《ジェンダー対話シリーズ》第3回 平山亮×上野千鶴子:息子の「生きづらさ」? 男性介護に見る「男らしさ」の病 ――『介護する息子たち』刊行記念トーク

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2017/4/26By

 
 

[本質主義に陥らないこと――doing gender]

 
上野 もう一つ、この本が理論書としてすばらしいなと思ったのはね、男らしさ、女らしさを説明変数に使ってないこと。男だから、女だから――男だから暴力を振るう、じゃなくて、暴力を男性がふるったときに、それを理解可能にする説明のためにジェンダーの語彙が動員される、という説明を徹底したことです。
 
平山 そうです。
 
上野 うっかりすると私なんかもすぐ、「それは、オッサンだから」とか、「男という病気よ」とか、本質主義的な言い方をしたくなるわけ。それを、実に注意深く徹底して、ある事柄が起きたときに、例えばある男性、息子介護者がある振る舞いをしたときに、「男だから」という説明が使われるその場面を焦点化して、それがジェンダーが行使される場面だ、という説明の仕方をしていますね。
 
平山 そうですね。
 
上野 同じ立場で同じことを女がやる場合もあって、そのときに、女についてはまた、ヒステリーとか、母性とか、別なジェンダーの語彙が使われるんだよね。
 
平山 そうですね。
 
上野 そのdoing gender(ジェンダー実践)の分析は、なかなか徹底していると思いました。
 
平山 男の人が介護の場面で虐待をしてしまったときに、自他ともに説明に使いやすい語彙が、それこそ本質主義的なので……。
 
上野 「男って、もともと暴力的だから」とかって。
 
平山 そうそう。でも、実は、女性の暴力が「女らしさ」で解釈されることがある。それがどういうときかというと、お母さんが子どもを守るときに行使する暴力。女性によるそういう暴力ならば、女の男性性だとか、女らしさの逸脱だとかって言われることはなくて、むしろ「ザ・女らしさ」として社会に認められる。
だとすると、男が暴力を振るったときに、それが「男にはよくあること」という意味で「男らしい」と言われるのだとしたら、その暴力を「男らしい」と言うことを可能にするための何かがあるはずなんですよ。それが何かを徹底して考えたのが第5章ですね。
 
上野 はい。そこは、とても読みごたえがありました。
 
平山 ありがとうございます。
 

[支配の手段としての「カネ」問題]

 
上野 再び、男のパワー願望の話。高齢者施設へ行くとよくわかる。グループホーム――認知症のおじいさん、おばあさんが入っているところ――で、男が複数いると必ず、あっという間にペッキングオーダーができる。男同士はそりが合わないの。おばあさんたちは一緒にお茶してるのに、男は離れて、ひとりでぽつんといる。トラブルを起こすと、一方が他方を追い出す。
こんな例があった。問題を起こしては「出ていってください」って点々と玉突き状態になった認知症の男性がいた。最後に入ったグループホームで、利用者の妻が経営者に、「申しわけございませんが、うちの夫以外の男性利用者を入れないでください」ってお願いしたの。男のパワー・ゲームって、ぼけてもなくならないみたいよ。
 
平山 そうですね。それこそが病というか。
 
上野 男が一番手軽にまず、支配の対象にしたいのが妻でしょう。
 
平山 そうですね。
 
上野 その支配の手段として、暴力というのは、一番野蛮な方法。この世の中でもっとも効率的な支配の手段は、カネ。本書にカネの支配がちゃんと出てきたことにも、とても感心しました。妻の就労の邪魔立てをする、そのこと自体が妻の生存の能力を奪うという経済的虐待だと。経済力のない妻との間で、絶対的な上下関係を維持する、一番簡単な方法ですよね。
 
