《ジェンダー対話シリーズ》第11回
「ケアの倫理」は「ケアする私」を救うのか?(後編)
――『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』トークイベント

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2026/7/23By

 

「性役割の社会化」論としての「ケアの倫理」が行きつく先


 
平山 何を問題として、どのように変えていきたいかによっては意味のある議論だってことですね。
 それに関して、遠回りな説明になるかもしれませんが、ケアの倫理とジェンダーについて少し話しておきたいことがあります。最初の方の話に戻りますけど、発達理論としてのケアの倫理の議論は「性役割の社会化パラダイム」に含まれるわけですよね。ケアの倫理に則った思考や判断は、女性として育てられ、女性として社会化されることで身に着いていくと。ギリガンの『人間の声で』によると、男という性別を割り当てられた子も、もともとはそういう思考や判断をできるはずなんだけど、社会化の過程でそちらをできなくさせられる。女と男、どちらとして育てられるかによって、特定の声でしか語れなかったり、特定の声を失わせられたりするってことを問題にしていました。
 「性役割の社会化パラダイム」のように、女性と男性は何で行動パターンが違うのかを社会化のプロセスの違いで説明する理論は、しばしばシスネス(cisness)に陥ります。つまり、性別によるそういう違いを、外性器の違いに還元するストーリーです。何でかっていうと、観察されるさまざまなジェンダー差は、社会化の違いによるものであり、そういう社会化の違い、たとえば子ども期からの養育のされ方の違いは、その子どもがどちらの性別を割り当てられたかによるわけで、じゃあその性別の割り当ては何にもとづいて行われたかというと、外性器の見た目にもとづいて行われている。つまり、出生時に男性の外性器とされる身体的特徴をもっていた人は、社会化の過程で養育者らに男の子として扱われてきており、そういう扱われ方こそが男性特有のふるまいに繋がっている。要は、外性器の見た目をもとに、出生時に男性という性別を割り当てられた子どもは、多かれ少なかれ、男性的とされる思考や行動のパターンを身に着けることになる。
 おわかりの通り、ここではシスジェンダーの女性だけが女性ということになります。現在、女性として生活していたり、女性として生活しようとしていたりしたとしても、男性という性別を割り当てられ、男性のように育てられた過去がある限り、その人は男性に特有の何かを身に着けていて、その意味でどこかしら男性になっていることになるからです。言い換えるとこの論理では、女性になっているのは、出生時に女性という性別を割り当てられ、女性として育てられてきた人だけ、ということになる。
 「性役割の社会化パラダイム」には、こういう外性器還元主義的なシスネスのストーリーに重なってしまうものも多いし、実際、ギリガンの発達論はシスジェンダーの人の発達しか想定されていないように見える。なぜなら、「誰も傷つかないように」という道徳観を発達させるのは、出生時に女性という性別を割り当てられ、それゆえ女性として育てられ扱われてきた人々なのだし、男性という性別を割り当てられ、男性として育てられた場合にはそういう「もうひとつの声」は失われることになる、という論理だから。結局のところ、出生時にどんな性別を割り当てられたかで違いが生じる話になってるわけです。
 こういうギリガンの論の立て方からすれば、当然の帰結としか思えないことが昨年起こりました。昨年2025年に『フェミニズム、デフィーティッド(Feminism, Defeated)』という本が出ました。著者はケイト・フェラン(Kate Phelan)という哲学者なんですが、フェランによれば、フェミニズムがデフィートした、つまり、勝利をおさめられずにいるのは、トランス・インクルーシブになろうとしたからだと。トランス・インクルーシブなフェミニズムは、女性解放というフェミニズム本来の理念を裏切るものであり、フェミニズムの再起に必要なのは、出生時に割り当てられた性別を階級(class)として扱うフェミニズムであり、そしてまた、そうやって出生時に劣位の階級を割り当てられた者を女性と定義する、ある種のジェンダー‧クリティカルなフェミニズムなんだ、とフェランは主張しています。
 このフェランの本に、日本の書籍で言うところの帯文のような推薦文を書いているのがギリガンです。これにはショックを受ける方もいるかもしれませんが、私はこれを見たとき、「やっぱりね」としか思わなかった。だって先ほどもお話しした通り、ギリガンの発達論って、めっちゃシスネスな話じゃん、って前から思ってたから。
 同じ2025年に日本はギリガンに京都賞を与え、それとともにギリガンに改めて熱い眼差しを送る人たちもいるわけですが、英語圏でのこういう文脈を踏まえつつ、そうすることの政治的な意味をもう少し考えてみたほうがいいんじゃないかな、って思います。推薦文の形を取ってギリガンがそういう立場を表明していることを、知っていながら推しているにしても、知らないで推してしまっているのだとしても、どちらにしてもずいぶん危ういことをしているように思えます。
 だいぶ遠回りしてしまったけれど、ケアの倫理で男性の今のあり方を変えられるかもしれない、ということに関して言うと、たとえそれが変化を促す何かとして使えるとしても、ケアの倫理の議論のなかにシスジェンダー中心主義的な論理が組み込まれているのだとしたら、それによって生じる変化は性に関して公正な社会を目指す上で、本当に望ましい変化だと言えるのかな、っていうのが私の考えです。そういうこともあるから、私は「女性たちのケアの倫理は」みたいな言い方には「何だそれ」って思っちゃう。そこでいう「女性たち」って誰だよ、誰を念頭に置いて「女性たち」って言ってるんだよ、って。
 
