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松井裕美 著
『掌の美術論 触覚と想像力』
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エピローグ 美術史家の「遊び」の区切り/句切れ
本書では作品だけでなく、多くの美術史家や批評家の文章に触れてきた。彼らはおのれの身体感覚を拡張させ、あたかも事物に触れるかのようにして、目の前の作品を鑑賞した。その試みは、主観により対象の理解を歪曲してしまうリスクを孕んでいたが、第2章で確認したように、美術史という学問分野の黎明期には、そのリスクを背負ってなお、自らの手で触れてみたいという誘惑に抗い難く引き寄せられ、この遊びを作品分析のうちに折り込もうとした人々がいた。第3章以降で取り上げたような後世の作り手や論じ手による作品鑑賞の手つきのうちにも、その遊びのかけらが潜んでいる。そうした遊びに導かれるようにして、作品をおのれの手で感じようとするだけで、それまでとはまったく違う理解が得られることがある。それは触覚的な想像力を働かせながら、他者と手を取りあい、過去を理解しようとする試みに他ならない。
過去の言葉やイメージが時代を超えて私たちに向けるこの誘いに対し、それらが潜在させる力を台無しにしないで上手く応じるのに、どのような方法がもっとも適しているのかは、結局、作品や論じ手=遊び手によって異なっているというほかない。しかしその方法において共通して言えることとしては、作品で遊ぶというよりも、作品と遊ぶような姿勢が必要とされる点である。掌の中のイメージを傷つけないよう、細心の注意を払いつつ対話し、少しずつ大胆になっていくゲームの規則のたたき台を互いに出し合いながら、この遊びは展開されることになるだろう。ユートピアというどこにも存在しない場でこそ解放された過去の言葉とイメージは、こうして、こだまのように響き合い、うまくいけば、別の人の掌へといつか届くこともあるだろう。
今でも私が、仕事を超えて芸術作品や特定の批評的な仕事に魅了されることがあるとすれば、それは混じり気のない美しさゆえでも、実利性を持たない純粋性ゆえでもなく、遊びへと誘うこの呼びかけの力強さによるところが大きい。
子供の頃は作品が持つ遊びへの呼びかけに、直観的に応じた。作品として立ち現れたものと遊ぶ中で、混じり気のない純粋な美に出会えば、うっとりとした。びっくりするほど不純で不快なものに出くわせば、思わず拒否した。一本の糸を引き抜いたと思ったら、美しいものと不快なものの両者が絡まり合った複数の糸のもつれが出てきて、戸惑うこともあった。そのうちのいくつかの糸は、自分固有の精神状態や身体感覚と、響き合うかもしれない。この時遊びは、音楽を奏でる行為に変わる。それは新しい調べなのに、どこか懐かしさを覚えるかもしれない。それは古い調べなのに、まったく聞いたことのないものに感じられるかもしれない。何も知らない子供でも、こうした直観的な美術鑑賞は可能だ。
ただし大人になっても「芸術」と呼びたくなるような力を持つ作品を私が必要とする理由は、子供の時分に戻って、ただ直観だけを頼りに音楽を奏でるのに没頭したいからというだけではない。直観がすぐには働かないような場合にも、過去のイメージや言葉との関係の網目の上に置いてみることで、少しずつ知覚や認識が再編成され、自分の固有の経験や記憶が鋳直されていく、そのような時があるからだ。作品との対話が実現する度に新たに自分の周囲に立ち現れるこの遊戯場は、現実の感じ方や考え方を少しずつではあれ変えてくれる。語られてこなかった過去の人々の記憶や感覚を、現在の自分に引き寄せてくれることもある。
自分の想像や直観を超えた現実や、自分の経験の外にある過去の記憶や感覚に近づく手段を与えてくれるこの遊戯場は、おのれの想像力や直観の限界と衰えに直面し、それでも世界と別の仕方で出会い直すために時には自分が経験してきた範囲内の現実から身を離さなければならないと切実に感じる大人にこそ、必要とされるものなのだろう。
遊戯場でのそうした探究は、本来きわめて私的なものである。なぜならそれは、特殊な模造(シュミラークル)の場であり、現実の生のあり方──これまでどのように生きてきたのか、これからどのように生きていくのか──と、深く結びついているからである。本書の中でも、とりわけ第6章は筆者にとって、そうした私的な生と密接に結びつく部分であった。
美術史家としての仕事においては、原則として、こうした個人的な側面を公の言葉で語ることは、そもそも求められておらず、むしろ暗黙裡に禁じられてさえいる。作品を論じる際には、作品世界を自分の世界と結びつけることなく、あくまでも対象の側で完結する、いわば閉じたものとして語る。そのため論文を執筆する際には、「私」という主語の使用を極力避けるよう努める。フランス語で学位論文を書く際には、やむを得ず一人称を用いる場合でも、複数形の「私たち」を用いるよう指導された。これは、主観的な偏りや不必要な自己語りを避けるためである。