平山 そうそう。「男の生きづらさ」言説に私が乗れないのは、そこなんですよ。「男の生きづらさ」でよく言われるのは、男は一家の稼ぎ手役割を求められる、そういう内面化したプレッシャーを捨てるのは難しい、だから僕たちはつらい、と言う「生きづらさ」なんだけれども、それって、要は、家族の支配者になることにどうしても固執してしまう僕たち、ってことでしょう。
「生きづらさ」っていう単語の意味がものすごく曖昧だから、そこには何でも入っちゃうんですよ。例えば、十分な収入が得られない「生きづらさ」っていうときの、その「十分な」には、似て非なるものがありうるわけです。一つは、貧困の問題のように、個人としての生存を維持するのに「十分な」収入が得られない、という意味。生きるのが難しいっていう意味で、私はこっちこそ「生きづらさ」だと思うんだけど、「男の生きづらさ」でいう「十分な」収入っていうのは、自分一人で家族を養うのに「十分な」収入っていう意味なんです。言い換えると、経済的に家族を自分の支配下に置くために「十分な」収入のことで、そういう意味での「十分な」収入が得られないことを「生きづらさ」って言っちゃっているわけですよね。「生きづらさ」っていう単語の意味が曖昧なのをいいことに、そういうまったく違う意味での「十分な」収入が得られないことを、どっちも「生きづらさ」で括ってしまう。貧困の問題と支配の挫折を、並列であるかのように見せかけてしまう。そういう欺瞞を「男の生きづらさ」言説には感じるんですよね。
 
上野 御意(笑)。異議なし。全くそのとおりです。
きょう会場に、男性研究をやっていらっしゃる大野祥子さんという研究者が来ておられますが、彼女の研究によると、男性の自己肯定感というのは、稼得能力で自己効力感が一番高まるという。やっぱり稼ぎがなんぼあるかが、男らしさの核心のようですね。
最近私が関係した学位論文で、「離婚してシングルマザーになった女性の老後展望」について研究した女性の研究者が、彼女たちには「老後展望が持てない」って言うのよ。どうやって老後を過ごしていいかわからないって。なぜかというと、年金フローがない、資産ストックがない。何でかといったら、理由が明解に書いてあった。夫によって就労を禁止されてきたからと。
 
平山 そうですね。
 
上野 うん。就労を「禁止された」って、はっきり書いてあった。就労を禁止されることによって生涯にわたる不利益を抱え込んでしまって、それでもって離婚してしまったら、ないないづくしで、年金もなければ資産もないから、倒れるまで働き続けるしかありません、というのがその論文の結論だったの。つらくない?
 
平山 それの裏面にあるのが、「男の生きづらさ」と呼ばれているものですね。
 
上野 そうですね。だから、支配したいのに、できないボクちゃんのつらさを訴えられてもねえ。
 
平山 そう。
 
上野 就労の禁止だけでなく、就労しても、割の悪い仕事しかないし。妻が働くことにいちいち夫の許可が要るということも直接的な支配だけど、それだけでなく働こうと思っても、非正規の割の悪い仕事しかないっていうのも間接的な支配。よってたかって女性に不利な就労状況をつくっているのは、ホモソーシャルな男性共同体っていうものでしょう?
 

[男性差別?]

 
平山 そうですね。ただ、今のホモソーシャルの特徴は、女性に対する「被害者意識」での連帯でしょう。最近、「男性差別」っていう言葉が出てきているの、知ってます? 女性差別に対応して。女であるということで社会から不当な扱いを受けていることを女性差別だと訴えていいなら、男にだって自分たち男の方が置かれやすい不利な状況があるんだから、これも男性差別として訴えていいはずでしょ、と。性別を理由に社会で不当な扱いを受けているっていう意味では、男性だって被害者だと。
で、それが私はすごく気に入らないんですけれども、女性が告発してきた性差別的な社会っていうのは、「男性中心社会」のはずですよね。社会を主導する地位を男性が圧倒的に占め、マスで見れば、明らかに男性中心に意思決定が行われてきた社会。じゃあ、「男性差別だ」って男も社会を告発しているわけだけど、その社会が「女性中心社会」なのかっていったら、そんなはずはない。社会の主導権を、意思決定権を、女性が握ったことなんてないんだから。
 
上野 「女がボクを選んでくれない」とかいうのも「差別」だとか。
 
平山 ああ、そうですよね。そこのところが不思議なんですけれども。男がジェンダーについて語るとき、どうして「自分も被害者だ」ということばかり強調したがるのか、というのがあるじゃないですか。
 