山根 社会理論を構築するときに、「女性たちのケアの倫理」とか、「家庭の中の相互依存が自立を変える」みたいな、そういう大胆なモデルが重要だっていう風に考えるのか、むしろそれによって見えなくさせられているものは何かっていうのを考えていくのか。
 繰り返しますが、なぜケアが女性の道徳的責任になっているのか、その社会的関係、社会環境とか社会的条件っていうのを一生懸命明らかにしてきた。ケアする人が引き受けている道徳的責任とは「説明されるべきもの」なんですよ。なんで相互依存に見えるのか、なんでその人がそんなに責任を持っているのか、この人がいなければ生きていけないみたいな関係性になっちゃってるのかっていうのは、解かれるべき問題です。その関係性によって何か社会を変えていけるものではないんじゃないかっていうところですよね。
 

ケアで新自由主義を乗り越えられるのか・変えられるのか


 
平山 山根さんは『なぜ女性はケア労働をするのか』の中で、ケアの倫理の議論をレビューしていて、そこで言ってる「女性」とは誰のことなのかって指摘をされてましたよね。「ケアの倫理」は女性が育んできた倫理なんだ、っていう時の、その「女性」って誰なのかという。そこでは人種や階層による女性間の差異や多様性が無視されてて、特定の人種、特定の階層の女性だけが「女性」とされているのではないか、っていうお話です。さっきの話題の続きで、その点について語るのはどうでしょう。
 
山根 そうですね、たとえば奴隷がやってきた子育てや世話は「ケアの倫理」的なのでしょうか。「ケアの倫理」の論者は、ルディック(S.Ruddick)もそうですが、やっぱり西洋的家族モデルでの母子関係を前提にしたような話をしていて。近代社会のなかで忘却され、評価されてこなかった「ケア」が私的領域にあって……と。そんな単純な話でしょうか。
 ファリス(S.Farris)が「ケアの倫理」を批判している論文で「ケアとは資本主義の編成のなかに埋め込まれていて、かつ資本主義を再生産する労働」と言っています。つまり新自由主義に適合的な主体をつくる実践でもあるわけです。どうやって、そのケアをとおして新自由主義を変えていけるのでしょうか。
 もちろんこのような機能主義的な説明では論じきれない、主観的な経験として「ケア」に注目があつまってきたわけですが、主観的にも必ずしもポジティブな関係だけではなく、渋々やらされている、やらざるをえないことも多いわけです。教育や市場から有能さや健康やいろんなことを要求されて、ものすごく高度なことが「ケアする親」に期待されている。そういう社会的な条件の中で、なんかケアが「やばい、しんどい」ものになってるわけですよ。不必要だと思っていることも、制度上やらざるをえなくさせられていることもあるのです。こうしたケアする人が置かれている歴史的条件をきちんと踏まえて議論する必要があります。
 
