あとがき、はしがき、はじめに、おわりに、解説などのページをご紹介します。気軽にページをめくる感覚で、ぜひ本の雰囲気を感じてください。目次などの概要は「書誌情報」からもご覧いただけます。
エリザベス・アンダーソン 著
齋藤純一・大庭 大・小林卓人 訳
『プライベート・ガバメント 会社はいかに私たちを支配するのか』
→〈「著者序文」(pdfファイルへのリンク)〉
→〈目次・書誌情報・オンライン書店へのリンクはこちら〉
*サンプル画像はクリックで拡大します。「著者序文」本文はサンプル画像の下に続いています。
著者序文
今日の雇用者が従業員をどう管理しているかを知るため、いくつかの事例を挙げてみよう。ウォルマートは、勤務中の従業員どうしの気軽なおしゃべりを「時間どろぼう」と呼んで禁じている。アップルは、小売店の労働者の私物を検査対象としており、そのため従業員は検査の列に並ぶことで、毎日最長三〇分もの時間を給与を受けることなく失っている。タイソンは、食肉加工場の労働者が仕事中にトイレに行くことを禁じている。なかには上司(ボス)に嘲笑されながら、やむなくその場で排尿せざるをえない者もいる。アメリカの従業員のおよそ半数は、雇用者による根拠のない薬物検査の対象となっている。何百万もの労働者は、特定の政治的主張や候補者を支持するよう雇用者から圧力を加えられている。
もしアメリカ合衆国の政府がこうした規制を課すなら、私たちは憲法上の権利が侵害されていると正当に抗議するだろう。しかし、アメリカの労働者は上司に対してはそのような権利をもっていない。こうした制約に異議を唱えることさえ解雇につながるため、ほとんどの人は沈黙を守っているのだ。
アメリカの公共的言説もまた、雇用者が労働者に課す規制についてはほぼ沈黙している。低賃金や不十分な福利厚生については、公正や分配的正義という言葉を用いて論じることができる。一五ドルの最低賃金を求める運動についても、立場の違いにかかわらずどう論じればよいかを知っている。しかし、上司(ボス)が労働者の生活を支配する仕方については説得力をもって論じる術(すべ)を知らない。
その代わりに、労働者は上司に支配されていないかのように語られる。規制のない市場は私たちを自由にしており、自由に対する唯一の脅威は国家から来ると聞かされる。市場ではすべての取引が自発的だと説かれる。労働者は雇用契約を自由に結んだり、それを解約したりする以上、その契約のもとでは完全に自由だと説かれる──つまり上司が労働者に対してもつ権威は、客が食料品店に対してもつ権威と変わらない、と。
労働運動の活動家は長年、これは間違っていると主張してきた。通常の市場では、売り手は買い手に商品を販売でき、取引が完了すれば双方は取引前と同じように互いから解放され、自由になる。労働市場はこれとは異なる。労働者が自らの労働力を雇用者に売る場合、労働者は自ら自身を雇用者に引き渡さざるをえず、以後、雇用者は労働者に命令を下す権利を掌握する。雇用契約は、売り手を契約前と同じように自由にしておくのではなく、雇用者の権威のもとにおくのである。しかし、労働運動が衰退して以来、この事実について、ひいては雇用者が労働者に対してもつべき権威ともつべきでない権威について、有効に論じる術が失われている。
この講義は次の二つの問いに答えることを目指している。第一に、なぜ私たちは労働者が職場では自由であるかのように語り、個人の自由に対する脅威は国家からのみ来るとするのだろうか。第二に、雇用者が労働者の生活を制約する方法について論じるよりよい方法とは何か。それは、職場を労働者の利害関心にもっと応じられるようデザインするための議論をいかにはじめることができるかに関わる。
二つの講義で私が焦点を当てるのはイデオロギーである。私のいうイデオロギーは、人々が社会的世界を表象し、それに対処するために用いる抽象的なモデルである。イデオロギーは世界を単純化し、その多くの特徴を考慮に入れない。イデオロギーは、私たちが世界をうまく導いていく上で役立つならよいものである。私たちの助けとなるためには、イデオロギーは、規範的に見て重要な世界の諸特徴を明らかにし、人々が対応しうるそれらの因果的な結びつきを特定することを通じて、人々がその目標を追求する際に有効な手段を見いだせるようにしなければならない。イデオロギーはまた、私たちがいま世界をどのように評価しているかを明らかにするのに役立ち、私たちがすでに善いないし悪いと考えている事柄に光を当てる。最後に、イデオロギーは私たちの希望や夢を表す媒体となる。モデルは現在の世界の問題を明るみにだすと同時に、それらの問題の原因を特定する。つまり、その原因が除去または是正されるなら、私たちはよりよい世界を実現できる。いいかえれば、イデオロギーは理想としてもはたらき、世界をあるがままに表すだけでなく、一定の行為がなされるなら、世界がどう魅力的なものになりうるかをも示すのである。