上野 本当に男性の被害者意識って強くて、「オッサン政治家は辞めろ」みたいな言い方をしたら、最近はすぐ「ヘイトスピーチ」って言われる。
 
平山 もう、すごいですね、最近ね。そういう誤用・濫用ね。
 
上野 例えば「女だって、稼得能力のある男しか選ばないじゃないか」とか、「非正規のオレは女に選んでもらえないじゃないか」とか、それから「専業主婦になりたい女がふえたじゃないか」とかって、女性だって責任があるっていう言い方があるけど。それは、やっぱり構造として、稼得能力が男に集中していて、女には割の悪い就労しかなく、男に従属するような結婚が強制されているとしたとき、そういう構造のもとで最も合理的な選択を弱者がしたとしたら、当然そうなるよね。そうなると、被害者意識を持っている人たちにしても、実はその構造をつくったのは自分たち自身だから、自縄自縛ですよ。
 
平山 そうなんです。身もふたもないですが。
 
上野 はい。自業自得って言ってもいい。でも、そう言うとまたすぐ、男に対するヘイトスピーチとか言われる。
 
平山 そうです。
 
上野 相手が依存的な存在になったと思った途端に、支配したくなることについて。男に一番できていないことは、「弱者を弱者のまま尊重する」ことだって、どこかで見たような文章だなと思ったんだけど(笑)。
 
平山 なんか、そうですね。
 
上野 私も同じことを言ってきたのよね。フェミニズムはべつに、男のようになりたいなんて思想じゃない。そんなこと、タダの一度も思ったことがない。男になって楽しいことがあるなんて、これっぽっちも思えない。そうじゃなくて、弱者が弱者のままで尊重されるような社会をつくりたいと思ってきたのがフェミニズム。べつに強者になりたいと思ったわけじゃないって、ずっと言ってきたのね。男には、それが一番できないんだって。
 
平山 そうですね。それを男の介護を通して見出したのが、この本というわけですね。
 

[残るのは、希望?]

 
上野 男は、自分が弱者になったらどうなるの?
 
平山 何とか自分より下の者を見つけようとすると思います。
 
上野 ああ、そうか。そうなんだ。下には下があるものね、どこまでも。
 
平山 そうです。
 
上野 抑圧移譲の連鎖なんですね。
 
平山 うん。
 
上野 じゃあ、男はどうしたらいいかというと、自分の感情をありのままに表現してごらんと言われても、そういう訓練や経験をしたことがないから、できないんだって書いてありましたね。
 
平山 そうそう。ずっと前から言いたかったんです。男の人は弱音を吐くのを我慢しているんだっていうふうによく言われるんですけども、我慢しているくらいだったら割と救いがあって、そもそも言い方がわからないという人がいっぱいいるわけですよ。「弱音を吐けない」という言い方が、そのとき正しいのかなというのはあって。
 
上野 女性学は、女の感情や経験の言語化をやってきたのよ。まずは学習と経験だから、感情表現なんてべつにDNAで決まっているわけじゃないから、男性にも、学習してもらいましょうよ。学習してさ、男が自分の感情や経験をありのままに言語化し始めたら、何が起きると思う? パンドラの箱が開いたら……。
 
平山 まあ、醜いのも、いっぱい出てきますよね。
 
上野 何が出てくるんだろうね。
 
平山 でも、最後に残るのはあれですよ、パンドラの箱は。
 
上野 希望ですか。
 
平山 希望ですよ。
 
上野 おお(笑)。だといいけどね。そういう経験を積んで、女たちは、「ママが本当は嫌いだったんだ」とか「子どもだって本当は愛せないんだ」とか言ってもよくなってきたんですよ。男たちが、感情を言語化し始めたら、何が出てくるんだろうね。
 
