ミメーシス

憲法学の散歩道
第45回 憧れるのはやめましょう──『虞美人草』とミメーシス

 夏目漱石『虞美人草』のヒロイン甲野藤尾は、24歳ながら、恋の駆け引きに長じている。彼女の英語の家庭教師を務める、恩賜の銀時計を得た文学士、小野清三を手玉にとる。 「愛の神は今が盛(さかり)である。緑濃き黒髪を婆娑とさばいて春風に織る羅(うすもの)を、蜘蛛の囲(い)と五彩の軒に懸けて、自(みずから)と引き掛る男を待つ。引き掛った男は夜光の璧を迷宮に尋ねて、紫に輝やく糸の十字万字に、魂を逆にして、後の世までの心を乱す。女はただ心地よげに見遣る*1。」  ある日の夕刻、藤尾は兄、そして兄の友人、宗近一とともに、不忍池の周辺で催された博覧会に出掛ける。たまたま見掛けたのが、かつて京都で世話になった井上父娘を博覧会見物へ案内する小野だった。漱石は、井上小夜子の美貌を描く。

掌の美術論
第3回 自由な手

近現代美術の中に登場する「手」は、しばしば観察者の知覚を裏切るような現実を私たちに突きつけてくるものであるからこそ、重要な位置づけを与えられてきた。 もちろん手のかたちは、昔から絵画や三次元的な造形物のモチーフに使われた。身体の一部の型取りやそのイメージを奉納する古くからのヨーロッパの習慣において、手もまたその対象であったし、キリスト教美術の伝統では「神の右手」は、人間の眼で知覚することができない神聖な存在を換喩的に表象するイメージであった。フランス王家において王権の象徴(レガリア)とされたものの中には、「正義の手」と呼ばれる王笏がある。また芸術家による手のモチーフだけの習作も、決して珍しいことではない。

By |2026-06-12T12:06:53+09:002023/3/23|連載・読み物, 掌の美術論|
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