尾崎放哉という人物に関心をもったのは、私が『種田山頭火の死生─ほろほろほろびゆく』(文春新書、1998年)を上梓してから後のことである。評伝であるから、これをここで紹介するのはやめておくことにして、私の関心を放哉に向けてくれた句のいくつか、本書の中にも収録されている十数句を解説を付すことなく並べてみよう。
放哉は学歴エリートの道を転げ落ち、当時は不治の病であった結核を胸に抱えて朝鮮、満州を放浪し、京都、神戸、若狭、小豆島を転々、行き着いた寺々の番人として働きながら、引きずる死の影を自由律句に詠いあげた。大正十五年小豆島にて没。享年四十一。
氷れる硯に筆なげて布団にもぐる 朝鮮
何もかも死に尽したる野面にて我が足音 朝鮮
わが胸からとつた黄色い水がフラスコで鳴る 満州
ここに死にかけた病人が居り演習の銃声をきく 満州
つくづく淋しい我が影よ動かして見る 京都
落ち葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事 京都
一日物云はず蝶の影さす 神戸
昼寝起きれば疲れた物のかげばかり 神戸
そったあたまが夜更けた枕で覚めて居る 若狭
淋しいからだから爪がのび出す 若狭
障子あけて置く海も暮れ切る 小豆島
淋しい寝る本がない 小豆島
肉がやせてくる太い骨である 小豆島
久し振りの雨の雨だれの音 小豆島