平山 新自由主義を乗り越えられるのか、っていうタイトルじゃなかったかもしれないけど、山根さん、最近そういうことも含めた論考を日本経済新聞に書かれてましたよね。さっき出てきたサラ・ファリスは、社会的再生産フェミニズムと対比させながら、ケアの倫理が暗黙の前提としてきたものを批判的に検討したわけですが、ケアも今の資本主義、それは要するに、新自由主義的な資本主義になると思うんだけど、そういう資本主義に組み込まれているところもあるし、資本主義の維持に役立っているところもある、と。ファリスがそういうふうに言っているのは、ケアの倫理は新自由主義的な人間や社会のあり方を乗り越えていくものだ、って考える論者がいたからですよね。
 ファリスの主張とは少し違うかもしれないけど、私も実は、ケアの倫理には新自由主義を推し進める側面もあるんじゃないか、って思っています。さっき、ケアに満ちた社会っていうのは個々人が「誰も傷つかないように」って配慮や気遣いをうまくできなくても、安心して生きられるような制度を作っておくことでできるのでは、って話したけど、まさにその逆の社会、個々人の配慮や気遣い、個々人のケアの実践をもとに回ってく社会って、実は、新自由主義にもとづく社会にもなるんじゃないでしょうか。だってそういう社会って、個々人が行う支え合いに依存する社会であって、「自助と共助で何とかしましょう」っていうどこかの党の、それこそ新自由主義的な主張にずいぶん都合が良くないですか。
 最初に、ケアの倫理が広がり浸透することで可能になるとされているものは本当に可能になるのかっていう疑問を述べましたけど、新自由主義の乗り越えに関してもそうで、本当にそう言えるのか、むしろ新自由主義に親和的になる面はないのかっていう視点はまだ持っておきたいです。
 
山根 私は新自由主義批判の論文を書いてるんですが、最初は使いたくなかったんですね、新自由主義っていう言葉を。だけど、介護の話なんか見てると、営利企業が入ってきて時間的な効率性や生産性が追求された結果、サービスがどんどん削られ、残った短時間サービスで最低限おむつを交換してもらうのを(長時間あてられたままのおむつが気持ち悪いから)立って待ってる高齢者がいる、みたいな社会システムが作られて。そこで必死でケアしているのは現場のホームヘルパーさんで、みたいな。もちろん「新自由主義」と呼ばなくても「ケアの市場経済化」でもいいのですが。
 また社会全体の経済主義化という意味での新自由主義、つまり生産性とか人的資本の投資ということをやっていたら、ケアなんて一番非効率で、誰もやりたくない仕事になります。ちょっと脱線なんですけど、介護事業所の人とかが「いやいやもうね、今の若い世代は自分の親が困ってたって、週末はキャンプ行くとかいって、だから、自分たち(介護事業所)がやるんだよ」っていう、そういう話も聞きます。自分たちの生産性だとか余暇だとか、選択できる、ライフスタイルを追求できる自己みたいな新自由主義的なことと、時間がかかって答えのみえない介護は完全に対立するんですね。子どもは生産物で人的資本だから投資しますよ、でも介護は違う。もちろん子育てだって、仕事の制約であることは変わらず、卵子凍結してケア労働を先延ばしする、という議論がでてきます。こうした女性たちを指して新自由主義的フェミニズムとして批判する議論がありますが、問題は女性個人ではなく、そこまで働かないとキャリアを保障しない企業や市場の側にあります。
 だからといって、労働時間を短縮してキャリアを遅らせて、もしくは専業主婦になって、非効率なケアをひきうけていればそれが道徳的に崇高かと言ったらそうじゃないはずです。ケアを外注化したとしても、ケアワーカーに「私がいないと利用者が困る」「これだけやってこの賃金なのか」と思わせないケアの供給システムをつくればいいだけです。
 
 
--もっと「声をあげていい」と思える規範としくみを。もっとケアすることのハードルが下がる社会を。
「崇高な倫理観を身に着けた者だけが「綱渡り」に挑めるような社会はもううんざりです。わたしたちがほしいのは、そんな倫理観を身に着けられなくても、あるいはそこまでの倫理観を身に着けているといちいち評価してもらえなくても、大切な誰かの生を安心して支えていける社会のあり方です。だからこそ、支えるための資源に誰もがアクセスできるような、社会のしくみが必要なのです。その実現をまだあきらめないために、「陳腐」なテーマで書き上げたこの本を世に送り出します 」(『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』「エピローグ」より)

次回更新では、新たにご執筆いただいた対談後記を掲載します。ぜひどうぞ。[編集部]

 
【プロフィール】山根純佳(やまね・すみか) 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了、博士(社会学)。山形大学人文学部准教授、実践女子大学人間社会学部教授を経て、現在名古屋大学大学院環境学研究科教授。.ジェンダー研究,再生産・ケア労働論。著書に『なぜ女性はケア労働をするのか──性別分業の再生産を超えて』、『産む産まないは女の権利か──フェミニズムとリベラリズム』(ともに勁草書房)、『岩波講座 社会学』シリーズ(岩波書店)編集委員など。
 
【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 東京大学大学院人文社会系研究科修士課程、オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。東京都健康長寿医療センター研究所研究員、大阪公立大学准教授を経て、現在同志社大学社会学部教授。家族社会学、老年社会学、ジェンダー研究。著書に『介護する息子たち──男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房)、『男性学基本論文集』(共編訳、勁草書房)など。
 

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
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