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キャスリーン・レノン、レイチェル・アルソップ 著
本山央子 訳
『ジェンダー理論 差別と分断に抗う知のフレーム』
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序章
(前略)
ジェンダーを理論化する
ジェンダーを理論化するには、「男性(man)」「女性(woman)」という言葉や、それと関連する「男性/オス(male)」「女性/メス(female)」、「男性的(masculine)」「女性的(feminine)」といった言葉によって、何が意味されているかを探求する必要があります。また、「ジェンダーフルイド」や「ノンバイナリー」(第7章で詳述)といった基本的用語についても考察する必要があります。人びとは何によってこれらのカテゴリーにわりあてられるのでしょう。こうしたわりあての結果として何が生じるのでしょうか。ボーヴォワールが著名な『第二の性』(Beauvoir[1949]2010)において明らかにしたように、これらの問題は相互に影響を及ぼしあっています。つまり、これらの語が何を意味するかは、人びとが性別カテゴリーにわりあてられるありかたや、その個人的社会的な帰結と関わっているのです。「しかしまず、女性とは何だろうか」とボーヴォワールは問うています。そしてその答えは辞書をひいても見つけられないことを、ボーヴォワールとともに、わたしたちも認めることになります。この問いに答えるためには、多岐にわたる要素を見なくてはなりません――生物学的身体の多様性について、家族および広い社会的文脈における身体の理解について、性別化された位置性(ポジショナリティ)がもたらす経済的またより広い社会構造的な影響と、それが分業と権力差にもつ意味について、性別化された差異に付与された(移り変わる)文化的意味や神話、想像(イマジナリー)について、わたしたち自身も参加する差異を再生産する実践について、ジェンダー化されたカテゴリーと他の位置性の諸側面との交差について、そして生きられるジェンダーの経験――女性、または男性、あるいはノンバイナリーとしての自己感覚をあたえるジェンダー化された主体性を作り出す、これら外的要素の内部化について。
本書は、これらひとつひとつの要素について探求していきます。本書は、今日のジェンダー理論におけるいくつかのもっとも重要な論点について説明することを目的としていますが、ある見解を擁護しようとします。それは、「男」や「女」とは何であるかについて、たったひとつの真実など存在しないということです。このように主張することは、「男」や「女」といった語の意味することが恣意的であるとか主観的であるということと同じではありません。これらの語が意味することは、場や文化によって、また社会的、歴史的に特有のかたちをとるのです。「男」や「女」の意味は他の社会的アイデンティティのカテゴリーとともに相互的に構成されています。それらの意味はまた絶えず再交渉されてもいます。こうした立場をとるということは、ジェンダー本質主義に対して反対する立場をとるということです。性別化されたアイデンティティを決定するような、たったひとつの絶対的条件など存在しません。すべてではありませんが、ほとんどのジェンダー本質主義の主張は、性別化されたアイデンティティの形成を生物学にひもづけようとします(第1章で詳述)。言語構造にひもづけようとする立場もあります(第2章)。自己の主観的感覚にひもづけようとする人びともいます(第7章)。本書は本質主義を退けますが、生物学的な差異や、象徴構造の重要性、主観の重要性を無視するのでなく、むしろこれらのすべてを、より複雑な文脈に位置づけようとします。それが本書で展開しようとする物語です。
人びとがジェンダー化されるプロセスや、ジェンダー不平等の構造が維持されるような社会のメカニズムと意味に注意を払うということは、女性たち男性たちの多様な生に注意を払う必要があるということを意味します。さらに、男女のカテゴリーを超える人びとや、居心地の悪い思いをしながらこのカテゴリーに収まっている人びとの生に注意を払わなければなりません。そして、ジェンダーとセクシュアリティが、階級や人種、文化、身体の障害と相互に関連するありかたや、植民地主義の歴史においてもつ意味についても見ていくことが必要となります。こうしたことすべてが、フェミニスト的な敏感さを保ちながら行われなければなりません。そのようなフェミニスト的敏感さとは、個人的社会的な差異の分節化における権力と特権のはたらきに注意を払うとともに、よりよい変化に向けてその知識を生かすようなありかたを意味します。
(中略)
ジェンダー理論への攻撃
