勁草書房創立70周年 本たちの周辺

勁草書房創立70周年
社長にあれこれ聞いてみる:01


 
 
2018年、勁草書房は創立70周年を迎えました。[けいそうブックス]を創刊するとともに、この1年、勁草書房の70年をいろいろな角度から改めて紹介していきたいと思っています。
その一環として、勁草書房の書籍を手に取ると奥付で必ずご覧になっている名前の持ち主、そう、井村寿人社長に、ゆるくあれこれ聞きながら振り返るシリーズを設けてみました。というわけで、あちらこちらに寄り道しながら、井村社長に勁草書房の70年(とこれから?)を、あまり会社のことを知らない編集部員相手にのんびり道案内してもらいます。[編集部]

 
 
――こんにちは。今日から仕事のあいまによろしくお願いします。
 
井村寿人社長 こんにちは。井村寿人(ひさと)です。こちらこそよろしくお願いします。
 
――勁草書房70年なので井村寿人社長に登場いただきますが、お父さんである創業の先代の井村寿二(じゅうじ)さんにつづいての2代目社長ということでしたよね。
 
井村 いや、厳密には4代目の社長なんですよ。
 
――えっ? ああ、そうか……。
 

厳密には4代目、実質的には2代目社長の井村寿人。2018年4月4日撮影。
井村 勁草書房は、昭和23年、1948年4月12日に石川県金沢市にある百貨店、株式会社大和(だいわ)の出版部として創業したんです。その時は、ぼくの祖父、大和社長の井村徳二が社長で始まりました。ぼくの父親である井村寿二も当時から主幹でしたが、寿二は1958年からその次の2代目社長で、1988年に64歳で亡くなるまで務め、その後大和から叔父である八田恒平を社長に迎えた時期が少しあり、ぼくはその後を1998年から引き継いだんです。だから形式的には4代目。
 
――実質的な2代目なんで、つい、2代目と出ちゃいました。せっかくなんで、勁草書房の話の前に、ナビゲーター役の現社長の自己紹介をまずはアイスブレイク的にお願いできますか。社員もそれほど社長のことを知らなかったりしますし。といってもお生まれから聞くと長くなりすぎそうなので、ええと、漏れ伝え聞くところによると大学はフィリピンだとか?
 
井村 ええ、フィリピンの大学に行ってます。1970年代前半、ぼくが中学生のときに、家族でフィリピンへ初めて旅行に行ったんです。当時、父親が絵画に興味を持っていて、何をしようとしたのかわかりませんが、フィリピンの若手の絵描きさんのことを調べているうちにいろんな人と知り合って、徐々にフィリピンの本を出すようになっていたんですよね。井村文化事業社を立ち上げた頃の話だと思いますが……。
 
――たしか井村文化事業社は、先代の井村寿二社長が途中でつくった、東南アジアの文学作品を翻訳出版される会社でしたよね。
 
井村 そうです。そのとき知り合った人の一人がのちの文化大臣かなにかをなされた方で、その方を通して絵のことを聞いているうちに、絵はどこかへいってしまい、東南アジアの出版の方にいったんだと思います。
 
当時、東南アジアの本なんて何もなかったですし、文化を知る機会はまったくなかったのでそういうものを紹介できればと始めたんだと思いますね。そうしてフィリピンの大学の先生にも知り合って、ある先生が、息子である私に「留学はどう?」と提案してきて、当然、ぼくはフィリピンに行く気はまったくないんですよ。でも、当時はみんなアメリカに向いてましたし、一人くらいアジアに入っていく人間がいてもいいんじゃないかということで、なかば強引に「行ってみないか」と説得されて、「じゃあ行ってみようか」となりました。
 
――日本の大学は休学して?
 
井村 日本の大学は受けずに、高校卒業してフィリピンに行ったんです。高校1年の時にその留学の話が出て、行くことに決めました。高校時代から英会話学校へは通いましたけど。現地に行って、英会話学校は役に立たないとわかりましたよ。
 
ほとんど突然ほっぽりだされたようなもんです。向こうにつくと大学の寮にまず入らされて、英語もできないのに。誘っていただいた大学の先生は何もタッチせず、「一人でやっていけ」といわれて、ともかく必死ですよね。
 
――フィリピンの大学に受かって行ったんじゃないんですか?
 