しかし、勁草書房のインターネット・ブログ「けいそうビブリオフィル」での連載執筆の依頼をいただいた時、ふと、これまでとはまったく違うことがしたくなった。普段なら親しい人と時おり共有するだけだった、基本的には孤独に引きこもるための場である遊戯場の囲いを少し取り払い、そこを偶然訪れた人にそっと手を差し出し、遊びを提案するような場を新たに作れないだろうか──そのような素朴な思いが芽生えたのである。ネット上のイメージや言葉が、単なる知識と情報に還元されていくなかで、情報ではなく体験として作用するようなイメージと言葉の連なりをネット空間で生み出し、生活の合間に偶然に訪れた人が、ふと自分でも遊びたくなるような場を作り出せたら、どれほど良いだろう、と。
したがって本書の根底には、美術史家の「遊び」という、きわめて特殊な仕事の場がある。遊び場というコンセプトにこだわったのは、それが現実の場ではなくどこにもない場所(ユートピア)あるいは現実のシミュレーションの場であり、場合によっては現実からずれてしまうリスクに怯まず遊ぶこともまた許容される、エッセイの場であったからだ。そうしたずれの生成が許される特殊な条件下でこそ、形の模造や身振りのパントマイムが過去のイメージの経験において持つ意味を考察することができるのではないかと考えた。
このような差異の生成は、一方では、かつて生きられた経験とまったく同じものをこの身で感じることはできないというメランコリーを引き起こす。他方でそれは、単なる誤差や逸脱ではなく、創造の契機であり、感性の働きが歴史や記憶と交差する瞬間でもある。身体を通して、私たちは世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性の一つが宿っている。触覚と想像力が交錯する遊戯場としての美術史は、過去のイメージをただ記述するのではなく、それらに触れ、揺さぶり、再配置することで、新たな意味の地平を切り開いていく。
本書が関わったこの「遊び」には、第4章で紹介したディディ= ユベルマンとトラヴェルソの論争に認められるように、歴史家が過去を語る際の姿勢に対する反省的な視点も含まれている。歴史を語るという営みには、つねに再構成の契機が伴う。とりわけ身体的経験や感覚的記憶に依拠した歴史記述は、過去の出来事に現在の感性で「触れる」ことによって、ある種の親密さとともに、危うい近接性を生み出す。触覚的想像力は、過去の身体に対する共感的理解を促進する一方で、歴史的距離を曖昧にし、もとの文脈を歪める危険性を孕んでいる。それは、過去の身体に対する親密な理解を促進するだけでなく、過去を現在の欲望や感性に従属させる抑圧的な力にもなり得る。したがって、歴史記述における身体性の扱いは、単なる感覚的再現ではなく、倫理的・政治的な問いとして再考されなければならない。
とはいえ、歴史家になるために(第5章で紹介したジャコメッティの彫刻を思い起こしつつ)「もう遊ばない」と宣言する必要はない。第7章で紹介したクラウスの「遊び」のように、過去を再演しながら、そこに生じるずれを意識し、そのずれを歴史的理解の契機に結びつけることは可能である。この点で触覚的想像力は、歴史の中に現れる他者との関係性を問い直す、批判的契機としても位置づけられるべきである。そのような問いを可能にする「遊び場」は、必ずしも意識的に作り出されるべきものではなく、真面目な仕事場のすぐ傍に気づけば生じていることもある。歴史を編む作業を続ける仕事場の隣で、仕事中の自分を演じ、仕事との差異を孕むその「遊び」の営みを通して、自らの手の動きについて考える──本書は私にとってそのような場であった。
「掌の美術論」と名づけたこの場は、連載の終了とともに一つの区切りを迎えたが、この特殊な遊び場は今後も私のいくつかの仕事の傍に寄り添い続けるだろう。この点では、本書の終わりは、仕事の区切りというよりも、むしろ遊戯的に続けられる語りの句切れ──言葉が終わるようでいて、その後も語りが継続することを予感させる、余韻としての息継ぎ──と呼ぶほうがふさわしいのかもしれない。そしてゆるりとしたこの息継ぎの合間に、やはりあてどない期待を込めて次のように問い続けずにはいられないのである。よく知られた過去のイメージや使い古された言葉は、今後、私たちの掌の中で、年端もゆかない幼い人がやがて成長したその掌で、あるいは未来を生きるまだ見ぬ誰かの掌で、どのように新しい遊びを開始し、新しい遊び場を築くのだろうか。
(傍点は割愛しました)