ジェンダー理論は、哲学、社会学、精神分析、経済学、美術、文学その他の理論的洞察にもとづく複雑なものです。本書もまた例外ではありません。わたしたちはその複雑さを描き出し、どの点が論争となっているのかを説明しながら、できるだけ明確に理論を述べようと試みます。本書で探求していくジェンダー理論は複数の理論的資源から成り、本書はそれらの原典に敬意を払い紹介しようとします。これら理論の重要性は、差異と不平等に立ち向かう集合的な試みを通して明らかにされてきました。ジェンダー理論はしばしば批判され、活動家たちの闘争――ジェンダー平等と多様性を地球規模で促進しようとする闘い、またすべての、でなければほとんどの社会に存在する女性やジェンダー・ノンコーフォーミングな人びとに対する害、とりわけ経済的収奪や性暴力、権力へのアクセスの欠如といった害を根絶しようとする闘争――にどう寄与するのか示すよう求められています。これらの問題に立ち向かおうとするならば、ジェンダーの差異がいかに作り出され維持されるのかを理解しなければならないというのが、理論家たちがこれまで訴え、本書の著者たちも同様に訴えたいことです。[ブラック・フェミニズムの理論家である]ベル・フックスは、「わたしは「理論化する」こと、何が起きているのかを理解するということに聖域を見出した」と述べています。フックスは、一部のフェミニストたちに見られる反知性主義に対し、実践のためには批判的反省が不可欠に重要であると主張しているのです。しかしフックスはまた、「理論が本質的に治癒的、解放的、あるいは革命的であるわけではない。理論がそうした機能を果たすのは、わたしたちがそうした機能を果たさせようとし、そのために理論化を行う努力をするときだけである」とも述べています(hooks1991)。
フェミニズム内部におけるひとつの対立点でもある理論と実践の関係は、ジェンダー平等に反対する勢力によって、世界中で利用されてきました。知的探求に対する広範な攻撃の一環として、学術的探求の一領域であるジェンダー理論は、宗教指導者やオルトライト政党によって悪魔化されてきました。かれらは、ジェンダー理論が児童や若者になんらかのかたちで教育されることは社会秩序を崩壊させかねない危険な行為だとみなしています。哲学者・ジェンダー理論家であるバトラーが二〇一七年一一月、自身も企画に関わったブラジル、サンパウロでの会議に出席していたときに行われた抗議行動では、彼女の魔女化された人形が焼かれ、家族を破壊し、小児性愛を促進しているとさえ主張する告発がなされました。この抗議行動はおそらく極右キリスト教グループによって組織されたもので、それ以降、極右派のボルソナーロ大統領は、「ジェンダー・イデオロギー」を根絶するためとする施策を導入してきました。バトラーは後にこのように述べています。
彼らが主張していたのは、わたしが「ジェンダーのイデオロギー」の創設者だということでした。反対派が「悪魔的」だというこのイデオロギーは、家族に対する脅威と考えられていました。抗議行動を組織した者たちが、わたしの一九八九年の著書『ジェンダー・トラブル』を少しでも知っていたという証拠はないようです。しかし彼らはわたしの著書を、人はなんであれ望むジェンダーになることができ、自然の定めや両性の間の自然な差異はないという考えを促進するものと解し、わたしのものであるとされるその理論によって、聖書と科学によって確立された両性の差異は破壊されるか、すでに破壊されてしまったと主張していました。……
人形の火あぶり騒ぎや、わたしに対するストーキングとハラスメントに関わっていたグループは、どうやら、LGBTQの人びとを受け入れず、家族は異性愛のままで(したがって同性婚を認めず)、中絶が非合法とされ、生殖の自由が存在しないような場所として「ブラジル」を守りたいと考えていたように思われます。男の子は男の子、女の子は女の子なのであり、そうした複雑な問題の余地などないことにしたいのです。彼らの行動は反フェミニスト、反トランス、同性愛嫌悪、ナショナリスト的で、ソーシャルメディアを用いて行動を起こし広めていました。こうしたやりかたは、世界の他の場所でも台頭しつつあるネオ・ファシズムと似ています(Jasnik 2017 における引用)。
バトラーが示唆しているように、こうした攻撃は単発的なものではありません。ジェンダー理論は他の多くの国においても攻撃にさらされています。いわゆるジェンダー・イデオロギーを悪魔化する反フェミニズム運動は、ヨーロッパからアメリカ大陸、オーストラリアまで世界のさまざまな地域で繰り広げられてきました(Corrêa 2017; Corrêa et al. 2018)。EU加盟国のハンガリーでは大学におけるジェンダー研究が実質的に禁止されました(Walker 2018)。また別のEU加盟国であるポーランドでは、
これまで専門家にしか知られていなかった、意味のはっきりしない外来の概念である「ジェンダー」は、突然、タブロイド紙やフェイスブック、ブログなどあらゆるところで見られるようになった。この語は……終わりのない白熱した議論の的となり……ポーランドのローマカトリック教会の教区では、説教の中で絶えまなく家族への脅威として悪魔化された。ジェンダーは「死の文明」の核心、倒錯と劣化の源として語られている。親たちは子どもたちが危険にさらされていると警告されている(Graff 2014)。
カトリック教会がこうした攻撃に果たしている役割は重要です。国連が「ジェンダー」という用語を文書で使用し始めた一九九〇年代から、この語を攻撃するキリスト教グループはありました。しかし過去数十年のうちに攻撃は激化しています。フランシスコ[前]教皇は、「ジェンダー理論の教化」が世界中で広まった結果、自然で神の定めた両性の差異がおろそかにされ、性的行為が客観的な道徳規範によって規制されなくなっていると苦言を述べていました(Glatz 2015)。