井村 ぜんぜん。最初の1年は聴講生です。その授業も、次までにリーディングアサイメントでどこからどこまで読んでこいって言われるんですが、それがどこだかわからなくてね。で、フィリピンにも共通一次試験みたいなものがあって、それに合格しないと大学受験できない。その共通の試験には受かったけれど、ほんとによくわかってなくて、当の大学受験がいつかもわからない感じでしたね。
 
――それは、元をたどれば井村文化事業社のゆえに?
 
井村 ほぼ実験台。おもしろかったですけどね。
 
――フィリピンの大学では何を勉強していたんですか?
 
井村 最初、アテネオ・デ・マニラ大学という、日本でいうと慶応みたいな大学に入ったんです。フィリピンの大学では、アテネオとラサールと国立のフィリピン大学の3つがよくて、アテネオは超上流階級の人が入ってました。マルコス大統領の娘や財閥の子どもがいたり。そこで社会学を勉強してました。
 
アテネオに社会学のいい先生がいると聞いていたんですが、その人、1年半で国連に行っていなくなっちゃって。まぁ、アテネオはお嬢ちゃんお坊ちゃん大学だったので、「農村社会学をやるのにこんなところにいていいのか」となって、フィリピンには7108の島があるんですが、島々のまんなかあたりにいい大学があると聞いて、移りました。ものすごく貧しいところでしたね。
 
ネグロス島のドゥマゲティという人口5万人の町で、そこは大学しかない町でした。移ったのはシリマン大学っていうんですが。大学時代は純粋に勉強してましたねぇ。ぼくも含めてふつうに学部で入って卒業した留学生は3人くらいで、信じられないくらい勉強してた。勉強しないのは土日だけ。土曜日の昼くらいから日曜の午前中はめちゃくちゃ遊んで。テニスしたり、海行ったり。ドイツやオーストラリアやいろんな国から来ている留学生たちと一緒に。
 
――移った大学でどういう勉強を? 社会改革とか?
 
井村 そんな(笑)。学部生なんで、リサーチのまねごとですよね。フィリピンの大学はいい意味でも悪い意味でもアメリカの大学のコピーで、文字通りアンダーグラジュエイトは、院で本格的に勉強する人のために基礎学力を身につけるものといった感じでした。卒論のテーマも忘れましたが、貧困と乳幼児の死亡率の関係を村に入ってリサーチして書いたような気がします。
 
井村寿人(いむら・ひさと) 1958年、東京生まれ。創業に携わった井村寿二前社長の息子にあたる。フィリピンのシリマン大学卒業後、三菱商事入社。1998年2月に勁草書房入社。1998年より代表取締役社長。
――えっと、そもそも社会学はなぜ?
 
井村 だってフィリピンですよ。そこで法律を勉強してもしかたないし。経済もちがうし。文学は嫌いでしたから。ただ、結果的には、井村文化事業社から出した本には、ぼくの英語の先生から紹介された方の作品もあったりして、そういう意味ではつながってはいますね。
 
そんなこんなで、合計6年、フィリピンにいました。
 
▶▶▶次回につづく――。

 
*唐突に始まった、社長にあれこれ聞いてみる企画。とりあえず初回は、(実質的)先代社長の井村寿二さんから勁草書房を引き継いだ現社長の自己紹介をかねてのあれこれになりました。社長は社長で、社員は社員でそれぞれの仕事を日々しているため、考えてみると社長のことも、会社のこともあんまり知らないんだなぁ、というのが実感です。茶飲み話的ではありますが、ぼちぼちと勁草書房まわりのことをこの機会に拾っておきたいと思っております。不定期に出現しますのでどうぞよろしく。[編集部]
 
勁草書房のオフィシャルな沿革は【こちら】にございます。ご参考になるでしょうか。よろしければぜひご覧ください。
 
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