『掌の美術論――触覚と想像力に』、2026年7月2日発売です。みなさま、どうぞお手にとってください。[編集部]
近現代美術の中に登場する「手」は、しばしば観察者の知覚を裏切るような現実を私たちに突きつけてくるものであるからこそ、重要な位置づけを与えられてきた。
もちろん手のかたちは、昔から単独で絵画や三次元的な造形物のモチーフに使われた。身体の一部の型取りやそのイメージを奉納する古くからのヨーロッパの習慣において、手もまたその対象であったし、キリスト教美術の伝統では「神の右手」は、人間の眼で知覚することができない神聖な存在を換喩的に表象するイメージであった。フランス王家において王権の象徴(レガリア)とされたものの中には、「正義の手」と呼ばれる王笏がある。また芸術家による手のモチーフだけの習作も、決して珍しいことではない。古代遺跡の断片化された巨大な腕や手も、しばしば古代ローマを称賛する後世の芸術家のモチーフとなった。例えば幻想的な主題を描く画家として知られるヨハン・ハインリヒ・フュースリーによる素描《古代遺跡の偉大さを前にして絶望する芸術家》 (1778〜1780年)では、もとはコンスタンティヌス1世(280–337)の彫像の一部であった巨大な手の断片を前に、芸術家が頭を抱えている。それは失われてしまった古代文明の偉大さを象徴する手であった。
だが近現代美術においては、換喩的な意味を持たず、身体から視覚的にも象徴的にも独立した断片的な「手」のモチーフが完成作の中でしばしば認められるようになり、それ自体で独自の運動をみせ始める。19世紀後半から世紀転換期には、それを予言するような数々の作品が登場した。例えばドイツの画家アドルフ・フォン・メンツェルが描くアトリエの光景の中には、白い石膏型の腕や手の解剖学的な模型が光に照らし出され、まるで別の生命を獲得したかのようだ(図1)。同じくドイツの画家マックス・クリンガーが1881年に連作として完成させた《手袋》では、手そのものではないが、持ち主の女性の身体から解放された手袋が、さまざまな冒険を繰り広げる様が描かれる(図2)。
彫刻家オーギュスト・ロダンも、手をモチーフにした多くの作品を生み出した。《神の手》(1896〜1908年)と《悪魔の手》(1903年)は、それぞれ右手と左手から、女性裸体像を生み出している。この2作品以外にも、多くのロダンの作品の中で、断片となった手は知覚し、慈しみ、創造し、語り、苦悩し、支配する。それらは時に感覚的であり、時に情念を帯び、また時には行為主体的でもある*1。
1924年に詩人アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言に共鳴した詩人や芸術家たちにとっては、身体から自立して勝手気ままに運動する手は、理性から解放された欲望を象徴する点で、「無意識」や「夢」の働きに関心を寄せる彼らの芸術実践と密接に結びつくモチーフであった。1937年に出版された、ポール・エリュアールの詩とマン・レイの素描による挿絵入り詩集『自由な手』(図3)では、この身体の部位は、四肢を伸ばす裸婦となったかと思えば、女性の服を切り刻むハサミにもなり、また六角錐を握りしめたかと思えば、雲をその掌で受けとめるべく空へと広げられる。これらの手には、その持ち主の体が描かれていない。あたかもそれは、体から独立した意志と欲望、そして暴力を持って運動する一個の生命体であるかのようだ。
つづきは、単行本『掌の美術論』でごらんください。
身体を通して、世界に触れ、世界と戯れ、世界を模倣し、そして世界とずれていく。そのずれの中にこそ、芸術の可能性は宿っている。
2026年7月2日発売
松井裕美 著『掌の美術論――触覚と想像力に』
四六判上製・352頁 本体価格4000円(税込4400円)
ISBN:978-4-326-85207-9 →[書誌情報]
【内容紹介】遊びが手触りや感覚を頼りに新たなゲームや楽しさを創造し、ときに新しい認識や価値を開いていくように、触覚を軸にした鑑賞の方法を提示する。触覚に関わる美術史を整理したうえでフェミニズムや歴史・記憶と芸術作品の関係など、現代的な問題意識を織り込んだ作品解説を通し、触覚と想像力が拓く遊戯場としての美術史を紡ぎだす。
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第1回 緒言
第2回 自己言及的な手