これらの攻撃が明らかに示しているのは、ジェンダー理論は、ジェンダー本質主義を否定し、むしろ両性の区別やそれぞれにわりあてられた異なる性質や社会的地位が社会的に移り変わることを示唆するものとみなされているからこそ、攻撃の対象とされているということです。反対派によれば、ジェンダー理論は、異性愛の自然さや、異性愛家族の優位性、ジェンダー・アイデンティティの固定性を否定することを含んでいるとされます。実際にはジェンダー理論は幅広い研究領域であり、このようなジェンダー本質主義のいくつかのバージョンを承認するような理論家も多く存在しています。しかし本書では、異なる理論の系譜もとりあげるものの、ポピュリズム運動が広めようとしているようなジェンダー本質主義に対しては、はっきりと反対の立場をとります。これらの運動からも明らかなように、理論的論争と見えるものは、重要な政治的意味をもっているのです。
(後略)
訳者解説
本山央子
本書は、英国の哲学・ジェンダー研究者キャスリーン・レノン(Kathleen Lennon)とジェンダー研究者レイチェル・アルソップ(Rachel Alsop)によるGender Theory in Troubled Times (2020, Polity) の全訳である。ジェンダーとは何かについて解説する教科書はすでに世にあふれているにもかかわらず、あらためてジェンダーを理論化しようとする本書を日本で翻訳出版する意義はどこにあるだろうか。
目次からもわかるように、本書の重要な特徴は、生物学、精神分析、史的唯物論、現象学、インターセクショナリティ、パフォーマティヴィティ論、トランス理論など、多様な理論的資源を渉猟している点にある。それぞれの領域における優れた理論書は数多くあるが、これだけ広い領域を見渡しながら、ジェンダーがいかに異なったやりかたで理論化されてきたのかを丹念に検討する類書はほとんどないと言ってよいだろう。
広い理論的資源を繋ぎあわせながら本書が追求するのは、わたしたちはどのようにして自分自身や他者を、男や女、ノンバイナリーといった性別カテゴリーに位置づけながら理解するようになるのか、こうした同一化と社会的位置性はわたしたちの生をどのように異なってかたちづくるのか、そして、他者の承認を必要とするあやうさを抱えた存在であるひとりひとりにとって、生の可能性をひらき、より「生きられうる」ものにするために何が求められているのかという、きわめて根源的な問いである。
本質主義的なジェンダーの理解に挑戦するという本書の明確な立場性は、この問いの探求と密接に関わっている。序章でも述べられているように、異性愛家族の価値を掲げてジェンダー研究やジェンダー概念そのものを攻撃する右派ポピュリズムの世界的な台頭は、女性や性的マイノリティの権利に重大な脅威を提示しているが、問題はこうした反フェミニスト的な種類の本質主義だけではない。「ジェンダー」という語が広く受け入れられ、ありふれたものとなってきた一方で、ひとがジェンダー化されるあり方には、それが生得的身体であれ社会化のプロセスであれ、なんらかの普遍的基盤があるとする見方はなお根強く、力を増してさえいる。そのなかにはフェミニズムと親和的な議論も少なくないが、こうした見方は、性別カテゴリーと他の社会的差異が関わって生じる特権や周縁化を軽視し、性別の境界を取り締まる結果をもたらしてしまうのだ。
さまざまな種類の本質主義的見方に対して本書が一貫して主張するのは、ひとがジェンダー化されるありかたに単一の普遍的真実などないということ、それは歴史的に特有のローカルな文脈の中で、多様な要素との関係において交渉されるものであって、つねに再想像に向けてひらかれているということである。ジェンダー概念を受容するかどうかだけでなく、ジェンダーをどのように理論化するのかという問題は、階層的な世界の中に異なって位置づけられる人びとがジェンダーやその他の差異のカテゴリーと日々交渉しながら自らの生の可能性を拡大しようとするありかたに注意を払い、ともに周縁化と暴力に抵抗していくための連合をいかに強めていくのかという、重要な政治的目標と関わっているのだ。
こうしてわたしたちは各章を通して、著者たちとともに、身体、家族関係、言語構造、資本主義システム、植民地支配の歴史、セクシュアリティ、障害、帰属するコミュニティなど、ひとがジェンダー化された存在となっていくうえで重要な役割を果たす諸要素を検討していくことになる。これらの要素のうち、あるものを重視して他を考慮に入れないジェンダー理論家も少なくない。たとえば身体の物質性や経済システムの物質的構造を重視する議論と、主体を生産する言説の役割を重視する理論とは、しばしば相容れないかのように見られてきた。しかし本書はこれらを、一方をとれば他方を棄却しなければならない対立的なものとは見ていない。物質的世界と、言語による世界の把握とは、相互に絡まりあいながら、わたしたちの主体性と経験をかたちづくっているのである。そのうえでイマジナリーという想像の領域が果たす重要な役割を強調していることも、本書のユニークな特徴のひとつだろう。また、異なる種類のジェンダー理論について、性別による差異化だけでなく、人種や障害といった他の社会的差異化との関係をどれだけよく説明しうるかという観点から検討に付している点も重要である。他方で、本書の記述が英米の文脈に偏っているのも事実であり、日本の文脈において本書の議論を再検討していくためにも、勁草書房HP(keisoshobo.co.jp)本書情報ページにある巻末付録の「さらに理解を深めるための問い」を活用していただければと思う。本書が日本においてあらたな可能性に満ちた議論のきっかけとなることを期待したい。
(本文つづく。傍点と注は割愛しました)