平山 さあ、どうですかね。それはこれからの課題じゃないですか。
 
上野 やっぱり信田さんの言うモアイ像が浮かぶ。固まってしまって。モアイが口をきくことがあるんだろうか。
 
平山 そこは訓練ですよね。「喋って」ってモアイに頼んでも、喋れるわけじゃないから。そもそも、感情を言語化する能力を訓練しなくても何とかなってきたのが、これまでの男の人生だったわけだから。男は「つらい」「苦しい」みたいな感情を言わなくても生きてこれた。なぜなら、ケア役割を引き受けさせられてきた女性たちが、男がそう言わなくても先んじて助けてくれてきたから。
そういうジェンダー関係を変えるためにも、感情を言語化するっていうトレーニングが男性に求められるのではないですか。「ケアされる性」として、そうやってずっと下駄を履かせられてきたことを、男が認識するところから始めないと。「男だって被害者だ」「性役割のある社会で『生きづらい』のは男女同じだ」とジェンダー対称性を取り繕ってみたり、性差別に対する社会の取り組みを「女ばっかり下駄履かせてもらいやがって」と攻撃してみたり、そんなことが男性によるジェンダー問題への回答でいいの?と。
ジェンダー関係を変えるための第一歩は、男性が自分の優位性と支配性に、しかも、慣れ過ぎてしまってもはや気づきもしない自分の優位性と支配性に、敏感になることでしょう。男性中心社会での男性の「自己解放」って、そういう優位性と支配性に慣れっこになってしまった自分からの離脱ってことじゃないんですか。この本は介護がテーマではあるけれど、不平等な社会関係をどう変えていくか、という本でもあって、そういうメッセージを込めた本として広く読んでいただけたらな、というのが著者としての願いです。
 
上野 男性研究はまだまだこれから、やられていないことが沢山ある、という感を深くしました。こういう研究をすると、平山さん自身がこれからどんな生き方や男や女との関係の仕方をするのだろうか、と読者から注目が集まるでしょうね。わたしも注目しています!(笑)
 
 

「男性中心社会での男性の『自己解放』って、そういう優位性と支配性に慣れっこになってしまった自分からの離脱ってことじゃないんですか」。大事なとこなのでもう一度貼りました(^^)。優位性を持つ側がその優位性と支配性に敏感であること。ジェンダーに限らず、あらゆる差別問題解決への途はそこから始まると思います。平山亮著『介護する息子たち』(小社、2017年2月刊)は全国書店にて絶賛発売中です。ぜひお手に取ってみてください。
次回第4回は「性・愛・家族のポリティクス」をテーマに、王寺賢太さん×森川輝一さん(コメント・藤田尚志さん、宮野真生子さん)のお話を、5月中旬に公開予定です。お楽しみに。[編集部]
*今回の対談は、2017年3月14日に東京堂書店神田神保町店6階の東京堂ホールで行われた「息子の『生きづらさ』? 男性介護に見る『男らしさ』の病」――『介護する息子たち』刊行記念トークイベントが元になっています。

 


 
 
【登壇者プロフィール】
 
平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。現在、東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。
 
上野千鶴子(うえの・ちづこ) 1948年生。京都大学大学院社会学博士課程修了。1995年から2011年3月まで東京大学大学院人文社会系研究科教授。2011年4月から認定NPO法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)理事長。専門は女性学、ジェンダー研究。この分野のパイオニアであり、指導的な理論家のひとり。高齢者の介護問題にも関わっている。1994年『近代家族の成立と終焉』(岩波書店)でサントリー学芸賞受賞。2012年度朝日賞受賞。著書:『老いる準備』(学陽書房)、『不惑のフェミニズム』(岩波現代新書)、『ケアの社会学』(太田出版)、『ナショナリズムとジェンダー』(岩波現代文庫)、『みんな「おひとりさま」』(青灯社)、『ニッポンが変わる、女が変える』(中央公論新社)、『上野千鶴子の選憲論』(集英社新書)など多数。近刊に『何を怖れる』(岩波書店・共著)、『老い方上手』(WAVE出版・共著)、『ケアのカリスマたち 看取りを支えるプロフェッショナル』(亜紀書房)、『思想をかたちにする』『セクシュアリティをことばにする』(いずれも青土社)、『おひとりさまの老後』『男おひとりさま道』(いずれも文春文庫)、『おひとりさまの最期』(朝日新聞出版)。
 
 
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第3回 平山亮×上野千鶴子:息子の「生きづらさ」? 男性介護に見る「男らしさ」の病
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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
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