前回の対談を受け、今回はお二人による対談後記をお届けします。ケアの現実から目をそらさず、その「しんどさ」を解くために私たちが向きあうべき課題とは? 対談では語りきれなかった論点について、存分に展開していただきました。[編集部]
『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』の話は、「ケアの倫理」とどこが違うのか、というテーマの対談をとおして、本のなかではとりあげていなかった論点についてあらためて考えることができました。
ひとつはケアの倫理における「相互依存」という概念についてです。「ケアの倫理」は、相互に依存しあう存在であるという存在論的事実にもとづいて、そこでの関係性に道徳的な望ましさを見出します。この前提に対して、相互依存が事実だとしても、その事実に道徳的価値があるかというとそうではない、ということを確認したいと思います。
相互依存と想定される状態を4つに分けてみましょう。ひとつめは、相互依存は人類普遍的な事実で、すべての人が相互依存的、という解釈です。そのように行為者モデルをたてることは可能ですが、そこに道徳的価値があるとは必然的にはいえません。主人が奴隷のケア労働に依存して、奴隷が主人からもらう生活必需品に依存しているような関係にも善さがあることになってしまうからです。これは支配する夫と従う妻に置き換えても同じです。
次に相互依存のふたつめの解釈として、乳児と母との母子関係のように、人生のなかで脆弱になり他者の助けが必要となっている状態を相互依存ととらえる場合です。赤ちゃんの泣き声に母が責任を感じるという1対1の関係を想像すると、特別な道徳的な関係性を見出したくなるのもわかります。しかし母が子のケアに依存しているという状況はなんでしょうか。上述の「健常者は多くのものに依存できているが、障害者は依存できる先が特定されている」という指摘をふまえるなら、障害者や乳児が「依存」しているようにみえるのは、特定の人(母)に依存先が限られているからです。障害者運動は母が子に依存するような関係性から脱却したい、つまり道徳的に望ましくないと訴えてきました。
ここで相互依存の3つめの解釈がでてきます。「入れ子状」の相互依存です。子が母に依存することを「一次的依存」、その本質的な依存をケアする人もまた誰かに依存している状態を「二次的依存」と呼ぶモデルです。二次的依存は、経済的には夫や社会保障に依存している状態ですが、身体的には産後ケアのような支援の必要性を論じるロジックになります。しかし二者関係を前提にしてきた支援は、上述の母の抑圧性という点を考えれば、すべてのケア関係において望ましいものではありません。介護を必要とする母親とその子どもを引き離したほうが、本人たちにとって望ましい場合もあります。
4つめに相互依存を存在論的な事実としてではなく、ケアする側の「愛情」としてとらえる解釈です。これはもう愛情なんだから道徳的価値がありますよ、愛情以上に価値があるものはありません、となるでしょうか。「母が重い」人にとっては、価値がありません。また別の論点もあります。たとえば移住労働者の研究では、ナニーは単純労働(menial work)、親は情緒的ケアを子どもにするという分業が指摘されています。介護施設には、洗濯室という部屋があってそこで多くの場合、外国人労働者が働いています。掃除にしろ洗濯にしろ、再生産労働と呼ばれるものがなければ、施設の高齢者の生命は維持できません。利用者への「愛情」があってもなくても生命を支えているのです(それとも洗濯物も愛情をもってたためというのでしょうか)。愛情だけに特別な価値を置く必然性はありません。
このように、相互依存という存在論的事実があったとして、誰の目からみてもそこでの行為者間の関係性に価値がある、とはいえなさそうです。ケアする人の志向性や動機にばかり注目すると、ただ業務としてバイタルチェックをしていても、お金を稼ぐために排泄介助をしていても、それによって支えられる生命はあるということを不可視化することにもなります。
ふたつめの論点に移りたいと思います。上述のように、動機や志向性に特別な意味をみいださないのであれば、なぜあなたはあえて「ケア」という言葉を使うのか、という問いがつき返されてくるかもしれません。
女性たちの労働を「再生産労働」と呼ばないのは、本書で論じてきたケア労働とは、資本主義の要請や教育システムの要請から自由ではないが、その要請をそのまま再演するものではないからです。学校に行くべきという社会の要請と、今はひとりでいたいという本人の思いを調整していく大変さがある。また公的な介護の場合には、制度的に要求されている効率性(短時間ケア)を追求すると、今この瞬間の困りごとを解決できないという罪悪感を抱えながら支援をしなければならない。社会の要求としての庇護的ニーズと、今ここで判断した「ケアニーズ」のギャップを埋めるのも「ケア労働」のひとつであるわけです。このようにケアの活動を制度的なコンテクストのなかに位置づけることで、そのコンテクスト=資源配置や規範を変えることでもっと楽にケアできる(口笛吹いてても)社会を目指したいというのが私たちの考え方です。
ただし「ケア」という言葉を使う意味については、本書で触れなかった論点があります。「ケア」概念が手放せないのは、子ども、高齢者など従来市民社会の外部に位置づけられてきた人々を尊厳をもった個人として扱うべきだ、という現代社会の規範の変化を経験しているからです。この変化は、(「ケアの倫理」によって実現したのではなく)障害者運動をはじめ、当事者や支援者の運動が実現してきたものです。認知症の当事者はニーズを定義する力を剥奪されてきた、そのような関係性を変えようという規範がなければ、認知症ケアの医療モデルから生活モデルへの転換は実現しませんでした。子育てについても、学校に行かせたほうが本人にとっても幸せなのだ、という庇護的ニーズ一辺倒から、本人が今現在望むことに耳を傾け、実現していこうという規範へと変化してきました。こうした規範がなければ当事者の話を聞こう、というケアはおこなわれません。
このように、市民社会の外部に放置されてきた子どもや高齢者、障害者も尊厳を有する個人として、いわば「市民」を再定義してきたこと。この変化は、私たちが把握しようとしている「ケア」という活動とは無縁ではありません。これに対し、ケアを普遍的な人間の営みとしてしまうことは、こうした当事者がもたらした政治的な成果を見落とすことになります。つまり、必要とされているのは、ライフコースのある時点で「人間は本質的に脆弱で依存的である」という命題ではなく、ニーズをもつことを無視する規範や、ニーズを実現するための資源が配分されないことで特定の人々が脆弱にさせられている、という認識です。
最後に。こうした規範の変化に対し、資源は追いついていません。相手の話を聞き、考え、よりよい手段をみつけるためには時間や労力が必要です。現状では、ケアが労働市場でおこなわれる場合にも、残業や無償労働など、ケア労働者の献身性によって資源(報酬)の不足カバーされています。介護職、保育士、スクールカウンセラー、ケアマネジャー、看護師、教員などさまざまな職におけるケアの活動が可視化され、ケアニーズを実現するための時間にきちんとした賃金が支払われる社会の実現を願っています。
次ページ:『ケアする私の「しんどい」は、どこからくるのか』は、どこからきたのか・どこへ行きたいのか――ケアの倫理との比較を通じて(平山 亮)