これまで私は、イデオロギーとは何かについて、この語の軽蔑的ではない意味において説明してきた。私たちはイデオロギーなしにはほとんどやっていけない。個人の経験だけでは世界のごく一部にしか関われない。より包括的な評価や計画をもたらすためには、私たちが直接には経験できない世界の側面を表す必要がある。そして私たちが実際に経験できる部分でさえ、その経験が何を意味するのかを理解するために、私たちはイデオロギーを通してフィルターをかける。重要な事柄に集中できるよう、単純化する必要があるからだ。
こうした認知的な限界に関する事実は、世界についての私たちのモデルが、この語の軽蔑的な意味でイデオロギー的である危険性を生み出す。これは、イデオロギーが世界の問題点を覆い隠したり、それらを誤解を招くほど肯定的に描いたり、何が問題なのかを特定するために必要な規範的な概念を欠いたり、より優れた選択肢やその実現手段、あるいはその利点を覆い隠すために可能なものの集合を誤って表したりするときに生じる。もちろん、いかなるモデルも規範的に見て有意な世界の特徴のすべてを捉えられるわけではない。もしそれが比較的小さく、偶発的で、特異な特徴のみを捉え損ねているなら、私たちはそのモデルを非難すべきではない。しかし、これらの特徴が社会的世界に構造的に埋め込まれており、特定可能なある集団の利益を深刻な、あるいはいわれのない仕方で体系的に損なうようになっているとすれば、私たちはそのモデルを修正し、それらに対処し、それらを変えていく手立てを講じる必要がある。公共的言説を支配する者の利益がすでに支配的なイデオロギーによって支えられている場合には、この修正はより困難になる。
講義1では、自由市場のイデオロギーの歴史を掘り下げ、最初の疑問──なぜ私たちは労働者が職場で自由であるかのように語るのか──に答える。私は、市場を擁護する思想家の多くはもともと労働者の自由に関心をもっていた、と論じる。これらの思想家には、自由市場は、労働者を雇用者やその他の強力な組織への従属から解放し、かれらを助けると信じるだけの理由があった。思想家たちは、市場全体を自由化すればほとんどの成人が──少なくとも男性であれば──自営の仕事ができる世界がもたらされ、労働市場は主要ではない機構にすぎなくなると予測するモデルに希望を託していた。産業革命はこの希望を打ち砕いたが、その希望の基盤となっていた市場社会という観念自体はそのまま保存された。その結果、私たちは、雇用者と従業員との関係──私たちの大半はこの関係のなかで生活している──を欠落させた世界モデルを用いるようになっている。
講義2ではこの欠落を補い、雇用関係とは何かを理解し、それについて論じる方法を提示する。後に示すように、雇用関係とは上司が労働者を統治する一つの統治形態にほかならない。アメリカの職場での統治の大半は独裁制であり、その統治は被治者にほとんどアカウンタビリティを負わない仕方で行われる。上司は労働者を単に統治するだけでなく、支配する。これを私は私的統治(private government)と呼ぶ。私はこの私的統治というモデルを、支配的なイデオロギーが無視する労働者の死活的利害に関わる、重要かつ問題のある世界の特徴に焦点を当てるための批判的なツールとして提示する。私は、職場での統治のよりよい基本体制(コンステイチューション)について青写真を提供しようとしているわけではなく、職場での統治について語る方法を提供しようとしているのである。この枠組みのなかで、雇用者が労働者に振るう権力が労働者の利益にどう影響するか、そして労働者の利益により応答し、その尊厳と自律をより尊重する、現状とは異なる職場での統治の基本体制をどうデザインできるかが明らかになるだろう。
二〇一五年にプリンストン大学より「人間の価値についてのタナー講義」の講師として招いていただいたこと、ならびにタナー・レクチャー社から研究支援を受けたことに深く感謝している。ドン・ヘルツォークは講演原稿の初稿を精読して、非常に有益な助言を寄せてくれた。これにより講義の内容を洗練させることができた。討論者として参加したデイヴィッド・ブロムウィッチ、タイラー・コーエン、アン・ヒューズ、ニコ・コロドニーならびにプリンストン大学出版局の匿名の査読者二名からは、私の考えを磨き、より広い読者層に伝わるよう明確にするのに大いに役立つ素晴らしいコメントをいただいた。アレックス・グーレヴィッチ、スティーヴン・マセード、そして編集者のロブ・テンピオからも有益な助言を頂戴した。かれらが対話の素晴らしい相手になってくれたことに感謝している。
(注と傍点は割愛しました)






